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今の政治状態を観るに、理性の集団ではなく、利権の集団、祭りの際に店を出すときどの場所が人通りが多いかというその場所取りの様相を呈しているように思われます。
先の衆議院選挙のとき比例区からの当選でもって自民党議員になった方も多数おられますが、その前の国政選挙の時、やはり比例区からの当選がありました。そのとき、小泉さんは「小選挙区で落ちて比例区で当選というのは、なんかおかしいですね」と。
それが、今回の選挙では「そんなことはいいませんよ」とでもいう態度でした。このような次第で政治というよりは、各地で開催されている「祭り」の様相を呈しているといえるのでは。
また、古代ギリシアにおける「ポリス」での「政治的生活」を育んだポリスの成員から見た場合、ポリスの成員たちは、どのような思いをいたすのかと、思索に耽るものです。
さて、ドイツの法学者ステーンストラップによる「法」(ドイツ語のRechtsには一般意志としての権利・法・正当性等の意味がある)に関して、
日本は、
「同意的」で権力拡散的な政府を有している。
「法」は、装飾的で警告的な機能を果たしている。
「道徳」は状況追随的である。
「権力」は諸集団によって保持されており、集団のリーダーによって行使され、追放の脅威によって制約を受ける。
「公正」さの絶対的な基準というものは存在しない。
「集団」への忠誠が至高の価値である。集団間の権力のバランスが、たいていの争点を決定する。
「個人主義的で平等主義的」な「法」というものは、西洋で誕生したが故に日本国家の基盤ではない。
「圧力」が常態で、公式な強制はまれである。
と述べていますが、ここから我々は何を学ぶべきであろうか?
ケンブリッジ大学出版局にはナショナル・ヒストリー・シリーズがあります。そのなかにはケンブリッジ・ヒストリー・オブ・ジャパン6巻本が納められ、1980年代後半より公刊が始まったのですが、その6巻本はすべて、同じエレガントなデザインのカヴァーに包まれ、その内容は江戸の隅田川にかかる両国橋を描いた、歌川豊春の江戸時代の作品の複製です。
ここには、西欧から見た日本に対する一般的な認識について、多くのことが語られているのです。それを要約すれば、「本質的には何も変わることのない社会」というイメージが、日本の歴史をカヴァーしているということです。(縄文・弥生の時代から今日にいたるまで。)
参考までに、ケンブリッジ・ヒストリーはめったに改訂されない。ローマ法王の勅令のように、それらは究極の真理として、また決定的な言葉として世界に対して提出されています。
ちなみに、先の法王が亡くなられ世界各国から首脳陣が、その場に駆けつけたとき、日本の首相はどこにいたでしょう。
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他国は除くとしても、日本の国家と日本人の精神は確実に退化していますね。正社員から派遣となり、孔子の教えの片鱗も若者は備えていない。仕事(ワーク)が労働(レイパー)になり、愚かなやんちゃ坊主が政治を牛耳る。人心がここまで落ちると、哲学の出番です!次代を憂える思いは、ソクラテスのそれより大きいモノが必要かもしれない・・。
2006/5/12(金) 午前 1:27