死から 命へ 私たちを救ってくださる方

神様のまえに悔い改めてキリストを信じるなら神様は生まれ変わらせてくださる これほんと!

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「どの宗教も実は目指すところは一緒なのだし、キリスト教もそう、だからこそわたしは宗教などに頼る必要はない私は私を信じることが大事 バランスを持って・・・・・」

 多くの人がこういっているのを一キリスト信者でありつづけたいと思っている私も 兄弟姉妹も(キリスト信者の皆様)決して知らないわけではない。
また上記の言葉と妥協して そうだね ということはだれでもとてもとてもたやすいことを知っている

しかしあえてキリスト者は このことに異を唱え続ける それはなぜなのか ?  

 まず単純に、信者であれそうでなかれわかることであるが、 キリスト教である聖書が 上記の見解に真っ向からno といっているから・・・

 私が未信者であったとき、少なくともキリスト教について中学の歴史で習ったのは、ルターが宗教革命をしたということ 
 その理由は 「当時のカトリック教会が、免罪符に代表されるように、政治や金との癒着がひどかったから、、彼は聖書に忠実でありたいとしてプロテスタントを起こした」 大体そういう理解をわたしはして、 歴史も 国語も 中学生としては悪くない成績だった。
 そう
 わたしのこのことについての当時の私の理解は 日本の学校教育のテストでも合格点をあたえられているのだ!!

なんだかたいそうなことのようであるが、 わたしがこのことをわざわざもちだしたのは つまり この程度のキリスト教についての知識理解であっても、(そういう人は世の中に5万といるが)、聖書に忠実でありたい と思うことがプロテスタントのキリスト教だという程度の(単なるプロテスタントびいきの理想論としても)中学校での知識ですら、 
実はすでに上記の多くの人が思っているキリスト教についての偏見が偏見であることをあらわにしているということをいいたいためだ
 
 なぜなら少し補足説明すると、この「中学生の常識」にさえ忠実であろうとすれば少なくとも キリスト教は聖書であり、キリスト教を知るためには聖書を読まなくてはならず、読めば(国語の点に合格点がもらえるなら)キリスト教の神は 最後まで読まなくてものっけから異教と異教の神々を神とすることを否定していることがわかるはずであり、 わかるならば 聖書は 他の何教と同じということではなく(目指すところも)神にあってすべてのものごとにたいして是々非々であるということがわかるはずであるから・・・


 次に キリスト者が 上記の最初の意見に 異を唱える理由としてあげたいのが、キリスト教は人間のヒューマニズムの限界 いやむしろヒューマニズムを神とする(心の中心にする)ことこそが 罪の原点であることを教えているからなのである
 ところで、聖書は人間について 単純に 性善説 性悪説 などと分けているものではない。 なぜなら人間はもともと善悪を知らずに造られた(私は人が素直な子供のように神を父として いつも心から はい というような神との関係であったとイメージする)のにもかかわらず、 ただ唯一の 規則であった 「善悪の知識の木からはとって食べてはならない」 という規則を 破ってしまい、実に神の言葉を破ることそのものが罪なのであるから、それを破った時点で、彼は 悪 を知り、したがって 悪と対比される 善 がおのずと対比されて たしかに 善悪の知識を得ることになった という 不幸な経緯があるからである
 確かに神は永遠に善であるのだが 悪が人間に入る前には 善は神にとっても人にとっても当然すぎることであり、対比する悪の存在はいるにはいたのだが(へび)、それは神と人の完全な信頼関係にあっては、蚊帳の外であったので、善は善と呼ばれる必要性すらなかったのである 

 しかしそんなキリスト教であってももちろん、信者と呼ばれた人たちの中からからさえ、ヒューマニズムと妥協することで起こっている悲劇は実に星の数ほどある。
それは 実に聖書にあるイスラエルの歴史 そのものであるし、もちろん近代 現代 でも その歴史はたゆみなく、いやじつに私の中でもいつもその悲劇との戦いの連続なのであるから・・・

一つ私にとってショッキングだった実例、・・・  わたしは今 重度障害者の介助ヘルパー というお仕事をさせてもらっているのであるが、 たかだか1年のキャリアしかないこのお仕事をさせてもらう10年ほど前にホームヘルパー3級 (今では3級は実質資格として機能しない) の講座を受け、その資格を取ろうとしたことがあった。
 その講座は約半年間に渡り、4,5回の半日ほどかかる 講義と 2,3回の実技講習をうければ資格をもらえるというものだったように記憶している。(回数が何回というのは正直正確に覚えていない)
 講座の内容は、あまり今考えても私には実用的とは思いがたい(福祉関係のプロには失礼とは思いますがやってみなければわたしにはわからないことだらけ)ものばかりで、あまり熱心に聴くことができなかった。 
でもなんとかほとんど最後に近い段になって、 ある日 とあるキリスト教系の病院で、終末医療について 講義を受けることになった 
 わたしは 今日こそは、私の思いと同じキリスト者としての福祉のあり方の講義が聴ける と思い、楽しみにしていた。 なにせその病院では 末期のがん患者を専門的に受け入れる個室が行く部屋も完備され、礼拝堂もあり、 キリスト福音伝道のためにつくられたといって過言ではなさそうだと思って おおいに期待していたからである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく・・・・
       
 

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キリスト教は排他的で狭いか、答えは是であり否である。キリストのみを信じて救われる「私を通してでなければ天の父の元に行くことはできない」ところは実に狭い。しかし、キリストが万人を愛しているところは実に広く無差別的だ。「神はその一人子(キリスト)を与えたほどに、この世を愛してくださった」「私たちがまだ罪人であったときにキリストは私たちのために死んでくれた」(ローマ5:8)

そしてキリスト自身が十字架上の死という狭い道を通って我々の救いを完成してくれたことを思えば、その排他性こそがキリスト教の価値を高めているとも言える。たとえばエアーフィルタ−の目が細かいがゆえに空気が清浄になるように。

我々信ずる者もキリスト信仰という狭い門を通ってすべての人への愛という広い世界に入れられていることを心したい。

2009/1/23(金) 午前 8:50 [ saitomex ]

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アーメン!!! 感謝します。 「天国に入るのはらくだが針の穴を通るのより難しい」けど 「人にはできないことが 神にはできる」ですよね! 一読 解読の難解なのようで 実は 比類なく 謙虚で、正確で、明解な 聖書を どんな方にも熟読してほしいものです。

2009/1/23(金) 午後 3:39 [ 虫けらのヤコブ bichinho de Jaco ]


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