アートが丘

「嵐が丘」のヒースクリフの思いは想像力?強迫観念?

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☆このテキストは、2014年3月に、あるアニュアルの刊行物に掲載されました。
掲載された文は、訂正前のテキストが一部分使用されています。
文の大意には無関係ですが、細部に微妙な違いがあります。
決定稿を、こここ掲載します。
2014年3月12日

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森アーツセンターギャラリーで開催中の「ラファエル前派」展。ロンドンのテート美術館で人気の高いジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」やダンテ・ゲイブリエル・ロゼッティ「プロセルピナ」など、19世紀半ば過ぎの名品を見ることができる。
これらの絵画からは、産業技術革命や都市化など近代化が進行していくイギリスで、現実をみすえながら、それに立ち向かう想像力で、自分たちの時代のフィーリングと思考をリードしようとする若いクリエイターの意気ごみが感じられる。
個人が主役になった近代社会で、自分を拡張できる「夢見る力」を全力開花させた絵画を通して、新しい人間のあり方を提示したのだ。いいかえれば、新しい時代のライフスタイルの提案ということになる。

ジョン・エヴァレット・ミレイとダンテ・ゲイブリエル・ロゼッティ、ウイリアム・ホルマン・ハントが1848年に結成したのがラファエル前派だ。
自立した別の現実としての絵画を完成させた、イタリア・ルネサンスのラファエルよりも前に返って、素朴な信仰心や人と人との心のつながりを取り戻したいと考えたのがラファエル前派である。
この「アートが丘」のプロフィール画像は、シチリア島のチェファル大聖堂の天井のモザイク画。中世のいわゆるビザンチン・スタイルで、この天井画のイエスは、その前に立つキリスト教の信者と向かい合ったまま、コミュニケーションを交わす。
ラファエルの、たとえば、ルーブルの「美しき女庭師の聖母」では、絵の中の、聖母マリアとイエス、洗礼者ヨハネは、ピラミッド型の構図のなかにおさめられ、見事に三人だけで完結した関係を形成している。
その絵の前に立つ観客は、舞台から切断された観客席で芝居をみるのと同じように、絵画の外から三人の様子を眺めるだけだ。こうしたスタイルが自立した別の現実としての絵画ということである。
ラファエル以前の聖母子像やイエス像は、おおむね中世スタイルで、イエスや聖母マリアと観客(信者)とが絵画と現実という垣根を越えて心を通じあわせることができる。
ラファエル以後と、ラファエル以前、そこが違う。

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オフィーリアとは16世紀、シェイクスピアの戯曲、デンマークの王子「ハムレット」の恋人の名前だ。ハムレットの心変わりと父の死によって狂気に陥り溺死してしまうのがオフィーリア。「ハムレット」と想いがすれ違い、しかも想いを伝えきれないという心の葛藤ドラマだと解釈した場合、ここはクライマックスだ。
判断不能になったオフィーリアは野原で花やハーブを摘んで自分の身を飾る。画面左上、見捨てられた愛を象徴する柳の枝が折れている。花輪をかけようとした瞬間、枝は折れてオフィーリアは川のなかに落ちたのだ。歌を口ずさみながら水に飲みこまれていくオフィーリア。
左腕あたりのパンジーと画面下部の水面の忘れな草は「わたしを忘れないで」と祈るオフィーリアの想いを象徴している。
向こう岸に群がる金鳳花や襟元を飾る小さなスミレの花輪は、オフィーリアの無邪気で誠実なキャラクターを代弁する。
けれども彼女は、右手近くに浮かぶケシの花のように死の水底へ沈んでいく。

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オフィーリアとハムレットのように想いがすれ違う。これは恋愛物語の不滅のテーマだ。
三田村雅子が「源氏物語」について語っている。「伝えきれない想いを抱えながら、孤独の中に生きる人々の」、「想いがすれ違ってしまうという愛の不可能性」をめぐる物語、それが「源氏物語」だという。
「ハムレット」もすれ違う想い、伝えきれない想いのドラマという点では「源氏物語」と同じだ。
JE・ミレーは伝えきれない想いの純粋な美しさと悲哀を、正確で科学的な観察にもとづいたリアル描写と明るく豊かな色彩に託して描きだしている。
そうすることで、因習的なモラルに束縛された社会に、それを克服できる高揚し拡張する近代的自我の可能性を提示することができたのだ。そこが革新的ではないか。

「オフィーリア」の45年前、1847年に刊行されたのがイギリスを代表する恋愛小説「嵐が丘」だ。女子の権利が制限されていたので、エミリー・ブロンテは男子名で発表した。
シェイクスピアが何度か引用される怪奇で清らかな美しさを湛えたこのゴシック・ロマンスでは、風雪吹きすさぶヨークシャーの風景が迫真描写で読者の眼前に描きだされる。荒涼とした嵐が丘で展開されるのは、ヒースクリフとキャサリーンとのすれ違う想い、伝きれない想いだ。
「嵐が丘」のヒースクリフとキャサリーンとの愛憎は、エドガー・アラン・ポーのゴシック・ロマンス、「アッシャー家の崩壊」に登場する双子の兄妹、ロデリック・アッシャーとマデライン姫の関係を髣髴とさせずにはおかない
いずれも、凍てつく荒れ野に情念の炎が燃えあがる。

JE・ミレー「オフィーリア」とE・ブロンテ「嵐が丘」は、同じ時代を生きる者の息遣いと想いを共有している。すれ違う想い、伝えきれない想いは人の心の葛藤だ。二人は、心の葛藤を観察力と想像力とで描きだして、「夢見る力」、すなわちクリエイティブの力の可能性を拡大したのである。
すれ違う想い、伝えきれない想い。いまだにわたしたちの解決不可能な難問のままだ。


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JE・ミレイの「オフィーリア」が描かれた時代の産業技術革命は、物品をつくる技術の革命だった。生産力と効率の良い新しい機械は、職人の組合ギルドによって独占されていた物づくりの閉鎖的な制度を打ち壊す。
現在に置き換えてみると、上からの規制緩和やビジネスの自由化を、フランス革命と同じようにボトムアップ・スタイルで下から獲得したようなものではないか。医薬品のネット販売の規制緩和や、郵便制度の自由化などと比較してみるとわかりやすい。
産業技術革命は閉鎖的な「売り手」がコントロールする市場を、より安い商品を大量に生産することで「買い手」中心の市場に変えたのだ。自由競争というダイナミックな社会の変化、これも近代化の一つだった。

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19世紀の産業資本主義社会は古い生産システムを破壊した。でも、他方でとても深刻な次のような事態もうみだした。
労働する身体をもった「人」は商品と同じように貨幣で交換される。「物」ではないはずの「想い」も、たとえば絵画や小説の商品化にみられるように、生産された物品になる。
マルクスが「資本論」で指摘した有名な「物神崇拝(フェティシズム)」は、この状態を前提にしている。「想い」、すなわち人の「気持ち」や「サービス」が「物」と同じように交換可能な商品になってしまう事態を意味していた。
ここから逆に、今では、商品に使い勝手が良いという「物」としての機能性以上に、豊かなイメージを与え、「想い」や気持ちを感じさせようとするようになっている。「物」より「心」、機能よりサービスということだ。

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JE・ミレイやDG・ロゼッティなど19世紀中葉のイギリスの若いクリエイターたちは、今の時代とは違って、こうした人と物、心と商品とが倒錯的な関係に陥ってしまった社会にプロテストしていたのではないだろうか。
かれらはすぐに、近代デザインの先駆者、アーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントのウイリアム・モリスと親交を結ぶ。モリスは1860年につくった自分の住まい「レッド・ハウス」以後、生活と芸術の融合を求めて、タイポグラフィーを革新し、テキスタイルを刷新するなど総合デザイン・プロデューサーあるいはライフスタイル・コーディネーターとして活動した。
モリスは産業技術革命で大量生産され始めた品性が劣る日常生活品に失望してアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントを開始したと、しばしば言われてきた。はたしてそうなのだろうか。モリスもラファエル前派のクリエイターも、それ以上に、「想い」が「物」になってしまうフェティッシュな社会にプロテストしていたにちがいない。
だからこそ、JE・ミレイやDG・ロゼッティなどは、しばらくして、社会の功利的な価値に奉仕しない、つまり世間的な役にたたない「美のための美」を追求する唯美主義とか、「俗事は召使いにまかせる」といった耽美主義などへと傾いていったのだ。
想像力や「想い」を、交換可能な「物」や流通可能な「商品」から切り離したかったのだ。自分たちが生みだした美しい王女という「想像力の結晶」を妖怪である産業資本主義から遠ざけなければならない。クリエイターはドラゴンに立ち向かう聖ジョルジュになる。
しかし、それは聖ジョルジュだけでは不可能だった。「想像力の結晶」には、俗世間から隔離された「美術館」が必要だった。人里離れた山間部に建つ修道院に似ていないだろうか。
19世紀末の西欧を広くおおったこうした芸術至上主義は、「想い」を自由にできるという幻想にとらえられていた。「想い」が自由に展開可能な場所、それが「美術館」だったのである。

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すれ違う「想い」、伝えきれない「想い」。人間関係だけではなく、わたしたちがつくりだすデザインやアートの作品でも同じだ。でも、「想い」を伝え、交通させなければクリエイティブとはいえない。
どうしてかというと、だれかに「想い」を伝えて交通させることは、自分を知ることだからだ。相手は自分の鏡。
わたしが投げかけた「想い」に対して相手がどう応答するか。
応答の仕方や内容が相手という鏡に映ったわたしの姿なのだ。
コミュニケーションとは自分を知り、自分のアイデンティティを確認したいという欲望にほかならない。
ールのやりとりによく表れている。
精神分析のジャック・ラカンが指摘したとおりだと思う。

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19世紀の産業技術革命進行中のイギリスとは違って、現在は情報技術革命が進行中だ。
産業技術革命は「物」をつくる機械による技術の革命だった。情報技術革命は、いわば「想い」を伝えるための、たとえばネットワークのようなメディアによる技術の革命なのだ。
伝える技術は革新されても、「想い」の伝えきれなさは恋愛や人間関係では革新されてはいない。

だが、「想い」はそれだけだろうか。
生活のなかで解決したい問題も「想い」だ。
わたしたちクリエイターは、産業技術革命進行中のJE・ミレイやDG・ロゼッティのように、情報技術革命進行中の今、生活の新しい問題、すなわち社会の「想い」を発掘し、それをクリエイティブを通して伝えていく必要がある。

革新されたメディアと伝えるべき新しい「想い」を見つけだし、それを伝えたとき、「REVOLT is LOVE」でもあれば「LOVE isREVOLT」といった風に、「革命」と「愛」は合わせ鏡になるのだと思う。


(はやみ たかし)
 

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