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ミネルヴァの梟は黄昏がせまってその飛翔をはじめる

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公的空間と人倫の喪失

                公的空間と人倫の喪失
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 これを防ぐには、それぞれが拡大された心性でもって「半ばは自己の幸せを、半ばは他人(人)の幸せを」願う活動的人間を要請し、この世界は単独の世界ではなく、常に複数性の世界であることを客観的事実として意志することだろうと思われます。

 そして、必要なのはイソノミアによる複数性を基にした横断的理性です。この横断的理性はしばしば家族に固有に見られる様相ですが、家族にあっては真に政治的なものは存在しません。また、その家族の成員が社会においてそれぞれの組織に入り組織体として行動したとしても、その組織には政治的なものは存在しません。なぜならこれらは大なり小なり家族や組織にとっての利害関係にとらわれているからです。
 
 政治的なものとは、家族や家族の成員のための利害関係を問い、その答えを得る空間ではありません。また、組織や組織の成員の利害を求めるものではありません。政治的なものとは、アーレントの言う自由の本質を具現化するものですから。

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 公的空間は我と言う単独ではなく我々という複数によって成り立っているということを未来にわたって認識していることが必要であろうと考えます。この公的空間においてこそ有機的生命体は他者から見られるという現れを生じさせるのです。
 
 この現れという事実こそが「思考」の始まりなのです。歌を忘れたカナリアはそれでもカナリアですが、思考を忘れた有機的生命体は、もはや有機的生命体ではなく無機的生命体へと崩壊してしまうのです。思考の欠如がアーレントのいう「悪の凡庸さ」を招くのです。

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 まず、ハイデッガーの述べる
『今日では存在忘却と存在者の組織化、悪用という迷誤が地上を覆っている。そしてだからこそ、そこに「指導者」というものが必然的に要求され、存在者を大規模に濫用する「指導」の任務がその人に課せられ様々な計画や企ての追及によって空虚を埋める試みがなされるようになる。かくして大地は「迷誤の巣食う怪物」のような世界となって現れる』ということを、参考としてみましょう。
 
 この一文は、現在の社会に現前するあらゆる存在の中での資本主義社会によって代表される市場原理主義下での「不平等」や「格差」「同一性と非同一性の区別」「差異と区別の混同」といった様相を端的に表現しているのではないでしょうか。そして、このような考え方の結果、次のような「自己疎外」や「人間疎外」ひいては「世界疎外」が生じやすくなります。
 
 つまりティラーの言う「我々の自己同一性は一部には、他人による承認、あるいはその不在、更には、しばしば歪められた承認によって形作られるのであって、個人や集団は、もし彼らを取り巻く人々や社会が、彼らに対し、彼についての不十分な、あるいは不名誉な、或いは卑しむべき像を投影するならば、現実に被害や歪曲を被るというべきものである。不承認や歪められた承認は、害を与え抑圧の一形態となりうるのであり、それはその人を、偽りの歪められ切り詰められた存在の形態の中に閉じ込めるのである」ということです。
 
 この結果、全体主義的国家にも似た市場原理主義の弊害として現前してくる官公庁や企業などといった組織、組織に属する個々の人や一個人においての様々な各種の犯罪行為や事件は負の遺産として観ることもできるでしょう。
 
 また、一元的な価値が支配していく現在の様相の中における人々は、それぞれがよく似た存在となり、互いに孤立し、自分の殻に閉じこもるようになり、自らの自由や生活がいかに社会や同胞によって支えられているかを忘れた膨大な大衆(個々の人)と呼ばれる人々の他者の干渉を嫌う権利意識は強まるが、他者を配慮する倫理的責任感は消失し、公共的活動から退却していくと、アーレントなら言うであろう。
  
 司馬遷は「史記」において次のように記述している。「群雄割拠の古代中国の春秋時代、一つの国の王は、得意にして誇らしげに他国からの侵略戦争において自説を述べたが、誰一人としてその説に批判や意見や反論もせずにいることに満足し、重臣たちの聞く耳に心地よい言葉によってますます独断的になり自説によって侵略戦争に備えたが、その国は一年ももたずに侵略されて亡び、兵をはじめ人民の一部は殺され暴行され、一部は奴隷となった。もう一つの国の王は、この侵略戦争について自説を述べたが多くの重臣の誰一人として反対意見や批判をする者がいないことに国の行く末、人民の行く末を憂い、自らが策を練り侵略戦争に備えて政治的解決を図ったが故に、自らは死して人民の行く末を安泰にさせた」と。
 
 ここには「思考」「批判や意見」「同一性と非同一性」「複数性の見地やパースペクティブ」の必要性や重要性などといったものが端的に現わされています。
 
 普遍的原理への同一化や常に意見の一致を求めその意見に批判する者は非同一化とするような概念は、支配集団の特定の見地の絶対化や普遍化を隠蔽する機能を果たし、同時にその普遍主義の偽装が個々の集団、個々の人のアイデンティティーや差異を抑圧し、複数の見地やパースペクティブを排除してしまうことになり、自己疎外や人間疎外、世界疎外を発生せしめるということは、有史以来の歴史において証明されていることを知っているのではなく、認識しなければならない。
  
 また、人間はヘラクレスのごとく道徳への道か背徳(自愛)への道かを選択しなければならないが、この選択をするに際しての動機への一つである意志についても次のように言える。
「意志は、もしそれが機能するとすれば、実際一つでなければならないし、不可分でなければならない。様々な意見の間で可能であるような調整は、さまざまな意志の間では不可能である。一般意思というこの人民の意志の顕著な特質は意志の完全一致を言う。フランス革命においてロベスピエールが『世論』について語ったとき、その意味は一般意思の完全一致であった」と。
 
 そして「すべての意見が同じになったところでは、意見の形成は不可能になる。そして意見を全員一致のものにつくり変える『強い人間』が待ち受けられるようになったとき、すべての意見は死ぬ」と言われるように、全員一致の意見ほど危険なものはない、という事実は先の世界大戦における旧日本軍の内容であり、大本営が発表する内容もまた然りであった。そして、そこに存在する人間もまた然りであった。
   
 さて、われわれは誕生とともに「公的空間」に属してその生を他者とともに育んで来ているのですが、そのことの事実を理解しようとしないわれわれが多数存在しているのもまた事実です。そしてこのことは、公的空間ではなく自分の空間、つまり「私的空間」の中で生活していると理解しているのです。
 
 公的空間の必要性については、アーレントが強く望んだものですが、今この公的空間という認識を持って政治に望んでいる人々が何人いるでしょう。昨今の政治情勢を見るに「あげつらう」政治的発言はあっても、政治の本質である「自由」を公的空間において現前させると言う政治的発言を聞くことはないと言ってもいいでしょう。
 
 この公的空間は、一部のものが作り与えるものではありません。われわれが「相互に作り出して」いくものなのです。しかし、現状はそうなっていない。支配集団の特定の見地の絶対化、個々の人のアイデンティティーや差異性を抑圧し、複数の見地やパースペクティブを排除し、顔の見えない「組織」という名のもとにすべての意見を一致させてしまう構造の中では、理性は日陰に追いやられ「強い人間」が日向に躍り出る様相の中では、理性的な在り方とは何かと問うことも不自然な感覚になってしまう。
 
 「愚直性」や「傾向性」「無思考性」「無思想性」などが横行し、事あるごとに「理性」が日陰から呼び戻される構造が支配的になっているこのような存在を無くすためには、他者を何かの「手段」として利用しないことである。そして、自由な意見の集成、多様な意見の集成、複数性に基づいたパースペクティブによって公共性や公開性を養うべきである。
 
 ミルは自由論において、「人間本性は、模型にならって組み立てられ、自己に定められた仕事だけを正確に行うように作られている機会ではない。人間本性は一本の樹木であり、それ自身を生命あるものとしている内面の力の趨勢に従って、あらゆる側面にわたってみずから成長し発展することを求めているものなのである」と、述べています。
 
 このことは、ロゴスとビオスにより公的空間が保たれていること、その公的空間においてしかこのロゴスやビオスが有意味性を持たないこと、この公的空間の創造者は自由なロゴスと自由なビオスを、人間の誕生とともに個別性・無比性において所持していることなどを言い表しています。そして今、市場原理主義によって個々の人や公的空間が脅かされているのです。そう、アメリカ型になりつつあるのです。

 確かに、資本主義システムは、他者を手段としか扱えない個人の在り方を要求していますが、この要求の結果に現われやすいのが次のようなことです。
 
 ここではテーゼがアンチテーゼとなり、アンチテーゼがテーゼとなりやすく、非同一性を避け同一化を求められる社会集団によって受けいれられ、それが自明の理として横たわっているのである。つまり、横断的理性が日陰に追いやられ、支配的理性が日向に躍り出て「強い人間」となってすべての意見を一致させる。
 
 そしてそこに組み込まれた代替え可能な歯車は「自己疎外]や「人間疎外」に陥り、この「疎外感」のなかにあっては意志も理性も見かけだけのものとなり、思考の欠如が生じ、自己と自己自身とのあいだの音声なき対話が絶え、内面的に思想性の空間もなくなり、市場原理主義という構造性に一元化されてしまい「無思想性」が結果し、自己のアイデンティティーをも喪失してしまい「疎外感」という「自己の殻」に閉じこもった人間にはもはやアリアドネの糸はなく、聖盃を求めてゴルゴタの丘をさまよい続けてしまうのである。
 
 そして、このことから「折り合い」をつける時、先ほど述べたごとく人間の意志は道徳(理性)の道と悖徳(自愛)の道との分岐点に立っており、ここにいずれの道を選ぶかという「意志の原理」というものが生じてくるのである。つまり、「道徳的政治家」になるか「政治的道徳家」になるか、ということである。ここに、ソクラテスの「悪をなすより、悪をなされるほうが良い」という道徳の概念があるのです。
 
 故に、われわれは、共通感覚、拡張された心性、イソノミアによる複数性、構想力、歴史が我々に残した範例的妥当性等などに基づいた判断力を、ミネルヴァの梟は黄昏が迫ってその飛翔を始めるその時に養わなければならないと同時に、一つの組織の個別的特殊的な倫理ではなく、ソクラテスの求めた「普遍的な」倫理を学ばなければならない必然性を感じるものです。

 アーレントの次の一文はまことに示唆的であり、公的空間に住まう我々人類に「思考すること」「自己と自己自身とのあいだの音声なき対話」の必要性や重要性を訴えているものと思うものです。

『思考とは数少ない人々の特権ではなく、すべての人に存在する能力なのです。同じ理由から、思考する能力に欠如していることは、どんな人にも常に存在する可能性なのです。問われているのは、大悪人とその罪ではありません。邪悪でないごくふつうの人のうちに、特別な動機がなくても、無限の悪をなす能力があることが重要なのです。何が「善であるか」を見失い、道徳が崩壊する瞬間において、人々が考えもせずに流されるとき、思考する人々が姿を現わします。そして別の人間的な能力、すなわち判断の能力を開放するのです。』


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