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動物園

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昨日は動物園に遊びに行ってきました。孔雀は綺麗ですね!黒熊もこわいですね!

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仇英(きゅうえい)

(1493〜1560)太倉(今の江蘇)の人。字は実父、或いは実夫。号は十洲(じっしゅう)。「吴門画派」の画家。黄紙と呼ばれるいわゆるバフン紙に古人の名作を模写することからはじめ、その模写は本物にまがう作品であったという。徹底して売画生活を送り、春宮画を数多く描いた画家としても知られる。仇英の描く女人像は、ほっそりと背が高く、顔かたちは中国語でいうところの(卵型の顔)つまり「上が丸く下がやや細めの顔立ち」の美女で、唐寅(とういん)のあの「三白法」を踏襲している。苦学発奮、名家大家のよいところを取り入れ、独自の画風を打ち立て、やがて唐寅、文徴明(ぶんちょうめい)、沈周(しんしゅう)らと並び明朝の四大画家の一人と称される。



仇珠

仇英の娘さんです。号杜陵内史,原籍江蘇太倉,寓居呉郡。幼い時父の作画を馴染み父の画風を受け入れた。仇珠の有名の絵は「女楽図」軸,絹本,着色,縦145cm,横85.5cm。
款題“呉門仇氏画”。钤“杜陵内史”印。故宮博物院蔵。



仇英筆桃李園図 (京都知恩院贓品)


−中国のお花見−

(きゅうえいひつとうりえんず ちゅうごくのおはなみ)

 お花見の季節になりました。日本で花見といえば、桜の花を見ることと考えてまず間違いありませんが、ところかわれば品かわるで、おとなりの中国では梅・桃・牡丹の花見が昔から盛んです。特に春の花といえば桃の花をさして呼ぶことが多いようです。

 この桃のお花見のようすを描いた桃李園図(とうりえんず)をみてみましょう
桃李園図は、中国、唐(とう)時代の有名な詩人、李白(りはく)(701〜762)が春の夜いとこたちと桃・李(すもも)の咲き競う園でもよおしたお花見のようすを描いています。李白は「春夜従弟(しゅんやじゅうてい)と桃花(とうか)の園(その)に宴(えん)するの序(じょ)」という文を残していますが、その内容を絵にしたものです。この一文は、中国のふるい時代のりっぱな文章を集めた『古文真宝(こぶんしんぽう)』という書物にもおさめられていますが、「春夜桃李(しゅんやとうり)の園(その)に宴(えん)するの序(じょ)」という題にあらためられ、こちらのほうが有名になってしまいました。
 中庭にすこし傾いたおおきな桃と李の木がなん本も植わっています。どれが桃で、どれが李かわかりますか。よく見てください。葉の細長いのが桃、葉が太くて短く、いくつかの花がかたまって咲いているのが李です。

 花の下におかれたテーブルには、おだんごのようなお菓子を盛った器やお酒を入れた盃が並べられています。

テーブルをとりかこんで、よく似た顔の四人の人物がすわっていますが、これが李白といとこたちです。こちらに背中を向けた人と李白とおもわれる右手の人物は盃をとりあげてお酒を飲もうとしています。左手の人は花を見上げて、あごひげをなでながら、なにかしきりに考えているようすです。一番むこうにすわる人は、筆を持ち右手の机のうえにひろげた紙になにごとか書きつけようとしています。じつは、彼らは花を見ながらただ飲み食いしているのではなく、お花見の詩を順番に作っているのです。うまく詩ができ上がらないと、罰としてお酒を何杯も飲まなければなりません。
 四人のまわりではおつきのひとたちが、からになった盃にお酒をついだり、酒壷を運んだり、いそがしくしています。テーブルのそばにおかれた燭台にはローソクがともり、酒壷を運ぶ人がちょうちんを持っています。もうお花見もたけなわ。だいぶん暗くなってきましたが、月の光にてらされて花はますますくっきりと夜空にうかび出ます。

 桃李は中国では兄弟にたとえられます。桃と李の木がなかよく幹や枝をからませ支えあっている姿は、まるでお花見に集まった李白といとこたちとのかたいきずなを象徴するかのようです。この桃李園図とそのとなりの金谷園図(きんこくえんず)を描いたのは、唐よりもずっと後の明(みん)という時代の有名な画家、仇英(きゅうえい)(16世紀前半に活躍)です。二幅はいつのころか日本国にもたらされ、江戸(えど)時代から京都の知恩院(ちおんいん)で大切にされてきました。

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◆モダン×伝統、女流画家・藩玉良風の日用品展
2007年 8月25日(土)


フラン)スに留学した女流画家藩玉良(1895−1977)の絵をモチーフにした小物や装飾品が、首都博物館で開催中の藩玉良画展に出品されている。商品はソファーや浴槽から扇子、湯のみ、ネックレスなど様々で、絵画とは違った角度から彼女の作風を感じることができる。

 これらの記念品は公式販売はしておらず、個人予約の形で契約して製作されているという。



◆−パリで花開いた女流画家−


遊楽街の妓女の出でありながら穢れを知らぬ魂を持ち、運命に奔放する知識人・潘贊化の愛妻となった玉良。彼女は、上海で活動するアヴァンギャルドな人々との交流の中で持てる好奇心を存分に発揮し、ついに天賦の画才をも目覚めさせた。
彼女の描く裸体画は衝撃的なものとして観衆たちの前に現れ、潘贊化をも驚かせる。
だが、男尊主義的な社会にあって頑に美を追い求め、何者にも屈しない彼女の性格はあまりにも受け入れがたく、ついに彼女は潘贊化と破局を迎えた。玉良はフランスに渡り絵画を学ぶが、その日々の中で学友・田守信との感情を温め合う。だがどんなに二人が深まっても、玉良の心にはいつも潘贊化の面影があった。
玉良が中国に帰国すると、西洋と中国が融合した彼女独特の画法はたちまち人々の賞賛を浴び、ついに大学教授として招聘されるに到る。 そこに現れた田守信に、玉良の心は・・・。
祖国を離れ、再度フランスに渡った玉良。彼女は何者にも束縛されない自由な魂のおもむくまま絵画にいそしみ、フランスの地でついにその生命を全うする・・・。



◆『畫魂』が描いた、ヒーローの末路



歓楽街の妓女の身から女流画家に転身した実在の女性、藩玉良の、波乱に満ちた一生。
念願の美術学校に入学したものの、本来の学歴の低さと花街出身であるという履歴がもとで、玉良に対する風当たりは厳しかった。そんななか、作品のモデル探しに苦心する玉良を見かねて、奥米がモデル役を引き受けることに。だが、玉良の製作した絵画は裸婦画だったため、それを知った講師陣は猛反発。展示会場も大きな騒ぎとなり、公序良俗を乱すからという理由で作品は撤去されてしまう。この頃、創作活動に情熱を注ぐ玉良と藩贊化の仲は次第に冷え込み、すれ違うことが多くなっていた。そして、世間や学内での玉良への批判が強まるなか、かねてから良き理解者だった校長は、玉良にフランス留学を勧める…。
スタンリー・クワン(關錦鵬)が2002年に撮った、全30話テレビドラマ『畫魂(画魂)』は、1920年代〜の中国で、妓女だったところを身請けされ、絵の勉強をはじめて女性の裸体画を描きパリで成功した実在の女性画家、藩玉良を主人公としています。
 映像が非常に美しいのですが、藩玉良の絶息で最終話が終わるあたり、なんだか・・凄い。

 さて、藩玉良が女性の裸体画を描いた理由はいろいろ気になるところですが、結果的には、当時としてはショッキングなその事態が注目を集め、藩玉良の画家としての成功につながったという面はあるようです。
 藩玉良の時代は何をかいわんや、現代でさえ鑑賞対象は圧倒的に女性が多く、また、男女問わず描き手側も、消費者マーケットに合わせる意識もあるのでしょうが、描出すべきは美しい女であるという通念に偏りがちに見られます。
 つまり、女性であっても、男性の目線を学び(刷り込まれ)、再生産して作品とし、それにより男性社会に受け入れられ評価されるという構図です。

 コン・リー(鞏俐)主演で1992年に映画化された『画魂 愛、いつまでも』にしろ、今回のテレビドラマ『畫魂』にしろ、ヘテロ女性の藩玉良に「男性的」な面を持たせることで、彼女が女性のヌード画を描いたことの説明をつけようとしているようです。女友だちに「私が男になってあなたを守る」と言ったり、「歌声が男のよう」と形容されたり・・。
 また、絵から受ける印象としては、藩玉良自身が描いた裸体画のなかにはゆったりとした官能が感じられますが、ドラマ『畫魂』で奥米(伊能靜)がモデルとなった絵には、セクシャルな要素は全く表現されていません。

 ドラマ『畫魂』でジェンダー的に見るべきものがあるとすれば、むしろ、藩玉良の夫となった藩贊化の扱いです。
 フー・ジュン(胡軍)演じる藩贊化は最初、地位・権力・財産・近代的教養・マッチョな男の友情、全てを兼ね備えた、理想的な頼れる男として登場します。が、その実彼は、「人間は平等だ」と美しいことを言いながら、無学な妓女だった藩玉良を娼館から救い上げ、字を教え、絵を学ばせ、知恵をつけることで、自分の相対的優位と「男らしさ」を確認するような、浅薄な人間です。自分も隠したいその事実を、それまでつきあっていた軍閥の娘に指摘されて荒れたりします。
 そして後半は仕事に失敗し自信喪失、マッチョな友情も失って、「男らしさ」の全てを突き崩されたかっこう。
 ジェンダーヒエラルキーのトップに君臨し栄華をむさぼるヘテロ男が、ここではボコボコにされているわけです。
 何か、スタンリー・クワン監督の彼らに対する愛憎半ばの何かがうかがえるような・・
 藩玉良よりも描写が鮮明なあたり、スタンリー・クワンの目的が間違ってるよという感じもありますが・・

 ちなみに、『畫魂』ではこのような「情けない」役をしぶしぶ、いや神妙に演じているフー・ジュンですが、ほぼ同時期にオンエアされた武侠ドラマ『天龍八部』では、大侠役を大味に、じゃない豪放に演じてうっぷんを晴らしています。比べるのも一興。

緑茶
2004年1月25日

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1、慈禧(1835-1908) 草書“融和”
  紙本鏡心
  録文:融和。
  钤印:慈禧皇太后御筆之宝(朱文)
  170﹡83cm
  約13平尺


2、慈禧(1835-1908) 寿桃
  絹本着色立軸
  創作年代:1894年作
  款識:光緒甲午孟冬上浣御筆。
  題跋:陸宝忠題跋。
  钤印:慈禧皇太后之宝(朱文)、福田无量(朱文)、大雅斎(朱文)、肇揚清芬(朱文)
  119﹡66cm
  约7.2平尺

3、慈禧(1835-1908) 寿桃鸚鵡

絹本着色立軸
  創作年代:1904年作
  款識:光緒甲辰季冬上浣,御筆。
  钤印:慈禧皇太后之宝(朱文)、万物光輝(朱文)、鏡栄燭和(白文)
  題跋:陸宝忠題跋。钤印:敬書(白文)
  107﹡48cm
  約4.7平尺

4、慈禧(1835-1908) 花卉四屏
  
絹本着色立軸
  創作年代:1905年作
  款識:金蕊霞英。光緒乙巳新正上元日御筆。
  品冠瓊林富貴春。光緒乙巳桃月上浣御筆。
  独占人間第一香。光緒乙巳桃月上浣御筆。
  瑶階香艶冠瓊林。光緒乙巳吉月上浣御筆。
  钤印:慈禧皇太后之宝(朱文)、大雅斎(朱文)、万物光輝(朱文)、昭云漢章(白文)、天地同和(白文)、昭明有融(朱文)、和履中(白文)、芝(白文)、田(白文)
  125﹡62.5cm﹡4
  毎幅約7.2平尺





 ** 慈禧(西太后) **



西太后(せいたいこう・せいたいごう 道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は清の咸豊帝妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州 旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ)氏の出身。慈禧太后(じきたいこう)のこと。老仏爺。幼名は蘭児。
生涯
西太后の出生地は不明で、安徽省蕪湖説、内モンゴルのフフホト説、山西省長治説など諸説があるが、近年の学界では北京出生説が有力とされる。 西太后の父親だった恵徴は、清朝の中堅官僚で、最終官職は安徽寧池太広道の「道員」だった。恵徴は1853年、安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、その心労により同年六月三日(7月8日)に鎮江で病死した。
1852年、数え十七歳のとき、三年ごとに紫禁城でおこなわれる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。翌年の五月九日(6月26日)、十八歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となった。
西太后については、民間に多くの逸話が伝えられている。たとえば「西太后は、下級官吏の貧しい家に生まれ育った」、「最初、円明園の宮女となったが、たまたま通りかかった咸豊帝に声と容姿が美しいことからみそめられ妃に昇格した」。1856年、咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、懿貴妃に昇進した。
[編集] 政権掌握
アロー戦争により熱河に逃れた咸豊帝は1861年に崩御した。咸豊帝死後の政治の実権をめぐり、載淳の生母である懿貴妃と咸豊帝により載淳の後見とされていた8人の「顧命大臣」載垣、端華、粛順らは激しく争った。懿貴妃は皇后鈕祜禄氏と咸豊帝の弟で当時北京で外国との折衝に当たっていた恭親王奕訢を味方に引き入れた。そして咸豊帝の棺を熱河から北京へ運ぶ途上でクーデターを発動し載垣、端華、粛順らを処刑(辛酉政変:1861年)し権力を掌握した。北京帰還後載淳は同治帝として即位し、皇后鈕祜禄氏は慈安皇太后、懿貴妃は慈禧皇太后となったが、慈安太后は紫禁城の東の宮殿に住んだ東太后、慈禧太后は西の宮殿に住んだため西太后と呼ばれた。当初は東太后と西太后が同治帝の後見として垂簾聴政を行い、恭親王が議政王大臣として政治を補佐するという三頭政治であったが、東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治であった。
1874年同治帝は大婚[1]を機に親政を行おうとしたが、1875年に崩御した。一説には西太后がそりの合わない皇后(嘉順皇后)と皇帝を無理矢理離間させるため宦官に遊郭に連れ出させたために梅毒になり死去したというが、これも野史のたぐいで証拠はない。病状については議論があったが、現代では天然痘によるものであると考えられている。
同治帝は子供を残さずに死去したため、後継問題が持ち上がった。自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り他の皇帝候補者よりも血縁の近い、醇親王奕譞の子(母は西太后の妹)載湉(さいてん)を光緒帝として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。
1881年45歳の東太后が45歳で死去した。また1884年清仏戦争敗北の事後処理に際し、恭親王に責任を被せて失脚させた。

東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。1887年光緒帝の成年に伴い、3年間の「訓政」という形で政治の後見を行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。
[編集] 日清戦争以後
光緒帝の即位以降、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては李鴻章らと結び、彼らの推進する洋務運動を支持した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間を同治中興と呼ぶが、この運動の成功は、西太后と李鴻章ら洋務派官僚が結びついたことによる政治的安定が大きく寄与した。しかし洋務運動は1895年の日清戦争により挫折する。清朝の敗北は北洋海軍の整備が遅れていたことが大きな要因であるが、海軍予算を流用して西太后のための頤和園再建に流用していたためであったともいわれている。
日清戦争の敗北は、西太后に一時的な権力からの後退を余儀なくさせた。彼女が結託していた李鴻章の威信低下や海軍予算の流用により、帝党と呼ばれる光緒帝支持派が勢いを増したためである。帝党は、明治維新にならって政治制度も変革すべきと主張した変法派の康有為・梁啓超を取り込み、1898年に真の光緒帝親政を開始した。これを戊戌の変法(別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。西太后は当初は改革の推移を見守っていたが、戊戌の変法は立憲君主制を目指すものであったから、自らの政治権力低下を恐れ、これにクーデターを仕掛けることを決意した。改革に好意的と見られていた袁世凱が一部で進めていた西太后幽閉計画を密告した事により変法派の主要メンバーを処刑し、さらに光緒帝を拘束して中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌政変)[2]。わずか三ヶ月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたことになる。
[編集] 義和団の乱
1900年に義和団の乱が発生。義和団は「扶清滅洋」を標語に掲げ、国内にいる外国人やキリスト教徒を次々と襲った。清朝内には義和団を支持し、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする主戦派と、義和団を討伐し外国との衝突を避けるべきという和平派が激しく対立した。清朝内部では次第に主戦派が優勢となり、義和団は野放しとなり暴徒化した。ドイツ公使や日本公使館員が殺害されるという事態になり、諸外国は居留民保護のために連合軍を派遣した。当初義和団が優勢と見た西太后は主戦派の意見に賛同し、諸外国に対し「宣戦布告」を行った。しかし八ヶ国連合軍が北京にせまると、西太后は側近を伴い北京を脱出し、西安にまで落ち延びた。この際、光緒帝の側室珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てるよう命じた。
義和団事件の処理を命じられた李鴻章と慶親王奕劻は、諸外国に多額の賠償金と北京への外国軍隊駐留を認める代わりに、清朝の責任は事件の直接首謀者のみの処罰ですませ、西太后の責任が追求されないようにした。そのため西太后は1902年に北京に帰還し、これまで通り政治の実権を握る続けることができた。 義和団の乱終結以後、遅まきながら民衆・知識人の間に起こる政治改革機運の高まりを察知した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法を基本に諸所の配慮を加えた光緒新政とよばれる近代化改革を開始した。立憲政治への移行が避けられないことに気づき、政治考察大臣を日本、欧米などへ派遣し、立憲君主制国家への転換を図ろうとするなど近代化改革を推進した。
1908年光緒帝が崩御した翌日、西太后も74歳で崩御した。西太后は死の前に溥儀を宣統帝として擁立し、溥儀の父醇親王を摂政王に任命して政治の実権を委ねた。しかし、西太后の死からわずか3年あまりで清朝は辛亥革命によって倒されてしまう。
なお、西太后と光緒帝の死亡時期が近いため、自分の最期を悟った西太后が光緒帝を自分よりも長生きさせないために暗殺したという説もあるが、これも憶測の域を出るものではなく、証拠はない。



** 映画「西太后」の舞台(頤和園(いわえん)=北京)**



激動くぐり今はオアシス
 穏やかな湖面に反射する柔らかな日差しが、目に心地いい。都市建設のつち音や、口に砂を含んだようなホコリっぽさが漂う北京の街にあって、頤和園は落ち着きと潤いを感じられる数少ないオアシスの一つだ。
 18世紀、清朝の繁栄期を築いた乾隆帝自ら設計を指揮した中国史上、最後の皇室庭園。そのスケールの大きさには驚嘆する。豊富な水をたたえる広さ220ヘクタールの昆明湖は人造湖。北側の万寿山は、湖底から掘り出した土を盛って作られた。庭園の最後の主となったのは、皇帝でなかった。清朝最後の実力者、慈禧(じき)太后(=西太后、1835〜1908)だ。その足跡は、中国史の重要事件にそのまま重なる。
 列強の侵略が激しさを増し、清朝打倒を掲げる太平天国の乱が続く中、17歳で咸豊(かんぽう)帝の後宮入り。皇子(後の同治帝)を出産した1856年、アロー号事件(第2次アヘン戦争)がぼっ発し、英仏連合軍は1860年、円明園、頤和園を略奪、破壊した。晩年の日清戦争の敗北、義和団事件に至るまで、慈禧太后が権力中枢に君臨した50年間、清朝は衰退の一途をたどった。諸外国に強いられた数多くの不平等条約は、中国人にとって今も「屈辱の近代史」の象徴にほかならない。
 「慈禧太后の政治的名声は芳しくない。中国建国後、我々子孫が出自について語ることさえ、はばかられる時期もありました」
 頤和園の旅行者相談所長を務める書家の葉赫那拉(エホナラ)・根正さん(53)が振り返る。根正さんの曽祖父の長姉が慈禧太后だ。もう一人の姉は光緒帝の生母で、ラストエンペラー・宣統帝(溥儀(ふぎ))の祖母という家系だ。
 「彼女を真に理解している人は非常に少ない。多くは、正史でなく、俗説を通じた認識なのです」
 慈禧太后に対する評価は、一般的に、歴史上の負の役割に焦点が当たり、野望、権力欲といった通俗的な部分に関心が注がれてきた。映画「西太后」では、咸豊帝から最も寵愛(ちょうあい)を受けた麗妃の手足を切り落とし、水がめにつけるなどの「悪女」ぶりも強調された。
 だが、中国史上、慈禧太后のように長期間、権力を保持し続けた女性はいない。たぐいまれな政治能力を持った彼女が登場しなければ、中国の分割、植民地化はより早く、激しかったとも、近年、指摘されるようになった。
  頤和園の正門に当たる東宮門をくぐると、眼前に立ち並ぶ中国建築の多くは、列強による破壊後、慈禧太后が海軍の資金を使って再建し、執政や居住の場に使ったものだ。趣味の京劇鑑賞のため作った舞台もある。対立したおいの光緒帝の軟禁を図った建物には、レンガに閉ざされた門が今も残る。
 彼女が生きたのは内憂外患の激動期だった。万寿山にあるお堂には、死後、生まれ変わることを願った観音仏が静かに座す。その死から100年後の2008年、中国は念願の五輪を開く。山の頂からは、急速に変貌(へんぼう)を遂げる首都の町並みが一望できた。(文と写真 竹腰 雅彦)
 

残念なこと

「転載」


2007年 7月29日(日) 19時12分
【中国】邦銀深セン支店の日本人上司が中国従業員を殴打


 27日午後8時ごろ、東京三菱UFJ銀行深セン支店で、日本人課長が中国人従業員を平手打ちした。すぐに日本人課長はこの従業員に謝罪したが、同行の中国人従業員50人あまりが一斉にストライキに入った。中国人従業員たちは「中国スタッフ全員の心の声」という声明文に全員が署名、東京三菱UFJ銀行の中国総本部に対して公開謝罪を要求。また、平手打ちした日本人スタッフには全従業員の前で事情を説明し、書面で謝罪の上、辞職するよう求めた。中国新聞社が伝えた。

 本件に関しては情報が錯綜しており、中国現地のインターネット上でも様々な書き込みが行われている。中国現地の報道によれば、東京三菱UFJ銀行の日本本社は担当スタッフを広東省深セン市に派遣、事件解決を図るという。(編集担当:鈴木義純)

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