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戦国武将
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土佐(現在の高知県)の長宗我部氏21代当主。長宗我部国親の嫡男、母は美濃の斎藤氏の娘で、自らの正室も斎藤氏から迎える。幼名は弥三郎、法名雪蹊恕三、官位は宮内少輔、土佐守。姓名での名乗りは秦 元親(はたの もとちか)。兄弟は吉良親貞、香宗我部親泰、島弥九郎親益。子に信親、親和(香川五郎次郎)、親忠(津野孫次郎)、盛親、右近大夫、康豊(吉田氏)がいる。
幼少の頃は色白でおとなしく、軟弱な性格から「姫若子」と皮肉られていたと伝わる。後に土佐一国を統一する大名に成長し、土佐の出来人と呼ばれたが、信長からは鳥なき島の蝙蝠と揶揄された。
1560年に父に従って出陣した長浜の戦い(高知市)では、遅い初陣ながらも、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれる。同年、父の急死により家督を相続し第21代目の当主となった。今や姫若子ではなくなった元親を、家臣らはもちろんのこと、父も臨終の際に「元親の振る舞いや武者遣いには、もはや何の問題も無い。」と誉め称え、全幅の信頼を寄せてこの世を去った。元親は、父の成し得なかった宿敵・本山氏の打倒を第一の目標とし、長宗我部氏のさらなる繁栄を目指し、家臣らと一丸となり邁進することを固く誓った。
秦氏は中国秦王朝の始皇帝の流れを称する古代氏族であり、飛鳥時代に秦氏の繁栄を築いた秦河勝の後裔が長宗我部氏であるとされている。
秦河勝は聖徳太子の信任を受けており、丁未の乱(587年)にて聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋を倒した際に功をたて信濃国に領地を与えられたので、子・秦広国を派遣した。これにより信濃秦氏が始まる。後年、信濃更級郡に居住していた秦能俊(初代 長宗我部能俊)が土佐に入ったのが、長宗我部氏の始まりとされる。
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山中 鹿介 幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。出雲国能義郡(現在の島根県安来市広瀬町)に生まれる。戦国大名尼子氏の家臣。実名は幸盛(ゆきもり)、幼名は甚次郎(じんじろう)。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。
永禄9年(1566年)11月に尼子義久は元就に降り、戦国大名尼子氏は一時的に滅びた(第二次月山富田城の戦い)。その後、幸盛は尼子氏再興のため尽力することになる。尼子氏が衰亡していく中、御家再興のために「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は講談などでよく知られる。 |
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【猿飛佐助】 |
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蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。近江蒲生郡日野に六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれる。幼名は鶴千代と名付けられた。 |


