死から 命へ 私たちを救ってくださる方

神様のまえに悔い改めてキリストを信じるなら神様は生まれ変わらせてくださる これほんと!

わたくしごと

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思い返してみれば 2

 思い返してみれば どんな今クリスチャンである われわれも、 イエス様を知らずにどれだけ世でさまよっていたことか!
どれだけ 天のお父様に 迷惑(ど日本人風にいうけれど)かけてきたことか! またかけつづけていることか!  でも イエス様は 未だに喜んで私たちのために いたい思いをしながら働き続けてくださっているんだ! もちろんわたしたちのために まだ救われていない多くの人ために!
 僕が救われたとき、 同じように救われた兄弟たちがいることを知ってどれだけ奇跡に思えたことか!
 それは まさに奇跡 !!!!!

これほど大きな奇跡がほかにあるだろうか?  世の中はますます暗闇にあるというのに

兄弟姉妹たちが 共に苦労しながら 主にあり 実を結ばんとしていること!!!!!!!

イエス様が頭で 私たちは おのおのその体の一部

奇跡の兄弟姉妹たち を 大切にしてしすぎることはない(大切にできないことばかりで主にも兄弟姉妹にもごめんなさい)

はいははい いいえはいいえとしたいとみなががんばって主にあり健闘しておられるが    わたしも自分でも良かれと思って でも 罪を犯していること(そんなことまでも?) 奇跡の兄姉 どうぞ 赦してください。( 見た目に一人ぼっちなわたしも かってに信仰によりおおいに兄姉に囲まれているつもりでいます。)

      主にある兄姉 あなたは主にある奇跡です  感謝です 私もどうかその一人であれますように イエス様に懇願します。  
      愛する兄姉へ(愛するというのは 俗に日本人的でないけど)・・・・・

思い返してみれば

考えてみれば 感謝してもしきれない わたしたちには希望がある 

どれだけの不幸が 世の中を 席巻していることか! 

世の表面的なな幸せは、それらをごまかすために 粉飾しているに過ぎなく、

真っ向から暗闇と勝負して、打破された方の 兄弟として数えられている聖徒たちは

なんと幸せなことだろう!

わたしたちも 彼にあって なんと 今その渦中にある人をも 救うことができるのだ

生ける神が 兄弟姉妹のうちに炎となって働き、 今まさに滅び行かんとしている人に 手を差し伸べる

主は万軍の主、 闇は光に打ち勝たなかった その万軍の主が常にわれわれの前を行かれる

 

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 マタイ伝 16ー23 
 
 この言葉は イエス・キリスト様が 12弟子のうちの一人、ペテロさんに 発せられた言葉です。(クリスチャンの方はもちろんご存知だと思いますが)

聞くに耐えない厳しい言葉だと思われるかもしれませんが、不思議なことにペテロさんはこういわれる直前に同じイエス様から

「バルヨナ・シモン。(ペテロ 「‘岩‘ という通称」さんの本名」)あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしたちの父です。 
 
 では私もあなたに言います。 あなたは ペテロ‘岩‘ です。 わたしはこの岩の上に わたしの教会を立てます。 ハデスの門もそれには打ち勝てません。   

 わたしは、あなたに天の御国の鍵を上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」マタイ伝16−17〜19

 と、 ペテロさんはイエス様に ‘絶賛‘ されている!! といってもいいすぎでないと思われる
言葉を 受けているのです。



 同じイエス様が、 同じペテロさんを あるときは 大いに肯定 し、  あるときは 大いに否定
している  しかも たてつづけに,はっきりと対照的に!   このことには大きな意味があるのです。

 ペテロさんがイエス様に肯定されたとき、 彼は イエス様に 「(みなが私のことを批評しているけれど)あなたがたは、わたしをだれだ(どう思っている)といいますか。」と聞かれ、  
    「あなたは生ける神の御子 キリスト(救い主)です。」 と はっきりとイエスが キリストであることの信仰告白をしました。
 この当時 イエス様を 神様からの ‘預言者の一人だ" と考える人は多かったのですが、(神の国について語り、それに大いなる奇跡がともなっていたから) 
 ‘キリストだ”(旧約聖書に約束された、来たるべき救い主、神御自身)とする人は 皆無に等しかったと思われます。(神の預言者 バプテスマのヨハネでさえ 確信がなかった{マタイ伝11−1〜6参照})   
 このペテロさんの 類まれなる 大胆な 核心をついた ‘信仰告白”に たいして イエス様は 上記のように‘大いに肯定” したわけです。
 このような信仰を持っていることが、イエス様から ペテロ(岩)と呼ばれるようになったゆえんであり、このような信仰告白を持った人々(ペテロさんはその代表)の上に教会を建てる と言われたのです。(そう理解する証明に、 その次に続く言葉 地上でつなぐなら、天でもつながれている と言う同じ言葉が他の複数の弟子たちに対しても言われている)マタイ伝18−18参照
 

 一方、それとは対照的に 「サタンよ!」 と 同じ ペテロさんが言われてしまったのは、彼が イエス様が 「その当時のイスラエルの宗教指導者である 長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならない こと」を 示し始めた ときに 彼がイエス様をいさめ始め、「主よ。神のみ恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」 と言ったからでした。
 ペテロさんは わたしたちも想像できるように決して自身は悪気があって、イエス様をいさめたわけではありません。 イエス様が ‘当時のお偉いさんから”ことごとく否定され、 ‘殺される” はめになろうとは、夢にも 思わなかったので、まさしく良かれと思って(年上だったということもあるのでしょうか)人間的なアドヴァイスをしようとしたのでしょう。
  でもそれは 神の目から見て サタン(悪魔)であり、神のことを思わないで人のことを思っていることであると言われたのです。
 つまり、 神のことを思うことなしに人のことを思うことは サタンである とイエス様はここできっぱりと言われているです。    
 わたしはこの言葉を考えるときに 聖書の言葉 「あなたの神である主を 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、愛しなさい」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」が すぐに思い浮かびます。
 このふたつは同じように大事であり、聖書の律法(神の教え)と預言者とがすべてがこのふたつにかかっている とあります。
神の教える 愛 とは この二つの戒めを実行することです。
たとえば 目に見える 人を 愛そうとするとき、 本当の愛の基準をむげにして、 人を愛している としても それは本当の愛とはいえません。
 世の中では、不倫をすることも 愛 と言ったり、 婚前に男女が肉体関係を持つことも 愛 だと言っています。 
 でも神が教える愛は そういう あい に はっきりと no といっています。
また そのような 世を 愛してはいけません とあります。
 神は 御子であるキリストをお与えになるほどに世を愛されたのに  世を愛してはいけない?
その意味がおわかりですか?
それは世の愛の 基準と 神の愛の基準が まったく異なることによるのです。
つまり神は 神の愛のかたちにより 世を 愛しているのであり、 それは 世の中の基準を肯定すると言う意味の愛とは違うのです。
 ですからなんびとも真に神と世を愛そうとするならば、 神の愛の基準で愛さなくてはならず、 世の中の基準を受け入れると言う意味で愛そうとすることはいけない となるわけです。 
 神の真の愛の基準 によって 人を愛するときも愛さなければならず、そのためにはまず自分を自分よりも真に愛してくださる神を思うことなしに、自身のように隣人を愛することは できない ということになります。

 世の基準(神のことを思わないで人のことを思うこと)にはっきりと NO を言う 愛 が ここにあります。 
 イエス様は ペテロさんを 教会の岩(不動の信仰告白)だと評す以上に愛されていたがゆえに、 ペテロさんの 思い違いの ヒューマニズムからでた 世的な 愛 に はっきりとNO を示されたのです。   
 どんな価値観を何でもかんでも受け入れたり信じたりすることが愛ではなく、また人間的に良かれと思ってもそれが神の目にサタンであるということもあるのです。あなたは子供が悪いことしてもそれを肯定しますか(子供を愛すると言いながら教師に対してモンスターペアレントになるとか・・・) あなたが不倫をしても子供の前で  「お父さんは本当の愛を見つけた」 とかいいますか? 
 神の愛は真であるがゆえに、神聖で、厳粛で、明確な かたち があることを 信じてください
 イエス様は世の中の偽の愛(偽善)をあばいたために、それを支持している人々から、(キリスト者もペテロさんのように支持してしまうことがよくよくある)憎まれて 殺される ことになったのです。
 だけど よみがえられました。   
それは、これらのこと(罪)を悔い改めるならば わたしたちのほうこそ死に価するのに 罪のまったくないイエス様が代わりに死んでくださったので、死から救われて 命を 与えられるためでした。
 
 あなたも世に迎合するだけの 偽の愛の世界から(こうしてきたことで世界は今大混乱ではないでしょうか)逃れ、悔い改め、 罪赦されて神と共に生きる命いただき、イエス様を信じ 真の愛を神によって実践し、 死とその後の神の裁きが待っている地獄から逃れたくありませんか?
 神は今も わたしたちを救うためにイエス・キリストを信じるものたちと共に働かれています。

 最近 不景気な 話が多いですね!   景気が悪い 景気が悪い 景気が悪い!!!!
新聞やニュースを見ていると、世の中の景気が悪いこと、政治の悪いこと、不安だらけで、なにかいいこ
とないかな と言う声も 周りで聞くことがあります
でも、そんなひとがいう いいこととは なんでしょうか?
景気が良かったころ、バブル絶頂期だったころ、あのころは良かった という人もいます。
あなたは 世の中の景気さえよければ あなたにとっても良くて、 悪ければ あなたにとっても悪い 
とお考えですか?
ちょっと極端でぶしつけな質問の仕方かもしれませんが、 あえてこう問いかけるのは、 私たちはよく
良いことも悪い 悪いことも良い としていることがあるかもしれないという ことについてお話したいからです。
 一般的に、世の中で幸せの基準としがちな、物事をここであげてみるとします。
そこそこお金があること、健康であること 恋人や 家庭があること そこそこの学歴があること そこそこの社会的地位(職場)があること 容姿端麗なこと 秀でた能力があること(スポーツ、その他) 有名なこと 長生きすること 若いこと 友人がたくさんいること・・・・・・・・・・・・・・
あげればまだいろいろでてくるかもしれませんが
 幸せの条件として、これらのことがある程度満たされていれば、幸せだと考える人は少なくないと思います。
でも、もし これらが満たされなかったら 不幸でなければならないのでしょうか?
 今 挙げた 幸せの基準を すべて 不幸せの基準として、 〜ないこと  とした場合
  金もない 恋人もない 健康もない 友達もない 社会的地位もない 能力もない 若くもない・・・・・・・・etcとなり、
  なにか 絶望的な 響きに聞こえてしまいます。

もしこれら〜ないを深刻にわたしたちが悲しむとすれば、 それそのものが影響を与えるより先に、不幸を大いに背負い込むことになることでしょう。(健康の場合はあてはまらないことも多いでしょうが)
実際私自身、これらのうちで、ひとからみればなんだそんなこと といわれるようなちっぽけなことでも、大いに思い悩み 苦しんだ ということは、数々あります。自殺を考えたりしたりする深刻な悲しみだってあることも理解できます。
どんなひともそういうことがまったくないとはいえないでしょう
 〜ないを 〜ある にするために 努力するのは良いことかもしれませんが、 それらが手に入らなくて、それを悲しみとし、それをためつづけていったとしても・・・・・ とても益になるとは思えません。
 実に世の中が不幸とすることの悲しみの行き着く先は 死 です。

おわかりだとおもいますが ここで言う 死 とは 精神的なものも含まれています。

精神的な死は 外からは見えにくいものですが、実は大問題で、人は 常時 このことと戦っているといっても過言ではないでしょう。 元気 か 元気でないか  あいさつにもなっているほどに!
  
だから、 私は言いたい、 みなさん 世の中の 悲しみの基準に だまされないようにしましょう!と

 私は (信仰により)神様の基準を基準とし、 世の悲しみがもたらす死をも わたしたちのかわりにすでに自ら担ってくださった主イエスにその荷を肩代わりしてもらうことを教えてもらいましたから・
 
 もしあなたがそれら世の偽りの悲しみの基準に、悩まされているとしたら、どうかあなたは悔い改めてください。たとえば
 「神様 わたしは わたしの容姿が見栄えがよくないことで悲しんでいましたが そんな偽りの基準で悲しんだことをどうか許してください わたしの容姿でわたしを差別する人を赦します。またそんなことで悲しんでいる多くの人を憐れんでください。そんな悲しみからは解放され、わたしたちがあなたの前に悔い改めるための、御心に沿った悲しみを 悲しみとすることができますように」と・・・・
 また 「バブル景気を喜んでいたことを悲しみ悔い改めます」などと・・・・・

 死をもたらす世の悲しみは 実に 神の基準と違う ことを基準としている ことに原因があります。
それを聖書は 罪 であることをさとしてくださり、罪が罪としてあらわになるなら、神はイエス様による解決を用意されておられます。
 「誰でも罪を犯すものは罪の奴隷です。」 とイエス様が言われたとおり 
この場合 神からもたらされない偽りの世の悲しみは 罪 であって、だからこそ、それはあなたを縛り、コンプレックスなどをもたせ、更なるダメージを与えようとするだけのさらなる悲しみを植え付け、精神的(霊的)死を与えます。 
 けれども、「もし 神様の教えのうちを歩むならば 真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」と言うイエス様の解決は 神の教えの基準に沿った(神の御心に沿った)悲しみをもつことによって、 神の前に悔い改めを生じさせ、あなたの 精神的 死 の重荷はとりのぞかれ、 かわりに神からの霊的解放や平安を得ることができるのです。

 イエス様は あなたを精神的、肉体的にも 死にいたらせようとする すべての世の偽りの悲しみのためにも(実に病気のためにも)死んでくださったのです・・・    
 

不幸を幸せにする方法

 
 世の中には さまざまな不幸がありますね   誰も不幸な目にあいたいと思う人はいないでしょう。
 
 思いやり深い人でも、 わが身に不幸が降りかかり、それが自分の手に負えなくなるなら どうしよう 
 もなくなってしまいます。 


 また 人には相談できないこと、人に言ってもどうしようもなく、あるい  
 
 は弱者としてあざけられ切り捨てられるだけだという恐怖・・・・  そういう思いのまった 
  
 く経験したことのない つよいひと あるいはすべて自分で乗り越えてきたという人 もいるかもしれ 
 ませんが・・・


 でも、もしあなたが、自分の弱さを知り、それと向き合うことにもやぶさかでないなら、 実はそんな

世の中の不幸を一身に背負って下さった方がいます。 キリスト教で有名な イエス・キリスト  
 
です。

 わたしは、その方に私の不幸や 重荷 そしてその元凶となっている われわれの神に対する 罪 を 
 さらには私以外の人のそれらをも その方に委ねて、背負ってもらうことを 教わりました。


 多くのひとが、心療内科、カウンセラー 占い 、テラピー ・・・・・ 精神的 あるいは スピリ 
 チャルなものに 助けを見出そうとしている昨今、

 キリスト教 として、なにか 宗教、 規則、 信条、 などとしか一般的にイメージのない イエス 
 キリスト様こそが 誰でも安心して、心を委ね 精神を委ねられる 唯一の方 だということは

 いまだによく知られてるとは言えません。     

イエス様が 私たちの罪 とが(罪から派生するもろもろの不幸)を 背負い 十字架で 死んでくださ

った。けど甦られて天に神とともにいます 神が人となってこの世にこられた方だ。   という聖書に

記録されてた歴史的事実を あなたが信じるならば あなたは今から キリスト様ご自身に あなたの専

属カウンセラーになっていただくことができるのです。

 ではわたしが具体的に どうやっているか ご紹介しましょう。

 
聖書は あなた自身を愛するように 隣人を愛せよ とあります。   ですから、 もしわたしが自分  
自身何らかの不幸を感じたとき (すぐ忘れがちなのですが) この不幸は キリスト様がすでに背負っ

てくださったんだということを肝に銘じます。  そして、私と同じような不幸を抱えている人がいるで

あろうことを意識し、 その方の不幸と私の不幸を一緒にイエス様に預ける作業をします。

なんのことはありません 私たちの苦労はあなたがもう背負ってくださったのですねあの十字架で!!!

と信じて感謝するだけです。  どうです シンプルでしょ!!!

でも簡単そうに見えてこれが労を要するのです。 ここで私たちに求められるのが信仰だからです。

信仰とはここでは上記のように聖書的事実を目の前のいろんな状況に左右されずにただイエス様を信じ、

信頼することなのですが、考えてみてください、実際に自身が背負っている不幸を、また人の不幸を 

イエス様がもうせおってくださったんだと 不幸の最中にあなたはすぐに信じることができますか?

もしすぐできるなら あなたは信仰ありますね!!!

私の場合、ほとんど「神様(イエス様)たすけて!!」という段になって初めて、信仰を使って助けられ

たということがほとんどです。 神様は一応イエス様に助けて!!といっているという最低条件の信仰さ

え 認めてくださるからなのです。

 信仰を養うには やはり聖書を熟読しながら、聖書の中の主人公たちに自分を重ね合わせて学ぼうとす

ることです。 映画 十戒 で有名な モーゼ 、 ダヴィデ王 ソロモン王 、もちろん信仰の父と呼

ばれるアブラハム    イサク に ヤコブ ・・・  不幸の中の不幸を背負わされ、もがきにもが

いた ヨブ という人の話・・  大きな魚に飲み込まれた ヨナ という神の預言者(なんだかピノキ

オみたいですが) エレミヤ  イザヤ   ・・・    信仰を持って水の上を歩いたのに恐くなっ

て イエス様 たすけて でおぼれそうになるところを助けられた イエス様の一番弟子 ペドロ  

もちろん ヨハネ のこと ピリピ のこと ザカリヤ のこと 元教会迫害者使徒パウロのこ

と・・・・   ああ  書こうとすれば書こうとするほどキリがありません・・・    

えっと 話が少々脱線気味なのですが 不幸を幸せにする というテーマにもどれば、 つまり 上記の

作業を信じて実行するならば、 イエス様の受難のかけらを ひとかけらずつでも 実感することもでき

(なんと何と光栄なこと)世のすべての罪とがと死の力に勝利された 主イエスの その勝利の喜びや幸

せをかけらを ひとかけらずつでも(主からのひとかけら分は私たちにとって大きすぎると思われるが) 
あじわうことができるのです。   

あなたがもしかりに ものすごく落ち込んでいる状況に今あるとしたら、あなたのその苦しみを(それが

あなたの自業自得であったとしても) あの十字架を背負ったキリストがあのように あなたの苦しみを

負ったんだと 信じてみてください・・・だまされたと思って、  (血液型 エイ ビー がどうたら

こうたらとか、今朝の運勢とか 軽く信じるのが自由なら、 イエス様のことを信じることを薦めたって

マインド コントロール とか そんなふうに大げさにいわないでくださいよ!! ほんとそんなつもり

ないんだから(笑)」 

まるで 子供のころないていたときに 吸い込まれそうな青い大空を見上げてみると なんてちっぽけな

ことで(大人の悩みはちっぽけではないが)悩んでたんだろう みたいに まず 気持ちから 回復さ

れ、次に状況も好転することをあなたは見るでしょう。 そしてもしかりに 「助けて!!」から始まっ

たキリスト信仰を あなたが深めることにするかしないかは、 ただあなたしだいです。

もちろん神様はあなたもわたしも良いキリスト者になることを願っていますが・・・・


「すべて 疲れた人 重荷を負っている人は わたし(イエス キリスト)のところに来なさい

わたしがあなた方を休ませてあげます。

わたしは 心優しくへりくだっているから、あなたも私のくびきを負って私から学びなさい

そうすればあなたの魂に安らぎが来ます。     

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」  

                        聖書 マタイによる福音書11−28,29,30

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