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日本人と一括りにするのは正確ではないだろう。単一民族などという虚構もあるが、仮に単一民族だとしても人それぞれの多様な個性、感性は存在するし、現実に様々な日本人がいて、政治面、文化面において多くの意見が存在する。したがってここで述べる日本人は、最大公約数的な「典型的」な日本人、というものを仮定したものである。
■日本人は「偶像」の民である
抽象的な物を抽象その物としては認識できず、それが「偶像」となって初めて認知する事が出来る。超越的な「神」という存在を信じる事は出来るが、それは常に何らかの「形」を伴って現れる。日本のアミニズム信仰の本質は、すべての物に「神が宿る」というところにある。
すべての物が「神」に「成る」のではなく、あくまで「宿る」のである。これが日本の「神道」の原理であり、信仰の対象とされる「霊山」「霊木」あるいは「清流」や「巨岩」といったものは、それ自体が「神」なのではなく神が宿る「依り代」である。明治の近代国家成立以降の日本では国家神道の下、最上神の依り代となったのが天皇であり、天皇は人であると同時に神である「現人神」とされた。
話が遠回りとなったが、この日本的偶像崇拝観念(意識)が放射能という目に見えないもの、人間の五感では感じ取れないものを認識する場合の、メカニズムとしても働いていると思われる。
すなわち放射能(放射線を出す物質や放射線)そのものを認識する事は出来なくて、それが「宿った物」しか認識できないのではないか。昨今話題の「セシウム牛」やその汚染原因とされる「汚染された稲藁」も、それが一つの「偶像」となったから、日本人はそこに始めて放射能の存在を認識できるようになった。と思われる。
藁や牛が汚染されているという事は、大気も水も土壌もすべてが汚染されているはずだが、それだけでは日本人は放射能の存在を「実感的」に認識できない。それが何かに宿り、一つの形となって初めてその存在を実感できる。放射能が宿った「セシウム牛」「汚染稲藁」「汚染堆肥」というように名前を与えられた「偶像」となって初めてその存在を実感できる。
■災害は一過性である
核と放射能の関係から日本人が連想できる物に『ゴジラ』がある。ゴジラは人間が核兵器によって生みだしてしまった怪獣なのだが、それ自身が「放射能」といった見えない恐怖の「偶像」であり、口から放射能を吐き出す放射能そのものでもある。この見えない恐怖をゴジラという「偶像」に創造した点で、優れて日本的であるといえる。
もっとも『ゴジラ』は2作目の『ゴジラの逆襲』以降、シリーズ物の「怪獣対決映画」となり、ついには子供だましの低級娯楽作品に堕していった訳だが、その中でも留意すべき点は見られる。それはゴジラが突然現れ日本国土を蹂躙して、何処かへ去っていくというパターンである。ここにも日本人の感性が表れている。
昔から「地震、雷、火事、オヤジ」と言われるが、オヤジを別とすればこれらはすべて一過性の災害である。これに台風を加えても日本人が経験する災害はすべて短期間の一過性のものである。特に台風は「台風一過」という言葉が示すように、過ぎてしまえばむしろ晴々しさすら感じさせるものである。この「災害は一過性」という日本人の感覚がゴジラの「突如現れて大暴れし、そして去ってゆく」というパターンに投影されている。
この日本人的災害感が現在進行中の原発事故、放射能漏れにも当てはまる。少し冷静に、あるいは論理的に考えれば、福島第一原発事故で非常に大量な放射性物質がまき散らされ、現在もなお流出し続けている事は誰にでも解るはずである。にもかかわらず、それに対する危機感なり恐怖と言った声が大多数の日本人の声とならないのには、そういった「日本的感受性」と呼べるものが、あるのではないだろうか。
多くの人々は、原発事故や放射能漏れは一過性で、既に終わった事の様に感じているかもしれない。更には放射能が「偶像」とならなければ、放射能の存在を実感として認識することが困難なのだとすれば、福島から離れているから感度が鈍いのではなく、仮に近くても放射能が何かに「宿って」汚染された物(食料、その他)になってから、初めてその危険を実感できる事になる。
もしそうであれば、汚染が広がる事を理性では解ったとしても、実際に汚染された「偶像」となるまでは実感がないから、有効な防衛措置が働き辛いという事になる。現実の行政の対応のまずさ、非常に消極的に見える行動の裏には、単なる政治家や官僚の無能無策だけでなく、こういった人々の心理が投影されているのかもしれない。
仮に低線量だとしても放射能の寿命は非常に長いから(もちろん核種により異なるが)、半永久的と言えるほどに汚染は継続する。有効な除染対策をしなければ広い範囲に汚染は拡大する。今現在大量にまき散らかされている放射能に対し、非常に敏感な人も少なくはない。しかしそれは全体からみれば少数派で、大多数の日本人が「呑気」に過ごしているように見えるのには、そのような理由が隠れているのではないだろうか。
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2011年07月26日
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