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twitter上の一部で話題になっている『もうダマされないための「科学」講義』(光文社新書)を読んでみました。この新書は「菊池誠」「松永和紀」「伊勢田哲治」「平川秀幸」「片瀬久美子」各氏の(関連はあるが)それどれ独立した、5つの論考から構成されています。その中で片瀬氏の「放射能物質をめぐるあやしい情報と不安に付け込むひとたち」は「付録」という位置付けにされています。
最初に片瀬氏の「付録」から読み始めました。「付録」を最初にしたのはそれがtwitter上で批判を受け話題になっていたからです。そこでは主張の是非ではなく、表現の仕方とか著者の姿勢とかが批判対象とされていた印象でしたが、ここではそれに関連しつつ、この「付録」を読んで思った事を述べてみたいと思います。
この部分は新書にありがちな“HOW TO”的色合いの強いもので、様々な「デマ」のパターンや具体例の紹介と分析により、その「デマ」に騙されない為の考え方や姿勢と言った物を提言しています。
一読して違和感を持ったのは、「デマ」の例としていくつかの事例が紹介されているのですが、その中には動植物の奇形や変異があり、現時点では原発事故で漏れ出た放射性物質の影響である可能性が「極めて低い」と推論することはできるでしょうが、それを「デマ」だと決めつけるのは乱暴に思えました。と同時にずいぶんと勇気のある主張にもとれました。ここでの片瀬氏の論理は「他にも同様の事例がみられるから原発とは関係ない」と言うもので、原発事故によるそう言った影響は「無い」と言っているのに等しいように感じます。これは後にそう言った事例(被害)が出ても原発とは無関係だと言う論理的根拠となり、被害者に不利益を与える事も考えられます。決して「全く影響はない」と断定している訳ではありませんが、読者の方がそういう風に受け取りかねない書き方になっているように思えます。(これに関しては最後にもう一度触れます。)
科学に不信感を抱く人々には届かない
もっとも、私が抱いた最大の違和感、疑問はそこではなく、この「感想」のタイトルである「伝えたい人々に届いているか」と言う点です。片瀬氏の目的が「デマ」に騙されて健康被害や金銭的損失を受ける人々を救いたい。またそう言う被害を予防したい。と言う事であるのは疑えません。しかし問題は、この「付録」がその目的を達成できるかであり、ひいては本書そのものがその目的の為にどこまで有益か、という疑問です。収録されている5編の論考は(バラバラではないが)その問題意識もテーマもそれぞれに異なっているので、一括りにするのは難しいのですが、片瀬氏の目的に限って言えば、本当に伝えたい人、救いたい人々には氏の思いは伝わらず、その目的達成は不十分に終わるのではないかと言う疑念です。
氏のスタイルは、科学的思考法や方法論で事実を理解すれば騙されない(騙されにくくなる)という、所謂「欠如モデル」なのですが、「信頼の危機」にある現在、それを受け入れるのは既にそう言った科学性を(潜在的にであれ)身に付けている人か科学的思考法が正しいと信じている人で、その人たちは元々「騙されにくい存在」だと考えられます。一方「騙されやすい存在」があるとすればその人たちは科学的思考や科学そのものに不信感を抱いている人達であり、その人達に対して「欠如モデル」はほとんど無力ではないでしょうか。彼(彼女)らはけして蒙昧でも論理や合理が理解できない訳でもなく、科学的に正しくない事は理解できても、それでは納得できない人達だと思います。
この事は私自身も「Oリングテスト」で経験しました。二重盲検法でテストの非科学性を立証するのは簡単なのですが、納得はしてもらえなかった。科学的に理解はしても科学的思考や方法論だけが正しい訳ではないし、それが全てでもないからです。
その意味ではこの新書の書名自体が、すでにそう言った人たちを「排除」していると思います。この書名は、「あなたたちはダマされている。もうダマされないようにこの本を読んで科学を勉強しなさい」と読めます。これを受け入れられるのは科学を信奉している人だけです。最もダマされやすいであろう科学に不信感を持っている人や科学を嫌いな人は引いてしまいます。「ウエカラ目線で何言ってんだ」と反発する人もいるでしょう。実際の購買層も科学者たちと同じ立場かその同調者がほとんどではないかとすら思えるのです。実際に騙されてほしくない人たちに届くのだろうか。これは「科学なしでは解けないが、科学では解決できない」トランスサイエンス コミュニケーションの領域の話だと思えます。
毒をもって毒を制する事は可能か?
では、そう言った、科学が全てではないと思っている人たちが騙されないようにするには、具体的にどのような事が考えられるもでしょうか。大切なのは「あれもデマ」「これも嘘」と否定ばかりするのではなく、「こうしたらよい」と具体的な方法や行動指針を勧める事だと思います。「○○mSv以下は科学的に安全だから気にしなくて良い」ではなく、少しでも被曝を減らす具体的方策(それが科学的にはほとんど無意味だとしても)を広める事ではないかと思うのです。
「被曝の危険よりそれを心配するストレスの方が悪影響」。と言った、不安を感じている人を責め立てて追いつめるような言動ではなく、こうすれば被曝が軽減できると言った、安全で経済的負担も少ない方法で、少しでも不安を和らげストレスを減らす事が重要ではないでしょうか。そしてそこには「イワシの頭」的な必ずしも科学的ではない物を含んで良いと考えます。
御幣を恐れずに言えば、危険を孕む「デマ」や「ニセ科学」に対し、もっと安全で経済的負担も少ない別の「デマ」や「ニセ科学」を作りだし、それをぶつける事でもあります。無茶な暴論に聞こえるでしょうが、かの武田邦彦先生は意図的にそれをやっていると思えなくもありません。これは科学的正確さを身上とする科学者には不可能なことでしょう。やる事は科学ではなくある種の「芸」と呼べるものだから、芸達者な武田先生の様な人で無いと務まらないだろうと思います(菊池誠氏にはその才がありそうですが)。←これは私の誤解でした(2012.05.16註)
これをトランスサイエンスと呼ぶのは無理すぎるでしょうが、騙されている人、騙されやすい人を助けるのに重要なのは、「デマ」だ「ニセ」だと否定するのではなく、(たとえそれが科学的な言動ではなくとも)、それを「肯定」し支える事だと思えます。
相手がどう思うかがコミュニケーションの基本でしょう
ここで先ほどの「デマ」の件をもう一度考えてみます。念のために言っておきますが、以下は片瀬氏を批判するものではありません。
付録には具体的な「デマ」の例として1から6までの事例があげられています。その中で気になったのは「【デマの例5】耳なしウサギ」です。他の例はそれが「デマ」である事を事実で否定しているか、もしくは「○○と考えられる」と著者の考えを明確に述べているのに対し、このウサギの話だけその結論が無いのです。以下に引用します。
「福島県浪江町で原発事故後に生まれた耳のないウサギがネットで公開され、珍しいので放射線による影響ではないかと話題になった。しかし、福島第一原発事故とは関係なく、耳なしウサギは世界各国で生まれていることが報告されている。」(『もうダマ』付録P224)
ここには「○○と考えられる」といった結論がありません。奇形は様々な要因で起こりますから、他に同じ耳のないウサギがいても、それで福島のウサギが放射線の影響ではないとは言い切れません。勿論、この文章には何の断定もありませんから嘘でも間違いでもありません。しかし問題は、これを読んだほとんどの人が勝手に「このウサギの話もデマなのだ」と思ってしまうだろうと言う事です。
片瀬氏が意図的にこういう書き方をしたとは思いませんが、これは「ダマす側」のテクニックでしょう。これは広告のテクニックでもあります。私が今でも最高傑作だと思っているCMは桃井かおりさんのSONYのCMです。このCMは彼女が「ソニーだからね」と呟くだけです。いいとも悪いとも何も言っていません。しかしこのCMを見たほとんどの人は「ソニーだから素晴らしい」「ソニーは特別」と思ってしまう。広告のプロはそれを計算して作っている訳です。これは「相手の言いたい事を推し量る」という日本文化を前提としているので外国では通用しないでしょうが、「言い間違いは聞き手の粗相」などと言われるように、言葉の論理ではなくそこに込められた「心」を読まなければならない、日本独自のコミュニケーション形態でしょう。
これが非常に効果的なのは、その評価などが外から押しつけられたものではなく、自分が「勝手に」そう思ったからです。つまりその評価は内在化して「信念」となる訳です。しかもこの信念は根拠のないものですから他との比較を許さない「絶対的な物」となります。他社と比較してSONYが良いと判断したのではなく、自分が勝手に自分の意思で根拠もなく信じたのですから。
これはもっぱらダマす側のテクニックとして悪用されるのですが、こういった手法を良い方のコミュニケーションテクニックとして利用する事も可能かもしれません。
話が少しそれましたが、ここで言いたいのはコミュニケーションで重要なのは、その言葉を相手がどのように受け取るかを常に考えなけれないけないと言う事です。科学技術コミュニケーションでは、科学的に正確に言わなければならないのは当然としても、科学的知識も乏しく訓練も受けていない素人がどう受け止めるのか。が重要だと考えます。
こんな事を書いたのもtwitterで科学者と一般人の会話を側聞していて、科学者側の言葉の使い方の「無神経さ」が気になったからです。特に感情面では相手がどう反応するかまるで考えていないような発言も少なくありません。また最近のプルトニュウムが「飛ぶ、飛ばない」の議論でも学者間では了解済みの概念でも素人には全く通じない事も多々あります。
3.11以降科学や科学者の存在は市民にとって非常に重要となっています。そこで科学技術コミュニケーションの重要性もかつてないほど高まっているのですが、現状は円滑なコミュニケーションとは言えない状況です。市民の側が科学を学ぶのは必要ですが、科学者側も一般市民がその言葉や理論をどう受け止めるのかに、注意が必要だと思います。
追記:これを書いた当時は片瀬さんの事は良く知らなかったので、自分としては善意に解釈して好意的に書いたつもりでした。しかし現在では片瀬さんに対して、その姿勢や考え方に疑問を抱いているので、今書きなおすとすれば正面からの批判になると思います。(2011.05.16)
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日記
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原発が危険なエネルギーと は知っていましたが、これまで行動を起こすことはありま せんでした。それを今、とても後悔しています。4月10日、東京・高円寺の「原発やめろデモ」が生まれて初めて参加したデモでした。
震災後、言いたいことが言えないストレスから眠れませんでした。怒りが抑えきれなくなり、ツイッターで「原発反対」とつぶやきました。
テレビ番組のスポンサーである電力会社や電機メーカーに異を唱えることはリスクが高い。でも、しがらみがあるからと黙っている白分にも怒りを感じていました。仕事を守るために発言しないのは、原発推進のシステムを作っていることと同じ。時分はそっち側には行かない、自分らしくありたいと思いました。俳優という仕事や夢よりも、人として市民としてどうあるべきかを考えました。
発言後はデモや集会にも積極的に参加し、避難勧告が出ていない放射能汚染区域の母子を疎開させる活動にも取り組んでいます。芸能人が声をあげられない現実があることを知って欲しかったから、原発発言でドラマを降板になったことも公表しました。
このアクションを続けることで俳優の仕事に制限が出るかもしれませんが、表現者である以上、自分の感情は大事にしたい。行動に参加するなかで貴重な出会いもあり、仕事に影響があったとしても、いろいろな人生を体験することが自分の厚みにつながっていくと思います。
↑これは2011年8月15日号の『農民新聞』「発言抄」に掲載された山本太郎氏の文章です。
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3.11の福島第一原発事故以来、撒き散らかされた放射性物質による汚染や、それらからの放射線被曝に対する人々の関心は非常に高い。と、同時にそれに対する様々な対応も、ネットの世界で高い関心を持って語られている。
ネット上には有益な情報も少なくはないが、明らかに悪質なデマや「トンデモ」な言説も飛び交い、それらに影響され振り回されていると見える人々も少なくないようだ。放射能と言う不可視で未知の脅威は、、多くの人にとって強い不安感や恐怖を与える。
その受け止め方については7月26日に「日本人は放射能をどう感じているか(試論)」で考察してみた。この試論のテーマは放射能に関しての「鈍感さ」だったが、現実にはそれとは逆に敏感な人々も少なくない。そしてそれら「敏感な人々」に対して、一群の人々から「正しく怖がれ」という言葉が投げつけられている。
その言葉を発している一群の人々とは、主に自然科学系(理系)の科学者たちや学生、といった、専門的な科学知識を持った人々である。そしてその「正しく怖がれ」と言う言葉が投げかけられる目的は、放射能や放射線に対する知識不足から過剰な反応をして、逆に危険を増したり、不必要な対応を取る事を抑制するためだ。
米のとぎ汁を発酵させて、それを飲用したり室内に散布することで放射能を除去できる。といった全く科学的でないばかりか、健康を害する危険の高い「放射能対策」がその典型的な例だろう。
その意味で、その「放射能対策」の有害無益な事を指摘するのは正しい事であり、それによって救われる人もいるだろう。しかしここで疑問がわく。その間違った「対応」を指摘、批判する為にどうして「正しく怖がれ」などと言う、おかしな言い方をしなくてはならないのか。
私はその疑問について考え、一つの結論に達し、それをtwitterで呟いた。
「正しく怖がれ」ってのは危険を重視してる人間を批判にしてるだけで、要は「私の判断と態度が正しい」と主張したいんだろうな。怖がる怖がらないは関係ないんだろう。(8月7日)
これに対し翌日リツイートしてきた人がいた。私はその人に対し「あなたの言う『正しい怖がり方』は具体的にどういう事ですか」と聞いてみたが、明確な答えはなかった。これは当然で「怖がる」という個人的な感情に正しいも間違っているもないのだ。第一、他人の感情を正確に把握できたり数量化したりなどできない。他人の感情を間違っているなどとは誰にも言えないのだ。
言える事はその感情ではなく、それによって起こされたかもしれない反応だ。何かの、恐怖や不安をもたらす原因があったとして、それに対する感情の正誤など誰にも言えない。感情ではなく反応に対してのみ、それが正しい対応か間違っているのかが言える。そしてこれはその感情とは必ずしも一致しない。ある危険からの恐怖によってその行動をする事もあれば、恐怖を感じなくとも合理的判断で同じ行動を取る事もある。
つまり、感情に正しいも間違っているもないし、感情と正しい行動とは一致してもいない。なのになぜ「正しく怖がれ」などとおかしなことが言われるのだろう。
その答えが先に揚げたtwitterだった。
他人の感情を間違っていると言える人は、「自分の感情が正しい」と思っている人だ。そしてそれを言う事で自分の正しさを確認している。あるいはそれによって自我の安定を得ている。これは特別なことではなく誰にでもある事だ。
この時のtwitter上の議論には、もう一人加わってもらっていた。私は最初からその人に「正しく怖がる」などと言った主観的な感情の言葉ではなく
「それなら普通に『正しく対処すべき』と言えばいいと思います。」
「『怖がる』という感情の言葉ではなく、冷静な『比較・総合』を勧める論理の言葉を使うべきなのでは?」
「普通に『正しく対処』と言えばいいだけです」
と何度か提案したが、
「言葉の選択の良し悪しについて意見を一致させる必要はないでしょう。」
と拒否されてしまった。
私はこれらtwitterでの会話を翌日、こうまとめた。
2011.08.08
昨夜のまとめ2:私が疑問に思ったのは理系科学者が「正しく怖がれ」という科学的ではない言い方に拘っていた事。正確な知識と理解で「正しく対処しろ」と普通にいえば良いしそれがより科学的だ。なぜ「怖がる」という主観的な感情を振り回すのだろう。正しい怖がり方など誰にも定義できない。(続く)
(続き)米のとぎ汁液の危険性なら、それを具体的に指摘すればよい訳で、「正しく怖がれ」などと訳の分からない事(他人の感情が正しいかどうかなど誰にも言えない)を言う必要はない。結局これは、知識のある自分が正しく無知で怖がっている者は間違っているという意味にしか取れない。(続く)
(つづき)そこから私は「私の判断と態度が正しい」と言いたいだけなのだろうと考えた。相手の感情を否定する事はその人そのものの否定につながる。感情は自我と直結しているからだ。相手を傷つけ反発を招く。昨夜話した人に、感情ではなく論理の言葉でと提案したが受け入れてもらえなかった。
2011.08.08
恐怖に正しいも間違いもない。同じ体験をして、自分はあまり怖がらなかったのに、他人がすごく怖がったからと言って、それを「間違った怖がり」だとは言えない。問題は恐怖ではなく、恐怖に対する「対処」だ。人は恐怖から逃れたり克服したりする為に様々な行動を取るが、それが正しいかどうかだ。
posted at 19:43:11
先に述べた様に「正しく怖がれ」と言ってる人の動機は、放射能や放射線に対する科学知識の不足から「誤った対応」をしている事を正したいのだろ。それは疑わない。しかしそれが「正確な知識と理解で正しく対処しろ」という当たり前の言い方ではなく「正しく怖がれ」というおかしな言い方になる心の内面には、やはり科学知識のない物をバカにする心理と、自己の正しさを確認して自我の安定を得たい心理が働いていると思える。
こんな事を書いて公衆にさらせば、当然反発を招くだろう。心を傷つけられる人も出てくるに違いない(それはそれで「正しく怖がれ」と言ってる人が理性や論理ではなく、感情でそう言っている事の証左なのだが)。それなのにあえて書くのは、前に書いた「リカちゃんコラムの感想」と強く関連する問題をはらんでいるからだ。
この「正しく怖がれ」を最初に発したのは誰か知らないが、この言葉が半ば流行語のようにネットで拡散した裏には、香山リカが「ニート」と呼び、私が「無用物(疎外されたインテリ)」とくくった存在がかなりの比率で影響していると思われる。すなわち「ニート」「無用物」層が、この言葉が拡散する一翼を担っていたのではないかという疑念である。
一番「怖がっている」のは子供を持った母親である。彼女らは現実社会を生きている生活者であり、現実社会から疎外されている「ニート」「無用物」からみれば、コンプレックスを抱く対象である。その母親たち(地に足のついた生活者)が「無知ゆえに間違って怖がっている」とすれば。「正しく怖がれ」というキーワードは、彼らにとってその母親たちを攻撃できる格好の武器となる。彼らは自己のコンプレックスから、「正しく怖がれ」を振り回し、結果としてネットにその言説があふれる事になる。
何度も繰り返して言うが「正しく怖がれ」と言っている人たちの善意を否定している訳ではないし、その有用性も否定してはいない。その言葉によって現実に助かっている人もいるだろう。しかしこの言葉が問題もはらんでいる事も確かなのだ。
結論は既に出ている。何度も書いているように、そんな感情の言葉を使わなければいいだけなのだ。正確な科学知識と理解に基づいて「正しく対処しましょう」と言えばいいのである。
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日本人と一括りにするのは正確ではないだろう。単一民族などという虚構もあるが、仮に単一民族だとしても人それぞれの多様な個性、感性は存在するし、現実に様々な日本人がいて、政治面、文化面において多くの意見が存在する。したがってここで述べる日本人は、最大公約数的な「典型的」な日本人、というものを仮定したものである。
■日本人は「偶像」の民である
抽象的な物を抽象その物としては認識できず、それが「偶像」となって初めて認知する事が出来る。超越的な「神」という存在を信じる事は出来るが、それは常に何らかの「形」を伴って現れる。日本のアミニズム信仰の本質は、すべての物に「神が宿る」というところにある。
すべての物が「神」に「成る」のではなく、あくまで「宿る」のである。これが日本の「神道」の原理であり、信仰の対象とされる「霊山」「霊木」あるいは「清流」や「巨岩」といったものは、それ自体が「神」なのではなく神が宿る「依り代」である。明治の近代国家成立以降の日本では国家神道の下、最上神の依り代となったのが天皇であり、天皇は人であると同時に神である「現人神」とされた。
話が遠回りとなったが、この日本的偶像崇拝観念(意識)が放射能という目に見えないもの、人間の五感では感じ取れないものを認識する場合の、メカニズムとしても働いていると思われる。
すなわち放射能(放射線を出す物質や放射線)そのものを認識する事は出来なくて、それが「宿った物」しか認識できないのではないか。昨今話題の「セシウム牛」やその汚染原因とされる「汚染された稲藁」も、それが一つの「偶像」となったから、日本人はそこに始めて放射能の存在を認識できるようになった。と思われる。
藁や牛が汚染されているという事は、大気も水も土壌もすべてが汚染されているはずだが、それだけでは日本人は放射能の存在を「実感的」に認識できない。それが何かに宿り、一つの形となって初めてその存在を実感できる。放射能が宿った「セシウム牛」「汚染稲藁」「汚染堆肥」というように名前を与えられた「偶像」となって初めてその存在を実感できる。
■災害は一過性である
核と放射能の関係から日本人が連想できる物に『ゴジラ』がある。ゴジラは人間が核兵器によって生みだしてしまった怪獣なのだが、それ自身が「放射能」といった見えない恐怖の「偶像」であり、口から放射能を吐き出す放射能そのものでもある。この見えない恐怖をゴジラという「偶像」に創造した点で、優れて日本的であるといえる。
もっとも『ゴジラ』は2作目の『ゴジラの逆襲』以降、シリーズ物の「怪獣対決映画」となり、ついには子供だましの低級娯楽作品に堕していった訳だが、その中でも留意すべき点は見られる。それはゴジラが突然現れ日本国土を蹂躙して、何処かへ去っていくというパターンである。ここにも日本人の感性が表れている。
昔から「地震、雷、火事、オヤジ」と言われるが、オヤジを別とすればこれらはすべて一過性の災害である。これに台風を加えても日本人が経験する災害はすべて短期間の一過性のものである。特に台風は「台風一過」という言葉が示すように、過ぎてしまえばむしろ晴々しさすら感じさせるものである。この「災害は一過性」という日本人の感覚がゴジラの「突如現れて大暴れし、そして去ってゆく」というパターンに投影されている。
この日本人的災害感が現在進行中の原発事故、放射能漏れにも当てはまる。少し冷静に、あるいは論理的に考えれば、福島第一原発事故で非常に大量な放射性物質がまき散らされ、現在もなお流出し続けている事は誰にでも解るはずである。にもかかわらず、それに対する危機感なり恐怖と言った声が大多数の日本人の声とならないのには、そういった「日本的感受性」と呼べるものが、あるのではないだろうか。
多くの人々は、原発事故や放射能漏れは一過性で、既に終わった事の様に感じているかもしれない。更には放射能が「偶像」とならなければ、放射能の存在を実感として認識することが困難なのだとすれば、福島から離れているから感度が鈍いのではなく、仮に近くても放射能が何かに「宿って」汚染された物(食料、その他)になってから、初めてその危険を実感できる事になる。
もしそうであれば、汚染が広がる事を理性では解ったとしても、実際に汚染された「偶像」となるまでは実感がないから、有効な防衛措置が働き辛いという事になる。現実の行政の対応のまずさ、非常に消極的に見える行動の裏には、単なる政治家や官僚の無能無策だけでなく、こういった人々の心理が投影されているのかもしれない。
仮に低線量だとしても放射能の寿命は非常に長いから(もちろん核種により異なるが)、半永久的と言えるほどに汚染は継続する。有効な除染対策をしなければ広い範囲に汚染は拡大する。今現在大量にまき散らかされている放射能に対し、非常に敏感な人も少なくはない。しかしそれは全体からみれば少数派で、大多数の日本人が「呑気」に過ごしているように見えるのには、そのような理由が隠れているのではないだろうか。
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香山リカのコラム「小出裕章氏が反原発のヒーローとなったもう一つの理由」に対する批判には、単純な誤読によるものもあるが、意識的にしろ無意識的にしろ何かしらの「悪意」が含まれているものもある。その悪意は、彼女の主張によって自らの自我を傷つけられ、あるいは不安にさせられた、と言う意識から発していると思われる。
私は彼女のこのコラムに関してtwitter上で何度か呟いてきた。それはこの日記にもまとめてある。http://blogs.yahoo.co.jp/hayaao2011/4824015.html
私の立場は基本的に彼女の主張を肯定するものであり、彼女の言う「ニート」「引きこもり」を極めて大雑把に「無用者(社会から疎外されたインテリ)」と言いかえ、「一般的な「母親(及び母性)」は適応外です」と言った。 このコラムを読んだ第一印象は「ちょっと混乱して焦点が定まってないな」と言う物だった。それが誤解の第一要因だと思われるが、その混乱から「ニート」「引きこもり」という「レッテル」を安易に使用してさらに誤解を深めたと思う。
「彼らはそれなりにやる気もあり、優秀で学習意欲も高く、知的好奇心も強い人たちです。それなのに、どこか歯車が咬み合わず、社会にうまく溶け込めない。自分でも社会が受け入れてくれないと思い込んでいる」人々と言うに留めておけばよかったと思う。 論旨の混乱と言うのは、この連続コラムのタイトルである“香山リカの「こころの復興」で大切なこと”とあるように一番のテーマは「こころ」なのだが、その「こころ」だけに焦点を集約できなかった点にある。それを明確に言うのは彼女の中でも憚られた、と同時に、どうしても言わなければ済まない彼女自身の内的衝動との葛藤が混乱を招いたと感じられる。
人が政治的あるいは社会的な活動をする場合、その活動の社会的意味と、それに駆り立てる内的動機が別のものであることは少なくない。人々の自由を抑圧する権力に対する反発心が、実は自分の意識下の権力欲、支配欲によって引き起こされている事は普通にある事だ。自己の権力欲が満たされない反動から反権力の立場をとる。
合理的な理由のある活動であっても、それを行う動機には非合理な欲望が潜んでいる事は珍しくない。それが軽度の場合なら、恋人ができるとか結婚して家庭を持つとか言ったことで、反権力活動の動機を失う事もままある。恋人や配偶者を支配、所有することで、自身の権力欲や支配欲が満たされたからだ。
今の反原発には様々な立場や意見があり、それがネット上を飛び交っている。彼女はネット上で盛んに反原発を叫ぶ声の一部に、そういった匂いをかぎ取って、その「こころ」に言及したわけだが、十分な分析には至ってなかった事と、それを明確に示すことへの躊躇もあったように感じられる。
彼女のこのコラムは現在の「反原発運動」に冷や水を浴びせかけたものだが、彼女にその意図がなかったことは自明だろう。では何を目的として彼女はこれを書いたのか。彼女の言葉から拾ってみよう。
1)「彼らが原発問題に熱狂して、彼らが何かを変えられるとしても、ネットの中の一つの小さなトレンドに過ぎません。現実に動いている体制には、大きな影響を与えることはできないのです。現実社会との接点こそ、ネット全盛の時代にあっても、ないがしろにできない大切なことではないでしょうか。」
2)「それは、自分が脱原発を訴えたりアクションを起こしたりする際にも、自分のこころに潜む問題について認識しておく必要があると思ったからです。現実の問題としての原発問題を把握する上で、「原発問題がもたらした心の変化」を意識していないと、誤った判断を招きかねないと思いました。」
1)は少し言い訳めいていて、人の「こころ」を暴くようなまねに対するエクスキューズでもあるだろうが、重要な指摘でもある。ネットでいくら騒いで、もそれが現実の行動と結び付かなければ、社会が変わらないのは事実だからだ。
ただ、これも反発を招いた。彼らは現実社会から疎外されている(少なくともそう自覚している)から、ネットにのめり込んでいる。ネットを過大評価してネットだけで社会を動かせると考え(たがっ)ている。したがって彼女の言葉は自分を否定するものに感じられたに違いない。 ネット社会は誰もが情報の発信者となれる社会だ。情報とは=権力なのだが、ネットのそれはバーチャルでもある。そのバーチャル性を認めず、現実に権力を手にしたと思い込むことで、彼らは自我を衛っている。 2)はこのコラムに対する「お詫びと補足 」の中で述べられている。1)よりもさらに整理されていて、明確に「こころ」の問題に絞っている。すなわち「反原発」の中には「原発は危険だから廃止する」といった合理的理由とは別の、人の「こころ」に潜む「内的動機」があるという事だ。そしてそれを自覚しない運動はどこかで間違ってしまう可能性を持っているという指摘である。
この指摘が正しいかどうかは今後明らかになっていくだろうが、少なくとも私は彼女の指摘を正しいと判断しているし、同様の危惧も抱いている。この
「こころ」に潜む内的動機による「反原発」は、何かのきっかけで容易に「原発推進」に変わりうるからだ。
現にネット上の「原発推進(擁護)派」には、その位相が180度違うだけで、彼女の言う「ニート層」が少なくないと思われる。さらに敷衍すれば単に原発反対、賛成だけでなく、多くの人が誤った政治や指導者を選んでしまうといった可能性も否定できない。
ただ、政治的視点から見れば、彼女の今回の発言は反原発運動にとってのマイナス要因であることは間違いない。その分析の当否にかかわらず「何故今、そんな事を言うのか」との声は少なくない。その意味での(政治的)批判は当然だと思う。彼女自身がそう言った批判を受けて当惑しているだろう。
彼女が今後この問題に直接触れ、議論を深めることはないだろうと思う。いわば「言ってはならない真実」でもあるからだ。しかしその問題意識を持っている以上、今後この連続コラムでどのように「こころ」を語っていくのか。注目したい。
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