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だから鎧かぶとを着けなくてはならないのでしょう だから自分が餌食にならないように立ち回りも覚えなくてはならないのでしょう 他人の悪口を言うことだって仲間に入る重要なツール そんなふうにして この世には痛みが満ちている 「この世には痛みが満ちている」ということをみつめられれば この痛みを背負って痛みによって「この世」をせき止めた方を知るようになる けれどわたしたちは不思議なことに 自分を傷つけた者たちへの憎しみや餌食にならないための方策や生き残るための戦略に心奪われて 「この世には痛みが満ちている」ということをみつめられない 「わたしの痛み」で手一杯で そもそもこの世には痛みが満ちているのだということに気づかない あるいはこう考えるのかもしれない この世にそんなに痛みが満ちているのなら 自分だけは痛い目に遭わないように手を打たなきゃ、と あるいはこの世には痛みが満ちているのだから これしきの痛みでヒイヒイ言ってられない、強くならなきゃ、と 「強くなる」とは鈍感になるということ 画策し、「強く」なり、そうして「わたし」の周りに痛みが満ち満ちる キリストにあって 痛みから逃れる道はないのかもしれない キリストその方ご自身が十字架から逃れなかったからだ けれどキリストにあって 「わたしの痛み」から逃れる道はある わたしの痛みと同じ痛みをあなたが受けているのだと知るとき わたしの痛みはもはやわたしだけの痛みではなくなる わたしとあなたとをつなぐ痛みとなる 痛みは愛となる そうして私は痛みにとどまったまま 「わたしの痛み」「わたしだけの痛み」から逃れていく イエスさま あなたは手足を釘で十字架に打ちつけられたまま その不自由な姿で 天地を開かれました 痛みに刺し通されたまま すべての人がつながることを可能になさいました だからわたしも痛みを抱えたまま 人々と愛し合い あなたの至福を知ることができるのですね 痛みに刺し貫かれながら 人生は素晴らしいと心から感じ しあわせに微笑むことができるのですね わたしはそんな境地には達していないけれど きっとそうなのだということはわかる気がするのです 痛みを知ったからこそ人を愛することを知り、愛されていることに気づくのですもの 痛みを知ったからこそ「こころ」を知ることができるのですもの そしてこころがなければ「至福」を感じることもできないのですもの
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兄姉からの転載記事
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キリスト教とはキリスト道 キリストはこう言われた「私は、道であり。真理であり。命である。」 こう語られた人は他にはいない。「私が道」と語っている。道の1つとか 道を示そうと言っているのではない。道そのものだ、と力強く語る。 キリスト教もあえて呼ぶなら、キリスト道と呼びたいくらいだ。 教えもあるが、それが全てではない。本質は生きておられるこの方との 交わりにある。キリストとどれだけ親しくなれたかにかかってくる。 2千年前教会が始まった時、新約聖書はまだ今のようには完成していなかった。 にもかかわらず、信じる人々は増えていった。 それは、彼らにキリストとの交わりがあったのも1つの理由だと思う。 使徒行伝(新約聖書)にはクリスチャンのことを「この道の者」と呼んでいる。 そして後にキリスト者と呼ぶようになった。 信じた者はキリストと言う救いの道を通って救われる。 イエス様は、今日こう言われます 「私を、踏んで行きなさい。私は道です。」 自ら私たちと神との間の道となり十字架の救いの道を開いてくださったのです。 ただただ、イエス様に感謝! 下のテキストにクリックお願いします。 ↓ ↓ ↓ [https://philosophy.blogmura.com/christian/= にほんブログ村 キリスト教=]
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