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国風文化は、藤原氏が栄華を誇った10世紀から11世紀前半の文化だ。
まず、日本に大きな影響を与えた大国・唐が衰えて、894年に菅原道真の進言によって遣唐使が廃止された。それで、中国の影響がなくなっちゃう。もともと、日本人って、雄大な中国民族と違って、繊細な民族だから、中国の影響がなくなると、文化も繊細優雅になってくる。唐が滅びてから、中国は長く混乱状態に入ったから、日本もほとんど中国と関係を持たず、一種の鎖国状態。どんどん日本独自の繊細な文化が発達してくるわけ。
それから、藤原氏が外戚政策によって勢力を伸ばしてくる。藤原氏が自分の娘と天皇を結婚させて、天皇と藤原氏の娘の間に子どもが生まれる。その子どもが次の天皇になるわけで、つまり、藤原氏が天皇のおじいちゃんになるわけだ。そのため、藤原氏は、自分の娘の周りに有能な女房を集めるわけだ。文化も、その女房中心に形成されるようになる。たとえば、紫式部は、藤原道長の娘・彰子の女房のひとりだし、清少納言は、藤原道隆の娘・定子の女房のひとりだ。女性中心の文化だから、やっぱり、繊細優雅になってくる。
おまけに、この時代の主人公は高貴な貴族で、大きな戦もないから、さらに繊細優雅さアップだ。
そう、国風文化は、繊細優雅な文化なのだ。
もっとも、「美術史」ってことでいえば、女性中心の文化だから、あまり建築や彫刻は盛んじゃない。まさしく『源氏物語』や『枕草子』や『古今和歌集』といった文学が中心の文化なのだ。これら文学は、まさに繊細優雅さ最高潮。
でも、むしろ、美術史の分野では、これから説明する浄土教美術が中心になる。だから、国風文化は全体としては繊細優雅なんだけど、美術史でいえば、あんまり繊細優雅とは関係ない。
そこのところを、よく理解しておいてね。
A 国風文化の建築は、バーチャル極楽
この時代、仏教で浄土教〔じょうどきょう〕というのが広まった。
仏教には、末法思想〔まっつぽうしそう〕ってのがあって、それが、なんと大変なことに、1052年に、末法の世、つまり暗黒の世界がやってくるというのだ。
だから、実は、貴族たちは、きらびやかな生活の裏で、不安で不安でしかたがなかったんだね。
そう、まさに、人々は、暗黒の世界の到来におびえ、阿弥陀如来〔あみだにょらい〕さんが、苦しみも不安も何もない幸せな極楽浄土〔ごくらくじょうど〕に連れて行ってくれることを願ったんだ。
貴族たちは競うように、阿弥陀如来像をつくり、阿弥陀堂を建てた。
まず、当時の最高権力者・藤原道長がつくった阿弥陀堂が、法成寺無量寿院〔ほうじょうじむりょうじゅいん〕。もっとも、これは、現存していない。
でも、人間って不思議だ。
娘の彰子〔しょうし〕・妍子〔けんし〕・威子〔いし〕を天皇と結婚させ、一家三立后〔いっかさんりつごう〕を果たし、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることも無しと思へば」とまで詠み、文字どおり栄華を極めた道長が、死ぬときは、阿弥陀如来像の指と自分の指を五色の糸でつないで死んだというのだ。
人間って、やはり弱い存在なんだね、どんなに栄華を極めても……。
そして、道長の子・藤原頼通〔ふじわらのよりみち〕がつくったのが、かの有名な平等院鳳凰堂〔びょうどういんほうおうどう〕だ。
なんか今では、十円玉とかで見慣れすぎてしまってるけど、改めて見てみると、平等院鳳凰堂は、空に舞い上がるような姿をしている。その姿が、前にある池に映り美しい。
中には、金色に輝く阿弥陀如来像がいてはって、周りの壁には、阿弥陀如来の家来のたくさんの菩薩さんがちりばめられ、さらに、扉にも阿弥陀如来と菩薩が人を迎えに来てくれる来迎図〔らいごうず〕という絵が描かれ平等院鳳凰堂のなかに入る人は、今、このまま阿弥陀如来さまが極楽浄土に連れて行ってくれるような幻想にとらわれる、……そんな光景が広がっている。
もう極楽の3D〔スリーディー〕状態だ。バーチャル極楽だ。
ぼくたちが3Dで、その空間にいるように感じるのと同様に、頼通たちは、本当に極楽浄土に来て、阿弥陀如来とともにいるような気持ちになったのだ。
もうひとつ、法界寺阿弥陀堂〔ほうかいじあみだどう〕も覚えておこう。
これは、日野資業〔ひのすけなり〕が京都の南部につくった阿弥陀堂だ。
それから、阿弥陀堂以外の建築としては、醍醐寺五重塔〔だいごじごじゅうのとう〕を覚えておこう。
B 国風文化の彫刻は、阿弥陀如来像
国風文化の彫刻で覚えなくちゃいけないのは、両方とも、いまやった阿弥陀堂に納められた阿弥陀如来像だ。
まず、ひとつめは、定朝〔じょうちょう〕作の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像〔びょうどういんほうおうどうあみだにょらいぞう〕。
もちろん、平等院鳳凰堂に納められてるよ。
「如来」さんなので、質素な服を着て、頭に智恵のコブがあるね。そして、「阿弥陀如来」さんだから、手がOKマークのような「来迎印〔らいごういん〕」になってる。
もひとつ、法界寺阿弥陀如来像〔ほうかいじあみだにょらいぞう〕。
法界寺阿弥陀堂にある。定朝作ではないけれど、同じ定朝様式だ。平等院鳳凰堂阿弥陀如来像とそっくりで、ほとんど区別がつかないほどだね。
そう、この時代の彫刻の造り方は、寄木造〔よせぎづくり〕といって、いろいろな部品ごとに分けて造って、後で組み合わせる方法になってる。つまり、定朝が弟子に「おまえはこの部分を彫ってなー」とか作業分担ができるわけで、だいぶ能率的になったわけだ。
C 国風文化の絵画も、阿弥陀如来さん
国風文化時代は、絵画も阿弥陀如来さんがらみだ。
来迎図〔らいごうず〕っていって、阿弥陀如来さんがたくさんの菩薩さんをしたがえて、暗黒のこの世から、何の苦しみも不安もない幸せな極楽浄土に連れに迎えに来てくれる、そんな絵だ。
高野山聖衆来迎図〔こうやさんしょうじらいごうず〕は、真ん中に雲に乗った阿弥陀如来さんがいてはって、その周りにたくさんの菩薩さんがいてはる。
平等院鳳凰堂扉絵〔びょうどういんほうおうどうとびらえ〕は、平等院バーチャル極楽の一部だね。
その他に、日本風の花鳥風月を描いた大和絵〔やまとえ〕が現れた。国風文化の美術史でやっと登場した、日本風の繊細優雅な作風だね。
巨勢金岡〔こせのかなおか〕や百済河成〔くだらのかわなり〕が有名だけど、特に覚えなくちゃいけない代表作はないよ。
あ、君たちは、『源氏物語絵巻』とか思い出すかもしれないけれど、あれは、もうひとつ後の院政期文化だからね。
また、漆〔うるし〕で文様を描き、金銀粉を蒔〔ま〕きつける蒔絵〔まきえ〕も描かれるようになった。これも、特に暗記すべき代表作はないよ。
****藤原一族の栄華・・・「光源氏の」モデルになった道長の栄華・・・藤原氏は平安時代の半ば「源氏物語」の主人公「光源氏」のモデルになったといわれる道長の時代に、全盛期を迎えます。道長は後に摂政・関白となる藤原兼家の4男として生まれました。普通ならばとても権力の座につけるとは思えない境遇なのですが、歴史は道長を権力の座へと導きます。道長は光源氏と同じように、女性にとても人気がありました。それも、年上の高貴な有力な家柄の女姓に特に人気があったのです。このことは、後に権力の座につく道長にとってとても重要な要素となります。というのは、長男の道隆が関白になったあと、2男、3男が次々に病死するという事情が影響したこともありますが、実姉の詮子(せんし)=円融帝の妻、を初め、有力な女性のバックアップなくしては出世は出来なかったのです。こうして道長は権力を握ると、宴の席で次のような歌を詠みました。「この世をば、我が世とぞ思ふ望月の、欠けたることもなしと思えば」藤原氏の絶対の栄華と、道長の揺るぎのなき自信を表現した歌だとは思いませんか?
高野山聖衆来迎図 こうやさんしょうじゅらいごうず
高野山の有志八幡講十八箇院が所蔵する平安後期の来迎図。絹本着色の絵で,いま縦横210.0cmの中幅と,縦210.0cm,横105.2cmの左右幅に分れているが,もとは一幅の大画面であったと思われる。中央に阿弥陀如来坐像を正面向きに大きく描き,その左右や後方に楽器や幡をもった聖衆を配し,前方に観音と勢至の2菩薩が先導するさまを描いている。画面の左下に紅葉した山があり,下方には広い水面がある。雲に乗って極楽浄土から来迎した仏たちは,いま大空を旋回して正面を向いたところで,聖衆は遠いものは小さく近いものは大きく描かれて,画面に奥行を与えるとともに,雲の形と相まって運動感の表現にも役立っている。阿弥陀如来は金色に彩られ,その衣には華麗な切金(きりかね)文様が用いられており,平安後期も12世紀後半の作であろう。もと比叡山の安楽谷にあったが,織田信長の焼打の時に高野山へ移されたと伝える。
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所々に素晴らしい朱色が使われているのがいいですね。
2006/5/16(火) 午後 1:30 [ tak*oya*su*a ]
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宗教とは なんだろうか?人生まで 生き方まで 変わるのだろうか?宗教研究会(名前検討中
2012/4/20(金) 午後 4:11 [ 村石太ガール&潜在能力者 ]