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◆法然上人絵伝〔ほうねんしょうにんえでん〕

法然上人絵伝は、知恩院に伝わる国宝で、徳治2年(1307)叡山功徳院の舜昌(しゅんじょう)が後伏見上皇の勅命を受けて製作に着手し、十余年の歳月をかけて完成したものである。
全長548mの長大な絵巻物は、阿弥陀仏の四十八願にちなんで48巻からなる。大和絵の手法で書かれた絵は当代一流の土佐吉光〔とさよしみつ〕らの画師の手になり、詞書(ことばがき 前書)も後伏見上皇をはじめ天皇や貴族など多数が染筆(せんぴつ 揮毫)するなど、鎌倉末期の一流の芸術家や文化人が総力を結集して作り上げた傑作である。

内容は、法然の伝記を中心に法語(ほうご 仏の教えを説いた文)や消息などをおさめ、さらに門弟や天皇・公卿から武士・庶民に至るまで浄土教帰依者の往生伝を伝説的要素も含め詳しく描いている。ただし、入滅後に作られたものであるため、そのまま法然の言行とはいい難い。

平安末期から鎌倉時代にかけて,栄西,道元,日蓮,親鸞,一遍ら,新仏教の旗手たちが踵を接して登場した.その先駆けとなったのが,浄土宗の開祖法然(1133−1212)である.他力念仏により極楽浄土に往生することを説き,当時の天皇・公家から一般の庶民まで,多くの人々に帰依された法然の伝記『法然上人行状絵図』。元祖法然上人の生涯を描いた絵伝ですが、その誕生から入寂に至る行状のほか、法語、消息、著述などの思想もあらわし、さらには門弟の列伝、帰依者(天皇、公家、武家)の事蹟までをも含んで四十八巻に構成されています。

まずは、春の一日、子どもたちが庭で遊び、その様子(ようす)をおとうさんとおかあさんが暖かく見守っています。真ん中の二人の子どもは何をしているかわかりますか。これは竹馬遊(たけうまあそ)びです。いま私たちは「竹馬」というと、竹の棒の適当な高さのところに足場(あしば)をゆわえつけて、これに乗って歩く遊びを思い出しますが、もともとの竹馬は、ここに描かれているように、葉の付いた竹の元の方に紐(ひも)を付け、これを手綱(たづな)のようにしてまたがり、竹を馬に見立(みた)てて走るものでした。幼なじみという意味で使われる「竹馬(ちくば)の友(とも)」という言葉は、こうして一緒に走りまわって遊んだ友達ということからできた言葉なのです。ここにはそのほかに古い草履(ぞうり)に紐を付けて犬を走らせている子どもや、犬を抱いた少女、またこのようすを木の陰から見ている子どもたちも描かれています。
 
ここにとりあげた場面は、法然上人が、竹馬遊びをする年頃から、ときどき西の壁(かべ)に向かって念仏をしていたという逸話(いつわ)をあらわしたものです。たしかに画面の左端に壁に向かう子どもが描かれていますが、よく見るとこの部分は、最初板戸(いたど)を描いていたところを塗(ぬ)り消して、わざわざ西に向かう子どもを描き加えていることがわかります。もともとこの絵巻の画家は、この逸話を無邪気(むじゃき)に遊んでいる子どもたちの姿で描いていたのですが、後になって、法然上人が子どもの時から他の子と違っていた、すなわち西の方にある極楽浄土に憧(あこが)れていたということを強調(きょうちょう)するために、このように改めたものです。
 
この法然上人絵伝のように、仏教の新しい宗派(しゅうは)を開いたお坊(ぼう)さんや、徳(とく)の高いお坊さんの伝記をあらわした絵巻を「高僧伝絵(こうそうでんえ)」と呼びます。高祖伝絵は鎌倉時代(かまくらじだい)にとても多く作られました。この時代に新しく始められた宗派では、宗派を開いたお坊さん(宗祖〈しゅうそ〉)に対する信仰(しんこう)が強く、新しく信者(しんじゃ)を獲得(かくとく)するためにもそのお坊さんの伝絵を作ることが重要であったのです。特に法然上人の始めた浄土宗では伝絵を作ることに熱心で、いくつもの違った種類の法然上人絵伝があります。ここに紹介(しょうかい)したのは、そのうち知恩院(ちおんいん)に伝来(でんらい)しているもので、全部で四十八巻あり、日本の絵巻のなかで最も巻数の多い絵巻として有名なものです。この「竹馬遊び」の段のある第一巻は、両親が神仏(しんぶつ)に祈(いの)ったおかげでおかあさんが身ごもり、やがて男の子(法然上人)が誕生したこと、またおとうさんが敵の夜襲を受け、その時の傷(きず)がもとで、この男の子をお坊さんにするように遺言して亡くなったことなどが描かれています。

高僧伝絵は、宗教的な意味あいから作られたものですが、現代の私たちにとっては、絵画として楽しむことができますし、また、最初に言ったように、昔のようすを知る貴重(きちょう)な資料(しりょう)にもなっています。絵巻を見るときには、絵としての美しさや物語の内容を楽しむだけでなく、そうした昔の暮らしにも目を向けてみましょう。


◆知恩院

除夜の鐘と日本一の大きさを誇る三門(さんもん)で有名な知恩院は、祇園祭で知られる京都・八坂神社の東方、東山連峰の一つである華頂山(かちょうざん)山麓にあり、承安5年(1175)法然上人(ほうねんしょうにん)が浄土宗の総本山として開基したお寺である。山号は華頂山といい、「華頂山知恩教院大谷寺」(かちょうざん・ちおんきょういん・おおたにでら)が正式名称である。
法然上人がこの地で入滅したときには、簡素な庵があるだけの寺であったが、後に秀吉や家康の庇護を受け、現在の壮大な堂宇が構築された。特に、徳川幕府は、ことあらば戦用の城郭に転用すべく多大な援助を惜しまなかったようで、境内の至る所に「丸に三つ葉葵」の紋所が目につく。
知恩院三門は、仏道修行の悟りを示す「空門」「無相門」「無願門」の三つの門を表し、正式には三解脱門(さんげだつもん)という。迷いから解放されようとする者が通らねばならない門とされている。
元和7年(1621)徳川幕府によって建立された知恩院三門は、高さ24m、間口50mの重層入母屋本瓦葺きで、わが国現存の木造建築の中で最大の楼門である。平成14年(2002)5月23日御影堂(本堂)とともに国宝に指定された。
知恩院の三門は、石川五右衛門の「絶景かな」で知られる京都・南禅寺の三門(高さ22m)と山梨・久遠寺の三門(高さ21m)とともに日本三大門に数えられる。


◆法然上人

法然上人(法然房源空 1133-1212)は、浄土宗の開祖である。浄土仏教の元祖は空也上人(くうやしょうにん 903-972)まで遡るが、浄土系の仏教が大きく飛躍するのは鎌倉時代の始め頃からである。
平安時代の末期、仏教に帰依(きえ)して種々の善行を積めば極楽浄土へ行けるが、そうでなければ血の池や針の山などのある地獄へ落ちるといった論法が行われており、京都の公家たちが多数信者になった。しかし、お寺に寄進などする余裕のない一般大衆は、救われなかった。

そこで、法然や親鸞らの浄土系仏教の伝道者たちは、「阿弥陀(あみだ)が全ての人々を救済するまでは自分は仏にならない」という阿弥陀の本願を根拠に、その阿弥陀に帰依する心を持って「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と一心に念仏を唱えさえすれば、たとえ悪人でも必ず極楽往生できるという考え(専修念仏せんじゅねんぶつ)を庶民に広めた。 この無条件の本願念仏の教えは、非常に分かりやすく、浄土系仏教は急速に発展していった。

法然は美作国(みまさかのくに 岡山県)の生まれで、13歳の時比叡山に登り、源光の下で修行を積み、18歳の頃には多くの経典を読破した秀才だった。
しかし法然は「このような教義で人々を救えるのだろうか?」と疑問を持ち、やがて源光の下を辞して黒谷(くろたに)の叡空の所に移る。

そこには無冠の聖(ひじり)たちが集まり、厳しい求道の思索に明け暮れていた。法然は黒谷で20年以上過ごし、その間多くの仏典を読み、また一般大衆の集まる祈祷所などに赴いて人々と触れ合った。
彼の運命を決定的にしたのは、唐の高僧・善導の著書「観経疏(かんぎょうのしょ)」に出会ったことだった。そこには、極楽浄土への往生を一心に願い、常に念仏を唱えていれば、必ず阿弥陀仏がその者を救ってくれるという思想が記されていた。彼は、会ったこともない異国の善導を師と仰ぐようになった。
1175年、法然43歳のとき、この思想を元に一派を立てた。その拠点にしたのは京都東山の吉水(よしみず)に建てた小さな庵で、現在の御影堂のあるところである。

彼の教えは、無条件の専修念仏によって全ての人間が救われるというもので、念仏以外の一切の行業が不要となる。それは既成の仏教教団の教えを根底から否定することになり、権威や秩序を支える道徳や倫理に対する根元的な挑戦であった。

そのため彼は弟子たちと共に激しい弾圧を受けることになった。建永2年(1207)に起こった建永の法難では、 二人の弟子が死罪になり、法然は四国に、親鸞(しんらん)を含む数人の弟子が新潟など各地に流罪(るざい)になった。しかしこれは結果的には浄土系仏教を全国に広めることになった。

法然は死の直前になって許されて京都に戻り、建歴2年(1212)正月25日、吉水の大谷(おおたに)禅房で数人の弟子に看取られ、静かに入滅(他界)した。享年80歳だった。その後、弟子の証空がその遺志を継いで専修念仏を広め、浄土宗西山派(せいざんは)の基礎を作った。また、弟子の親鸞は、許された後、直ぐには京都に戻らず、関東に赴いて浄土真宗を広めた。

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我が家は知恩院を本山とする浄土宗です。hehualu2000さんからその片鱗を知るなんて、奇妙な感じです。でも詳しいですね。誰から知ろうとありがたいこと、「へーそうなんだ」と言うことばかりです。竹馬とはそれが発端ですか、知りませんでした。それで「竹馬の友」ですか。なるほど。

2006/6/21(水) 午後 2:37 [ ひるね ] 返信する

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幼馴染みの女の子と男の子が恋愛すると「青梅竹馬」と言います。

2006/6/21(水) 午後 5:14 [ かおり ] 返信する

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法然は鎌倉仏教の先駆者であると聞いています。専修念仏は仏教を大衆に広めた革命的な教えであり、日蓮にももちろん親鸞にも影響を与えたと聞き及んでいますが、まだ研究の余地があるとも聞きます。

2006/6/21(水) 午後 7:22 山本 健太郎 返信する

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色鮮やかですね。青はラピスラズリの粉を使っているのかな。

2006/6/22(木) 午前 8:11 えはがき 返信する

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知恩院も今大変ですね。

2006/6/23(金) 午後 3:56 [ - ] 返信する

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南無阿弥陀仏・・法然の浄土宗は親鸞(浄土真宗)に受け継がれ革命的な宗教改革が進んだと思います。

2006/6/23(金) 午後 8:02 [ - ] 返信する

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はじめまして。大変理解しやすいので勉強になりました。1つ質問なのですが、この頃は神仏の神の考えは経典に有るの?疑問に感じてます。アホな質問でスミマセン。

2006/6/24(土) 午前 1:27 [ - ] 返信する

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funchan1969さん、はじめまして、コメントしてくれありがとうございました。わたしは絵画、文学に興味がありますが、宗教的なことはあんまり詳しくわかりませんです。わたしのブログは日本語と日本文化を勉強、中国絵画と古典詩詞の紹介、自作川柳のために作った日記サイトです。よかったら、これからもよろしくお願いいたします!

2006/6/24(土) 午前 9:48 [ かおり ] 返信する

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知恩寺での五重受戒を無事終えることができました

2017/7/16(日) 午後 8:47 [ ハチロ ] 返信する

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はじめまして、コメント有難うございました。そうですか?いいですね!

2017/7/17(月) 午前 4:25 [ かおり ] 返信する

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