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◆土佐派・住吉派・初期の浮世絵



日本美術史をまとめてみます。
日本古来の絵を大和絵といいます。中国的な主題を扱った唐絵に対する用語です。
平安時代には、日本の世俗的な風物を描いた屏風絵や障子絵が大和絵と言われました。
鎌倉時代には、水墨技法を用いた宋元画およびそれにならった唐絵・漢画が渡来すると、平安時代以来の伝統的な絵画様式を踏襲する絵画を大和絵と呼びました。


14世紀、宮廷絵所絵師の藤原行光が伝統を継承し、土佐光信が確立したので、土佐派といわれるのです。
桃山時代以降、江戸時代を通して土佐派は、大和絵の伝統を守りました。
元禄時代の土佐光起には『三十六歌仙図屏風』・『百人一首』があります。

安土桃山時代に、狩野正信は、漢画様式を基調とした日本画を創出し、狩野派の祖となりました。
以降、狩野元信、狩野永徳、狩野探幽などが出て、隆盛を極め、江戸時代には、幕府の御用絵師として画界の主流をなし、世襲制でその地位を維持しました。しかし、この体制が、狩野派の勢いを失くし、衰退させました。

江戸時代初期に、住吉具慶は、大和絵を基調に優雅繊麗の画風を確立しました。そこで、住吉派 といわれますが、土佐派の分派です。
住吉具慶は、幕府の御用絵師となりましたが、以後衰退しました。
住吉具慶の作品には『洛中洛外図屏風』があります。

江戸時代中期に、尾形光琳は、江戸時代初期の俵屋宗達と大和絵と狩野派を融合して、金や濃彩の絵具を多用した装飾的で、華麗な画風を確立しました。そこで、光琳派とか琳派といわれます。尾形光琳の作品には、『紅白梅図屏風』と『燕子花図屏風』があります。

それ以外に、岩佐又兵衛は、大和絵と水墨画を融合した画風を確立しました。
特徴は、「豊かな頬、長い顎、芝居がかった大仰な仕草や熱っぽい姿の群衆、人物を描く流暢なそれでいて画面に食い込むように強靱な線」と千葉市美術館の説明にあります。
岩佐又兵衛の作品は、『三十六歌仙図額』・『人麿・貫之図』・『浄瑠璃物語絵巻』などです。以上は全て重要文化財に指定されています。

元禄美術の特徴はなんといっても、浮世絵の創出です。2〜6までの作品が、肉筆であるのに対して、浮世絵は木版画を特徴としています。
余に1つしかない肉筆画は、高価で、庶民には縁のない世界でした。それが、版画となると、1枚の木版から多数の絵を摺ることがことができるので、庶民の手の届く範囲になりました。制作は、絵師が下絵を描き、彫師が、木版に彫っていきます。最後に、摺師が紙に摺り上げます。初期には、黒一色から簡単な紅を基調とした彩色を施したので、錦絵と呼ばれました。化政時代の錦絵は、色をたくさん使用しています。菱川師宣の作品では、『見返り美人図』が有名です。



◆土佐光信


[大分野] やまと絵・仏画・神道画系
[中分野] 土佐派
[分野] 土佐派−藤原光弘
[流派] 土佐派
[父(家業)と続柄] 土佐広周(本朝画史)
[子名] 土佐光茂(本朝画史)
[職業等] 絵師
[得意分野] 肖像画(十輪院内府記)
[画風] 土佐派の伝統を守りながらも色彩は淡く、一種寂しげな格調高い画面をつくりだしている。
[評価] 土佐派の伝統を受け継ぎながらも仏画や扇面画など幅広く手掛け、ことに障壁画においては新たな創意を加えた新しい画風を展開し、近世以降光茂と共に名手と称され、その後の絵画に少なからぬ影響を与えた。
[読み] とさ・みつのぶ
[ENG] TOSA, Mitsunobu
[名号] 刑部大輔,右近将監(土佐文書)
[形式区分] 人名
[形態区分] 平面芸術
[名読み] みつのぶ
[名号読み] ぎょうぶたいふ=刑部大輔,うこんしょうげん=右近将監
[地名] 京都
[旧地名] 京
[始年] 1433?
[終年] 1525年頃か
[大時代] ちゅうせい
[時代] 室町時代
[地方] 16近畿



◆百鬼夜行絵巻(ひゃっきやぎょうえまき)
土佐光信


かつて夜は真に闇の世界であり、夕暮れは光と闇の狭間にあって人の顔も見分けられない文字どおり”たそがれ(誰そ彼)どき”でした。そうした時間帯、心もとない気持ちで行き交う人々の前に現れたのが妖怪変化、幽霊といった”異形のものたち”です。彼らは時に恐ろしく、時に滑稽に人を惑わしました。また、河童やウワバミ、龍といった、現代では絵空事としてかたづけられてしまうような想像上の動物たちもやはり”異形のもの”として喧伝され、人々の記憶にとどめられてきました。

『百鬼夜行絵巻』は、妖怪が列をなして夜行するさまを描いた絵巻の総称だが、ここに登場する妖怪は、動物が化けたとおぼしきものや、「付喪神(つくもがみ)」といって、年を経て捨てられた道具の化物たちである。室町時代に成立し、近世にかけて流布した。もっとも有名なのが、京都の大徳寺・真珠庵が所蔵する室町時代の大和絵の名手・土佐光信によるという伝承をもつ1巻である。現存する諸伝本の多くは、この真珠庵本系統の絵巻の写しと見られるものである。それとは別に、基本的には真珠庵本と同じ図様をもつが、妖怪の構図や配置、描かれる妖怪の種類や数、彩色が異なる伝本が存在する。

百鬼夜行というのは、いろいろな種類の器物が鬼形をあらわにして群がりながら行列するさまのことをいう。平安時代からの言い伝えである。
「今は昔、一条桟屋敷にある男とまりて、傾城と臥したるけるに、夜中ばかりに風吹きて雨降りてすさまじかりけるに、大路に諸行無常と詠じて過ぐる者あり、何ものならんと思いてふしど少し押し開けて見ければ長は軒と等しき馬の顔なる鬼なりけり。おそろしさにふしどをかけて奥に入りたれば、この鬼、格子押し開けて顔を差し入れてよく御覧じつるな御覧じつるなと申しければ、太刀を抜きて入らば斬らんと構えて女をそばに置きて待ちけるに、よくよく御覧ぜよと言いていにけり。百鬼夜行にてあるやらんとおそろしかりける。」(宇治拾遺物語)
徳のある身分の高い人だけにみえた百鬼夜行のありさまである。このようにひとびとは百鬼夜行を心から信じた。文字につらねた。絵にもかいた。大和絵の絵師で土佐派の第一人者、土佐光信が描いた室町時代のこの「百鬼夜行」もそのひとつ。

土佐光信作とされる「百鬼夜行絵巻」(大徳寺真珠庵蔵)。ユーモラスな雰囲気も漂い、後の百鬼夜行のイメージに大きな影響を与えた。室町期の絵師・土佐光信作とされる『百鬼夜行絵巻』には、「つくも神」と呼ばれる古道具の妖怪たちが描かれた。桶(おけ)、つづら、鉢などの使い古しの道具類が粗末に扱われることに腹を立て、化けて人をたぶらかす。背景にあるのは、商工業の発達。ものをあっさり捨てるようになった後ろめたさが、万物すべてに霊魂が宿ると考えた日本人特有の精神文化と結びついて生まれたようだ。



◆「秋草鶉図屏風」あきくさうずらずびょうぶ(名古屋市博物館所蔵)

すすき野に遊ぶ鶉、というやまと絵の古典的な画題であり、室町時代の土佐光信の作として伊達家に伝わったものである。しかし、大画面の構成法や鶉の描写に、狩野派や院体画の影響が見られるため、現在では江戸時代初期の土佐光起に作者が擬せられている。現状では、各隻の左端の1扇が入れ替わって表装されている。

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