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北条氏

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名胡桃城

 天正17年(1589年)、豊臣秀吉の調停で沼田城を含む利根沼田の3分の2は後北条氏になったが、真田氏の墓所があった名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田領として安堵された。名胡桃城には鈴木重則が城代として入る。同年11月、沼田城代となった北条の猪俣邦憲が、重則の家臣を寝返らせて名胡桃城を奪取する(名胡桃城事件)。これが惣無事令に違反したとして秀吉の怒りを買い、翌1590年に小田原征伐が行われる。これによって後北条氏は没落し、真田氏の沼田領が安堵されると、名胡桃城は廃城となる。

名胡桃は「餌」だった
餌を撒いたのは誰か
関白か、真田か、その両方かで、この餌に、北条がどう食いついたか

フィッシュオン!!

北条氏康

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 永正十二年(1515)、小田原に生まれる。氏綱の子で早雲の孫。
 天文十年(1541)、父の死により家督を継ぐ。このとき二十七歳。小田原城を本拠とし、駿河長久保、武蔵河越の両城を出城として、上杉憲政、今川義元らと戦った。世にいわれる河越の戦いで武名を上げた氏康はさらに下総古河城を落とし、安房里見義弘の水軍を破り、甲斐の武田、駿河の今川とも戦った。永禄四年(1561)、小田原を攻めた上杉謙信と城を閉ざして戦わず、さらに永禄五年三月には武田信玄と連合し武蔵松山城を落とした。その勢力は東海関東一帯を圧したが、まだ下野、常陸、下総は制圧できなかった。氏康は元亀二年(1571)、その子氏政を大将として下野に出陣したが、これは失敗に終った。同年十月三日、病にて没した。五十七歳。一説に元亀元年五十六歳没ともいう。
 氏康は祖父早雲、父氏綱のあとを受けて北条氏の全盛を築いた。単に武将として秀れていたのみでなく、諸学に広く通じ足利学校の復興などにも努めたという。

北条早雲

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 北条 早雲 / 伊勢 盛時(ほうじょう そううん / いせ もりとき)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。

 北条早雲――彼は生存中にこのように名乗ったことはなく『伊勢新九郎』で通していた。
早雲の生国については諸説ある。主なものには、山城宇治、大和在原、伊勢素浪人、京都伊勢氏、備中伊勢氏というところであるが、最近では備中伊勢氏(伊勢新九郎盛時)が有力である。ともかく、早雲は一四六八年頃に駿河国駿府に下った。早雲の妹は駿河の守護大名今川義忠に嫁いでいて、北川殿と呼ばれていた。だが、まだ早雲は『当主夫人の兄』というだけで、特別なことはしていない。
 早雲が歴史の表舞台に現れるのはこの八年後の一四七六年。当主の義忠が一揆によって戦死してしまう。この時義忠の息子には竜王丸がいたが、その竜王丸はまだ六歳。家臣の中には義忠の従兄弟である小鹿範満を当主に推す一派が現れ、今川家中は二つに割れた。これに便乗して駿河の支配を図った扇谷上杉定正と堀越公方足利政知が、それぞれ駿府に兵を派遣して圧力をかけてきた。竜王丸擁立派も小鹿擁立派も共に外部の干渉は避けたかった。
 そこに早雲が「竜王丸が元服するまでは小鹿範満に家督を代行させる」という折衷案を持ってきたため、両派はそれを受け入れた。これによって今川家は外部の干渉も内部分裂も避けられたのだった。その後、早雲は一旦、京に上って幕府に仕えることになるが、一四八七年に再び駿河へ戻る。この時既に竜王丸は一七歳、既に元服していてもおかしくない歳だったが、小鹿範満からは何の音沙汰もない。北川殿は以前の約束が反故になるのを恐れて、早雲を京から呼び戻した。早雲は密かに駿府に戻り小鹿範満を駿府今川館で急襲した。小鹿範満は討たれ、竜王丸は実力で当主の座に座った。竜王丸は元服して今川氏親を名乗り、氏親によって今川氏は守護大名から戦国大名に転化していく。
 早雲はこの恩賞として駿河国駿東郡の興国寺城を与えられて、氏親の後見人として駿河に残った。この時早雲五六歳。当時からすれば既に隠居生活しているような老齢だが、早雲の場合はこれから第二の人生が始まる。
 興国寺城は伊豆半島の喉元を押さえる位置にあり、伊豆の状況が手に取るようにわかった。
 一四九一年になり後に『豆州騒動』といわれる事件が起こる。
 一四九一年四月三日、堀越公方足利政知が死んだ。足利政知の子には先妻との間に生まれた長男茶々丸と、後妻円満院との間に生まれた次男潤童子と三男清晃がいた。円満院は潤童子をかわいがったため茶々丸を土牢に押し込めてしまう。だが、父政知の死に乗じて茶々丸は土牢を抜け出し、継母円満院と潤童子を殺した。清晃は堀越御所から京都へと逃げたため、堀越公方二代目の座についた。だが、継母殺し、弟殺しの茶々丸の人望はなく、家臣とも対立していた。
 早雲はその混乱を利用し、伊豆を奪うことを考えていた。自らも修善寺に行ったりして伊豆に関する情報を集めて回った。そして一四九三年、警護が手薄な時期をみて今川氏親からの援兵も得て堀越御所を急襲した。茶々丸は元服することなく自害した。
 次に早雲の目は相模国に向かった。西相模の要衝である小田原城には大森氏頼がいたが、早雲も氏頼在命中には小田原攻略はできなかった。その氏頼が亡くなり、息子藤頼が後を継いだところで早雲は行動を起こした。手紙や珍品のやりとりなどで藤頼が気を許したところで、「伊豆で鹿狩りをしていたら鹿が小田原城の裏山に逃げてしまった。鹿を追い返すために勢子を入れさせて欲しい」、という手紙を藤頼の元に届けた。藤頼はこれを許し、早雲は勢子を入れたが、これは勢子に扮した早雲の兵で、裏山から一気に小田原城を攻め落とした。一四九五年、早雲六四歳のことである。
 その後に山内・扇谷両上杉の反抗があり、全てが順調ではなかったが、一五一六年には新井城に寄る三浦義同・義意父子を討ち、相模全土を平定した。既に早雲は八五歳になっていた。

 早雲が氏綱に家督を譲ったのは一五一八年、早雲八七歳、氏綱三二歳。この翌年早雲は韮山城で没した。

 早雲が書き残した『早雲寺殿廿一箇条』では、通して『上下万民に誠実に接すること』とある。合戦では奇襲や謀略が多い早雲も、領民や配下の諸将には虚言を弄することがなかったからこそ、一〇〇年後の徳川家康も関東移封後に統治に手を焼くくらい領民に慕われることになったのだろう。

成田長親

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 天正18年(1590年)、豊臣秀吉と後北条氏の戦い(小田原征伐)が始まると成田氏長は北条氏に味方して小田原籠城に参加した。成田氏の本拠忍城は氏長の叔父・泰季が城代となって守ったが泰季が開戦直前に没したためその子長親が代わって城代となり、防衛の指揮を執った。
忍城を攻める上方勢は石田三成を総大将とし大谷吉継、長束正家などの秀吉子飼いの諸将が名を連ね23,000騎もの大軍であったと伝えられている。三成は巨大な堤防(石田堤)を作って忍城を水攻めするなど総力を挙げて攻城するものの、北条方の本城である小田原城が降伏するまで長親は3,000騎の手勢で城を守り切った。 その後は当主氏長とともに会津の蒲生氏郷のもとに一時身を寄せたのち、下野国烏山へと移り住むが氏長と不和になり出奔し、出家して自永斎と称した。

多目元忠

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 後北条氏の初代・伊勢盛時(北条早雲)からの北条氏の協力者であり、北条氏初期の家臣団「草創七手家老」の一家でもある、古参の重臣の家柄である。山内上杉家・古河公方などの関東の有力者が連合して北条氏と戦った河越夜戦で活躍。北条氏康が戦場で敵中に突出した際に独断で退却の号令をかけ、のちに氏康から感謝された。この戦いののちに北条五色備の内、黒備えを任せられたという。家中で北条綱成と双璧をなした北条綱高も、元忠に軍学を学んだとされる。

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