アートが丘

「嵐が丘」のヒースクリフの思いは想像力?強迫観念?

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<アーカイヴhayami> 「現代の眼621号」2016年12月 東京国立近代美術館

 山田正亮の前に山田正亮の先駆者は見えない。山田正亮の後にも後継者としての山田正亮はみあたらない。」4年前、雑誌「アート・トレース」の「山田正亮」特集に寄稿したときのわたしの文章の断片だ。本当にそうなのかどうか、ときどき思いだしては考えていた。

 そんなとき、東京都写真美術館で杉本博司の「ロスト・ヒューマン」展を見て思いをあらたにした。展示されていた杉本の作品のなかで、山田と関係があるのは次の二種類だ。京都、三十三間堂の千手観音を撮影した「仏の海」と、すでによく知られている「海景

「仏の海」は階段状に整列した千手観音が撮影されている。当然、千手観音の繰り返しということになる。「海景」は海と空との均等二分割。「繰り返し」と「均等分割」は山田の絵画の主要な二つの構成法だ。山田の場合、「繰り返し」はストライプ、「均等分割」はクロスやグリッドになる。両方、基本的に「均等分割」ということで片づけることもできる。「均等」だから、山田自身が言ったとおり、絵画の全体が一つになっている「一様性」ということになる。

 「仏の海」や「海景」の写真だけを見ると、突き放され対象化された写真なので、イメージは意味を剥ぎとられて、そこにそのようにあるだけといった趣が感じられる。杉本のこうした「繰り返し」と「均等分割」も「一様性」といえる。山田というよりもミニマル・アートの方法だ。杉本の作品はそれで終わってはいない。「仏の海」の展示場に置かれた「五輪塔」に封じこめられた「海景」のタイトルは「バルト海、リューゲン島」。暗い展示場で千手観音の写真と五輪塔、「バルト海、リューゲン島」が重なると連想に拍車がかかる。C・D・フリードリヒのリューゲン島を舞台に壮絶な孤独を醸す「海辺の僧侶」や、平安時代末から鎌倉幕府誕生の激変期に死後の極楽浄土を希求した人々が思い浮かぶ。「繰り返し」と「均等分割」によって感覚的な恣意性が消し去られた写真は、だからこそ、人の感覚的な気まぐれを封印する死に捧げられていると思えた。

「繰り返し」や「均等分割」は、クレメント・グリンバーグがミニマル・アートについて述べたときに指摘した「新しさの終わりとしての新しさ」だ。いつの時代でも、だれもが知っていたけれども、だれも使おうとしなかった方法。なぜなら、アーティストの個人的な感覚を発揮する余地がないから。世間で流通しているものに該当させると、「繰り返し」や「均等分割」は貨幣に似ている。貨幣はそれ自体ではなにも意味しないゼロの記号だ。ほかのなにかと交換されたときに初めて意味が生まれる。逆に考えることもできる。貨幣は、実は、いろんな意味を潜在させていて、交換されるたびに封印が破られて意味が顕在する。「どこでもドア」や江戸の長屋の千変万化の四畳半を想いださないだろうか。

 だから、杉本の写真はキャプションの付加のような微細な刺激で、連想をかき立てるイメージに変貌する。潜在していたものが露になる。一つにまとまっていたはずの「一様性」は、実は、束ねられた多数多様なヴェールなのかも。微妙な刺激が加えられると分化し増殖するSTAP細胞みたいではないか。実際、モダニズム美術の終局のミニマル・アートで使われた「繰り返し」や「均等分割」は、アーティストの感覚的な気まぐれという「意味」を排除して作品を客体化する方法だった。

 こうした個人的な感覚を封印する仕組みの「繰り返し」や「均等分割」を使って、山田が登頂した「一様性」の頂上の嶺を形成する絵画の一つが、画面の周囲をわずかに塗り残しただけの1966年の「WorkC-273」だ。山田のストライプの「繰り返し」による絵画を特徴づけていたペイント・ストロークは極度に抑制されている。「均等分割」は画面のフレームとわずかにずれた矩形として残されているだけで最小限だ。

「一様性」が極められた最高峰は、描かれた絵画の表面と描かれるべき絵画の支持体とが一つに合体してしまう地点だ。絵画の空間がなくなる。現実の物体と同じになってしまう。アクリル箱に白い粒子を入れた1967年の「Whiteobject」はこうした文脈の終点に位置している。

 山田自身はこうした絵画の最高峰を極めた後、再びもう一つの最高峰を目指すかのように、いったん最高峰から下っていったのが1960年代末以降の絵画だ。開口部をもった矩形が凝集する山田のキャリアの始まりの絵画、山田が命名した「アラベスクの絵画」方向に、いわば、下り坂サイコーといった趣で逆走した。匿名的で黙示的な1960年代半ば過ぎの作品に比べると、それ以後はデタント状態だ。「WorkC-273」や「White object」が、山田の「WORK」という絵画制作の円環の半分、180度の地点だとしたら、以後、そこから、1990年代末の360度の地点にむかって、山田は自分の絵画を分化、増殖させていったのである。

 わたしは、山田のこうした自己再生産、あるいは、自動的なリサイクル制作の仕組みを「絵画を生む絵画」と名づけた。自動的なリサイクルなので円環状に閉じるほかはない。円環の外部はない。山田は自分で自分の絵画を継承展開させた。だから、ほかのアーティストが円環のなかに入って山田を継承展開する余地はない。こう考えてきた。けれども、杉本の「ロスト・ヒューマン」展を見てから別の見方もあることに、いまさらのように気づいた。

 すでに1970年代に「一様性」は、山田とは違う場で分化、増殖させられていた。山田とは違うかたちで「一様性」を継承展開させて大きな成果をあげたアーティストがいる。もっとも早い例の一つは、1970年代にグリッドから始めてストライプに展開し、さらに「一様性」をフィルターにかけて並べ替えたかのように立体感のあるモチーフを浅い空間にまとめあげた1970年代後半からの辰野登恵子。そして、1980年前後から、数色をストライプ状で幾層にも塗り重ねた櫻井英嘉。薄く重ねられて深い奥行きのある空間にまとめられていたヤン・ヴァン・エイクの絵画を、まとめないまま重層する色彩の深さに置き換えたと言ってみたい。

「一様性」は中心のあるまとまりをもった空間が絵画では成り立たなくなったときに見いだされた。まとめる必要がないまとめ方だ。限定されたフレーム内で成立する一点透視図法は、空間をつくり出す方法である以前に、空間を統合するまとめ方なのである。モダニズム絵画が用いたまとめる必要のないまとめ方は、ワン・イメージ・ペインティングやシェイプト・キャンヴァス、アンバランスのバランスによる調和を問題にしないシンメトリー、全面をおおう(オール・オーヴァ)などを想いおこせばわかりやすい。辰野登恵子や櫻井英嘉は「一様性」という閉じた円環の軌道上でスピードアップして遠心力を振り切り、円環を破って放物線を描きながら飛び立っていった。

 現在、旺盛な制作活動で、「一様性」をしなやかにずらし、文字通りの多層的な絵画を描いて成果をあげているのは平体文枝だ。正方形の画面の「告げる鳥」を半世紀前に描かれた山田の「Work C-273」と比べてみるのは興味深い。

「告げる鳥」は、いくぶんペインタリーなストロークを画面全体で左右に展開させてイエロー系のいくつもの色彩でおおったり、画面の縁で止めたりすることが繰り返されている。画面の周囲に下層にあるパープル系の色彩が見える。緩やかなペイント・ストロークと異なる色彩の縁どりという点で山田の「WorkC-273」を思わせる。けれども、平体の絵画のフィールドに残されたパープル系のノイズのような痕跡に注目すると見え方は複雑になる。痕跡はフィールドを彩る緩やかなストロークに即してもいれば、離反してもいる。そう見えると、近似した色彩と繰り返されるストロークで形成されていたかに思われたフィールドは、おおらかな広がりと豊かな色彩をもった揺れ動くアトモスフェリックな空間に変貌していく。力動的でしかもたゆたう柔和さをたたえた光だ。ゴールドやピンクに輝きながら、見る者の記憶をかきたて、情動を震わせる光の海。それとも、実りの秋に広がる稲田に漂う大気かもしれない。

「告げる鳥」の豊かな表現性は、匿名的で黙示的な山田の「Work C-273」の表現性と隔たっている。「繰り返し」と「均等分割」による「一様性」が潜在させていた多層性や複雑さを顕在化させているのだ。オーヴァー・レイでハイブリッドな「告げる鳥」の空間は、20世紀に発明された、山田も含めたアブストラクションの絵画のあらたな可能性をさし示している。

 石津ちひろの詩「あしたのあたしはあたらしいあたしあたしらしいあたし・・・」を想いおこしたい。似たことばが少しずつ差異をもって繰り返されているので、「一様性」が逆にイメージの広がりと情動の豊かさをもたらす。平体の絵画のストロークや色彩、痕跡のようなタッチは、このように「一様性」を転位させ、わずかにずらすことで山田を継承展開というよりも力強く転回させているのである。山田正亮のあらたなレッスンをここに見いだしたい。 

   (はやみ たかし)

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<アーカイヴhayami> *2010年秋「あいだ」掲載

山田正亮の絵画を初めて見たのは1977年、東京、銀座の康画廊でだった。「平面」というレベルで絵画がとらえ直されようとしていた時期だ。「美術手帳」の「絵画としての平面、平面としての絵画」(同年4月号)や「絵画と平面の相克」(782月号)といった特集によく示されている。後者の座談会には山田正亮も出席していた。いまでも鮮明に想いおこされる。
絵画としての平面とか平面としての絵画というかたちで絵画がとりあげられるような事態は、19世紀末から20世紀初頭のモダニズム絵画での、第一回目のいわゆる「表象の破産」に比較することができるだろう。最初の「表象の破産」が、パース風にいって「類似」にもとづく「再現」の破産だったのにならっていえば、この二回目の「破産」は、「置き換え」にもとづく「象徴」、すなわち「抽象」の破産といっていいだろう。マイケル・フリードの評論「芸術と客体性」のなかでの「シアトリカリティ」が指し示している事態だ。この二回目の破産の後には、「兆候」にもとづく「痕跡」が注目されることになる。ロザリンド・クラウスの「インデックス」と題した批評は、こうした状況を的確にとらえていたことはまだ記憶されているだろう。
 
山田正亮がクローズアップされたはこの狭間の時期の出来事だ。康画廊での個展は、藤枝晃雄が企画し、山田正亮と一緒に展覧会をやったこともある康画廊のオーナー等々力康弘が開催したプチ回顧展だ。この展覧会は日本の絵画史、というよりも、日本の美術批評史に記憶されなくてはならない批評行為としてとらえてみるとさらにいっそう興味深い。40歳も半ばをすぎた「抽象画家」の20年ほどの画業の一端は、破産した絵画を前にして発っするほかない「なにが絵画たりうるのか」という、当時の絵画への問いに見事にこたえていた。「絵画とはなにか」問うのではなく、「なにが絵画たりうるのか」と問いのかたちを変更して、それにみあう絵画を提示したことが批評行為として新鮮だったのである。
たとえば、1960年代の半ばに、宮川淳は「芸術とはなにか」ではなく「なにが芸術たりうるのか」を問うてきたのが「現代美術」だと指摘したことはあった。けれども宮川淳は、それにみあう日本の作品を提示することはなかった。
 
1977年まででわたしに印象深い現代美術展は、画廊でのいくつかの展示を別にすれば、1970年の中原祐介企画の「人間と物質」展や東野芳明の「現代美術の一断面」展だ。「人間と物質」展に応答して「どうしてこれが芸術なのか」と批判した藤枝晃雄が自らのポジティブな批評として展開したのが康画廊での山田正亮展だったのである。銀座の小松ストアの裏通り、康画廊から清新な風が吹き始めた。
あるいは、こういう指摘をしておくべきかもしれない。1970年代初頭に講談社から刊行された「アートナウ」シリーズで藤枝晃雄は「構成する抽象」の巻(1971)を担当した。当時、執筆者のだれもが担当を躊躇した巻なのではないか。この巻末の文は今でも傑出した現代美術の評論として鮮度が落ちてはいない。それはともかく、その「構成する抽象」には藤枝晃雄が評価する作家と作品が掲載されている。山田正亮の作品も掲載されていた。日本では「もの派」が先端アートとして注目され、似たような傾向のイタリアのアルテポーヴェラも知られ、アメリカではEC・グーセンの「アート・オブ・ザ・リアル」展などが脚光を浴びていた。「芸術の現実化」が極まった時期だ。「絵画」の可能性を見すえる者は少数だった。藤枝晃雄の提示にもかかわらず、1970年当時、山田正亮が日本の美術界で再発見される余地はほとんどなかった。
 
山田正亮自身がそう語り、山田正亮の絵画を語る者がだれしも語った山田正亮の絵画を価値づける言説がある。
「絵画の解体によって絵画の自律性を獲得しようとする意志に支えられた制作」。
絵画をバラバラに分解し、分解された絵画の要素を用いて絵画を再構築するということだ。イメージとしてわかりやすいのは、1970年前後のフランスで活動した「シュポール/シュルファス」グループ。たとえば、シモン・アンタイやクロード・ヴィアラの作品だろう。かれらの仲間には絵画のシュポール(支持体=キャンバス)を物理的に、枠と布、さらに布を糸のレベルにまで分解して再構成した作品もあった。
こうした営みがフランスの思想家ジャック・デリダの「デコンストラクション(脱構築)」の方法に似ていることは今ではだれにでもわかる。モダニズムの絵画の内部に深く潜入し、内部から絵画の骨組みをはずしてべつの絵画として再構築するのだ。遺伝子組み換え作業に似ているかも。モダニズムの絵画の延命行為にもなりうるし、ポストモダニズムへの転回にもなりかねない諸刃の剣だった。
山田正亮の制作方法が絵画のデコンストラクションだとして、そして、モダニズムの絵画の延命行為でもなく、ポストモダニズムへの転回でもないのだとしたら、絵画が成立するにはとても狭い場所で山田正亮は絵画をつくりつづけていたということが鮮明になる。
こうした山田正亮の絵画は、康画廊以後「絵画の解体による絵画の自律性を獲得」と、さらに「絵画の自律性が崩壊する地点まで絵画をつきつめる制作」といった言説に彩られていくことになる。打ち捨てられて荒れ果てた開墾地「絵画」を耕作しなおす開拓者のイメージは、同時に絵画の求道者といった趣きを呈することになったのだった。
1960年代のポピュラーソングではないが、太陽の輝き、鳥のさえずり、そして星のまたたきのように、「絵画」を自明の前提として制作することはできない。山田正亮の画業を振り返って見たとき、「絵画」への愛が「世界の果て」ならぬ「絵画の果て」まで連れて行くのだ、といった気分が漂っているように見えてきたのである。1960年代的なポジショニングだ。
 
抽象絵画の元祖の一人、ピート・モンドリアンは自然を色と形という視覚的な基本要素に解体、還元し、ピュな要素で世界を絵画として再構成した。山田正亮は絵画を成立させている色と形、構成、タッチなどの要素に解体、還元し、さらに矩形の画面という画面型をも絵画の要素としてとりこみながら、絵画を再構築していった。わたしが1980年に佐谷画廊から刊行された最初の山田正亮の図録で書いた批評「面による思考」の前提はここにあった。
山田正亮の絵画は、これらの要素のどれかが、ある時は潜在し、別なときには顕在化する。これらすべてが潜在化した「絵画の果て」的状態は1960年代半ばの白と分割による絵画だ。絵画の臨界点「絵画の物体化」にもっとも近づいたのはそのころだ。実際、矩形の透明な箱に白い発砲スチロールの粒子がいれられた作品もつくられたりした。
こうした山田正亮の絵画の変遷はモダニズム絵画をモダニズムたらしめている自己批評的方法だとみなすことが可能だった。モダニズムの主要な関心はメディアの固有性だ。絵画という芸術メディアでしかできないことを実現する。絵画が絵画として成立する条件を探る。こうして他の芸術メディアと差別化し、「芸術」空間での差異をきわだたせること。モダニズムの文脈では、それが絵画の「自律性」だと考えられたのである。山田正亮はモダニズム絵画の純粋化を日本で独自に遂行したのだというストーリーが多くの評者によって描かれたのだ。
それは、ちょうど、人間の個性という固有性も、ラカンを想起しようがしまいが、他者との差異を求めて他者を必要とするのだというのと同じように、モダニズム絵画はメディアの固有性という燃料で推進する銀河鉄道で、銀河という差異の星座を巡遊するのだとイメージしてみたい。デザインでの機能主義がこれに類比できるだろう。こうしたメディア還元主義的方法は、今では、あまり可能性があるとは思われてはいない。絵画の固有性はほかの芸術メディアと比較しなくても、芸術メディアとしてオンリーワンな固有性をすでにもっている。だとしたら、絵画はオンリーワンな固有性を存分に駆使すればいいだけなのだ。
 
わたしは康画廊での個展を機に雑誌「みずゑ」で対談して以後、山田正亮について多数の批評を書いた。先の佐谷画廊の図録もその一つだ。これと、80年代半ばにギャラリー米津から刊行された山田正亮のストライプ絵画とグリッド絵画を別々にとりあげた「ストライプ」と「グリッド」、そして、1990年に美術出版社から刊行された「作品集」に寄稿した批評。わたしは、ほぼ10年間、これらの批評を含めて、その他にも山田正亮について多くの文を書いた。それらはすべて、山田正亮の絵画を、わたしが見た経験を記述するといった姿勢で貫かれている。美術批評は価値ある新しい作家を発見することと、ある特定の絵画を見た経験をことばで記述することがもっとも重要な役割だと考えているからである。絵画はつねに、特定の「この」絵画として「固有名」的に存在している。「この絵画は」を主語にして記述することから始めなくては作品を見た経験を語ることはできない。
今、想いおこしてみると、1980年代の山田正亮の絵画はむずかしかった。基本的には70年代のグリッド状や市松模様状の分割絵画の展開だった。タッチが荒々しく顕在化して、それを抑制して矩形の画面に押さえ込むかのように、画面の矩形に並行し、画面の矩形をなぞるグリッドやグリッドの破片が散在していた。
そういう山田正亮の80年代の絵画の中でわたしにもっとも扱いにくかったのは、東野芳明がサンパウロビエンナーレに選んだ頃の絵画だった。山田正亮の色彩はもともとブルーとベージュが基本だ。ベルト・モリゾの色彩を想起させたりもするが、セザンヌを感じさせると言ってみることは可能だろう。けれども、そのころの絵画では、ベージュは黄緑色に近づき、それと彩度をあわせてブルーのテンションが高くなっている。タッチや線描が縦横に展開されていた。まさか、ジャスパー・ジョーンズを意識したわけではないだろうが。
わたしがすばらしいと感じた山田正亮の絵画はいくつもあるが、山田正亮の代々木上原のアトリエの階段の途中にかけられていた横長画面の幅広ストライプの絵画を忘れることはできない(*注)。それまで縦長画面のストライプ絵画ばかりを見ていたせいだろうか、一挙に視野が開かれていく気がした。山田正亮の大半の絵画がそうだが、荒々しい破壊の衝動を発散させながら、それを厳しく抑制した絵画。雷雨の後にさっと吹き抜ける一陣の風とたゆたう空気のような軽くて、さわやかな情感が漂っている。こういう風に抒情的だと見なしうる点が日本の伝統的なセンスに通じているところだ。山田正亮の絵画の表現性の隠れた鉱脈はここにある。
このことと関連して、山田正亮の絵画に共通してみられる特徴を二つ指摘しておきたい。一つは「描かれるべき表面(支持体)」と「描かれた表面」との緊張と融和の関係。もう一つは抑制のきいた慎ましやかな表現性だ。稿をあらためて述べるつもりだが、最初の特徴は、モンドリアンの「ニューヨークシティ1」を嚆矢とする新しい抽象絵画で、絵画を絵画として成立させている基本だとわたしは考えている。東京国立近代美術館に所蔵されている1960年代に制作された対になった縦長画面のストライプ絵画を、同じころ描かれたアメリカのフランク・ステラの「斜接する迷路」シリーズの一つ「ハイエナ・ストンプ」と比較してみよう。山田正亮の絵画が欧米の新しい抽象絵画と共通した要素をもっていると同時に、それとは違う慎ましい表現性も有していることがわかるだろう。
 
最後に書いておかなくてはならないことがある。
山田正亮は長谷川三郎に師事と経歴に記される場合がある。抽象の牙城「自由美術」協会で、山田正亮は日本の抽象絵画の草分け長谷川三郎と一緒だった。長谷川三郎は東大出身の「知的」な画家だ。ムラ共同体的な土壌に育ち、そこからの脱出ばかりを模索しているかのような日本的「洋画」のモダモダを「知性」によって一掃したかのように見えるのが長谷川三郎である。その師、小出楢重もそういう一人として加えておきたい。
小出楢重と長谷川三郎といえば、芦屋発の関西モダニズム、クラブ化粧品の中山太陽堂を想起しておいても悪くはない。文化のモダニズム、生活のアヴァンギャルドだ。山田正亮も自分の日本の美術史でのポジションを、そこにおきたかったのではないかと思う。長谷川三郎に「師事」といっても、おそらく「自由美術」の仲間と辻堂の長谷川三郎のアトリエを訪問した程度ではないかと、わたしなどは勝手に想像するばかりだ。
批評を通してのわたしの山田正亮への関わりは1990年の「作品集」刊行で終わった。以後は美術館などの収集と再分配の役割をになう機関を中心にした山田正亮の絵画の広範な流通活動にゆだねられることになって現在にいたっている。
山田正亮の絵画に対する批評行為で、藤枝晃雄の山田正亮の再発見を凌駕するものはいまだに現れてはいない。

(*注)当時見た絵画の写真が見当たりません。掲載されている写真は、山田正亮の代々木上原のアトリエで見たのと色彩が同じでストライプの幅が狭い絵画。1973年制作。国立のアトリエで筆者が1989年に撮影したものです。

*山田正亮氏は2010年7月18日に逝去されました。享年81歳。謹んでご冥福を祈ります。[編集部]

 

 

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☆このテキストは、2014年3月に、あるアニュアルの刊行物に掲載されました。
掲載された文は、訂正前のテキストが一部分使用されています。
文の大意には無関係ですが、細部に微妙な違いがあります。
決定稿を、こここ掲載します。
2014年3月12日

  *
森アーツセンターギャラリーで開催中の「ラファエル前派」展。ロンドンのテート美術館で人気の高いジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」やダンテ・ゲイブリエル・ロゼッティ「プロセルピナ」など、19世紀半ば過ぎの名品を見ることができる。
これらの絵画からは、産業技術革命や都市化など近代化が進行していくイギリスで、現実をみすえながら、それに立ち向かう想像力で、自分たちの時代のフィーリングと思考をリードしようとする若いクリエイターの意気ごみが感じられる。
個人が主役になった近代社会で、自分を拡張できる「夢見る力」を全力開花させた絵画を通して、新しい人間のあり方を提示したのだ。いいかえれば、新しい時代のライフスタイルの提案ということになる。

ジョン・エヴァレット・ミレイとダンテ・ゲイブリエル・ロゼッティ、ウイリアム・ホルマン・ハントが1848年に結成したのがラファエル前派だ。
自立した別の現実としての絵画を完成させた、イタリア・ルネサンスのラファエルよりも前に返って、素朴な信仰心や人と人との心のつながりを取り戻したいと考えたのがラファエル前派である。
この「アートが丘」のプロフィール画像は、シチリア島のチェファル大聖堂の天井のモザイク画。中世のいわゆるビザンチン・スタイルで、この天井画のイエスは、その前に立つキリスト教の信者と向かい合ったまま、コミュニケーションを交わす。
ラファエルの、たとえば、ルーブルの「美しき女庭師の聖母」では、絵の中の、聖母マリアとイエス、洗礼者ヨハネは、ピラミッド型の構図のなかにおさめられ、見事に三人だけで完結した関係を形成している。
その絵の前に立つ観客は、舞台から切断された観客席で芝居をみるのと同じように、絵画の外から三人の様子を眺めるだけだ。こうしたスタイルが自立した別の現実としての絵画ということである。
ラファエル以前の聖母子像やイエス像は、おおむね中世スタイルで、イエスや聖母マリアと観客(信者)とが絵画と現実という垣根を越えて心を通じあわせることができる。
ラファエル以後と、ラファエル以前、そこが違う。

 **
オフィーリアとは16世紀、シェイクスピアの戯曲、デンマークの王子「ハムレット」の恋人の名前だ。ハムレットの心変わりと父の死によって狂気に陥り溺死してしまうのがオフィーリア。「ハムレット」と想いがすれ違い、しかも想いを伝えきれないという心の葛藤ドラマだと解釈した場合、ここはクライマックスだ。
判断不能になったオフィーリアは野原で花やハーブを摘んで自分の身を飾る。画面左上、見捨てられた愛を象徴する柳の枝が折れている。花輪をかけようとした瞬間、枝は折れてオフィーリアは川のなかに落ちたのだ。歌を口ずさみながら水に飲みこまれていくオフィーリア。
左腕あたりのパンジーと画面下部の水面の忘れな草は「わたしを忘れないで」と祈るオフィーリアの想いを象徴している。
向こう岸に群がる金鳳花や襟元を飾る小さなスミレの花輪は、オフィーリアの無邪気で誠実なキャラクターを代弁する。
けれども彼女は、右手近くに浮かぶケシの花のように死の水底へ沈んでいく。

 ***
オフィーリアとハムレットのように想いがすれ違う。これは恋愛物語の不滅のテーマだ。
三田村雅子が「源氏物語」について語っている。「伝えきれない想いを抱えながら、孤独の中に生きる人々の」、「想いがすれ違ってしまうという愛の不可能性」をめぐる物語、それが「源氏物語」だという。
「ハムレット」もすれ違う想い、伝えきれない想いのドラマという点では「源氏物語」と同じだ。
JE・ミレーは伝えきれない想いの純粋な美しさと悲哀を、正確で科学的な観察にもとづいたリアル描写と明るく豊かな色彩に託して描きだしている。
そうすることで、因習的なモラルに束縛された社会に、それを克服できる高揚し拡張する近代的自我の可能性を提示することができたのだ。そこが革新的ではないか。

「オフィーリア」の45年前、1847年に刊行されたのがイギリスを代表する恋愛小説「嵐が丘」だ。女子の権利が制限されていたので、エミリー・ブロンテは男子名で発表した。
シェイクスピアが何度か引用される怪奇で清らかな美しさを湛えたこのゴシック・ロマンスでは、風雪吹きすさぶヨークシャーの風景が迫真描写で読者の眼前に描きだされる。荒涼とした嵐が丘で展開されるのは、ヒースクリフとキャサリーンとのすれ違う想い、伝きれない想いだ。
「嵐が丘」のヒースクリフとキャサリーンとの愛憎は、エドガー・アラン・ポーのゴシック・ロマンス、「アッシャー家の崩壊」に登場する双子の兄妹、ロデリック・アッシャーとマデライン姫の関係を髣髴とさせずにはおかない
いずれも、凍てつく荒れ野に情念の炎が燃えあがる。

JE・ミレー「オフィーリア」とE・ブロンテ「嵐が丘」は、同じ時代を生きる者の息遣いと想いを共有している。すれ違う想い、伝えきれない想いは人の心の葛藤だ。二人は、心の葛藤を観察力と想像力とで描きだして、「夢見る力」、すなわちクリエイティブの力の可能性を拡大したのである。
すれ違う想い、伝えきれない想い。いまだにわたしたちの解決不可能な難問のままだ。


イメージ 1

 
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JE・ミレイの「オフィーリア」が描かれた時代の産業技術革命は、物品をつくる技術の革命だった。生産力と効率の良い新しい機械は、職人の組合ギルドによって独占されていた物づくりの閉鎖的な制度を打ち壊す。
現在に置き換えてみると、上からの規制緩和やビジネスの自由化を、フランス革命と同じようにボトムアップ・スタイルで下から獲得したようなものではないか。医薬品のネット販売の規制緩和や、郵便制度の自由化などと比較してみるとわかりやすい。
産業技術革命は閉鎖的な「売り手」がコントロールする市場を、より安い商品を大量に生産することで「買い手」中心の市場に変えたのだ。自由競争というダイナミックな社会の変化、これも近代化の一つだった。

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19世紀の産業資本主義社会は古い生産システムを破壊した。でも、他方でとても深刻な次のような事態もうみだした。
労働する身体をもった「人」は商品と同じように貨幣で交換される。「物」ではないはずの「想い」も、たとえば絵画や小説の商品化にみられるように、生産された物品になる。
マルクスが「資本論」で指摘した有名な「物神崇拝(フェティシズム)」は、この状態を前提にしている。「想い」、すなわち人の「気持ち」や「サービス」が「物」と同じように交換可能な商品になってしまう事態を意味していた。
ここから逆に、今では、商品に使い勝手が良いという「物」としての機能性以上に、豊かなイメージを与え、「想い」や気持ちを感じさせようとするようになっている。「物」より「心」、機能よりサービスということだ。

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JE・ミレイやDG・ロゼッティなど19世紀中葉のイギリスの若いクリエイターたちは、今の時代とは違って、こうした人と物、心と商品とが倒錯的な関係に陥ってしまった社会にプロテストしていたのではないだろうか。
かれらはすぐに、近代デザインの先駆者、アーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントのウイリアム・モリスと親交を結ぶ。モリスは1860年につくった自分の住まい「レッド・ハウス」以後、生活と芸術の融合を求めて、タイポグラフィーを革新し、テキスタイルを刷新するなど総合デザイン・プロデューサーあるいはライフスタイル・コーディネーターとして活動した。
モリスは産業技術革命で大量生産され始めた品性が劣る日常生活品に失望してアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントを開始したと、しばしば言われてきた。はたしてそうなのだろうか。モリスもラファエル前派のクリエイターも、それ以上に、「想い」が「物」になってしまうフェティッシュな社会にプロテストしていたにちがいない。
だからこそ、JE・ミレイやDG・ロゼッティなどは、しばらくして、社会の功利的な価値に奉仕しない、つまり世間的な役にたたない「美のための美」を追求する唯美主義とか、「俗事は召使いにまかせる」といった耽美主義などへと傾いていったのだ。
想像力や「想い」を、交換可能な「物」や流通可能な「商品」から切り離したかったのだ。自分たちが生みだした美しい王女という「想像力の結晶」を妖怪である産業資本主義から遠ざけなければならない。クリエイターはドラゴンに立ち向かう聖ジョルジュになる。
しかし、それは聖ジョルジュだけでは不可能だった。「想像力の結晶」には、俗世間から隔離された「美術館」が必要だった。人里離れた山間部に建つ修道院に似ていないだろうか。
19世紀末の西欧を広くおおったこうした芸術至上主義は、「想い」を自由にできるという幻想にとらえられていた。「想い」が自由に展開可能な場所、それが「美術館」だったのである。

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すれ違う「想い」、伝えきれない「想い」。人間関係だけではなく、わたしたちがつくりだすデザインやアートの作品でも同じだ。でも、「想い」を伝え、交通させなければクリエイティブとはいえない。
どうしてかというと、だれかに「想い」を伝えて交通させることは、自分を知ることだからだ。相手は自分の鏡。
わたしが投げかけた「想い」に対して相手がどう応答するか。
応答の仕方や内容が相手という鏡に映ったわたしの姿なのだ。
コミュニケーションとは自分を知り、自分のアイデンティティを確認したいという欲望にほかならない。
ールのやりとりによく表れている。
精神分析のジャック・ラカンが指摘したとおりだと思う。

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19世紀の産業技術革命進行中のイギリスとは違って、現在は情報技術革命が進行中だ。
産業技術革命は「物」をつくる機械による技術の革命だった。情報技術革命は、いわば「想い」を伝えるための、たとえばネットワークのようなメディアによる技術の革命なのだ。
伝える技術は革新されても、「想い」の伝えきれなさは恋愛や人間関係では革新されてはいない。

だが、「想い」はそれだけだろうか。
生活のなかで解決したい問題も「想い」だ。
わたしたちクリエイターは、産業技術革命進行中のJE・ミレイやDG・ロゼッティのように、情報技術革命進行中の今、生活の新しい問題、すなわち社会の「想い」を発掘し、それをクリエイティブを通して伝えていく必要がある。

革新されたメディアと伝えるべき新しい「想い」を見つけだし、それを伝えたとき、「REVOLT is LOVE」でもあれば「LOVE isREVOLT」といった風に、「革命」と「愛」は合わせ鏡になるのだと思う。


(はやみ たかし)
 
ルノワールの絵画はあまりにも慣れ親しまれて通俗化している。
でも、単純に考えて、ルノワールの絵画の魅力は、色彩以上に、描かれているモチーフの人体や物などの躍動的なポーズから生まれてきているのではないだろうか。
そこに、軽やかなタッチ、しなやかなストロークが展開される。
絵の具は印象主義全盛期の1870年代はちょっと重いが、スランプというか古典主義の時代を過ぎた1890年代には透明感の強い薄く軽ものになる。
このころがもっともすばらしい。
「ピアノを弾く少女たち」はそれの代表的なタイプだ。
少女のポーズも軽く流動的で、ドビュッシーの音楽が流れているようではない。か。
躍動感や律動感があって、しかもリラックスしてくつろいだ雰囲気のポーズ。
アルフォンス・ミュシャも多少近いが、ルノワールの洒脱さ洗練度の高さにはおよばない。
(未完)
人は天啓が下るかのようにしてある時突然なにごとかに気がついてしまうことがあるのではないだろうか。「そうだ、これだ! いままで探し求めていたのはこれだった」。実は別段探し求めていたわけではない場合でさえ、「これだ」と勘違いした瞬間があったから逆に探し求めていたものがあって、それが今やっと手には入ったのだというサクセスストーリーが当人のなかでできあがることもあるだろう。
天啓が下る時期は人それぞれで。一生訪れない場合もあるし、天啓の瞬間をうっかりしていて気づかなかったというマヌケな場合もあるに違いない。不幸なときや苦しいときの方が意外と天啓が下りやすいということはある。そこそこ面白おかしく暮らしているときは天啓など必要としない。半端な面白さではなくて、享楽をきわめた絶頂時やその後の祭りの後症候状態などで天啓をえる場合はある。宗教家などはこのタイプだ。必要だから天啓が下るので、当人が必要でないときに訪れてくれるほど天啓もおせっかいではない。
アーティストにもとうぜんこうした瞬間がいつか必ずあったわけで、だからアーティストをやっていられるのだ。天啓のアイデアを手にいれたら後はそれをひたすら展開すればいい。「これだ」という決定的なアイデアは「これだけしかない」というたった一つだけのじり貧的アイデアといえなくもない。だから天啓のアイデアを手にいれてからのアーティストの作品はワンパターンになる。いやワンパターンの蟻地獄に陥るしかない唯一のアイデアを手にいれてはじめてアーティストになることができる通過儀礼を終えたことになる。
数年間年賀状を交換していると、ぱっと見ただけで「あっ、これはあの人からだ」とだいたいわかってしまう。ビジュアルの様子から見当がつく。人それぞれ特定のスタイルができてしまっている。というよりも、決められたスタイルでないと年賀状も書けないほどワンパターン状態に追いつめられているのかもしれない。年賀状だけではなくて、どんな言動もなんだか人それぞれワンパターンだといえる。ワンパターンというのは、その人らしさということでもある。予定調和の「らしさ」の予想がくつがえされると、「えっ!なにこれっ!」というプチ・パニック的な反応が引き起こされる。でもそれもすぐにワンパターンの一部として吸収合併される。ワンパターンは想定内の結末を用意している水戸黄門的マンネリズムのエンターテインメントに似ている。プロセスを味わう楽しみを再生産しつづけるのだ。
アーティストは自分がつくったスタイルを破壊して新しいものを求めていくフロンテアスピリットの開拓者とか、ノーマンズランドの探検家、普段は村人と交わらない奇人変人で、村の危機状態に登場して少数意見の正論は主張する「村はずれの狂人」などというイメージでしばしば語られてきた。ほんとにそうなのだろうか。未知のもの、新しいものを求める求道者、あるいは超人としてのアーティストのメージは、「新しさ」とか「変化」とかが圧倒的な価値をもっていた時代のものなのでは。アーティストというのはたんになにかにとらわれているこだわりの人というだけのような気がしないでもない。ある時獲得した唯一のアイデアにフェティッシュな欲望を燃やし続けるのだ。すなわち、ワンパターンの罠にかかっているワンパターンマン。ワンパターンマンになったときワンパターンだからこその力をえて、アーティストとしての王道をまっとうできるパスポートを手にいれたことになる。
以上のまえおきにしたがって「アーティストはワンパターンである」という命題もしくは先入観と偏見でアーティストをとりあげ直してみることにする。
ワンパターンマン・アーティストでだれもが知っているのはジャン=フランソワ・ミレーをおいてほかにない。「晩鐘」だの「落ち穂拾い」だのを想い浮かべただけで「うん、なるほど、あの地平線だな」とすぐに納得されるだろう。「種まく人」もついでに想いおこせばもう十分。ミレーがいつワンパターンになるアイデアの天啓を受けたのかはつまびらかにはしない。高い地平線とそれに直交する人物、しかも視点が低いので仰角視的な人物はおのずからモニュメンタリティを与えられる。これがミレーのワンパターン。このワンパターンはミレーにかけがえのない信念と絵画の生産力とを与えたようだ。
ほかのバルビゾン派のアーティストたちが比較的低い地平線で木立のざわめきや空や大気の変化をとらえているのとは随分違う。彼らが農民たちの大地を描いたのに対して、ミレーは大地の中の農民を描いている。農民が主役だ。地平線にからめとられ大地に突き刺さったアースダイバーに似た人参、それとも大地にかき抱かれているじゃがいものような農民。大地と共に生きているのだ。都会の汚濁に満ちた街路と見知らぬ群衆のなかを根無し草かどぶネズミよろしくさまよっているのではない。母なる大地の胎内で憩っている。ミレーはこういう農民たちに感情移入していたのかも知れない。でもそれ以上に、大地や農民を見るアーティスト、ミレーのまなざしのワンパターンな一貫性を感じないわけにはいかない。凛として高い地平線はミレーのまなざしが投影された痕跡といっていい。まなざしのありかや強さを証明する地平線。ミレーのもう一つのワンパターンだ。
最後の絵画「春」ではまなざしが大地と交わってつくる地平線はあいまいになっている。田園の広がる自然が画面をおおい、その中に注意して見なければ気つかないとても小さな人間が樹木の陰に佇んでいる。大地と人とをまなざしていたまなざしは、まなざすことをやめて、大地と一つになるために大地に還ろうとしているのに違いない。大地は人の死後の永遠の住まいである墓地なのだろうか。
ミレーの水平な地平線とそこに垂直に直交する人物。このワンパターンは見慣れた紋切り型のアイデアかもしれない。すべてを受けいれて横たわる大地、それに対立する意志する人間、という常套句のパターンと同じなのだろうか。たとえば、新石器時代のイギリスのストーンヘンジの大地から直立する巨石群。自分の意志で自然に抗して立ち上がり自立していく人間のメタファーだ。ミレーの農民はそうではない。大地に抗ったりはしない。大地から飛び立とうとしたイカロスとも違う。抵抗したり飛翔したりすることなど最初から考えていないで大地に回収されることに喜びを見いだしている。
産業革命とフランス革命以後の「新しさ」と「変化」が価値あるものになり始めた近代化の時代に、そういう価値観からちょっとずれて、後退し、去勢されたようなコンサバな農民。グローバリゼーションと自由競争が拡大していく今の社会のなかでも、わたしたちの共感を誘い、一息つかせてくれる癒し系キャラクターではないだろうか。「こうであるべき」のキャラクターではなく、天才バカボン風「これでいいのだ」のキャラクターなのだ。ワンパターンマン・ミレーの地平線と人物のワンパターンのオリジナリティの意義はここにある。だから、明治以後、近代化が進行する日本でわたしたちの気持ちを刺激してきたのだ。そこにミレーが傾倒していたキリスト教のテーマ、心の救済をみいだすことができる。
-終わり-

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