|
弥生時代小説 「神 武」 連載に当って 3
ジミー・イワレヒコ
弥生時代を背景にした小説が可能ではないかと考えるに
至ったポイントを整理してみます。
1) 芝遼の「竜馬がゆく」にいざなわれ、時代小説の世界で
いろいろと数多くのの感銘を受け、
“史実と創作の組み合わせによる作品”に魅了された。
2) 私の出合った時代小説の90%以上は戦国時代以後のもので
それ以前のものとなると下記に挙げられる限られてくる。
義経 ・ 空海の風景 ・ 項羽と劉邦 - 芝遼太郎
三国史 − 吉川英治
古代(弥生以前)に属するものは中国の文献等の和訳的なもの
であったり、そう言うもの(史実と論証されている文献)を基に
アレンジし創作したもののようである。
国内の文献は記紀(古事記、日本書紀)等の正史を含め、
古代部分においては“全て後代の作者の造作である”とする
学会での評価(津田左右吉の「記紀神話造作説」等)もあり、
ある程度の史実の論証が無い状態では、時代小説にはし難い、
なり難いものなのかも知れない。
とにかく現状、“国内の古代小説は少ない”のだ。
3) 神に導かれたような縁により、“よれよれの文庫本”
古田武彦の書物(「邪馬台国」はなかった)と出会い、
『「ワタクシ」の納得』が得られた今、-感覚的-に
8割強の確度で論証されたとする弥生の史実において
充分にこの時代背景において小説化できうると判断した。
以上のポイントをさらにまとめると
“感動をベース”にそれを“やってみたい”と言うマグマを
無意識の内に体内に蓄積してきた「ワタクシ」が、
生きた証を「何かを残したい」と考え始め、
そこに奇跡が訪れたと言うわけです。
その奇跡の出会いは、「ワタクシ」の“何か”を決め、
「ワタクシ」に“遣り甲斐”と充分な“可能性”をもたらしてくれました。
弥生時代小説 「神 武」 連載に当って 4 に続く
|