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ミネルヴァの梟は黄昏がせまってその飛翔をはじめる

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ブログの変更

 12月7日から「OCN」へ変更します。気分も新たに、日に新たに新しいブログを始めたいと思っています。ブログ名はHEGELRENISSANCEです。最後に次の言葉は誠に今日的なものだと思います。
 
 ロゴスはあるのに、人々は気づいていない。このロゴスはこのとおりのものであるのに、人々はいつも覚ることがない、聞く前も、はじめて聞いたその後でも。

 なぜなら、すべてのものはこのロゴスに従って、生じているのだ、そして、人々は、私が今自然本性に従って、それぞれのものを弁別し、それぞれのものがどのようにあるかを述べているようなことを、言葉

においても、実際にも、経験しているにもかかわらず、まるで経験していないかのようだからだ。

                                  ヘラクレイトス断片集より

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哲学カフェについて

 最近、哲学カフェという場所が増えてきていますが、このような場所がいはゆる首都圏だけではなく、直ぐいけるというような所にできるといいのではと思う今日この頃です。

 みなさんが住んでおられるところに「哲学カフェ」というような場所があれば、その住所地やどのような内容なのかを、教えていただければ嬉しく思います。

   今年もつたない投稿をすることをお許しください。
 ここに載せた言葉は、私にとって「哲学の必需」が、複数性の中でしか生きていけない人類の思考能力が、いかに必然的であるか我々に教えているかと思うからです。
            
              ベルリン大学就任演説
          Konzept der Rede beim Antritt des philosophischen
           Lehramtes an der Universität Berlin
             (Einleitung zur Enzyklopädie-Vorlesung)
                   22. Okt. 1818
          ベルリン大学における哲学教官就任に際しての告辞

 諸君!
 国王陛下の仁慈によって哲学教官の職に召され、私は今日はじめて当地の大学で講壇に立つのであるが、この際あらかじめ一言、前置きを述べることを許されたい。即ちあたかもこの時機に、かつまたまさに当地で、より広汎なアカデミックな活動に入ることを私がとりわけ望ましく、またうれしく思ったということについてである。
 
 時機について言うならば、哲学が再び注目と愛を自らに期待してもよいような状況―このほとんど黙り込んでいた学問がその声を再びあげることのできるような状況が現れたように見える。けだし、しばらく前は一方では時代の逼迫が日常生活のもろもろの小さな関心事に余りにも大きな働きをもたせ、他方では現実のもろもろの高い関心事、即ち先ず国民生活と国家との政治的全体を復興し護持しようとする関心と闘争は精神のあらゆる能力、あらゆる身分の力、ならびに外的な諸資力が余りにも多く用いられたがために、精神の内的生活は落ち着きを得ることができなかったからである。

 現実のうちに余りにも忙殺され、外へ引っ張られた世界精神は内へ、そして自己自身へ身を向けて、それ固有の故里に悠々自適することを妨げられていた。現実のこの潮流が断ち切れて、ドイツ国民があらゆる活きた生活の基礎であるその国民的存立をとにかくも護持した後の今は、国家の中で現実的世界の統治とならんで、思想の自由な王国もまた独自に栄える時がはじまった。そして総じて精神の力が広く時代においてものを言うにいたり、みずからを今、保ちうるものはただもろもろの理念とこれらの理念に適ったもののみであり、通用すべきものならばそれは洞察と思想の前でみずからの正当性を明らかにしなければならなくなっている。
 そしてわけても、このたび私を迎え入れてくれたこの国家こそは精神的優越によって現実においてまた政治において重きをなすにいたった国家であり、外的な資力の点ではそれを凌いでいたかもしれぬような諸国家に対して権力と独立性の点で肩を並べるにいたった国家である。ここでは諸学問の形成と繁栄は国家生活における最も本質的な諸契機そのものの一つである。中心地の大学である当地の大学においては、あらゆる精神形成の、またあらゆる学問と真理との中枢である哲学もまた然るべき地位と保護育成を享けねばならない。

 しかしながらこの国家の存在における一つの根本契機を成すところのものは単に精神的生活一般であるだけではなくて、詳しく言うならば、国民がその君主と一体となって独立のために、外国の無情な圧制の打破のために、そして自由のために戦ったあの大きな闘争が心の中でもっと高い次元で開始されたのである。精神の倫理的な力はみずからに気力を感じ、その旗を掲げて、このみずからの感情を強引な力として、また威力として現実に対して押し通した。われわれはわれわれの世代がこの感情―その中にあらゆる法的、道徳的及び宗教的なものが集中した感情―のうちに生き、振る舞い、そして働いたことをこの上もなくすばらしいことと評価しなければならない。―そのような深くかつ包括的な働きにおいて精神は自身のうちでそれにふさわしい品位にまで高まるのであって、生活の浅薄さと諸関心の浮薄さは滅び去り、洞察ともろもろの意見との皮相さは剥き出しとなって消えうせる。総じて心のうちへ入り込んだこの一段と深い真剣さこそは事実また哲学の真の地盤でもある。
 
 哲学に対立するものは一方では困窮と時局の諸関心への精神の没頭であるが、他面またもろもろの意見のむなしい思い上がりである。このむなしい思い上がりに占められた心は理性―理性は自身のものを求めることはしないのであるが―とは相容れない。この思い上がりは、実体的な内実を得ようとする努力が人間にとって必須となったとき、ただそのような内実だけが幅を利かしうるようになったときには、雲散霧消せざるを得ない。ところでわれわれはそのような実体的内実のうちに時代があるのを見、またしても核が形成されるのを見たのであって、この核のあらゆる面、政治的、倫理的、宗教的、学問的面でのいっそうの展開はわれわれの時代に託された課題なのである。

 われわれの使命と要務は哲学的展開の助成であり、今や若返って力づいた実体的基盤の開発である。基盤のこの若返りはその効き目とあらわれを差し当たり先ず政治的実現において見せたが、さらに進んでそれはいっそう大きな倫理的及び宗教的真剣さのうちに現れるのであり、一切の生活関係に向けて出された純正さと根本性一般の要請のうちに見られるのであって、最も純正な真剣さはその真のあり方においては真理の真剣さ、認識の真剣さである。この欲求は精神的なたちのものを単に感覚的かつ享受的なだけのたちのものから区別するものであって、まさにその故にこそ精神の最も深いものである。それは潜在的に普遍的な欲求であり、時代の真剣さがそれをいっそう深くかき立てたというところもあれば、またそれはドイツ的精神の比較的身近な財産でもある。哲学の教養におけるドイツ人の卓抜さについて言うならば。
けだし爾余の諸国民のところでのこの研究の状態とこの名誉の名称の意義を見ればわかるように、名称はまだそれらの国民のところで保たれてはきたが、その意味を変えたのであって、実質は頽れて消え去り、しかも、それに関するどんな記憶も観念もほとんど残っていないほどなのである。この学問はドイツ人のもとへ逃げてきて、ただなお彼らのうちでのみ生き延びている。われわれにこの聖なる光の護持は託されているのであって、この光を護り育てて、人間の所有しうる至高のもの、即ち彼の本質の自覚が消滅し絶滅しないように配慮することはわれわれの使命である。

 ところがドイツにおいてすら国の再生に先立つ以前の時代の浅薄さは、真理の認識は存在しないと見つけこれを証明したつもりで、そう断定するまでにいたった。即ちそれによれば、世界と精神との本質である神は把握されないもの、把捉し得ないものであり、精神は宗教のところに、そして宗教は理性知抜きの信仰、感情、微かな感通のところにとどまっていなければならず、認識の働きは絶対的なもののなんたるか―神の何たるか、また自然および精神のうちなる真にして絶対的なるものの何たるかにはかかわらず、むしろ何一つ心なるものは認識されえず、ただ真ならぬもの、時間的なもの、過ぎ行くもののみが認識されるいわば特権を享けると言った否定的な事柄にのみもっぱらかかわったり、あるいは、本来そうしたもののうちにはいるもの、つまり外的なもの、即ち歴史的なもの(Das Historische)、独りよがりのいわゆる認識なるものがあらわれた偶然的な事情にかかわったりするのであって、まさにこのような認識こそはただ何か歴史的なものとのみ解されるべきであり、そしてあの外的な諸側面について批判的に且つ学究的に調べられるべきであって、その内容はまともには問題になりえない。―以上が彼らの説である。彼らはローマの地方総督ピラトと同じところまできたのである。ピラトはキリストが真理という言葉を口にするのを聞くや、あたかも、そのような言葉にはけりをつけて、真理の認識などは存在しないと知る者のつもりで、「真理とは何ぞ?」 の問いでそれに答えたものである。そういうわけで、昔から最も恥ずかしくみっともないこととされてきた真理認識の断念はわれわれの時代によって精神の最高の勝利に高められた。
 理性への絶望は、そこにまで到達した当座はまだ痛みと悲しみをともなっていたが、しかし程なく宗教的および倫理的軽薄、そしてその次には自らを啓蒙と称した知の平板と浅薄はあけすけに自らの無力を認め、そしてより高い関心事の根本的忘却を自慢にし、―そしてその挙句の果てにいわゆる批判哲学は永遠にして神的なもののこの無知をいい気にさせた。
というのは、この哲学は永遠にして神的なものについては、真なるものについては、何も知られえないと 
 証明したと請合ったからである。この思い誤った認識は哲学という名称をすら我がもの顔に僭称したのであって、あたかもこの無知、この浅薄と浮薄をこそすばらしいものと言いふらし、あらゆる知的努力の目標であり成果であると称したこの教説ほど浅薄な知にとっても浅薄な性格にとってもありがたいものはなかったし、あんなにもありがたく利用されたものはなかった。
 
 真なるものを知らず、そしてただ現象するもの、時間的なもの及び偶然的なもののみ――ただ空しいもののみを認識するといったこの空しさが哲学のなかでのさばってきたし、われわれの時代においてもなおのさばって、大きな口をきいているのである。哲学がドイツにおいて頭角をあらわしはじめて以来、そのような見解、理性的認識のそのような断念がこんなにものさばりはびこりうるほどのひどい様をこの学問が見せたためしはなかったと言ってよい。―― それは前の時期から今にずれ込んできた見解なのであって、純正な感情、新しい実体的な精神とはまったく相容れぬものである。

 一つのより純正な精神のこの黎明を私は喜び迎え、私はわれわれの踏んでいく道において首尾よく諸君の信頼を得、それに価せんことを望む。
 
 だが、差し当たりは私としては諸君が学問への信頼、理性への信念、自己自身への信頼と信念をもってきてくれることを要求しうるだけである。真理の勇気、精神の力への信念は哲学研究の第一の条件である。人間は自己自身を敬い、そして自己を最高のものにふさわしいものと見なすべきである。精神の偉大さと力については人間はそれをどんなに大きく考えても過ぎることはありえない。宇宙の閉ざされた本質は認識の勇気にさからいうるいかなる力をも内に持たない。それはこの勇気の前に開かれ、その富とその深みを眼前にさらけて享受させるに違いない。

公的空間と人倫の喪失

                公的空間と人倫の喪失
1 
 これを防ぐには、それぞれが拡大された心性でもって「半ばは自己の幸せを、半ばは他人(人)の幸せを」願う活動的人間を要請し、この世界は単独の世界ではなく、常に複数性の世界であることを客観的事実として意志することだろうと思われます。

 そして、必要なのはイソノミアによる複数性を基にした横断的理性です。この横断的理性はしばしば家族に固有に見られる様相ですが、家族にあっては真に政治的なものは存在しません。また、その家族の成員が社会においてそれぞれの組織に入り組織体として行動したとしても、その組織には政治的なものは存在しません。なぜならこれらは大なり小なり家族や組織にとっての利害関係にとらわれているからです。
 
 政治的なものとは、家族や家族の成員のための利害関係を問い、その答えを得る空間ではありません。また、組織や組織の成員の利害を求めるものではありません。政治的なものとは、アーレントの言う自由の本質を具現化するものですから。

2 
 公的空間は我と言う単独ではなく我々という複数によって成り立っているということを未来にわたって認識していることが必要であろうと考えます。この公的空間においてこそ有機的生命体は他者から見られるという現れを生じさせるのです。
 
 この現れという事実こそが「思考」の始まりなのです。歌を忘れたカナリアはそれでもカナリアですが、思考を忘れた有機的生命体は、もはや有機的生命体ではなく無機的生命体へと崩壊してしまうのです。思考の欠如がアーレントのいう「悪の凡庸さ」を招くのです。

3 
 まず、ハイデッガーの述べる
『今日では存在忘却と存在者の組織化、悪用という迷誤が地上を覆っている。そしてだからこそ、そこに「指導者」というものが必然的に要求され、存在者を大規模に濫用する「指導」の任務がその人に課せられ様々な計画や企ての追及によって空虚を埋める試みがなされるようになる。かくして大地は「迷誤の巣食う怪物」のような世界となって現れる』ということを、参考としてみましょう。
 
 この一文は、現在の社会に現前するあらゆる存在の中での資本主義社会によって代表される市場原理主義下での「不平等」や「格差」「同一性と非同一性の区別」「差異と区別の混同」といった様相を端的に表現しているのではないでしょうか。そして、このような考え方の結果、次のような「自己疎外」や「人間疎外」ひいては「世界疎外」が生じやすくなります。
 
 つまりティラーの言う「我々の自己同一性は一部には、他人による承認、あるいはその不在、更には、しばしば歪められた承認によって形作られるのであって、個人や集団は、もし彼らを取り巻く人々や社会が、彼らに対し、彼についての不十分な、あるいは不名誉な、或いは卑しむべき像を投影するならば、現実に被害や歪曲を被るというべきものである。不承認や歪められた承認は、害を与え抑圧の一形態となりうるのであり、それはその人を、偽りの歪められ切り詰められた存在の形態の中に閉じ込めるのである」ということです。
 
 この結果、全体主義的国家にも似た市場原理主義の弊害として現前してくる官公庁や企業などといった組織、組織に属する個々の人や一個人においての様々な各種の犯罪行為や事件は負の遺産として観ることもできるでしょう。
 
 また、一元的な価値が支配していく現在の様相の中における人々は、それぞれがよく似た存在となり、互いに孤立し、自分の殻に閉じこもるようになり、自らの自由や生活がいかに社会や同胞によって支えられているかを忘れた膨大な大衆(個々の人)と呼ばれる人々の他者の干渉を嫌う権利意識は強まるが、他者を配慮する倫理的責任感は消失し、公共的活動から退却していくと、アーレントなら言うであろう。
  
 司馬遷は「史記」において次のように記述している。「群雄割拠の古代中国の春秋時代、一つの国の王は、得意にして誇らしげに他国からの侵略戦争において自説を述べたが、誰一人としてその説に批判や意見や反論もせずにいることに満足し、重臣たちの聞く耳に心地よい言葉によってますます独断的になり自説によって侵略戦争に備えたが、その国は一年ももたずに侵略されて亡び、兵をはじめ人民の一部は殺され暴行され、一部は奴隷となった。もう一つの国の王は、この侵略戦争について自説を述べたが多くの重臣の誰一人として反対意見や批判をする者がいないことに国の行く末、人民の行く末を憂い、自らが策を練り侵略戦争に備えて政治的解決を図ったが故に、自らは死して人民の行く末を安泰にさせた」と。
 
 ここには「思考」「批判や意見」「同一性と非同一性」「複数性の見地やパースペクティブ」の必要性や重要性などといったものが端的に現わされています。
 
 普遍的原理への同一化や常に意見の一致を求めその意見に批判する者は非同一化とするような概念は、支配集団の特定の見地の絶対化や普遍化を隠蔽する機能を果たし、同時にその普遍主義の偽装が個々の集団、個々の人のアイデンティティーや差異を抑圧し、複数の見地やパースペクティブを排除してしまうことになり、自己疎外や人間疎外、世界疎外を発生せしめるということは、有史以来の歴史において証明されていることを知っているのではなく、認識しなければならない。
  
 また、人間はヘラクレスのごとく道徳への道か背徳(自愛)への道かを選択しなければならないが、この選択をするに際しての動機への一つである意志についても次のように言える。
「意志は、もしそれが機能するとすれば、実際一つでなければならないし、不可分でなければならない。様々な意見の間で可能であるような調整は、さまざまな意志の間では不可能である。一般意思というこの人民の意志の顕著な特質は意志の完全一致を言う。フランス革命においてロベスピエールが『世論』について語ったとき、その意味は一般意思の完全一致であった」と。
 
 そして「すべての意見が同じになったところでは、意見の形成は不可能になる。そして意見を全員一致のものにつくり変える『強い人間』が待ち受けられるようになったとき、すべての意見は死ぬ」と言われるように、全員一致の意見ほど危険なものはない、という事実は先の世界大戦における旧日本軍の内容であり、大本営が発表する内容もまた然りであった。そして、そこに存在する人間もまた然りであった。
   
 さて、われわれは誕生とともに「公的空間」に属してその生を他者とともに育んで来ているのですが、そのことの事実を理解しようとしないわれわれが多数存在しているのもまた事実です。そしてこのことは、公的空間ではなく自分の空間、つまり「私的空間」の中で生活していると理解しているのです。
 
 公的空間の必要性については、アーレントが強く望んだものですが、今この公的空間という認識を持って政治に望んでいる人々が何人いるでしょう。昨今の政治情勢を見るに「あげつらう」政治的発言はあっても、政治の本質である「自由」を公的空間において現前させると言う政治的発言を聞くことはないと言ってもいいでしょう。
 
 この公的空間は、一部のものが作り与えるものではありません。われわれが「相互に作り出して」いくものなのです。しかし、現状はそうなっていない。支配集団の特定の見地の絶対化、個々の人のアイデンティティーや差異性を抑圧し、複数の見地やパースペクティブを排除し、顔の見えない「組織」という名のもとにすべての意見を一致させてしまう構造の中では、理性は日陰に追いやられ「強い人間」が日向に躍り出る様相の中では、理性的な在り方とは何かと問うことも不自然な感覚になってしまう。
 
 「愚直性」や「傾向性」「無思考性」「無思想性」などが横行し、事あるごとに「理性」が日陰から呼び戻される構造が支配的になっているこのような存在を無くすためには、他者を何かの「手段」として利用しないことである。そして、自由な意見の集成、多様な意見の集成、複数性に基づいたパースペクティブによって公共性や公開性を養うべきである。
 
 ミルは自由論において、「人間本性は、模型にならって組み立てられ、自己に定められた仕事だけを正確に行うように作られている機会ではない。人間本性は一本の樹木であり、それ自身を生命あるものとしている内面の力の趨勢に従って、あらゆる側面にわたってみずから成長し発展することを求めているものなのである」と、述べています。
 
 このことは、ロゴスとビオスにより公的空間が保たれていること、その公的空間においてしかこのロゴスやビオスが有意味性を持たないこと、この公的空間の創造者は自由なロゴスと自由なビオスを、人間の誕生とともに個別性・無比性において所持していることなどを言い表しています。そして今、市場原理主義によって個々の人や公的空間が脅かされているのです。そう、アメリカ型になりつつあるのです。

 確かに、資本主義システムは、他者を手段としか扱えない個人の在り方を要求していますが、この要求の結果に現われやすいのが次のようなことです。
 
 ここではテーゼがアンチテーゼとなり、アンチテーゼがテーゼとなりやすく、非同一性を避け同一化を求められる社会集団によって受けいれられ、それが自明の理として横たわっているのである。つまり、横断的理性が日陰に追いやられ、支配的理性が日向に躍り出て「強い人間」となってすべての意見を一致させる。
 
 そしてそこに組み込まれた代替え可能な歯車は「自己疎外]や「人間疎外」に陥り、この「疎外感」のなかにあっては意志も理性も見かけだけのものとなり、思考の欠如が生じ、自己と自己自身とのあいだの音声なき対話が絶え、内面的に思想性の空間もなくなり、市場原理主義という構造性に一元化されてしまい「無思想性」が結果し、自己のアイデンティティーをも喪失してしまい「疎外感」という「自己の殻」に閉じこもった人間にはもはやアリアドネの糸はなく、聖盃を求めてゴルゴタの丘をさまよい続けてしまうのである。
 
 そして、このことから「折り合い」をつける時、先ほど述べたごとく人間の意志は道徳(理性)の道と悖徳(自愛)の道との分岐点に立っており、ここにいずれの道を選ぶかという「意志の原理」というものが生じてくるのである。つまり、「道徳的政治家」になるか「政治的道徳家」になるか、ということである。ここに、ソクラテスの「悪をなすより、悪をなされるほうが良い」という道徳の概念があるのです。
 
 故に、われわれは、共通感覚、拡張された心性、イソノミアによる複数性、構想力、歴史が我々に残した範例的妥当性等などに基づいた判断力を、ミネルヴァの梟は黄昏が迫ってその飛翔を始めるその時に養わなければならないと同時に、一つの組織の個別的特殊的な倫理ではなく、ソクラテスの求めた「普遍的な」倫理を学ばなければならない必然性を感じるものです。

 アーレントの次の一文はまことに示唆的であり、公的空間に住まう我々人類に「思考すること」「自己と自己自身とのあいだの音声なき対話」の必要性や重要性を訴えているものと思うものです。

『思考とは数少ない人々の特権ではなく、すべての人に存在する能力なのです。同じ理由から、思考する能力に欠如していることは、どんな人にも常に存在する可能性なのです。問われているのは、大悪人とその罪ではありません。邪悪でないごくふつうの人のうちに、特別な動機がなくても、無限の悪をなす能力があることが重要なのです。何が「善であるか」を見失い、道徳が崩壊する瞬間において、人々が考えもせずに流されるとき、思考する人々が姿を現わします。そして別の人間的な能力、すなわち判断の能力を開放するのです。』

飲酒運転と思考

                   飲酒運転と思考
 
 福岡での飲酒運転事故による幼き三人の子供の命が奪われたことは、われわれ有機的生命にとってまさに思考とは何かということを投げかけているように思われる悲惨な事件でした。

1 飲酒運転防止
 日ごろから「飲んだら乗らない、飲むなら乗らない」を、意識していることが大事なのではと思われます。しかし、飲むと思考能力も飲酒の量とともに減退してしまい、理性を「お酒を飲む人」が忘れさせてしまい、理性的でなくなり非理性的な行動にでてしまうのではと考えられます。

2 安全運転
 運転するときは、法定・指定の速度において運転しているかを、わき見に至らない程度において確認する。そして、公務員は法によって仕事をしているわけですから特に法を執行していることを、常に「意識」のなかから離さないということを忘れないことが、重要だろうと思います。また、公務員でなくてもこれはとても重要な市民社会でのルールではないかとも思うものです。

3 その他
 そして、もし「核心」というものがあるとするならば、それは、成熟したとは言い難い市民社会や組織の内部の奥深くに根差している「コミニュケーシュン的行為の欠如」「相互承認の欠如」「同一性と非同一性による区別」

「差異による不承認」「差異性の排除」「組織という顔の無い支配の問題」「視野の広い思考様式の欠如」「共同空間の喪失」「公的領域の喪失」「他者性にたいする無思考性」「世界性の喪失」「世界疎外」「人間疎外」「価値相対性」「価値の転倒」「価値ニヒリズムの危険性」

「人間の思想性の認識論的基盤の流動化と不安定化」「全体主義化への胚胎」「数学的思考の普遍化」「共通の空間からの疎外」「現れの空間の欠如」「意見形成の不可能性」等など、さらにはまた現代の社会環境が生み出したとも言われる躁鬱症などに対する市民権の未熟、これらに対する精神医療の遅れ、

カウンセラーの不足、差異性を持った他者に対する配慮の欠如、「意見」の集積など皆無といってもいいような社会環境、この「意見」に関して、アーレントは次のように述べています。
 
「全ての意見が同じになったところでは、意見の形成は不可能になる。そして意見を全員一致のものに作り変える強い人間が待ち受けられるようになったとき、全ての意見は死ぬ」と。ここには「ヒトがヒトを生む」ことに対するアリストテレスの重要な概念が含まれていますが、今はそれを述べません。

 現代世界は、人々の「無世界性」「無思想性」を媒介としつつ、種々のプロセスの全体化、自己循環化、系統的組織化を推し進めている趨勢にあるといえます。そしてその趨勢は、経済的財・数学的財を自明の目標として措定しているといっても過言ではないでしょう。この措定のなかに市場原理主義というも

のが必然的に芽生え「価値の転倒」が現象してくるのもまた自明のことと言われます。この市場原理主義は、先に掲げたものをことごとく排除してしまい、ここに今流の言葉で言えば「勝ち組」「負け組み」というものを否応もなく現象させてきます。
 
 近代的自己は、一定の共同体の構成員になるように規格化=正常化を施され、ここでは正常化への同調を強いる集合的規範が働き、この要求を内面化して、自らの内部の抵抗する部分を抑圧し、ほかの人間にもこれを要求し、過剰に自己同定を行うアイデンティティーが、枠にはまりきらない存在を抑圧してしまうということも歴史が証明しています。

 以上のような「見えざる手」の支配(管理)、「画一性」による支配(管理)、複数性による「意見」の集積を垣間見ることもない非正常化、アンチテーゼがテーゼとなって通用する時もある社会を垣間見る昨今の状況下に身を曝しているという「圧迫感」「威圧感」「人間疎外感」「不信感」等などが、本来理性的

であるヒトからヒトを奪うという意識が理性を凌駕してしまう結果、そこから逃げよう忘れようとする開放感が人間精神の不安定を生じさせたその一瞬の時の行為が、速度違反や飲酒運転その他の各種犯罪行為を生み出しているのではと、考えることもできます。
 
 表題であるような外面的行為が現象するには必ずそれに対応する内面的行為が生じると言われています。この内面的行為を現象面のみで是正するのではなく、先に掲げた諸々の事柄を我々は考慮し、配慮し、内面的行為が「いかにあるべきか」を問うているか、さらには「内面的行為はなにによって生じうるのか」、ということを洞見しなければならないと思われます。
 
 原理的な価値が見失われ、事実的な価値が幅を利かせている人類を乗せた宇宙船地球号は、人間の本質、自然の本質、そして宇宙船地球号の乗組員である「人類の本質」を洞見することができるのでしょうか。
 
 表題に対する当を得たものとはなりませんでしたが、次の一文で終わりとします。
「我々の自己同一性は一部には、他人による承認、あるいはその不在、さらには、しばしば歪められた承認によって形作られるのであって、個人や集団は、もし彼らを取り巻く人々や社会が、彼らに対し、彼についての不十分な、あるいは不名誉な、或いは卑しむべき像を投影するならば、現実に被害や歪曲を被るというべきものである。不承認や歪められた承認は、害を与え抑圧の一形態となりうるのであり、それはその人を、偽りの歪められ切り詰められた存在の形態の中に閉じ込めるのである」
 
    そして、「ミネルヴァの梟は、黄昏がせまってその飛翔をはじめる」と。

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