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今夜は七夕ですね。七夕と言えば思い出すのが
『笹の葉ラプソディ』(笑)

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文庫本のページ数にして56ページ(イラストは除きます)の短編です。ハルヒシリーズ3巻目の『涼宮ハルヒの退屈』に収録されてます。

今日はそれを読み返していました。ついでにアニメもDVDで観直しましたよ。
原作とアニメを比べてみるとアニメの方が感慨深いです。いえ、もともとジャンルが違いますから、比べるようなものではないのでしょうが、アニメの演出のうまさもあって、メランコリーな雰囲気がよく伝わってきます。
 
でも、何でメランコリーなんでしょうね。タイトルだって“ラプソディ”ですし。ラプソディってのは「狂詩曲」とか「狂想曲」って意味でしょ。この作品の印象は、非常に静かで「狂」といった感じはしませんね。もちろん静かなラプソディだってあるわけですが、メランコリーとは違いますね。
 
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笹に短冊をぶら下げるまでのハルヒはいつものハイテンションですが、その後はずっとメランコリック。中学時代のハルヒにしても、宇宙人へのメッセージに胸を膨らませてるって感じじゃなくて、そんな事は信じていないようなローテンション。
みくるも事の真相を知らされず、下っ端としての自分に落ち込み気味。長門が無感動で寡黙なのはいつもの事ですが、自分に与えられた役目を淡々とこなしている姿は、なぜか悲しげな印象です。
 
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この小品はハルヒシリーズ全体の中で前後を繋ぐ役割をもったものです。どうしてハルヒが北高にきてキョンと出会うのか。宇宙人や未来人や超能力者を呼び寄せてしまったのかの説明でもあり、また『涼宮ハルヒの消失』へと繋がる伏線でもあります。そう“ジョン・スミス”ですね。
 
長門が悲しげなのは、既にこのとき『消失』を知っていたからでしょう。ハルヒが書いた絵文字の意味。キョンが長門に文字の意味を聞いた時、長門は「私は、ここにいる」と答えます。しかしこれは本当は宇宙語でも何でもなかったと思います。ハルヒが勝手にそう思い込んでいただけ
だからキョンが「どっかの宇宙人の言語」かって聞いた時長門は無言だったのです。そんな言語はなかったから。
 
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そしてこの文字の意味が『消失』で長門が造った世界を「消失」させる始まりとなります。長門はそれを知っていて、その言葉によって自分の世界、もう一人の自分が「消失」することを知っていて、それをキョンに伝えた。それが長門の悲しさでしょう。
『消失』の切なさはこのときすでに始まっていたのだと思います。
 
さてラプソディの話です。このメランコリックで物悲しい印象の作品の裏に、何かもっと熱い「狂」的な意味があるのでしょうか? この話に登場する人物の中で(部外者である小泉を除けば)唯一明るい(蔭がない)のは未来から来た大人版みくる(みくる大)だけです。ここに意味がありそうです。
 
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このお話を一言で言ってしまえば「キョンとハルヒを(赤い糸で)結びつけるエピソード」といえます。それをしたのは大小のみくるです。そうしたのはそれが規定事項であったからですが、逆にいえば未来人(たち)にとっては、キョンとハルヒが「結ばれなければ困る」事情があったわけです。
 
ここから推測できることは一つです。
みくる(たち)はキョンとハルヒの子孫だという事です。キョンとハルヒには「くっついて」もらわなくては困るから、過去に戻って二人を赤い糸で結びつけた。

こんな話は珍しくないでしょう。そんなような映画もあったし、手塚治虫の『キャプテンKen』もそんなオチでした。昔からよくあるお話です。
ただそれを知っているのはみくる大だけで、みくる小はまだ知りませんから戸惑っているばかりですが。
 
そう考えて(妄想して)その後の『消失』や『分裂』や『驚愕』を読み直してみれば、また違った側面が現われてくるかもしれません。
 
ファンの間ではキョンの本名が色々と推測されてたりします。特に『分裂』で佐々木がそれを当てたあたりからそれまで以上に盛り上がったのかな。 でも私には興味ないです。私が気になったのはどんな名前かじゃなくて、なぜ名前がないのか?でした。
 
答えは簡単です。あの物語がキョンの自己中世界だから。全てがキョンです。ぶっちゃけ、ハルヒも長門もみくるも小泉も全部キョンです。名前とは他と区別する個人識別記号みたいなものですから、全部が自分なら名前は必要ありません。ただ、物語を展開する上での必要から「キョン」とい記号を便宜的に使ったのでしょう。一人称小説ですから、すべて「俺」でも良かったんですが、それぞれのキャラクターや関係性の描写に記号があった方が便利だったからだと思います。「キョン」と呼ぶか「あなた」と呼ぶかの違いだけで、そのキャラの性格や関係性を表現できますからね。
 
ところで、あの物語の中にはキョン以上に「名無し」のキャラがいます。そう妹ちゃんです。「キョンの妹」と言うだけで全く名前はありません。なぜでしょう。それらしい可愛い名前を付けるのは造作もない事です。「まるこ」でも「ちびこ」でもいい。どうして作者は名前を付けなかったのでしょう。
 
名前をつけるのは簡単なのにつけなかった。そうなると逆の疑念が湧いてきます。
名前がないのではなく隠しているのではないか?
言うまでもなく名前とは個人情報の一部です。その人物が何者であるかを特定する情報です。もし、名前がないのではなく隠されているのだとしたら、
それはその人物の正体がばれては困るという事を意味しています。
 
何故?
 
設定上キョンは両親と妹との4人家族という事になってます。しかし登場するのは妹だけです。母親の存在は間接的に示されますが、父親は全く表に現れません。それも何故? これでは4人家族ではなく
実質的にキョンと妹との二人暮らしです。
 
妹ちゃんの登場場面は多くありません。しかし気をつけて見ればすべてが妹ちゃんの正体を示唆するものであることがわかります。夜にキョンが一人、部屋で何をしているか見に来る。あの歴史的名台詞
「はさみ!」のシーンです。 朝はキョンが遅刻しないように起こしにくる。そしてキョンが出かける時には「どこ行くの」とその行動を気に掛ける。
 
もうお分かりだと思うのでこれ以上は書きません。
妹ちゃんはキョンの○○です。そして二人きりで暮らしてます。○○生活と呼んだ方がいいでしょう。だから妹ちゃんの正体を隠す必要があったのです。
 
このことは同時に「シャミセン」の正体も明らかにします。非常に珍しいオスの三毛猫。キョン以上に哲学的な言辞を口にし、バリトンの中年男性の声でしゃべる猫。妹ちゃんがいつも構っている猫です。この猫は黒猫を望んでいたハルヒが選んだ事になっていますが、この物語世界はキョンがハルヒに創らせている世界ですから、
キョンがハルヒに○○を三毛猫にさせた。とも読めます。
妹ちゃんと二人暮らしをするために。
 
こう考えれば「シャミセン」がキョンの家にいる理由。妹ちゃんが必要以上に構う理由。父親が登場しない理由。そして何故「シャミセン」と名付けられたか(言うまでもなく三味線は猫を殺してその革で作ります)も、すべて納得がいきます。蛇足だとは思いますがヒントは「エディプスコンプレックス」です。
 
こんな妄想を膨らませて見れば「涼宮ハルヒ」の物語は、それまでと全く違った貌を見せてくれます。
 

 
竜騎士07(竜さま)の同人ゲーム『ひぐらしのく頃に(以下『ひぐらし』と略します)がコミケ(コミックマーケット)に登場してから、かれこれ10年になります。この間ゲームからドラマCD、アニメ、実写映画、コミック、とメディアミックス的展開をしてきましたが、この「正解率1%」とというキャッチーなコピーをつけられた作品群の
真の謎についてはいまだ言及されていないように思います。
 
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その謎とは言うまでもなく「何でこんな物が売れたのか!?」という一点に尽きます。
 
推理ゲームとして見れば反則技のオンパレードであり、第1ランド終了を待たずに反則負けを宣言されるレベルです。あるいはホラー作品、ファンタジー作品として見ても、その設定やストーリー展開は完全に破たんしていて、完結した作品としての体をなしてません。
 
確かに部分部分を抽出してみれば見るべき点はあります。淡く切ないラブロマンス、萌要素、ラブコメ的ユーモア、猟奇的エログロも満載です。だが、それらはジグソーパズルの断片であって、全体のまとまりを欠いてます。物語としての整合性もリアリティーも全く無視されちゃってます。
 
すなわち!『ひぐらし』の最大の謎は
 
「何故、こんなできそこないがヒットしたんだー!」
 
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ということです。それをこれから考察していきます。
私には最初、それがまったく理解できませんでした。アニメも全て観た。実写版の映画も観たまし。しかしそれでも謎は解けませんでした。特に実写版はレナ役
「前田愛理」と梨花役の「あいか」が可愛かったという以外、何の収穫もないひどいものでした。どっかの大学の映研が撮ったの? 16ミリですかぁー? というくらいひどかったです。大石蔵人(おおいしくらんど)役の杉本哲太が続編出演を断ったのも当然と言えましょう。杉本哲太には同情を禁じ得ません。
 
そんな私に天啓を与えてくれたのはアニメ版監督の今千秋とシリーズ構成、脚本担当の川瀬敏文の対談でした。いや、対談というのは正確ではなく、今千秋が司会役を務めたスタッフの座談会と呼んだ方がいいでしょう。それはジャイブ出版が出していた『ひぐらしのなく頃に 公式キャラクター&アナライズブック 』に収録されていました。
いま、現物が手元にないので記憶をもとに書くいてます(あまり正確ではありません)が、その座談会での川瀬敏文の発言
 
「オチのつけようがないので投げちゃった」と、
今千秋の
「物語に整合性をつけようがないので、刹那的に部分部分だけやった」という発言が、私に謎を解く鍵を与えてくれました。
 
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       ジャイブ出版『ひぐらしのなく頃に 公式キャラクター&アナライズブック 』
 
考えてみれば『ひぐらし』はその通りの作品なのです。オチもなく、整合性もなく、投げられてしまった物語。何も悩む必要はありませんでした。素直に、ありのままに受け止めればよかったのです。その「投げた」と「刹那」にすべてのカギがあったのです
 
さて、『ひぐらし』の謎ときをする前に『ひぐらし』とはどんな作品であるか、ざっとおさらいして、おましょう。
ゲームとしての『ひぐらしは』出題編として
1.鬼隠し編2.綿流し編3.祟殺し編4.暇潰し編があり、さらに解答編として
1.目明し編2.罪滅し編3.皆殺し編4.祭囃し編があります。
アニメではかなりの省略が行われていますが、それらについてはここでは述べません。
詳しく知りたい人はウィキペディアでも参照してください。
 
 
一応、出題各篇に対応して回答編があるのですが、すべての謎や矛盾が明らかにされているわけではありません。その理由は。原作者がどう言い訳しようが「素人の作品」だったから。
といえるでしょう。
後述する様にこの作品には「魔法のアイテム」とも呼べる、どんな矛盾も解消できるようなご都合主義の「神アイテム」が多数用意されています。でもそれでもカバーできないほど、物語は破綻に満ちてます。
結局、
同人のお遊びレベルだったのね。
 
実例を挙げましょう。
まず物語は主人公である前原圭一が雛見沢村に引っ越してきたことから始まります。しかし、ここが突っ込みどころ。

そんなん、ありえねーよ!
って、モニター見ながら思わず突っ込んじゃいました。
圭一は多感な思春期の少年です。しかも一人息子。母親にとっては最愛の存在ですよ。
その母親は高学歴でミステリーファンの設定。息子の教育にも熱心です。
雛見沢村で起きた猟奇事件の事は当然知ってたでしょう。仮に父親が引っ越したいと言い張っても、母としては絶対に反対するはずですね。

「そんな危ない村に圭一を連れていけない、行きたいのならあなた一人で行って」

となるのが普通。
子を思う母の気持は非常に強い、ましてや最愛の一人息子であればなおさらです。
母親は子供の為なら自分の命も投げ出す。ヤシマ作戦で我が身を捨ててシンジの盾となった綾波のようにです。

これは極論を言っているのではないですよ。現今の福島第一原発事故で漏れ出た放射能物質から、わが子を守ろうとしている多くの母の姿を見れば誰でも納得できるでしょう。
 
ま、結局素人なんですよ。
プロの作家なら、少なくとも、
 
圭一と母親は町で暮らしていて父親だけ雛見沢村のアトリエ兼別荘で仕事をしている。そしてゴールデンウィークに父のアトリエに遊びにきてレナたちと知り合い、意気投合して祭りに誘われ、事件に巻込まれて行く。
 
といった程度のプロットは作ったでしょうね。
さらにひどいのは大石蔵人。わざわざレナたちがいる学校まで圭一に会いに来て、会ったことはレナたちに秘密、って、ヲイ!頭、大丈夫かーって突っ込み…ませんでした。もう呆れてましたから。
この辺りで確信しました。間違いなく原作者の竜さまの頭は○○だって。
 
とにかくひどいんです。重箱の隅をつつかなくても、ざくっと箸を入れただけでぼろぼろボロがでてきます。で、謎が生まれたわけです。何でこんなでたらめなのが売れたの? ヒットしたのかな、かな?
 
ゲーマーも素人だったということもあるでしょう。コミケのゲームですから、最初からプロの完成度は求めていなかったかもしれない。しかしアニメとなるともっと多くの不特定多数の人が観て、そしてヒットした。何で?

だらだら書いていても仕方がないので、結論に行っちゃいましょう。
『ひぐらし』がどれほどひどいかは、ネット上にいくつかの論考があるので、それらを参考にしてください。たとえばこれなんかはよくまとまっているし、読み物としても秀逸です。
 
どうして、こんな物が売れたのか?それは
「創る喜びだからで〜す←結論」

『ひぐらし』は推理ゲームではありません。ファンがやってたのは
「推理」ではなく「創作」です。
それが「カケラ紡ぎ」の本当の意味です。
オリジナルの『ひぐらし』は投げられちゃった作品です。穴だらけ、矛盾だらけで、できそこないのジグソーパズルです。

しかし一つ一つのピースはそれなりに魅力的なのです。今千秋が「刹那的に部分部分だけ」というように、部分部分はファンの心を繋ぎ止めておくだけの力を持っていました。
それでファンは「推理」だと錯覚しながら、この投げられたでたらめな物語をより完成したものに
「創作」していったのです。

そのための便利アイテムは山ほど与えられています。ご都合主義の塊のような魔法のアイテム。
恣意的に発症も症状レベルも自由に変えられる「雛見沢症候群、それから来る「妄想」。全てを「妄想ですから〜」で解決できます。

工作部隊「山狗」。不可解な事があれば
「それは山狗が暗躍したから」でオケ!
秘密結社「東京」。国家を動かすほどの権力集団。裏で
「東京」が動けば何でも可能。
そして究極の「オヤシロサマ(羽入)」。
なんせ「神様」なんですから何でもありです。その言動が不条理でも
「人間には神様の心は理解できないのです、にぱー」
 
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でおしまい。どんな矛盾も謎も、これら便利アイテムですべて解決。『ひぐらし』は難易度の高い推理ゲームなどでは決してなく、極めて難易度の低い「ロールプレイングゲーム」です。誰でも魔法のアイテムでクリアできるような。

だから論理的思考の苦手な人でも、想像力に乏しい人でも、それなりに「推理」という名の「創造」で物語(解答)を作ることができました。まさしく「創る喜びですね。
 
これは「怪我の功名」です。竜さまは計算して『ひぐらし』をそうデザインしたのではないでしょう。同人の、いわば悪ふざけのような遊び感覚ででたらめな物語を創作した。しかしそれが時代にぴたりとはまってしまいました。
 
その時代とは言うまでもなく今のネット社会です。誰もが受け手であると同時に送り手である社会。受け手送り手という概念が無意味となった社会を前提として、この『ひぐらし』の成功があったでしょう。
旧来であればこんな不完全ででたらめな作品は、欠陥品として捨てられていたでしょう。しかし誰もが送り手、言いかえればクリエィターである社会では、その未完成さゆえに恰好の素材となりえたのです。
魅力的な個々のパーツを持ち、しかも全体としてはバラバラな素材。でもそのパーツを繋ぐ魔法のアイテムもいっぱい用意されている。誰でもそれらを紡いで自分の物語を創作できる。これが『ひぐらし』がヒットした理由なのではないか。というのが私の分析です。
 
ご意見のある方は、異論でも反論でもご自由にコメントいただければ幸いです。
あ、一言でいっちゃうと「ホームドラマ」です。
 
以前にどこかで書いた私の文章↓
 
私は旧作を、テーマにとって重要でない部分を削ぎ落としたら「ホームドラマ」だなって思いながら見てました。
「母ちゃん=綾波、父ちゃん=ゲンドウ、息子=シンジ、息子の恋人=アスカ」
新作の「破」はかなりホームドラマになってましたね。
料理の練習をする綾波とアスカ。父親と息子の関係を心配する母綾波。そしてそれを修復する為に手料理の食事会を思い立つ。一家団欒で家族の会話を取り戻そう。って事でしょうか。
 
そのテーマはって言うと
 
死と再生のドラマ。大人になる為の通過儀礼としての「死」と大人としての「再生」。そして死の象徴としての綾波と、生の象徴としてのアスカが二項対立のわかりやすい図式で描かれる。目くらましの「衒学趣味」を取っ払ってしまえば、いたってシンプルでわかりやすい話です。
 
ということも書きました。
エヴァは異常なほどファンサービスに溢れた作品で、情報量が過剰に多い(サービス!サービスぅー!)
衒学趣味満載。だから見る側は自分の物差しで、どうにでも深読みできる仕組みになってます。
何かすごい「世界観」があるようでいて、実は何もない。ないから見る側が勝手に世界を作ることができる。その材料は嫌というほど与えられています。(この感じはのちの『ひぐらしのなく頃に』に似てますね)
「人類補完計画」なんて言ってますが、あるのは「碇シンジ補完計画」だけです。あの作品には「人類」も「現実世界」も存在しません。「世界系」ですから。
 
もともと思春期の少年の自己中世界を描いた作品ですから、「鬱」と「妄想」と「狂喜」に満ちています。早い話「中二病」ですね。
 
エヴァに関してはまた書きたいと思いますが(『Q』が公開された時かな)、エヴァなんてしらない、というコメントをいただいたので、軽く触れてみました。
 

特に興味なんかなかったんですよ。「涼宮ハルヒの憂鬱」(以下「ハルヒ」と略します)という人気ラノベやそれを原作とするアニメがあるってことは知ってました。でも、「学園ラブコメだろ」くらいの認識しかなかったんですね。読みたいとも観たいとも思わなかった。
でも、“よーつべ”のサムネイルをザッピングしてたら、ハルヒの顔が目にとまったんです。なんとなく知ってる女の人に似てる気がして。で、ちょっと観てみる気になったんですね。
 
でもめんどくさいからアニメの最終回を観たんです。そうしたら予断を完全に裏切られました。
「何これ? エヴァじゃん!!」
って感じでした。
「ハルヒってエヴァのパクリなの? それともパロディ」
と思って、最初から見ていったわけです。
 
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2006年版だったから、『朝比奈ミクルの冒険 Episode 00』から始まって面喰ったんですが、観を終えた感想は
「エヴァのパクリでもパロディでもなく、エヴァが解けなかった問題の答え」
というものでした。ここで言ってるエヴァ(エヴァンゲリオン)はもちろんTV&劇場版の「旧エヴァ」のことです。
「エヴァのアンチテーゼ」と言う人もいるし、そうも言えると思いますが、私は「エヴァの回答」だと考えたんです。
 
根本的な差は物語の「構造」にあります。エヴァはシンジの自己中世界です。それに対しハルヒもキョンの自己中世界です。キョンは何人もの美少女に囲まれたハーレムの中心にいる。そして物語はキョンのモノローグで始まり、展開し、終焉する。間違いなくキョンが世界の中心にいる、キョンの自己中世界です。
しかし徹底的にエヴァと違うのは、その世界をハルヒが造っているという点です。いや、正確に言えば「キョンがハルヒに造らせている」です(小泉がくどいほど示唆してる通り)。「消失」ではそれを有希に作らせた。ま、「消失」はキョンの浮気な訳ですが(それで朝倉に腹を刺された)。
 
ここに決定的な違いがあります。
エヴァの物語構造は二次元の世界です。それで遂に「内と外」の矛盾を止揚できずに終わった。それに対しハルヒは非ユークリッド幾何学の構造を持ってます。
世界の中心に間違いなくキョンがいるのに、その世界を作っているのがハルヒであることで、キョンは同時に世界の外側にもいる。これはハルヒも同様です。ハルヒが作っているハルヒの世界ですから当然ハルヒはその中心です。しかしハルヒはそれを自覚できないことで、その世界から疎外されている。ハルヒもまた「内」であると同時に「外」の存在なのです。
 
ちょうど「クライン面(壺)」や「メビウスの輪」みたいに、内であると同時に外でもある。ハルヒもキョンも同じ存在であり、ハルヒはキョンであり、キョンはハルヒです。この二人はATフィールドを残したまま(言い換えればそれぞれの個的存在を残したまま)一つであって、二つです。ここに「内と外」の矛盾は存在しません。
 
アニメを観たあとすぐに原作も読みました。「谷川 流は頭がいい。」そう思いました。それでファンになってずっとシリーズを追いかけてるんですが、最初の「憂鬱」、スニーカー大賞受賞作がエヴァを意識して書かれたのは間違いないと思います。キャラクターの設定だけでなく、ラスト近くでハルヒがキョンの首を絞めるシーンは、エヴァ劇場版「まごころを君に」でシンジがアスカの首を絞めるシーンを意図的に踏襲させてます。
 
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ここではハルヒがシンジでキョンがアスカになってます。エヴァのアスカは大人に成りきれないシンジを受け入れることができなかった。それに対しキョンはハルヒを受け入れた。エヴァの年齢設定が中学生なのに対し、ハルヒの設定が高校生なのも面白いです。中学で童貞(virgin)卒業は早い?。
 
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それはともかく、谷川 流がエヴァに対する「回答」としてこの物語を描いたのは(たぶん(; ̄ー ̄A)間違いないんじゃないかと思ってます。少なくとも「エヴァンゲリオン」という作品が存在しなければ、「涼宮ハルヒの憂鬱」も生まれなかったことだけは確かでしょう。
 
(画像はDVD「涼宮ハルヒの憂鬱 第3巻」よりキャプチャ)
 
 

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