アートが丘

「嵐が丘」のヒースクリフの思いは想像力?強迫観念?

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現代アーティストが主導する「所沢ビエンナーレ・プレ展」(実行委員長;中山正樹)を見て、シンポジウムを聴いた。
アーティスト主導、市場中心主義に対抗、地域に根ざすなどが趣旨のようだ。
会場は西武鉄道旧所沢車両工場。

美術家や美術作品の社会との関わり方とか、美術家という存在のあり方、あるいは美術家という思考のカタチといっていいだろうが、そういうことを考えさせられた展示だった。
それは、作品にとっての「市場」とななにかを問うということでもある。

作品にとっての市場というのは、作品が売買されることで社会に流通するというだけの「場」とは違って、作品が他者のシンパシー(共感)やアパシー(不共感)をえることができる、視線が交差し感じ方や考え方が流通・交換されるコミュニティの空間が美術作品の「市場」ではないだろうか。
求められているのは、そういう、美術家が世界との関わり方を提示して、それが感性やフィーリングのレベルで他者に対して批判的に機能する「場」なのである、

アーティストは、常に、社会と関わり、という以上に取引をしている。
詩人が世界の先端に触れ、かすかな社会のゆらぎを言葉で紡ぐように、美術家は目に見えるビジュアルで提示するのだ。
だから世界との緊張感がなくなって、世界に取り込まれてしまったら美術家とはいえない
世界というと幾分、抽象的な空間だが、社会とか他者と言い換えてもいいだろう。

かつて、美術家はこうした世界から公認されるのを拒絶することで世界との緊張感を保つことができた。
現在、美術市場というかたちの世界の一つは、美術家を懐柔して、美術市場の効率のいい労働者として飼育しようとし、実際、その気になれば容易に有能な美術市場労働力として貢献して報酬をえることが可能だ。
美術家をとりまく状況がこうだと、かつてよりも、美術家は世界との取引の仕方がとてもむずかしくなっている。
昔、1970年の大阪万博で美術家が容易に資本と市場に抱きこまれたのと同じ状況が、今では当然のようになっていて、そういうシーンに無批判的に馴らされてしまう美術家はもはや美術家ではない。

美術館の企画展でも美術家とその作品は企画のための将棋の駒のように利用されている。
明らかに、美術館がアーティストを先導しているかのようだ。
いいか悪いかは半々だが、国立西洋美術館で現在開催されている「コロー」展は、コローの作品が、モネだの、ルノワール、ブラマンク等等と並べられて比較して見るように設置されている。
企画者が観客にサービスしたいという親切な意図はよくわかるが、コローが生きていて、みたらびっくりして展示を拒否したかもしれない。サービスは下手をすると過剰な押し付けになってしまいかねない。
こうした企画展は当然、企画者、つまり学芸員の企画というか考えや見方をみせられるのだが、彼らは本来、裏方であって主役ではない。あまりに差し出がましい考えや勘違いの比較を、当然のように提示されると見ていて幻滅する。
美術館の学芸員が評論家という社会的ポジションも兼ねることは難しいのではないか。
美術作品を収集、所蔵、分類して、社会に文化として再配分とか再流通させるのが学芸員の役割だから。
こういう美術館や学芸員の要求にも応えなければならない美術家のあり方、取引の仕方はきわめて困難だ。

美術作品はどこで、どういう形で提示されるのかによって、作品の現れ方というか見え方も違ってくる。
作品が置かれる文脈によって作品の内容も左右されるわけだ。
美術作品はこういう文脈を支持体にしてその上に描かれた表面なのである。

いわば「文の意味は文脈の効果」だということと似ている。
でも、これは、サイトスペシフィックな美術作品の問題とはまた別のことがらだ。
サイトスペシフィックな美術作品は作品の自律性が失われた時、作品の成立の根拠を「場所」との関係に求めるものだ。
作品が自律的に成立しにくくなった作品は自ずからサイトスペシフィックと関わらざるをねなくなったのだし、そこからさらに、「観客」とのかかわりが作品成立の条件として要請されたのだった。
こちらは、マイケル・フリードの「劇場性」に関連する。
あるいは、彫刻が昔から特定の「場所」と深く関わらないでは彫刻として成立していなかったというようなこととなども想いおこさないわけにはいかない。

こうした作品の自律性にかかわって作品が成立する根拠を尋ねることを垂直軸にとると、水平軸には所沢ビエンナーレ展が提示するはずだった問題、作品が社会や他者とかかわってどういう形でどこで成立し、どういう意味をもつのかといったことがらということになる。
そして、これらの垂直軸と水平軸は相互依存的なので片方だけからアプローチすることはできない。

シンポジウムではこうした問題が突っ込んで議論されるんだと期待して行った。
しかし、パネラーは稚拙だったり、独りよがりだったりする見解を勝手に述べ合うだけで、話がまったく絡み合わないから深まりようがない。
日本の美術を背負って立つ意気込みくらいは感じたかった。
いずれにしても、所沢ビエンナーレ展は美術家や美術作品が成立する条件や仕組みをトータルに問い直す試みとして今後展開してほしい、と願わないわけには行かない。


上の画像は中山正樹。
下の画像は伊藤誠。

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