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ミネルヴァの梟は黄昏がせまってその飛翔をはじめる

哲学の必需

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   今年もつたない投稿をすることをお許しください。
 ここに載せた言葉は、私にとって「哲学の必需」が、複数性の中でしか生きていけない人類の思考能力が、いかに必然的であるか我々に教えているかと思うからです。
            
              ベルリン大学就任演説
          Konzept der Rede beim Antritt des philosophischen
           Lehramtes an der Universität Berlin
             (Einleitung zur Enzyklopädie-Vorlesung)
                   22. Okt. 1818
          ベルリン大学における哲学教官就任に際しての告辞

 諸君!
 国王陛下の仁慈によって哲学教官の職に召され、私は今日はじめて当地の大学で講壇に立つのであるが、この際あらかじめ一言、前置きを述べることを許されたい。即ちあたかもこの時機に、かつまたまさに当地で、より広汎なアカデミックな活動に入ることを私がとりわけ望ましく、またうれしく思ったということについてである。
 
 時機について言うならば、哲学が再び注目と愛を自らに期待してもよいような状況―このほとんど黙り込んでいた学問がその声を再びあげることのできるような状況が現れたように見える。けだし、しばらく前は一方では時代の逼迫が日常生活のもろもろの小さな関心事に余りにも大きな働きをもたせ、他方では現実のもろもろの高い関心事、即ち先ず国民生活と国家との政治的全体を復興し護持しようとする関心と闘争は精神のあらゆる能力、あらゆる身分の力、ならびに外的な諸資力が余りにも多く用いられたがために、精神の内的生活は落ち着きを得ることができなかったからである。

 現実のうちに余りにも忙殺され、外へ引っ張られた世界精神は内へ、そして自己自身へ身を向けて、それ固有の故里に悠々自適することを妨げられていた。現実のこの潮流が断ち切れて、ドイツ国民があらゆる活きた生活の基礎であるその国民的存立をとにかくも護持した後の今は、国家の中で現実的世界の統治とならんで、思想の自由な王国もまた独自に栄える時がはじまった。そして総じて精神の力が広く時代においてものを言うにいたり、みずからを今、保ちうるものはただもろもろの理念とこれらの理念に適ったもののみであり、通用すべきものならばそれは洞察と思想の前でみずからの正当性を明らかにしなければならなくなっている。
 そしてわけても、このたび私を迎え入れてくれたこの国家こそは精神的優越によって現実においてまた政治において重きをなすにいたった国家であり、外的な資力の点ではそれを凌いでいたかもしれぬような諸国家に対して権力と独立性の点で肩を並べるにいたった国家である。ここでは諸学問の形成と繁栄は国家生活における最も本質的な諸契機そのものの一つである。中心地の大学である当地の大学においては、あらゆる精神形成の、またあらゆる学問と真理との中枢である哲学もまた然るべき地位と保護育成を享けねばならない。

 しかしながらこの国家の存在における一つの根本契機を成すところのものは単に精神的生活一般であるだけではなくて、詳しく言うならば、国民がその君主と一体となって独立のために、外国の無情な圧制の打破のために、そして自由のために戦ったあの大きな闘争が心の中でもっと高い次元で開始されたのである。精神の倫理的な力はみずからに気力を感じ、その旗を掲げて、このみずからの感情を強引な力として、また威力として現実に対して押し通した。われわれはわれわれの世代がこの感情―その中にあらゆる法的、道徳的及び宗教的なものが集中した感情―のうちに生き、振る舞い、そして働いたことをこの上もなくすばらしいことと評価しなければならない。―そのような深くかつ包括的な働きにおいて精神は自身のうちでそれにふさわしい品位にまで高まるのであって、生活の浅薄さと諸関心の浮薄さは滅び去り、洞察ともろもろの意見との皮相さは剥き出しとなって消えうせる。総じて心のうちへ入り込んだこの一段と深い真剣さこそは事実また哲学の真の地盤でもある。
 
 哲学に対立するものは一方では困窮と時局の諸関心への精神の没頭であるが、他面またもろもろの意見のむなしい思い上がりである。このむなしい思い上がりに占められた心は理性―理性は自身のものを求めることはしないのであるが―とは相容れない。この思い上がりは、実体的な内実を得ようとする努力が人間にとって必須となったとき、ただそのような内実だけが幅を利かしうるようになったときには、雲散霧消せざるを得ない。ところでわれわれはそのような実体的内実のうちに時代があるのを見、またしても核が形成されるのを見たのであって、この核のあらゆる面、政治的、倫理的、宗教的、学問的面でのいっそうの展開はわれわれの時代に託された課題なのである。

 われわれの使命と要務は哲学的展開の助成であり、今や若返って力づいた実体的基盤の開発である。基盤のこの若返りはその効き目とあらわれを差し当たり先ず政治的実現において見せたが、さらに進んでそれはいっそう大きな倫理的及び宗教的真剣さのうちに現れるのであり、一切の生活関係に向けて出された純正さと根本性一般の要請のうちに見られるのであって、最も純正な真剣さはその真のあり方においては真理の真剣さ、認識の真剣さである。この欲求は精神的なたちのものを単に感覚的かつ享受的なだけのたちのものから区別するものであって、まさにその故にこそ精神の最も深いものである。それは潜在的に普遍的な欲求であり、時代の真剣さがそれをいっそう深くかき立てたというところもあれば、またそれはドイツ的精神の比較的身近な財産でもある。哲学の教養におけるドイツ人の卓抜さについて言うならば。
けだし爾余の諸国民のところでのこの研究の状態とこの名誉の名称の意義を見ればわかるように、名称はまだそれらの国民のところで保たれてはきたが、その意味を変えたのであって、実質は頽れて消え去り、しかも、それに関するどんな記憶も観念もほとんど残っていないほどなのである。この学問はドイツ人のもとへ逃げてきて、ただなお彼らのうちでのみ生き延びている。われわれにこの聖なる光の護持は託されているのであって、この光を護り育てて、人間の所有しうる至高のもの、即ち彼の本質の自覚が消滅し絶滅しないように配慮することはわれわれの使命である。

 ところがドイツにおいてすら国の再生に先立つ以前の時代の浅薄さは、真理の認識は存在しないと見つけこれを証明したつもりで、そう断定するまでにいたった。即ちそれによれば、世界と精神との本質である神は把握されないもの、把捉し得ないものであり、精神は宗教のところに、そして宗教は理性知抜きの信仰、感情、微かな感通のところにとどまっていなければならず、認識の働きは絶対的なもののなんたるか―神の何たるか、また自然および精神のうちなる真にして絶対的なるものの何たるかにはかかわらず、むしろ何一つ心なるものは認識されえず、ただ真ならぬもの、時間的なもの、過ぎ行くもののみが認識されるいわば特権を享けると言った否定的な事柄にのみもっぱらかかわったり、あるいは、本来そうしたもののうちにはいるもの、つまり外的なもの、即ち歴史的なもの(Das Historische)、独りよがりのいわゆる認識なるものがあらわれた偶然的な事情にかかわったりするのであって、まさにこのような認識こそはただ何か歴史的なものとのみ解されるべきであり、そしてあの外的な諸側面について批判的に且つ学究的に調べられるべきであって、その内容はまともには問題になりえない。―以上が彼らの説である。彼らはローマの地方総督ピラトと同じところまできたのである。ピラトはキリストが真理という言葉を口にするのを聞くや、あたかも、そのような言葉にはけりをつけて、真理の認識などは存在しないと知る者のつもりで、「真理とは何ぞ?」 の問いでそれに答えたものである。そういうわけで、昔から最も恥ずかしくみっともないこととされてきた真理認識の断念はわれわれの時代によって精神の最高の勝利に高められた。
 理性への絶望は、そこにまで到達した当座はまだ痛みと悲しみをともなっていたが、しかし程なく宗教的および倫理的軽薄、そしてその次には自らを啓蒙と称した知の平板と浅薄はあけすけに自らの無力を認め、そしてより高い関心事の根本的忘却を自慢にし、―そしてその挙句の果てにいわゆる批判哲学は永遠にして神的なもののこの無知をいい気にさせた。
というのは、この哲学は永遠にして神的なものについては、真なるものについては、何も知られえないと 
 証明したと請合ったからである。この思い誤った認識は哲学という名称をすら我がもの顔に僭称したのであって、あたかもこの無知、この浅薄と浮薄をこそすばらしいものと言いふらし、あらゆる知的努力の目標であり成果であると称したこの教説ほど浅薄な知にとっても浅薄な性格にとってもありがたいものはなかったし、あんなにもありがたく利用されたものはなかった。
 
 真なるものを知らず、そしてただ現象するもの、時間的なもの及び偶然的なもののみ――ただ空しいもののみを認識するといったこの空しさが哲学のなかでのさばってきたし、われわれの時代においてもなおのさばって、大きな口をきいているのである。哲学がドイツにおいて頭角をあらわしはじめて以来、そのような見解、理性的認識のそのような断念がこんなにものさばりはびこりうるほどのひどい様をこの学問が見せたためしはなかったと言ってよい。―― それは前の時期から今にずれ込んできた見解なのであって、純正な感情、新しい実体的な精神とはまったく相容れぬものである。

 一つのより純正な精神のこの黎明を私は喜び迎え、私はわれわれの踏んでいく道において首尾よく諸君の信頼を得、それに価せんことを望む。
 
 だが、差し当たりは私としては諸君が学問への信頼、理性への信念、自己自身への信頼と信念をもってきてくれることを要求しうるだけである。真理の勇気、精神の力への信念は哲学研究の第一の条件である。人間は自己自身を敬い、そして自己を最高のものにふさわしいものと見なすべきである。精神の偉大さと力については人間はそれをどんなに大きく考えても過ぎることはありえない。宇宙の閉ざされた本質は認識の勇気にさからいうるいかなる力をも内に持たない。それはこの勇気の前に開かれ、その富とその深みを眼前にさらけて享受させるに違いない。

公的空間と人倫の喪失

                公的空間と人倫の喪失
1 
 これを防ぐには、それぞれが拡大された心性でもって「半ばは自己の幸せを、半ばは他人(人)の幸せを」願う活動的人間を要請し、この世界は単独の世界ではなく、常に複数性の世界であることを客観的事実として意志することだろうと思われます。

 そして、必要なのはイソノミアによる複数性を基にした横断的理性です。この横断的理性はしばしば家族に固有に見られる様相ですが、家族にあっては真に政治的なものは存在しません。また、その家族の成員が社会においてそれぞれの組織に入り組織体として行動したとしても、その組織には政治的なものは存在しません。なぜならこれらは大なり小なり家族や組織にとっての利害関係にとらわれているからです。
 
 政治的なものとは、家族や家族の成員のための利害関係を問い、その答えを得る空間ではありません。また、組織や組織の成員の利害を求めるものではありません。政治的なものとは、アーレントの言う自由の本質を具現化するものですから。

2 
 公的空間は我と言う単独ではなく我々という複数によって成り立っているということを未来にわたって認識していることが必要であろうと考えます。この公的空間においてこそ有機的生命体は他者から見られるという現れを生じさせるのです。
 
 この現れという事実こそが「思考」の始まりなのです。歌を忘れたカナリアはそれでもカナリアですが、思考を忘れた有機的生命体は、もはや有機的生命体ではなく無機的生命体へと崩壊してしまうのです。思考の欠如がアーレントのいう「悪の凡庸さ」を招くのです。

3 
 まず、ハイデッガーの述べる
『今日では存在忘却と存在者の組織化、悪用という迷誤が地上を覆っている。そしてだからこそ、そこに「指導者」というものが必然的に要求され、存在者を大規模に濫用する「指導」の任務がその人に課せられ様々な計画や企ての追及によって空虚を埋める試みがなされるようになる。かくして大地は「迷誤の巣食う怪物」のような世界となって現れる』ということを、参考としてみましょう。
 
 この一文は、現在の社会に現前するあらゆる存在の中での資本主義社会によって代表される市場原理主義下での「不平等」や「格差」「同一性と非同一性の区別」「差異と区別の混同」といった様相を端的に表現しているのではないでしょうか。そして、このような考え方の結果、次のような「自己疎外」や「人間疎外」ひいては「世界疎外」が生じやすくなります。
 
 つまりティラーの言う「我々の自己同一性は一部には、他人による承認、あるいはその不在、更には、しばしば歪められた承認によって形作られるのであって、個人や集団は、もし彼らを取り巻く人々や社会が、彼らに対し、彼についての不十分な、あるいは不名誉な、或いは卑しむべき像を投影するならば、現実に被害や歪曲を被るというべきものである。不承認や歪められた承認は、害を与え抑圧の一形態となりうるのであり、それはその人を、偽りの歪められ切り詰められた存在の形態の中に閉じ込めるのである」ということです。
 
 この結果、全体主義的国家にも似た市場原理主義の弊害として現前してくる官公庁や企業などといった組織、組織に属する個々の人や一個人においての様々な各種の犯罪行為や事件は負の遺産として観ることもできるでしょう。
 
 また、一元的な価値が支配していく現在の様相の中における人々は、それぞれがよく似た存在となり、互いに孤立し、自分の殻に閉じこもるようになり、自らの自由や生活がいかに社会や同胞によって支えられているかを忘れた膨大な大衆(個々の人)と呼ばれる人々の他者の干渉を嫌う権利意識は強まるが、他者を配慮する倫理的責任感は消失し、公共的活動から退却していくと、アーレントなら言うであろう。
  
 司馬遷は「史記」において次のように記述している。「群雄割拠の古代中国の春秋時代、一つの国の王は、得意にして誇らしげに他国からの侵略戦争において自説を述べたが、誰一人としてその説に批判や意見や反論もせずにいることに満足し、重臣たちの聞く耳に心地よい言葉によってますます独断的になり自説によって侵略戦争に備えたが、その国は一年ももたずに侵略されて亡び、兵をはじめ人民の一部は殺され暴行され、一部は奴隷となった。もう一つの国の王は、この侵略戦争について自説を述べたが多くの重臣の誰一人として反対意見や批判をする者がいないことに国の行く末、人民の行く末を憂い、自らが策を練り侵略戦争に備えて政治的解決を図ったが故に、自らは死して人民の行く末を安泰にさせた」と。
 
 ここには「思考」「批判や意見」「同一性と非同一性」「複数性の見地やパースペクティブ」の必要性や重要性などといったものが端的に現わされています。
 
 普遍的原理への同一化や常に意見の一致を求めその意見に批判する者は非同一化とするような概念は、支配集団の特定の見地の絶対化や普遍化を隠蔽する機能を果たし、同時にその普遍主義の偽装が個々の集団、個々の人のアイデンティティーや差異を抑圧し、複数の見地やパースペクティブを排除してしまうことになり、自己疎外や人間疎外、世界疎外を発生せしめるということは、有史以来の歴史において証明されていることを知っているのではなく、認識しなければならない。
  
 また、人間はヘラクレスのごとく道徳への道か背徳(自愛)への道かを選択しなければならないが、この選択をするに際しての動機への一つである意志についても次のように言える。
「意志は、もしそれが機能するとすれば、実際一つでなければならないし、不可分でなければならない。様々な意見の間で可能であるような調整は、さまざまな意志の間では不可能である。一般意思というこの人民の意志の顕著な特質は意志の完全一致を言う。フランス革命においてロベスピエールが『世論』について語ったとき、その意味は一般意思の完全一致であった」と。
 
 そして「すべての意見が同じになったところでは、意見の形成は不可能になる。そして意見を全員一致のものにつくり変える『強い人間』が待ち受けられるようになったとき、すべての意見は死ぬ」と言われるように、全員一致の意見ほど危険なものはない、という事実は先の世界大戦における旧日本軍の内容であり、大本営が発表する内容もまた然りであった。そして、そこに存在する人間もまた然りであった。
   
 さて、われわれは誕生とともに「公的空間」に属してその生を他者とともに育んで来ているのですが、そのことの事実を理解しようとしないわれわれが多数存在しているのもまた事実です。そしてこのことは、公的空間ではなく自分の空間、つまり「私的空間」の中で生活していると理解しているのです。
 
 公的空間の必要性については、アーレントが強く望んだものですが、今この公的空間という認識を持って政治に望んでいる人々が何人いるでしょう。昨今の政治情勢を見るに「あげつらう」政治的発言はあっても、政治の本質である「自由」を公的空間において現前させると言う政治的発言を聞くことはないと言ってもいいでしょう。
 
 この公的空間は、一部のものが作り与えるものではありません。われわれが「相互に作り出して」いくものなのです。しかし、現状はそうなっていない。支配集団の特定の見地の絶対化、個々の人のアイデンティティーや差異性を抑圧し、複数の見地やパースペクティブを排除し、顔の見えない「組織」という名のもとにすべての意見を一致させてしまう構造の中では、理性は日陰に追いやられ「強い人間」が日向に躍り出る様相の中では、理性的な在り方とは何かと問うことも不自然な感覚になってしまう。
 
 「愚直性」や「傾向性」「無思考性」「無思想性」などが横行し、事あるごとに「理性」が日陰から呼び戻される構造が支配的になっているこのような存在を無くすためには、他者を何かの「手段」として利用しないことである。そして、自由な意見の集成、多様な意見の集成、複数性に基づいたパースペクティブによって公共性や公開性を養うべきである。
 
 ミルは自由論において、「人間本性は、模型にならって組み立てられ、自己に定められた仕事だけを正確に行うように作られている機会ではない。人間本性は一本の樹木であり、それ自身を生命あるものとしている内面の力の趨勢に従って、あらゆる側面にわたってみずから成長し発展することを求めているものなのである」と、述べています。
 
 このことは、ロゴスとビオスにより公的空間が保たれていること、その公的空間においてしかこのロゴスやビオスが有意味性を持たないこと、この公的空間の創造者は自由なロゴスと自由なビオスを、人間の誕生とともに個別性・無比性において所持していることなどを言い表しています。そして今、市場原理主義によって個々の人や公的空間が脅かされているのです。そう、アメリカ型になりつつあるのです。

 確かに、資本主義システムは、他者を手段としか扱えない個人の在り方を要求していますが、この要求の結果に現われやすいのが次のようなことです。
 
 ここではテーゼがアンチテーゼとなり、アンチテーゼがテーゼとなりやすく、非同一性を避け同一化を求められる社会集団によって受けいれられ、それが自明の理として横たわっているのである。つまり、横断的理性が日陰に追いやられ、支配的理性が日向に躍り出て「強い人間」となってすべての意見を一致させる。
 
 そしてそこに組み込まれた代替え可能な歯車は「自己疎外]や「人間疎外」に陥り、この「疎外感」のなかにあっては意志も理性も見かけだけのものとなり、思考の欠如が生じ、自己と自己自身とのあいだの音声なき対話が絶え、内面的に思想性の空間もなくなり、市場原理主義という構造性に一元化されてしまい「無思想性」が結果し、自己のアイデンティティーをも喪失してしまい「疎外感」という「自己の殻」に閉じこもった人間にはもはやアリアドネの糸はなく、聖盃を求めてゴルゴタの丘をさまよい続けてしまうのである。
 
 そして、このことから「折り合い」をつける時、先ほど述べたごとく人間の意志は道徳(理性)の道と悖徳(自愛)の道との分岐点に立っており、ここにいずれの道を選ぶかという「意志の原理」というものが生じてくるのである。つまり、「道徳的政治家」になるか「政治的道徳家」になるか、ということである。ここに、ソクラテスの「悪をなすより、悪をなされるほうが良い」という道徳の概念があるのです。
 
 故に、われわれは、共通感覚、拡張された心性、イソノミアによる複数性、構想力、歴史が我々に残した範例的妥当性等などに基づいた判断力を、ミネルヴァの梟は黄昏が迫ってその飛翔を始めるその時に養わなければならないと同時に、一つの組織の個別的特殊的な倫理ではなく、ソクラテスの求めた「普遍的な」倫理を学ばなければならない必然性を感じるものです。

 アーレントの次の一文はまことに示唆的であり、公的空間に住まう我々人類に「思考すること」「自己と自己自身とのあいだの音声なき対話」の必要性や重要性を訴えているものと思うものです。

『思考とは数少ない人々の特権ではなく、すべての人に存在する能力なのです。同じ理由から、思考する能力に欠如していることは、どんな人にも常に存在する可能性なのです。問われているのは、大悪人とその罪ではありません。邪悪でないごくふつうの人のうちに、特別な動機がなくても、無限の悪をなす能力があることが重要なのです。何が「善であるか」を見失い、道徳が崩壊する瞬間において、人々が考えもせずに流されるとき、思考する人々が姿を現わします。そして別の人間的な能力、すなわち判断の能力を開放するのです。』

価値と思考能力

                 価値と思考能力
         
  Wert und Gedankenkraft

 近世になって形而上学的世界観がくずれるとともに、人間は価値の基準を見失ってしまったと言われています。人間以上の絶対的なものの存在を考え、その存在から価値判断の基準を見出し、人間の生きる「べき」道が何であるかについてその解答を得ていたのですが、今や形而上学は神学の巫女ならず科学の
巫女となってしまったかのようです。

 人間以上のものの存在を考えることが根拠のないことであると分かった以上、価値の基準も見失われていったのです。

 そして、絶対的な価値の基準を見失った人間には、どんな価値の基準も相対的に思われるようになり、形而上学的基礎を忘れ価値からの自由であることが支配的になったと言われる近代世界は、どこに責任の原理を見出すのでしょう。

 人間が自己自身に対して自信を持つようになった結果、価値の基準が見失われたのです。この価値の基準を見出すためには「いかにあるか」ではなく「いかにあるべきか」という科学では見出せないものを哲学的思考によって見出すところに人がいます。動物も思考能力は持っています。

 しかし理性により思考能力を発揮するのは人間のみです。その理性と思考能力を際立たせるのが、共同空間、共通感覚、視野の広い心性の格律などであると言えます。

 狂気に見られる唯一の一般的徴表は、共同感覚の喪失であり、そしてそれに変わって現われる自分自身の感覚に固執する論理的我意であると言われることを認識し、没利害的に思考する必要に今あるのです。

 思考することの多くの概念を含んでいる次の言葉で終わりとします。
「人生は祝祭のようなものである。競技するために来る者もいれば、商売を営むために来る者もいる。だが最良の人は観客(没利害者)としてやって来る。それと同様に、人生においても、奴隷的な人間は名声や利益を追求するが、哲学者は真理を追究する」。

未来のための哲学

 ヨーナスは、「責任という原理」において次のように訴えます。
   人類を存続せよ
   人間の本質を傷つけるな
   自然の無傷さを大切にせよ
と。
 
 このことは何を意味しているかといえば、現代の科学技術の進歩発展が我々人類の未来を破壊しているということです。人類は過去二つの世界大戦を経験して来ているにも拘らず、この宇宙船地球号の各地で繰り返されている人種、宗教、思想などを混合させたものによっての戦争や紛争そして、テロ。
 
 また、科学技術の進歩発展によりもたらされる数々の恩恵や人間にとっての有用性は、自然を支配せんとする勢いを強めて我々人間と自然の有用性を破壊している。こらを未来の人類に贈ることができるでしょうか。
 
 「惑星全体が、われわれの定められた宇宙船地球号が、このような絶望的な、非人間化した救命ボートとなるということ、そしてそれを防ぎ、それを予防するということは、そもそも緊急の、遠い未来に対する責任である」と、ヨーナスがその全精神をもって訴えたことを聞く耳と行いを持たない、そして「形而上学」忘れた人類の未来に対する責任を、人類は負わなければならない。

 なぜなら、人類は存続しなければならないが故に人類がその責任を負わなければならないのである。人類以外の一体誰が、その責任を負うというのでしょう。人類がなしたことは人類が責任を取るというところに、ヨーナスの「未来倫理学」がなりたつのです。

 現代の科学技術は、ある種の、強制的、過程的、全体的ないしは自己目的的要素を持ったものといえるでしょう。これらの技術と技術時代の科学の危険性は、「形而上学的基礎」が問われないままに今日まで来たということなのです。

 科学は人間にとって数々の有用性を与え続けています。しかし、それに伴う負の面を人間は忘れてしまったのですと言えます。その答えは、我々の日常生活をも含めた政治的生活の中に見つけることができるでしょう。

 現代の日本の状況を一言で表すならばと海外の特派員の言葉では、「コンビ二と携帯電話」だそうです。このように、有用性は与えてはいるもののそこに「人生観」というものを、科学は与えることはできないのです。

 科学は事実の価値は与えてくれますが、「いかにあるか」という価値の問題については与えてくれることはできないのです。それが、科学の持つ長所である「事実のみを問題とする」ということのゆえにそれ以上のことを科学に求めることはできないのです。

 人類が存続し、人類の本質を傷つけず、自然の無傷さを未来の人類に贈るためには、われわれは常に価値判断を行わなければなりません。そしてこの価値判断を行うのは、科学でも科学に伴う技術でもありません。

 科学的知識を利用することはできても、科学的知識のみで人類の価値判断は科学の領域外のことなのです。この価値判断に意味を与えることができるのが「形而上学的基礎」なのです。

        ミネルヴァの梟は黄昏がせまってその飛翔をはじめる

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 ここに記したのは、アーレントとヨーナスの対談の一部と、それに関連した言葉を記しましたが、ここから現代社会における「このもの」というものを、複数性という社会構造のなかから自らがおかれた今ある状況から人間の唯一性というもの、そして、この唯一性というものは必ず複数性の中から生じてくるということ、同時に、このことは相互依存の必然性の下に人類が生成発展していることと思い、長い引用だと思いますが記載しました。そして、こからコミュニケーション的可能性が新たな「創始」をもたらすと確信します。
アーレント・ヨーナス対談 1972年11月 アメリカ ヨーク大学
ヨーナス
 我々の全ての存在と活動との根底に、他者と世界を共有したいという欲求があるということは、議論の余地のないことです。しかし我々は、或る一定の人間とともに或る一定の世界を共有したいと思います。そこで、もし世界を人間にとって相応しい住処とすることが政治の課題であるならば、そのことは人間にとって相応しい住処とは何かという問いを提起します。
 この問いは、人間とは何か、また何であるべきか、についての何らかの観念を我々が形成する場合にのみ決定されることができます。しかもまた、もし我々が、この種の判断と具体的状況で生じる政治的趣味の派生的判断とを妥当なものとしうるような、人間についての何らかの真理に訴えることができなければ、その問いは恣意的にしか規定されえません。――とりわけそれが、未来の世界がいかにあるべきかを決定する問題であるならば、そうです。――事物の全面的配置に影響力を及ぼしている科学技術的企てと終始付き合うには、我々はこの心理を持たねばならないのです。
 ところで、カントが単に判断力にだけ訴えたというのは事実ではありません。カントはまた善の概念にも訴えました。どう定義するにせよ、最高善のような理念は存在します。そしてそれは恐らく定義を免れているでしょう。最高善は全く空虚な概念ではありえず、人間とは何かという我々の考えと関係しています。換言すれば、只今ここで満場一致の合意によって死んだ片付いたものと宣言されたところのもの―― つまり形而上学 ――が、我々に最終的指針を与えるために、何らかの場所に呼び入れられなければならないのです。
 我々の決定の力は、直接的な状況や短期的未来の処理をはるかに越えて遠くまで及びます。我々の行為する力または活動する力は、今や或る究極的なものについての判断、洞察、ないし信仰―― そのいずれかは未決定にしておきますが ――を実際に含むような事柄にまで及んでいます。なぜなら20世紀まで理解されてきたような通常の政治では、究極的なものから二番目のもので間に合わせることができたからです。国家の条件が真に究極的な価値または基準によって決定されねばならなかった、とうことは真実ではありません。実際現代の科学技術の状況下では、我々が地球上の事物の全条件と人間の未来の全条件とに影響するような肯定に否応なしに乗り出している、ということが問題であるとするならば、我々が簡単に手を引くことができ、西洋の形而上学は我々を袋小路に陥らせたと言うことができる、とは私は思いません。また我々は西洋の形而上学が破産したと宣言し、そこで共有可能な判断に訴えようとは思いません。――ここで断っておきますが、私は共有された判断ということで、多数者または何らかの特定集団と共有された判断を意味しているのではありません。我々は多数者と判断を共有して地獄に落ちることができますが、しかし我々はそのような範囲を超えて訴えなければならないのです。
アーレント
 最終的分析において、正と誤りについての我々の決定は、我々が共に人生を送りたいと望む仲間についての我々の選択に依拠するであろう。そしてこの仲間は、範例で、すなわち、死者または生者の範例で、過去または現在の事件の範例で、思考することによって選択される。ありそうもない事例だが、ある者が来て青髭を仲間にしたい、したがって自分の範例にしたいと告げるしよう。その場合我々が為し得ることはせいぜい、彼が決して我々に近づかぬよう確実にしておくことであろう。しかしまたある者が来て、自分は一向に構わない、どんな仲間でも結構である、と告げることはありうることで、私はこのことの方をはるかに恐れるのである。道徳的にさらに政治的に言っても、この無頓着は極ありふれているとはいえ、最大の危険性をはらんでいる。これよりははるかに危険性は少ないが、同一の方向を向いているのは、もう一つの極ありふれた現代の現象、つまり判断することを全く拒否するという広汎な傾向である。人が自分の範例や自分の仲間を選択することを嫌がること、またはそれができないことから、そして判断を通じて他者に関わることを嫌がること、またはそれができないことから、真の躓きの石が生じる。この障害物を人間の力は取り除くことができない。なぜならそれは人間の動機や人間的に理解可能な動機によって引き起こされたものではないからである。その点に恐怖が、それと同時に悪の陳腐さが存するのである。
 現代社会における真の危険は、現代生活の機構官僚的、技術官僚的、脱政治的な構造が無頓着を助長し、ますます人間を、以前よりも識別することのない、批判的思考のできない、責任を引き受けたがらぬ者にする。
トクヴィル
 そこにみられるのは、心を満たす矮小・卑俗な快楽を手に入れようと休みなく動き回る、無数の相似的で平等な人間の群れである。誰もが自分の世界に引きこもり、他の全ての人の運動に関わりを持たないかのようである。誰にとっても、自分の子供と特別の友人とが人類の全てである。その他の同胞に関しては、傍らに立ってはいても、その姿は目に映らない。彼らと接触はしても、その存在を肌では感じない。人は自己自身のうちにしか、そして自分自身のためにしか存在しない。
ディオゲネス・ラエルティオス
 人生は祝祭のようなものである、とピュタゴラスは言った。競技するために祝祭に来る者もいれば、商売を営むために祝祭に来る者もいる。だが最良の人々は観客としてやって来る。それと同様に、人生においても、奴隷的な人間は名声や利益を追求するが、哲学者は真理を追究する。

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