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佐竹氏

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  関東管領上杉謙信。いくら歴史に興味がない人でもその名前くらいは
 
 知っているだろうと思われるほど有名な戦国武将である。さて、その
 
 上杉謙信であるが、彼は元々、越後守護代である長尾家の当主であり、
  
 上杉憲政から関東管領職と上杉の家名を譲り受けたため、上杉姓を名乗る
 
 ことになったものである。しかし、実は上杉憲政が謙信を頼るより前に、
 
 一度佐竹氏に関東管領職と上杉の家名を譲り渡そうとして申し入れをした
 
 ものの佐竹氏に断られ、やむなく謙信を頼ったということはあまり知られて
 
 いない。そこで、この項では上杉憲政と佐竹氏ならびに関東管領職の関係
 
 について考察をすることとする。まず関東管領であるが、これは室町幕府の
  
 関東における出先機関である鎌倉府において鎌倉公方を補佐するために設置
 
 された役職であり、鎌倉幕府における執権、室町幕府における管領と同じ役割
 
 で公方足利氏に次ぐ地位にあったものである。この鎌倉府は室町幕府より
 
 関東八ヶ国(相模、武蔵、安房、上総、下総、上野、下野、常陸)ならびに
 
 伊豆、甲斐を含む十カ国の管理を一任され、さらには陸奥、出羽についても
 
 統治権があたえられるなどさながら関東にも小幕府が存在しているかのような
 
 ものであった。また、室町幕府における管領は細川氏、斯波氏、畠山氏が
 
 交互にその職に就いたが、関東管領職については早くから上杉が独占をして
  
 いたので、室町時代の関東における上杉氏の権力は大変強大なものであった。
 
 しかしながら、時は応仁の乱を経て、下剋上の時代となり、関東においても
 
 北条早雲の登場により、ついに戦国時代が到来し、以後、氏綱、氏康、氏政、
 
 氏直と続く北条氏五代による、関東の制覇の野望の前に関東一円は争乱が
 
 激化していくこととなる。そして天文14年〜15年(1545〜1546)
 
 にかけての河越合戦で公方足利晴氏、関東管領上杉憲正をはじめとした、上野
 
 下野、北武蔵、常陸、下総などの連合軍はその数、実に8万余騎で河越城を
 
 包囲するもわずかに8千余騎の北条氏康軍の前に大敗し、結果、扇谷上杉
 
 朝定は敗死して同家は滅亡、また鎌倉府以来の公方、関東管領の権威も地に
 
 堕ち、以後、北条氏の度重なる攻勢の前に、上杉憲正は天文20年
 
 (1551)常陸の佐竹義昭を訪ね、北条氏の討伐を要請し、上杉の家名と
  
 関東管領の職を譲りたいと義昭に申し入れた。この年の正月に居城である
 
 平井城を北条氏康により落とされていた憲正はもう関東で生きる場所は
 
 ない。それ故の義昭への申し入れであった。佐竹家と上杉家とは、義昭から
 
 遡ること5代前の当主義人が上杉家からの養子であったことを考えれば、
 
 まったくあり得ない話ではなかったのだろうが、この憲正からの申し入れ
 
 に対して義昭は「関東管領職については望むところであるが、当家は
 
 清和源氏新羅三郎義光の後裔であり、上杉の姓を名乗ることは本意ではない」
 
 としてこの申し入れを断った。清和源氏の後裔である名門佐竹の名を
 
 重んじたのである。このため、憲政はさらに越後に走り、長尾景虎を頼り、
 
 関東管領職と上杉の家名を譲りたいと申し入れ、景虎も承諾した。これが
 
 後の上杉謙信である。

佐竹氏

イメージ 1

 本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。通字は「義」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。

 佐竹氏は甲斐源氏の一族と同じく源頼義の子で源義家の弟の源義光の子孫である義光流源氏の一族。佐竹氏の初代当主については、新羅三郎義光の子の源義業(常陸源氏祖・進士判官)とする説と、義業の子の源昌義とする説があるが、昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)に住み地名にちなんで「佐竹」を名乗ったことから昌義を初代当主とする説が一般的である。家名については、常陸太田市にある佐竹寺で昌義が節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したという話が伝わっている。

 五本骨扇に月丸

佐竹義昭

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天文14年(1545年)、父の死により家督を相続して第17代当主となる。この頃の佐竹氏は内紛を収拾して、常陸北部を支配する戦国大名に成長していた。このため、常陸統一に向けて勢力拡大に励んだ。

天文15年(1546年)、河越夜戦にて関東管領・上杉憲政が北条氏康に大敗した。憲政は、当時常陸に勢力を拡大して勢いに乗る義昭に、関東管領職と上杉氏の家名を継承してもらう代わりに保護を求めたという(以前佐竹氏は上杉氏から養子を迎えて家督を継がせた(第12代当主・佐竹義人)経緯があった)。しかし、義昭は関東管領職にこそ魅力を感じたようだが、清和源氏の末裔としての佐竹氏の誇りからか、上杉氏の家名を継承する気にはなれず、これを拒否したという。

人取橋の戦い

http://www.youtube.com/watch?v=xNVxx4r3J8M&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=S0-e2eJgTRY&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=wo9__1AMd2U&feature=relmfu

 天正13年11月17日(1586年1月6日)に佐竹氏および蘆名氏らの南奥諸大名の連合軍と伊達氏の戦い。

 11月17日、本宮城を出た政宗は、安達太良川を渡って南方の観音堂山に布陣する。前日のうちに五百川南方の前田沢に布陣していた佐竹および南奥諸大名の連合軍は、伊達本陣をめがけて北進を開始し、瀬戸川(阿武隈川支流)に架かる人取橋付近で両軍が激突する。伊達軍と連合軍の兵力差は7,000対30,000と4倍以上であった。
戦闘は連合軍の一方的な攻勢に終始した。兵数に劣る伊達軍はたちまち潰走し、連合軍は伊達本陣に突入、政宗自身も鎧に矢1筋・銃弾5発を受けた。敗色濃厚となった伊達軍は政宗を逃がすべく、軍配を預かった宿将・鬼庭左月斎が殿を務め、人取橋を越えて敵中に突入して奮戦し討ち死にを遂げた。また東方の瀬戸川館に布陣していた伊達成実の隊も、挟撃を受けて猛攻を浴びたが、踏み止まって力戦し時間を稼いだため、政宗は辛うじて本宮城に逃れた。伊達軍の壊滅は必至であったが、日没を迎えたため、この日の戦闘は終結した。
ところが同日夜、佐竹家の部将・小野崎義昌(義重の叔父)が陣中で家臣に刺殺されるという事件が発生し、さらには本国に北条方の馬場城主江戸重通や安房の里見義頼らが攻め寄せるとの報が入ったため、佐竹軍は撤退を決定した。圧倒的優勢な状況下で30,000の軍勢が一夜にして撤退したことは、後年さまざまな憶測を呼び、佐竹氏の本国急変は政宗による裏工作があった等の説が生み出されるに至った。

佐竹義久

本家の当主佐竹義重に従って各地を転戦し、武功を挙げる。外交においても、天正7年には相模国後北条氏に対抗するための甲斐国武田氏との同盟(甲佐同盟)締結に携わっている。一族の重鎮として重用され、佐竹氏の陸奥方面の軍権を任されたという。
豊臣秀吉と懇意になり、豊臣氏の代官を務めた。天正19年(1591年)1月2日、豊臣姓を授与された。また文禄・慶長の役では、文禄2年(1593年)6月から約一ヶ月の間、義久が佐竹勢1440人を率いて出陣している。それらの功績により、秀吉から常陸国の鹿島郡・真壁郡に6万石を与えられ、さらに豊臣氏直轄領1,000石の代官も務め、大名となった。関ヶ原の戦いの後に徳川家康と交渉し、佐竹家の本領安堵を取り付けたと言われるが、直後に病死とも暗殺されて死亡したとも伝わる。

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