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あ、一言でいっちゃうと「ホームドラマ」です。
以前にどこかで書いた私の文章↓
私は旧作を、テーマにとって重要でない部分を削ぎ落としたら「ホームドラマ」だなって思いながら見てました。
「母ちゃん=綾波、父ちゃん=ゲンドウ、息子=シンジ、息子の恋人=アスカ」 新作の「破」はかなりホームドラマになってましたね。 料理の練習をする綾波とアスカ。父親と息子の関係を心配する母綾波。そしてそれを修復する為に手料理の食事会を思い立つ。一家団欒で家族の会話を取り戻そう。って事でしょうか。 そのテーマはって言うと
死と再生のドラマ。大人になる為の通過儀礼としての「死」と大人としての「再生」。そして死の象徴としての綾波と、生の象徴としてのアスカが二項対立のわかりやすい図式で描かれる。目くらましの「衒学趣味」を取っ払ってしまえば、いたってシンプルでわかりやすい話です。
ということも書きました。
エヴァは異常なほどファンサービスに溢れた作品で、情報量が過剰に多い(サービス!サービスぅー!)
衒学趣味満載。だから見る側は自分の物差しで、どうにでも深読みできる仕組みになってます。
何かすごい「世界観」があるようでいて、実は何もない。ないから見る側が勝手に世界を作ることができる。その材料は嫌というほど与えられています。(この感じはのちの『ひぐらしのなく頃に』に似てますね)
「人類補完計画」なんて言ってますが、あるのは「碇シンジ補完計画」だけです。あの作品には「人類」も「現実世界」も存在しません。「世界系」ですから。
もともと思春期の少年の自己中世界を描いた作品ですから、「鬱」と「妄想」と「狂喜」に満ちています。早い話「中二病」ですね。
エヴァに関してはまた書きたいと思いますが(『Q』が公開された時かな)、エヴァなんてしらない、というコメントをいただいたので、軽く触れてみました。
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倍賞美津子・原田芳雄主演、森崎東監督の
『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』です。
1985年制作。ざっと26年も前の映画ですね。名古屋のキノシタ映画(まだあるのかな? 今池のキノシタホールはあるみたい)の制作です。
とりあえず、内容についてはこちらを参照してください。 「原発ジプシー」(原子力発電所を渡り歩く原発労務者、原田もそうです)とその実体を描いた「反原発映画」として、公開当時、地元ではそれなりに話題になりましたね。市内の高校がロケ地に使われたりもしてましたし。
全国的にはどうだったんでしょう? ビデオジャケットには「’85年度の邦画ベスト10上位に選出された」ってありますが、とくに何かの賞をとったということはなかったようです。ただ、主演の倍賞美津子はこの年「日本アカデミー賞主演女優賞」をとってますね。
当時、私は三重県の芦浜原発反対運動に関わってました。その関係でこの映画のビデオを何本もダビングして友人、知人に配ってました(って、もちろん無断ですから違法行為ですよね)。今回の福島の原発事故でもう一度観たいと思って探したんですが、ビデオがなかった(あんなに何本もダビングしたのにー)。
ビデオはもうとっくに廃盤になってるでしょうし、DVDなんか出ていない。もしかしたらレンタルショップにまだあるかも? ですが、探すのも面倒なのでamazonさんで見つけて注文しました。レンタル落ちで¥5,000。それが一番安かった。
ダビングしながらなんども観て、内容は覚えてるんですが、詳しいレビューはもう一度観直してから、次のエントリーで書きます。
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4年間待たせて、これかよ ┐(-。ー;)┌
「消失」の焼き直しか? 最初から浮気しないつもりの浮気?
作者がハルヒに飽きたのか?(間違いないな)
前後編に分ける必要ないだろ。角川、儲け杉ヾ(。`Д´。)ノ彡
予備の伏線、大杉( ̄Θ ̄;)
それにしても、引き出しが多すぎる。
前からある、妹の正体。みくるの正体。シャミセンの正体。ミヨキチの正体。。。。に加えて、佐々木の正体。
ま、結局は全部キョンの夢(自己中世界)だからいいんだけどさ。
あ、ちゃんとした感想はそのうち書きますです。m(_ _;)m すまそ。。。
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特に興味なんかなかったんですよ。「涼宮ハルヒの憂鬱」(以下「ハルヒ」と略します)という人気ラノベやそれを原作とするアニメがあるってことは知ってました。でも、「学園ラブコメだろ」くらいの認識しかなかったんですね。読みたいとも観たいとも思わなかった。
でも、“よーつべ”のサムネイルをザッピングしてたら、ハルヒの顔が目にとまったんです。なんとなく知ってる女の人に似てる気がして。で、ちょっと観てみる気になったんですね。
でもめんどくさいからアニメの最終回を観たんです。そうしたら予断を完全に裏切られました。
「何これ? エヴァじゃん!!」
って感じでした。
「ハルヒってエヴァのパクリなの? それともパロディ」
と思って、最初から見ていったわけです。
2006年版だったから、『朝比奈ミクルの冒険 Episode 00』から始まって面喰ったんですが、観を終えた感想は
「エヴァのパクリでもパロディでもなく、エヴァが解けなかった問題の答え」
というものでした。ここで言ってるエヴァ(エヴァンゲリオン)はもちろんTV&劇場版の「旧エヴァ」のことです。
「エヴァのアンチテーゼ」と言う人もいるし、そうも言えると思いますが、私は「エヴァの回答」だと考えたんです。
根本的な差は物語の「構造」にあります。エヴァはシンジの自己中世界です。それに対しハルヒもキョンの自己中世界です。キョンは何人もの美少女に囲まれたハーレムの中心にいる。そして物語はキョンのモノローグで始まり、展開し、終焉する。間違いなくキョンが世界の中心にいる、キョンの自己中世界です。
しかし徹底的にエヴァと違うのは、その世界をハルヒが造っているという点です。いや、正確に言えば「キョンがハルヒに造らせている」です(小泉がくどいほど示唆してる通り)。「消失」ではそれを有希に作らせた。ま、「消失」はキョンの浮気な訳ですが(それで朝倉に腹を刺された)。
ここに決定的な違いがあります。
エヴァの物語構造は二次元の世界です。それで遂に「内と外」の矛盾を止揚できずに終わった。それに対しハルヒは非ユークリッド幾何学の構造を持ってます。
世界の中心に間違いなくキョンがいるのに、その世界を作っているのがハルヒであることで、キョンは同時に世界の外側にもいる。これはハルヒも同様です。ハルヒが作っているハルヒの世界ですから当然ハルヒはその中心です。しかしハルヒはそれを自覚できないことで、その世界から疎外されている。ハルヒもまた「内」であると同時に「外」の存在なのです。
ちょうど「クライン面(壺)」や「メビウスの輪」みたいに、内であると同時に外でもある。ハルヒもキョンも同じ存在であり、ハルヒはキョンであり、キョンはハルヒです。この二人はATフィールドを残したまま(言い換えればそれぞれの個的存在を残したまま)一つであって、二つです。ここに「内と外」の矛盾は存在しません。
アニメを観たあとすぐに原作も読みました。「谷川 流は頭がいい。」そう思いました。それでファンになってずっとシリーズを追いかけてるんですが、最初の「憂鬱」、スニーカー大賞受賞作がエヴァを意識して書かれたのは間違いないと思います。キャラクターの設定だけでなく、ラスト近くでハルヒがキョンの首を絞めるシーンは、エヴァ劇場版「まごころを君に」でシンジがアスカの首を絞めるシーンを意図的に踏襲させてます。
ここではハルヒがシンジでキョンがアスカになってます。エヴァのアスカは大人に成りきれないシンジを受け入れることができなかった。それに対しキョンはハルヒを受け入れた。エヴァの年齢設定が中学生なのに対し、ハルヒの設定が高校生なのも面白いです。中学で童貞(virgin)卒業は早い?。
それはともかく、谷川 流がエヴァに対する「回答」としてこの物語を描いたのは(たぶん(; ̄ー ̄A)間違いないんじゃないかと思ってます。少なくとも「エヴァンゲリオン」という作品が存在しなければ、「涼宮ハルヒの憂鬱」も生まれなかったことだけは確かでしょう。
(画像はDVD「涼宮ハルヒの憂鬱 第3巻」よりキャプチャ)
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