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九戸政実

戦国武将伝「九戸政実」part1

戦国武将伝「九戸政実」part2

戦国武将伝「九戸政実」part3

戦国武将伝「九戸政実」part4


長宗我部元親

 土佐(現在の高知県)の長宗我部氏21代当主。長宗我部国親の嫡男、母は美濃の斎藤氏の娘で、自らの正室も斎藤氏から迎える。幼名は弥三郎、法名雪蹊恕三、官位は宮内少輔、土佐守。姓名での名乗りは秦 元親(はたの もとちか)。兄弟は吉良親貞、香宗我部親泰、島弥九郎親益。子に信親、親和(香川五郎次郎)、親忠(津野孫次郎)、盛親、右近大夫、康豊(吉田氏)がいる。
幼少の頃は色白でおとなしく、軟弱な性格から「姫若子」と皮肉られていたと伝わる。後に土佐一国を統一する大名に成長し、土佐の出来人と呼ばれたが、信長からは鳥なき島の蝙蝠と揶揄された。
1560年に父に従って出陣した長浜の戦い(高知市)では、遅い初陣ながらも、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれる。同年、父の急死により家督を相続し第21代目の当主となった。今や姫若子ではなくなった元親を、家臣らはもちろんのこと、父も臨終の際に「元親の振る舞いや武者遣いには、もはや何の問題も無い。」と誉め称え、全幅の信頼を寄せてこの世を去った。元親は、父の成し得なかった宿敵・本山氏の打倒を第一の目標とし、長宗我部氏のさらなる繁栄を目指し、家臣らと一丸となり邁進することを固く誓った。
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秦氏祖先説
 秦氏は中国秦王朝の始皇帝の流れを称する古代氏族であり、飛鳥時代に秦氏の繁栄を築いた秦河勝の後裔が長宗我部氏であるとされている。
秦河勝は聖徳太子の信任を受けており、丁未の乱(587年)にて聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋を倒した際に功をたて信濃国に領地を与えられたので、子・秦広国を派遣した。これにより信濃秦氏が始まる。後年、信濃更級郡に居住していた秦能俊(初代 長宗我部能俊)が土佐に入ったのが、長宗我部氏の始まりとされる。

山中鹿之介

 山中 鹿介 幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。出雲国能義郡(現在の島根県安来市広瀬町)に生まれる。戦国大名尼子氏の家臣。実名は幸盛(ゆきもり)、幼名は甚次郎(じんじろう)。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。
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 永禄9年(1566年)11月に尼子義久は元就に降り、戦国大名尼子氏は一時的に滅びた(第二次月山富田城の戦い)。その後、幸盛は尼子氏再興のため尽力することになる。尼子氏が衰亡していく中、御家再興のために「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は講談などでよく知られる。

真田十勇士

【猿飛佐助】

 立川文庫の作り人物で真田十勇士の花形役者である。手で印を結ぶと姿が消え、相手から見えないのでどんな豪傑でもテンテコ舞いさせることができた。
 立川文庫の『真田幸村』では、忍術の名人として登場し、大活躍している。霧隠才蔵とともに登場し、徳川方の軍評定の内容を探ったり、地雷火を仕掛けて、敵方を混乱に陥れたりする。
 信濃の鳥居峠の麓に住む鷲尾佐太夫という郷士の息子である。山中で猿の群れと遊び戯れているところを戸沢白雲斎という白髪の甲賀流忍術の名人に見込まれ、忍術の修行をしたあげく極意を授けられる。鳥居峠にやってきた幸村に見出され、その家来となる。
 東西の風雲急を告げるに及び、幸村の命令で天下の情勢を窺うため、清海入道と連れだって諸国漫遊の旅に出る。東海道を東下し、家康のいる駿府城、または秀忠のいる江戸城に忍び込み、徳川方の内情を探る。京都では、南禅寺の山門に住む石川五右衛門と術比べをする。
 女・子どもなどの弱きを助け、山賊などの強きを挫き、懲らしめる。大坂夏の陣の後、幸村とともに薩摩に落ちる。


【霧隠才蔵】

 『真田三代記』には、幸村の部下の忍者霧隠鹿右衛門という人物が登場している。この鹿右衛門を才蔵と改名させて、猿飛佐助の相棒に仕立てたのは『霧隠才蔵』(立川文庫)の作者である。
 ここで才蔵は、江北の大名浅井家の侍大将霧隠弾正左衛門の遺児となっている。浅井家が滅亡すると郎党に守られ伊賀の名張にかくれ、伊賀流忍術の大家百地三太夫に師事し、忍術の極意を授けられる。
 姫路近くの山中で山賊となっていたところで佐助と遭遇。甲賀流の猿飛佐助と忍術比べのあげく幸村に仕えることになる。大坂夏の陣には、電光の如き大活躍をして、徳川軍の大軍を悩ませ、家康の本陣に忍び込み首を掻こうとするが、失敗する。大坂落城後、幸村に従い幸村の子の大助と協力し、豊臣秀頼脱出に成功する。


【三好清海入道】

『真田三代記』では、出羽国亀田の領主とあり、関ヶ原の乱で、徳川秀忠の率いる大軍が、中山道を西上する途中、信州の上田城を攻めたときから、真田幸村の部下として大活躍した。
 関ヶ原の敗戦後、幸村に従って、弟とともに紀州九度山へ落ちている。幸村の大坂入城にも兄弟で従っている。
 大坂冬・夏の陣にも他の勇士らとともに徳川の大軍と奮戦し、壮絶な戦死を遂げる。「立川文庫」の『真田幸村』では、猿飛佐助等とともに武者修行のために諸国漫遊をし、18貫もの樫の棒を軽々と振り回し、山賊を退治したり、剣士と渡り合ったりして縦横無尽の活躍をしている。
 坊主頭の大男で、力は強いが、どこか抜けたところに、愛嬌があって、好ましい豪傑である。弁慶の戦国版といったタイプである。


【三好伊三入道】

 清海入道の弟で、兄とともに幸村の部下として大活躍した。
 関ヶ原の戦い直前の上田合戦にも兄とともに活躍し、幸村の九度山行きにもお供し、大坂冬・夏の陣にも徳川勢と勇敢に戦っている。大坂落城の時、兄は腹を切って、自分の首を刀で掻き落として見せたが、弟の伊三入道のほうは、腹を切りながら、辞世の狂歌を高らかに詠じたと『真田三代記』にある。


【穴山小助】

 武田家の家臣の出である。武田家滅亡後、小助の父は、小助を連れて戦場を渡り歩く。やがて、真田家の家臣となり、幸村の郎党に加えられる。真田幸村と同年で、体つきも容貌も似ていた。
 関ヶ原の敗戦の結果、幸村が紀州九度山に落ちたときも幸村のお供をし、浪人生活の労苦をともにしているが、後に真田屋敷を出て姫路に行き、漢方医をしながら諸国の動向を探る。
 大坂冬・夏の陣にも、幸村の影武者として真田の出丸から六文銭の大旗を風にひるがえし、徳川方の大軍を散々に撃ち破った。ことに、夏の陣では、「我こそは真田左衛門佐幸村なるぞ」と、大音声を発し、徳川方の勇士を討ち取った末に、家康の本陣に切り込み壮絶な戦死を遂げる。


【由利鎌之助】

 鎖鎌と槍の達人として名高い。『真田三代記』によれば、初め三河の野田城主菅沼新八郎の家来であったが、秀吉が柴田勝家と戦った江北賤ヶ岳の合戦に、秀吉方に味方するため、真田勢が出陣したとき、真田幸村に挑戦し、真田勢を悩ませた。このとき穴山小助と一騎打ちした結果、負けそれ以来真田の家臣となった。
 幸村が、九度山へ流されてからは、江戸で槍の道場を開きながら家康の動きを探る。大坂冬・夏の陣にも、穴山小助、三好兄弟らとともに大活躍している。


【海野六郎】

 信濃の名族滋野一族の宗家である海野家の出身。
 海野六郎は、十勇士中、一番の古参であり、幸村の頼りになる右腕である。気位も高く、頭も良い参謀格の人物でもある。根津甚八とともに奥州をめぐって情勢を探り大坂の陣を戦い抜いて幸村とともに薩摩落ちをしている。


【根津甚八】

 根津の姓は、滋野三家(海野・禰津・望月)の根津である。父とともに旅に出て、死別ののち海賊に身を投じて、その首領にまでなる。
 幸村が秀吉のもとにいた時、九鬼水軍の情勢を探ることを命じられ熊野灘に赴いたときに巡り会い、十勇士に名を連ねる。穴山小助とともに関ヶ原、大坂冬・夏の陣に活躍し、幸村の影武者となるが大坂夏の陣の戦いで、「真田幸村なるぞ」と名のって奮闘した結果、徳川勢に討ち取られてしまう。


【望月六郎】

 望月氏も滋野三家の一つ望月家の出である。九度山蟄居中の幸村は、天下の情勢を探索させるが、望月六郎は真田屋敷の留守居役であった。このため、九度山では、終始幸村と生活をともにし、爆弾の製造に従った。
 花道である大坂夏の陣では、根津甚八らとともに幸村の七人の影武者として大活躍する。最後は、大軍に囲まれ自刃する。


【筧十蔵】

 豊臣譜代の蜂須賀家の家臣であった。秀吉に招かれ大坂城内の蜂須賀屋敷に身を寄せている幸村に心を引かれ、志願して家臣となる。
 種子島銃を使う、十勇士の中でも異色の存在。力も強く、分別もあり、夏の陣後、薩摩落ちにも同行している。

蒲生氏郷

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 蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。近江蒲生郡日野に六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれる。幼名は鶴千代と名付けられた。
永禄11年(1568年)、主家の六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、父・賢秀は織田氏に臣従した。このとき、人質として岐阜の信長のもとに送られた。

 信長は氏郷の才を見抜いたとされ、娘の冬姫と結婚させた。信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀と名乗り(信長の官職である「弾正忠」から1字を与えられたとの説がある。なお、本項では一部を除いて氏郷に統一する)、織田氏の一門として手厚く迎えられた。

 会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。7層の天守(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、また蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。また、築城と同時に城下町の開発も実施した。具体的には、旧領の日野・松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。
以降は、伊達政宗と度々対立しながらも、天正19年(1591年)の大崎・葛西一揆(この際秀吉に対し「政宗が一揆を扇動している」との告発を行っている)、九戸政実の乱を制圧。同年12月、従三位参議に任じられた。
 

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