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天正17年(1589年)、豊臣秀吉の調停で沼田城を含む利根沼田の3分の2は後北条氏になったが、真田氏の墓所があった名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田領として安堵された。名胡桃城には鈴木重則が城代として入る。同年11月、沼田城代となった北条の猪俣邦憲が、重則の家臣を寝返らせて名胡桃城を奪取する(名胡桃城事件)。これが惣無事令に違反したとして秀吉の怒りを買い、翌1590年に小田原征伐が行われる。これによって後北条氏は没落し、真田氏の沼田領が安堵されると、名胡桃城は廃城となる。
名胡桃は「餌」だった
餌を撒いたのは誰か
関白か、真田か、その両方かで、この餌に、北条がどう食いついたか フィッシュオン!!
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北条氏
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永正十二年(1515)、小田原に生まれる。氏綱の子で早雲の孫。 |
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北条 早雲 / 伊勢 盛時(ほうじょう そううん / いせ もりとき)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。 |
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天正18年(1590年)、豊臣秀吉と後北条氏の戦い(小田原征伐)が始まると成田氏長は北条氏に味方して小田原籠城に参加した。成田氏の本拠忍城は氏長の叔父・泰季が城代となって守ったが泰季が開戦直前に没したためその子長親が代わって城代となり、防衛の指揮を執った。 |
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後北条氏の初代・伊勢盛時(北条早雲)からの北条氏の協力者であり、北条氏初期の家臣団「草創七手家老」の一家でもある、古参の重臣の家柄である。山内上杉家・古河公方などの関東の有力者が連合して北条氏と戦った河越夜戦で活躍。北条氏康が戦場で敵中に突出した際に独断で退却の号令をかけ、のちに氏康から感謝された。この戦いののちに北条五色備の内、黒備えを任せられたという。家中で北条綱成と双璧をなした北条綱高も、元忠に軍学を学んだとされる。 |



