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今年もつたない投稿をすることをお許しください。
ここに載せた言葉は、私にとって「哲学の必需」が、複数性の中でしか生きていけない人類の思考能力が、いかに必然的であるか我々に教えているかと思うからです。
ベルリン大学就任演説
Konzept der Rede beim Antritt des philosophischen
Lehramtes an der Universität Berlin
(Einleitung zur Enzyklopädie-Vorlesung)
22. Okt. 1818
ベルリン大学における哲学教官就任に際しての告辞
諸君!
国王陛下の仁慈によって哲学教官の職に召され、私は今日はじめて当地の大学で講壇に立つのであるが、この際あらかじめ一言、前置きを述べることを許されたい。即ちあたかもこの時機に、かつまたまさに当地で、より広汎なアカデミックな活動に入ることを私がとりわけ望ましく、またうれしく思ったということについてである。
時機について言うならば、哲学が再び注目と愛を自らに期待してもよいような状況―このほとんど黙り込んでいた学問がその声を再びあげることのできるような状況が現れたように見える。けだし、しばらく前は一方では時代の逼迫が日常生活のもろもろの小さな関心事に余りにも大きな働きをもたせ、他方では現実のもろもろの高い関心事、即ち先ず国民生活と国家との政治的全体を復興し護持しようとする関心と闘争は精神のあらゆる能力、あらゆる身分の力、ならびに外的な諸資力が余りにも多く用いられたがために、精神の内的生活は落ち着きを得ることができなかったからである。
現実のうちに余りにも忙殺され、外へ引っ張られた世界精神は内へ、そして自己自身へ身を向けて、それ固有の故里に悠々自適することを妨げられていた。現実のこの潮流が断ち切れて、ドイツ国民があらゆる活きた生活の基礎であるその国民的存立をとにかくも護持した後の今は、国家の中で現実的世界の統治とならんで、思想の自由な王国もまた独自に栄える時がはじまった。そして総じて精神の力が広く時代においてものを言うにいたり、みずからを今、保ちうるものはただもろもろの理念とこれらの理念に適ったもののみであり、通用すべきものならばそれは洞察と思想の前でみずからの正当性を明らかにしなければならなくなっている。
そしてわけても、このたび私を迎え入れてくれたこの国家こそは精神的優越によって現実においてまた政治において重きをなすにいたった国家であり、外的な資力の点ではそれを凌いでいたかもしれぬような諸国家に対して権力と独立性の点で肩を並べるにいたった国家である。ここでは諸学問の形成と繁栄は国家生活における最も本質的な諸契機そのものの一つである。中心地の大学である当地の大学においては、あらゆる精神形成の、またあらゆる学問と真理との中枢である哲学もまた然るべき地位と保護育成を享けねばならない。
しかしながらこの国家の存在における一つの根本契機を成すところのものは単に精神的生活一般であるだけではなくて、詳しく言うならば、国民がその君主と一体となって独立のために、外国の無情な圧制の打破のために、そして自由のために戦ったあの大きな闘争が心の中でもっと高い次元で開始されたのである。精神の倫理的な力はみずからに気力を感じ、その旗を掲げて、このみずからの感情を強引な力として、また威力として現実に対して押し通した。われわれはわれわれの世代がこの感情―その中にあらゆる法的、道徳的及び宗教的なものが集中した感情―のうちに生き、振る舞い、そして働いたことをこの上もなくすばらしいことと評価しなければならない。―そのような深くかつ包括的な働きにおいて精神は自身のうちでそれにふさわしい品位にまで高まるのであって、生活の浅薄さと諸関心の浮薄さは滅び去り、洞察ともろもろの意見との皮相さは剥き出しとなって消えうせる。総じて心のうちへ入り込んだこの一段と深い真剣さこそは事実また哲学の真の地盤でもある。
哲学に対立するものは一方では困窮と時局の諸関心への精神の没頭であるが、他面またもろもろの意見のむなしい思い上がりである。このむなしい思い上がりに占められた心は理性―理性は自身のものを求めることはしないのであるが―とは相容れない。この思い上がりは、実体的な内実を得ようとする努力が人間にとって必須となったとき、ただそのような内実だけが幅を利かしうるようになったときには、雲散霧消せざるを得ない。ところでわれわれはそのような実体的内実のうちに時代があるのを見、またしても核が形成されるのを見たのであって、この核のあらゆる面、政治的、倫理的、宗教的、学問的面でのいっそうの展開はわれわれの時代に託された課題なのである。
われわれの使命と要務は哲学的展開の助成であり、今や若返って力づいた実体的基盤の開発である。基盤のこの若返りはその効き目とあらわれを差し当たり先ず政治的実現において見せたが、さらに進んでそれはいっそう大きな倫理的及び宗教的真剣さのうちに現れるのであり、一切の生活関係に向けて出された純正さと根本性一般の要請のうちに見られるのであって、最も純正な真剣さはその真のあり方においては真理の真剣さ、認識の真剣さである。この欲求は精神的なたちのものを単に感覚的かつ享受的なだけのたちのものから区別するものであって、まさにその故にこそ精神の最も深いものである。それは潜在的に普遍的な欲求であり、時代の真剣さがそれをいっそう深くかき立てたというところもあれば、またそれはドイツ的精神の比較的身近な財産でもある。哲学の教養におけるドイツ人の卓抜さについて言うならば。
けだし爾余の諸国民のところでのこの研究の状態とこの名誉の名称の意義を見ればわかるように、名称はまだそれらの国民のところで保たれてはきたが、その意味を変えたのであって、実質は頽れて消え去り、しかも、それに関するどんな記憶も観念もほとんど残っていないほどなのである。この学問はドイツ人のもとへ逃げてきて、ただなお彼らのうちでのみ生き延びている。われわれにこの聖なる光の護持は託されているのであって、この光を護り育てて、人間の所有しうる至高のもの、即ち彼の本質の自覚が消滅し絶滅しないように配慮することはわれわれの使命である。
ところがドイツにおいてすら国の再生に先立つ以前の時代の浅薄さは、真理の認識は存在しないと見つけこれを証明したつもりで、そう断定するまでにいたった。即ちそれによれば、世界と精神との本質である神は把握されないもの、把捉し得ないものであり、精神は宗教のところに、そして宗教は理性知抜きの信仰、感情、微かな感通のところにとどまっていなければならず、認識の働きは絶対的なもののなんたるか―神の何たるか、また自然および精神のうちなる真にして絶対的なるものの何たるかにはかかわらず、むしろ何一つ心なるものは認識されえず、ただ真ならぬもの、時間的なもの、過ぎ行くもののみが認識されるいわば特権を享けると言った否定的な事柄にのみもっぱらかかわったり、あるいは、本来そうしたもののうちにはいるもの、つまり外的なもの、即ち歴史的なもの(Das Historische)、独りよがりのいわゆる認識なるものがあらわれた偶然的な事情にかかわったりするのであって、まさにこのような認識こそはただ何か歴史的なものとのみ解されるべきであり、そしてあの外的な諸側面について批判的に且つ学究的に調べられるべきであって、その内容はまともには問題になりえない。―以上が彼らの説である。彼らはローマの地方総督ピラトと同じところまできたのである。ピラトはキリストが真理という言葉を口にするのを聞くや、あたかも、そのような言葉にはけりをつけて、真理の認識などは存在しないと知る者のつもりで、「真理とは何ぞ?」 の問いでそれに答えたものである。そういうわけで、昔から最も恥ずかしくみっともないこととされてきた真理認識の断念はわれわれの時代によって精神の最高の勝利に高められた。
理性への絶望は、そこにまで到達した当座はまだ痛みと悲しみをともなっていたが、しかし程なく宗教的および倫理的軽薄、そしてその次には自らを啓蒙と称した知の平板と浅薄はあけすけに自らの無力を認め、そしてより高い関心事の根本的忘却を自慢にし、―そしてその挙句の果てにいわゆる批判哲学は永遠にして神的なもののこの無知をいい気にさせた。
というのは、この哲学は永遠にして神的なものについては、真なるものについては、何も知られえないと
証明したと請合ったからである。この思い誤った認識は哲学という名称をすら我がもの顔に僭称したのであって、あたかもこの無知、この浅薄と浮薄をこそすばらしいものと言いふらし、あらゆる知的努力の目標であり成果であると称したこの教説ほど浅薄な知にとっても浅薄な性格にとってもありがたいものはなかったし、あんなにもありがたく利用されたものはなかった。
真なるものを知らず、そしてただ現象するもの、時間的なもの及び偶然的なもののみ――ただ空しいもののみを認識するといったこの空しさが哲学のなかでのさばってきたし、われわれの時代においてもなおのさばって、大きな口をきいているのである。哲学がドイツにおいて頭角をあらわしはじめて以来、そのような見解、理性的認識のそのような断念がこんなにものさばりはびこりうるほどのひどい様をこの学問が見せたためしはなかったと言ってよい。―― それは前の時期から今にずれ込んできた見解なのであって、純正な感情、新しい実体的な精神とはまったく相容れぬものである。
一つのより純正な精神のこの黎明を私は喜び迎え、私はわれわれの踏んでいく道において首尾よく諸君の信頼を得、それに価せんことを望む。
だが、差し当たりは私としては諸君が学問への信頼、理性への信念、自己自身への信頼と信念をもってきてくれることを要求しうるだけである。真理の勇気、精神の力への信念は哲学研究の第一の条件である。人間は自己自身を敬い、そして自己を最高のものにふさわしいものと見なすべきである。精神の偉大さと力については人間はそれをどんなに大きく考えても過ぎることはありえない。宇宙の閉ざされた本質は認識の勇気にさからいうるいかなる力をも内に持たない。それはこの勇気の前に開かれ、その富とその深みを眼前にさらけて享受させるに違いない。
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