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蒙古襲来絵詞は、熊本の御家人であった竹崎季長(たけざきすえなが)が、蒙古襲来と自らの関わりを絵と詞書きとでつづった絵巻である。この絵詞の中には、彼が、何を願って戦いに参戦し、どのように戦ったか、そして、どのようにして恩賞を手に入れたかなど、彼の思いや行動が生き生きと描かれている。
蒙古襲来絵巻 後巻は、主人公の竹崎季長が、海戦であった弘安の役に参戦して軍功を挙げるまでの経緯を描いています。巻末には季長が、神へ武運を感謝するためにしるした詞書がおかれています。また、前・後巻を通じて詞書や絵の順序の乱れ、失われた部分も多いなど、現在に伝わるこの絵巻の成立には、依然不明な点が残っています。
◆フビライの日本遠征◆
高麗を完全に征服した元は日本をも服属させようと考え、フビライ=ハンは数回に亘り日本に使者を送り貢物を求めましたが、時の執権北条時宗に拒否されました。そのため1274年(文永の役)と81年(弘安の役)の2回、九州に侵略しましたが九州・四国武士の激しい防戦と台風にあい失敗、1294年フビライの死により元は日本への侵略を断念しました。日本では元軍を撃退したものの戦後の恩賞も不十分であり、その後の防衛のため経済的負担が大きく、御家人たちの反発を招き幕府滅亡の原因となり、また暴風雨=神風として神国思想が広まるきっかけとなりました。
今を去ること7百年ほど昔、13世紀の終わりになって、日本はこれまでに経験したことのない大規模な国難に対処する必要に迫られていた。それは、歴史上始まって以来の未曾有の外国からの侵略であり、国家存亡の一大危機と呼べる大事件であった。広大なユーラシア大陸をわずか半世紀足らずで征服したチンギス・ハンは、国号を元と改め、その凶暴な力を周辺諸国にまで及ぼそうとしていた。
当時中国は二つの大国によって二分されていた。北方の女真族によってつくられた金と唐の後を継ぐ漢民族の王朝宋であった。宋は、金の執拗な波状攻撃に耐えかね、止む終えず首都を放棄して、南の臨安(南京)に都を移していた。しかしその残忍で強大と思われた金も、ただ一度の戦いでモンゴル軍に破れ去り、徹底的な略奪と殺りくの嵐の中で滅んでいった。そこで彼らモンゴルの恐るべき力は、南宋に向けられることとなった。
チンギス・ハンの後を継いだフビライは、 南に逃げ込んだ宋を追撃して容赦のない攻撃を再開した。黄河を渡り南進してきたフビライの軍は、たちまち首都臨安を包囲した。
3年にわたる攻防戦の後、城門が破られるや否や雪崩のごとく乱入してきた蒙古軍は、宋の首都臨安を完膚なきまでに破壊し、天子は虐殺され350年続いた宋の王朝はあえなく滅亡してしまった。宋を滅ぼし中国全土を手中にしたフビライは、未だ征服の手をゆるめようとはしなかった。彼は、さらに南方の国々に侵略の鉾先を向けようとしていた。南方には当時、パガン朝、大理国などの国家が存続繁栄していたが、数年を経ずして蒙古の軍隊によって蹂躙され征服されていった。
それより以前、西方司令官ツルイによって率いられた蒙古軍は、怒濤のごとく中東に侵入していた。彼のどう猛な軍隊は、ホラズム、ニシャブール、バグダッド始め多くの都市を次々と陥落させ、虐殺と略奪を欲しいままにしてヨーロッパに迫りつつあった。中東で最大で繁栄を誇っていたこれらの都市は、一瞬にして死の洗礼を浴びて滅んでいったのである。
こうして、13世紀の文明世界の大部分を征服したモンゴルは、海を隔てた極東の国、日本をも支配せんものと使者を送ってきたのであった。その内容たるや表向きは貿易をうたってはいるものの、実情は属国として従わせようとする主旨であった。その頃、鎌倉幕府は、北条時宗(ほうじょうときむね)が執権を握っていたが、彼はこの書状の内容を知るとあまりの怒りに赤面して、これを破り捨てたという。彼はその時、若干18才であった。
時宗は、元の使者を長期間、国内に留め置いた末、結局、返事を持たせぬままに追い返したのであった。それは、まさしくフビライにとっては侮蔑的行為だった。
こうした日本側の対応に激怒したフビライは、極東の小生意気な小国を力でねじ伏せようと属国高麗に対して、ただちに1千隻の軍船をつくるよう命令を出したのであった。 多くの労働者と大量の食料を抽出しなければならなくなった高麗の国内は、大混乱に陥ったが、フビライの命令は絶対的なものであった。かくして、一年後、数十万という数え切れない餓死者を引き換えに数百隻の軍船が完成した。高麗にとっては、その代償は余りにも大きなものであった。しかも、彼らには、その船に乗って蒙古の兵士として海を渡らねばならない運命まで背負っていたのである。
1274年11月(文永11年)、朝鮮半島の南の合浦(がっぽ)を出港した元と高麗の軍隊は、大小9百隻余りの軍船に分乗して、荒れ模様の朝鮮海峡に乗り出していった。彼らは、手始めに対馬(つしま)・壱岐(いき)という小さな島 を襲い、両島を守備していた日本の武士を皆殺しにした。
そうして、11月19日 の未明、蒙古の大艦隊は、九州博多湾の沿岸に姿をあらわした。その兵力は3万5千だったと伝えられている。記録によると、蒙古軍は博多湾の北側に上陸した。
上陸すると、彼らは、太鼓やどらの音を打鳴らすと密集隊形をとって行動を起こした。
それらは、日本の武士にとって全く見たこともない新しい戦術だった。それに加えて、彼らの持っている武器はすべて強力で新兵器が多数含まれていた。
鉄砲(てっはう)と言われる大砲は、オレンジ色の火炎の尾をひく弾丸を打ち出した。その弾丸はうなり声を上げて飛来するや大音響をあげて至る所で爆発した。そのものすごい音と爆風で、馬は驚いて暴走し、乗っていた武士は振り落とされた。また、火炎放射機のようなものから、140キロの巨石を遠くに射ち出すことが出来る弩砲(どほう)と呼ばれる重砲類も持っていた。そのうえ、蒙古の兵士一人一人が持つ弓は、コンパクトで強力なものだった。打ち出す力も強く、日本の武士の身に付けている鎧すら打ち抜くことが出来た。しかも射程距離も長く、日本側の2倍以上の2百メートルであったという。おまけに矢には毒が塗ってあり、かすり傷を負っても体は麻痺して致命傷となったのである。
蒙古の戦法は、日本側からすると今までの戦のルールを全く無視したような卑怯な戦術だった。しかし、蒙古側から見ると、日本人のとった戦法は、勇気だけはあるが、作戦も何もない無謀極まりない自殺行為と写ったにちがいない。
熊本地方の 御家人であった 竹崎季長(たけざきすえなが)などは、援軍を待とうともせずに、 わずか五人の家来とともに蒙古の大軍の真っただ中に突撃していった。
2名の家来はたちまち斬り殺され、彼自身も胸に重傷を負ったが、かろうじて助け出され、九死に一生を得たのであった。
このままでは、彼らが博多湾に強力な橋頭堡(補給の基地)を築き上げるのも時間の問題であった。そうなれば、彼らは、ここを足場として本州に攻め上ってくるであろう。その結果、北条時宗は殺されるかその前に切腹するかして自決し、鎌倉幕府は滅亡し、一部の職人を除いてほとんどの日本人は虐殺され奴隷化の道をたどるであろう。そして、いずれは日本は世界の歴史から姿を消してしまうことになりかねないのであった。
戦いは蒙古軍有利のもとに進展していったが、夕方頃になって、空はどんよりと暗くなり、雲行きが怪しくなってきた。蒙古軍は、日本側の夜襲による不意打ちを恐れ、高麗人の進言で、とりあえず船に戻り陣営を立て直すこととした。しかし、夜半に入って始まったこの時化は、その後大風雨となり、海上は、大いにうねって荒れ狂った。蒙古軍の船の多くは、大波に翻弄され互いにぶつかったり横転したりして、バラバラに壊れ、その多くは沈没してしまった。乗っていたほとんどの蒙古兵は溺死して、海の藻くずと化してしまった。結局、残った蒙古軍は、さんざんになって逃げ帰るはめになったのであった。
写真:
1、竹崎季長出陣
2、単騎で攻撃して負傷する竹崎李長
3、石六郎の援軍
4、安達泰盛の屋敷
5、褒賞を受け取る季長
6、菊池軍の前をすすむ季長
7、元軍の本陣
8-11突撃する日本の武士
12-15日本と元の軍船
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