雨模様の中、いつもよりちょっと早めにうちをでて、
45号線を南下し、釜石へ。
なるべく被災していない道路を使って移動するように心がけてきたけれど、今日は意図的に被災した場所を選んで通る。
来月のシンポジウムに向け、復旧の様子などを目で見て
考えるために。
先月通った時にはベッドのマットレスだったものが、
今日はボロボロの固まりに。
まるで廃車になった車を圧縮したようにしか見えないけど、
まだナンバーがかろうじて見える車。
今まさに、解体されつつある建物。
埼玉や、北海道や、大阪や、神奈川や、秋田や。
夏休み返上で任務にあたる警察官の方々。
5ヶ月という時間は同じに流れたはず。
宮古の街の中は比較的早く商店街が復旧し、
人の流れもできた。
しかし、南へ行けばいくほど、被害が大きくなり、
復旧にはなお時間が必要に思われる。
そのなかで、山田には仮設の店舗や以前の店舗を改修して開店した大きなスーパーが、人の流れを作っていた。
釜石でも市民会館に近いメインストリートでは
先月は開いていなかったお店が開店していたり、
再開に向けて作業する人たちを見かけた。
こうして、街は少しずつ、前へ進み始めるんだな。
お盆にはいつもはなかなか顔をあわせない親戚にも会う。
なかに、つい二月ほど前まで漁協で働いていた親戚がいる。
あの日、魚市場から漁協ビルへ作業に使う車両を運びあげたそうだ。
目の前で起きたのは、テレビで延々と流れたあの映像通りの出来事。
津波から1週間後には必要な資材や車両の手配をし、市場の再開を目指したそうだ。
「もっと早く再開したかったけど、一ヶ月後になってしまったよ。」
公の支援には頼らず、自分たちでどんどん発注し、復旧を目指したそうだ。
公のお金をあてにしていたら何ヶ月も待たされた事だろう。
宮古では、さっさと自分たちで動き出したという話をよく聞いた。
建設業協会は誰に頼まれなくても、津波の数日後には幹線道路の瓦礫撤去を始めたそうだ。
費用が持ち出しになってもやると、決めたらしい。
おかげで宮古には流通のおおきな道筋がついた。
商店街の皆さんも、家族や従業員、それからボランティアの高校生の力を借りて、店舗の中から使えなくなったものを運び出し、泥を洗い流し、電気の復旧を待った。
一日でも早く、お店を開けるために。
通りに灯りがつき、店が開いているのは
とても心強く、明るい気持ちになったものだ。
いろいろな条件が重なり、街の中心部には建物が残っていてくれたのが幸いだった。
それでも、夜ににぎわっていたあたりは解体がすすみ、
更地が目立つようになった。
中心部から少し海側へ進めば、あたりの様子は一変して、
まったく何もない風景が広がる。
これから、どんな街になるのか、
仮設住宅からでて、住む場所はどこになるのか、
漁業は、再生できるのか。
観光の街はもどってくるのか。
何が起きて、これからどうなるのか。
誰も正しい答えなどわからない。
でも、自分のためだけでなく、
隣に生きる人のためにも、
何かをしていきたいと、思う。
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