3.11の福島第一原発事故以来、撒き散らかされた放射性物質による汚染や、それらからの放射線被曝に対する人々の関心は非常に高い。と、同時にそれに対する様々な対応も、ネットの世界で高い関心を持って語られている。
ネット上には有益な情報も少なくはないが、明らかに悪質なデマや「トンデモ」な言説も飛び交い、それらに影響され振り回されていると見える人々も少なくないようだ。放射能と言う不可視で未知の脅威は、、多くの人にとって強い不安感や恐怖を与える。
その受け止め方については7月26日に「日本人は放射能をどう感じているか(試論)」で考察してみた。この試論のテーマは放射能に関しての「鈍感さ」だったが、現実にはそれとは逆に敏感な人々も少なくない。そしてそれら「敏感な人々」に対して、一群の人々から「正しく怖がれ」という言葉が投げつけられている。
その言葉を発している一群の人々とは、主に自然科学系(理系)の科学者たちや学生、といった、専門的な科学知識を持った人々である。そしてその「正しく怖がれ」と言う言葉が投げかけられる目的は、放射能や放射線に対する知識不足から過剰な反応をして、逆に危険を増したり、不必要な対応を取る事を抑制するためだ。
米のとぎ汁を発酵させて、それを飲用したり室内に散布することで放射能を除去できる。といった全く科学的でないばかりか、健康を害する危険の高い「放射能対策」がその典型的な例だろう。
その意味で、その「放射能対策」の有害無益な事を指摘するのは正しい事であり、それによって救われる人もいるだろう。しかしここで疑問がわく。その間違った「対応」を指摘、批判する為にどうして「正しく怖がれ」などと言う、おかしな言い方をしなくてはならないのか。
私はその疑問について考え、一つの結論に達し、それをtwitterで呟いた。
「正しく怖がれ」ってのは危険を重視してる人間を批判にしてるだけで、要は「私の判断と態度が正しい」と主張したいんだろうな。怖がる怖がらないは関係ないんだろう。(8月7日)
これに対し翌日リツイートしてきた人がいた。私はその人に対し「あなたの言う『正しい怖がり方』は具体的にどういう事ですか」と聞いてみたが、明確な答えはなかった。これは当然で「怖がる」という個人的な感情に正しいも間違っているもないのだ。第一、他人の感情を正確に把握できたり数量化したりなどできない。他人の感情を間違っているなどとは誰にも言えないのだ。
言える事はその感情ではなく、それによって起こされたかもしれない反応だ。何かの、恐怖や不安をもたらす原因があったとして、それに対する感情の正誤など誰にも言えない。感情ではなく反応に対してのみ、それが正しい対応か間違っているのかが言える。そしてこれはその感情とは必ずしも一致しない。ある危険からの恐怖によってその行動をする事もあれば、恐怖を感じなくとも合理的判断で同じ行動を取る事もある。
つまり、感情に正しいも間違っているもないし、感情と正しい行動とは一致してもいない。なのになぜ「正しく怖がれ」などとおかしなことが言われるのだろう。
その答えが先に揚げたtwitterだった。
他人の感情を間違っていると言える人は、「自分の感情が正しい」と思っている人だ。そしてそれを言う事で自分の正しさを確認している。あるいはそれによって自我の安定を得ている。これは特別なことではなく誰にでもある事だ。
この時のtwitter上の議論には、もう一人加わってもらっていた。私は最初からその人に「正しく怖がる」などと言った主観的な感情の言葉ではなく
「それなら普通に『正しく対処すべき』と言えばいいと思います。」
「『怖がる』という感情の言葉ではなく、冷静な『比較・総合』を勧める論理の言葉を使うべきなのでは?」
「普通に『正しく対処』と言えばいいだけです」
と何度か提案したが、
「言葉の選択の良し悪しについて意見を一致させる必要はないでしょう。」
と拒否されてしまった。
私はこれらtwitterでの会話を翌日、こうまとめた。
2011.08.08
昨夜のまとめ2:私が疑問に思ったのは理系科学者が「正しく怖がれ」という科学的ではない言い方に拘っていた事。正確な知識と理解で「正しく対処しろ」と普通にいえば良いしそれがより科学的だ。なぜ「怖がる」という主観的な感情を振り回すのだろう。正しい怖がり方など誰にも定義できない。(続く)
(続き)米のとぎ汁液の危険性なら、それを具体的に指摘すればよい訳で、「正しく怖がれ」などと訳の分からない事(他人の感情が正しいかどうかなど誰にも言えない)を言う必要はない。結局これは、知識のある自分が正しく無知で怖がっている者は間違っているという意味にしか取れない。(続く)
(つづき)そこから私は「私の判断と態度が正しい」と言いたいだけなのだろうと考えた。相手の感情を否定する事はその人そのものの否定につながる。感情は自我と直結しているからだ。相手を傷つけ反発を招く。昨夜話した人に、感情ではなく論理の言葉でと提案したが受け入れてもらえなかった。
2011.08.08
恐怖に正しいも間違いもない。同じ体験をして、自分はあまり怖がらなかったのに、他人がすごく怖がったからと言って、それを「間違った怖がり」だとは言えない。問題は恐怖ではなく、恐怖に対する「対処」だ。人は恐怖から逃れたり克服したりする為に様々な行動を取るが、それが正しいかどうかだ。
posted at 19:43:11
先に述べた様に「正しく怖がれ」と言ってる人の動機は、放射能や放射線に対する科学知識の不足から「誤った対応」をしている事を正したいのだろ。それは疑わない。しかしそれが「正確な知識と理解で正しく対処しろ」という当たり前の言い方ではなく「正しく怖がれ」というおかしな言い方になる心の内面には、やはり科学知識のない物をバカにする心理と、自己の正しさを確認して自我の安定を得たい心理が働いていると思える。
こんな事を書いて公衆にさらせば、当然反発を招くだろう。心を傷つけられる人も出てくるに違いない(それはそれで「正しく怖がれ」と言ってる人が理性や論理ではなく、感情でそう言っている事の証左なのだが)。それなのにあえて書くのは、前に書いた「リカちゃんコラムの感想」と強く関連する問題をはらんでいるからだ。
この「正しく怖がれ」を最初に発したのは誰か知らないが、この言葉が半ば流行語のようにネットで拡散した裏には、香山リカが「ニート」と呼び、私が「無用物(疎外されたインテリ)」とくくった存在がかなりの比率で影響していると思われる。すなわち「ニート」「無用物」層が、この言葉が拡散する一翼を担っていたのではないかという疑念である。
一番「怖がっている」のは子供を持った母親である。彼女らは現実社会を生きている生活者であり、現実社会から疎外されている「ニート」「無用物」からみれば、コンプレックスを抱く対象である。その母親たち(地に足のついた生活者)が「無知ゆえに間違って怖がっている」とすれば。「正しく怖がれ」というキーワードは、彼らにとってその母親たちを攻撃できる格好の武器となる。彼らは自己のコンプレックスから、「正しく怖がれ」を振り回し、結果としてネットにその言説があふれる事になる。
何度も繰り返して言うが「正しく怖がれ」と言っている人たちの善意を否定している訳ではないし、その有用性も否定してはいない。その言葉によって現実に助かっている人もいるだろう。しかしこの言葉が問題もはらんでいる事も確かなのだ。
結論は既に出ている。何度も書いているように、そんな感情の言葉を使わなければいいだけなのだ。正確な科学知識と理解に基づいて「正しく対処しましょう」と言えばいいのである。