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李可染の現代水墨画

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李可染は現代水墨画史上、大きな影響を与えた山水画家。写意人物画、牧牛も多く画く。本土文化を土台に中西芸術を融合して独特の絵画風格を形成した。

李可染氏(1907-1989)。中国江蘇省徐州市生まれた。1929年に西湖芸術院研究班に入学し、油絵を学習しました。 林風眠氏の指導を受け、林氏に認められました。 1943年に国立芸術専科学校中国画講師を担当、後に齊白石氏を師に10年間付き従いました。

水墨画は洗練昇華され最高峰に達した東方古典を代表する芸術です。中国国画とは中国固有の紙本淡彩画のことを云い、日本における日本画に対応します。古画は日本画の祖としてよく知られていますが、民国期以降の現代国画については、日本ではあまり紹介されていないこともあって、知らない人が多いように思われます。



1、桂林漓江勝景図.jpg02.jpg

2、桂林漓江勝景図.jpg

3、山頂植田.jpg

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6、梅蔭牧牛图.jpg

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14、李可染 1963年作 丹霞楓林.jpg

15.《清漓烟嵐図》

16.犟牛図

17.蜀山春雨




◆李可染と「中国画改造」


中国では国画と呼ばれる山水画は、文人画からの改革を経てめざましい発展を遂げている。李可染発表した論文「中国画改造」は、数百年間主流であった文人画の流れに真っ向から立ち向かうものであった。そして、そこで彼は、文人画から脱却し新たな中国水墨画の創造を唱えた。しかしこの論文が発表された、1950年当時、未だ文人画が主流であった中国において、画壇の支持は全く得られなかった。
 中国水墨画の全盛期であった宋の時代が終わり、元の時代になると異民族統治という政治的背景に、士大夫を核とした文人画が描かれる様になった。しかしこの文人画はその表現を主観によってのみ行うため客観性を欠き、自然、現実から離れてゆく結果となった。しかし一方時代が下ると、その主観重視からは技術面での筆墨の向上と、思想面での画論の飛躍的発達を促した。・・にもかかわらず、結論は自然から離れたために、ごく表面的な狭量な形式主義に陥り、絵画としての豊かな表現と魅力を失ってしまった。こうして近代にあっては衰退著しい中国水墨画が光を失いつつある時、その根本的な改革として自然への回帰と、客観性の再重視を唱えた改造論が、李可染によって発表されたのである。
 その後、李家山水、別名「写生派」とも呼ばれる運動は始め、数人の仲間や学生と共に中国各地を周り、客観性を重要視し自然に立ち返って写生を通して制作してゆくことで、それまで文人画で表現することが難しいとされていた、光に溢れ、明るい色彩を持ち、その場の空気をも対象に基づくことで表現を可能にした。
 そして、この李家山水の影響は、北京を中心として中国全土へ広がってゆくことになる。





◆毛沢東時代の美術を回顧する

05/05/12 南方週末 遠蕾


20世紀の中国美術史上、1942−76年の毛沢東時代を無視することは出来ない。彼が1942年に発表した「延安での文芸座談会講話」として発表され、美術構成上の重要な指標とされ大きな影響を及ぼした。
 それ以降当分の間は芸術関係の人間にとってこの講話が芸術作成の基本理念とされた。 
 それは新中国誕生後の共産主義や社会主義へ向かっての基本精神と見なされた。それは現在は「毛沢東時代の独特の形象」と言われる。

1942年以降はこの「講話」が全ての文芸の指導方針として国家の政策となり、その時代の芸術がどれも「講話」に沿った独特の形式を備えていて、いまその研究がされようとしている。
それは芸術の内容と形式、その発展と普及までもが対象とされ、その形式での民族化が追求された。
 その根本的思想は「芸術は労働者農民に奉仕すること」で、このことが現在と如何に相異があるのかが研究の課題となっている。
 と小平も毛沢東死後「彼の思想系統の影響無しには何も考えられない」、と言っている。

 5月29日まで広東美術館で「毛沢東時代の美術」が開かれた。そして、それを企画した3名の美術家が「ここの展示は毛沢東時代の域を一歩超えた」と評している。
 
 「毛沢東安源へ行く」の絵を書いたのは”劉春華”氏で、毛沢東はモデルになることを嫌ったので、この作者は毛沢東に会うことなく絵を完成させた。
この絵は当時非情に重要な芸術画と評価された。「労働者階級の指導者が安源へ行く」として、その意義を充分に表現していると見なされたのだ。

 この絵を描くために、安源では如何に絵を構成するかから討議が行われ、一つの「組」が組織され、各種討論を経て、先ず現地の背景の場所の選定から始まった。そしてそこへ毛沢東像を立たせた絵の構成をすることになった。
 その場所は「周囲が開かれていて、遠くまでよく見える。毛沢東が向こうの低い地点からやって来て、一番高い地点に立っていることで、毛沢東の革命的信念の強さを現すことが出来る」とした。また同時に「天上の雲が当時の政治闘争の複雑さ困難さを”風雲変幻”に暗示している」として書き込むことになった。
この絵が完成すると展覧会がひらかれた。それは1ヶ月続いて評判を呼んだ。更に延長が要求されたほどだ。参観者の伝言板には「大衆が毛沢東に期待している気持ちの大きさが充分現されている」と好意が記されている。 評判が高まり、この絵を「人民画報」に載せることになった。しかし急な決定で印刷が間に合わず、この絵をすり込みとして、本に挟んで発行された。
 後日この絵が北京の毛沢東に届けられた。毛沢東はこの絵を見て「私が履いているのは普通の草履で、布製のものではない」と言った。
 
 延安時代、日本軍は中国民間伝承の「年画」という方式を使って政治宣伝をしていた。 中国の画家もこの形式で描ける人を集めた。それは作成以来大きな成功を収めた。彭徳懐もそれを知って絶賛した。

 
 1949年7月、第1次党大会が開かれ、文芸思想についても毛沢東の文芸理論を全国に広めることにあると決議し、今新しい時代を迎えているとして、確認された。


 どの文芸学院でも「毛沢東文芸講話」が中心に教育課程が組まれた。古来の「山水画」「花鳥風月」にも毛沢東理論の適用・改造が試みられた。
 その結果「山水画」は社会主義的農村を描き、山や村を背景に革命の生地”延安”を描くことに行き着いた。延安の変わりにその他の開放地区が登場することもあった。
 中国古来の山水画は”虚と幻想”が中心だと考えられ、それを取り除くことが討論され、重要視された。
 毛沢東が若い時代を過ごしたのは、南方のやや低い山林だった。東北から参加した画家達はその毛沢東が育った山林を背景に描こうと努力したが、彼等は急峻で雄大な高い山しか見ていないので、芸術的な表現に改造が求められた。
 また古来の山水画は「墨色」を主としたが毛沢東は「朱色」を好み、緑がそれについで好まれた。漆黒は厳禁とされた。


 ”田”を描いて「社会主義的農村」を暗示させ、人間を小さく描いて、労働の成果、ダムや電柱、その他の建造物を大きく描いて、労働の成果を強調することが正しいとされた。

”花鳥風月”も見直された。それらは古来は文人の趣味として愛好されて、精神的内面的な代物であった。これを革命的に見直すことになり、「祖国万歳」「収穫万歳」など物質的なものを登場させることで、人間の生活を想い出させ、そこから社会主義の成功を期待させることになった。
 筍はそれまでは「風格」や「道徳心」を暗示するものとして画に登場していたが、これを筍の収穫が多いことが、中国が資源に恵まれていることに思い至ることを連想するようにした。

 菊の花の側には軍用壺が置かれ、軍事訓練を表現した。
 こうした結果文人の陰鬱、感傷的様子、などは健康と光明と向上に取って換えられた。 どの絵を見ても新中国が光明の時代に入っていることを表示すべきだとされた。

延安の「毛沢東講話」では芸術は大衆に奉仕することが求められた。その方向で芸術を高め、広めることが重要とされた。最終の目標は「芸術は如何に政治に役立つか」が根本とされ、そして将来は芸術がこの傾向を持続しながら発展することが必要だとされた。芸術家は「大衆の生活に深く入り」、同時に「政策に役立つことを主とする」と確認された。こうして芸術と芸術家の生き方・任務が確定され、このことで大衆の歓迎を受けるだろうと「規則付け」られた。
 
1976年に毛沢東が死去すると、中国の芸術が「同じ物、似たもの」が蔓延していること。また偏った傾向のものばかりであることが語られるようになった。
 だがこのような疑問も「文芸講話」に沿うように戻るべきだと矯正された。芸術家は自分自身を講話の方向に自己改造することが求められた。そして山を描き、大衆の生活を描き、その中に英雄を見いだす、これが正しいとされた。
例えばその成功例は李可染と言う人で、「万山紅遍層林染まる」と言う絵がある。彼は初めは墨色の絵で世間に認められていた。だが講話発表後その絵は「紅」を多用することで歓迎されるようになった。
 伝抱石という画家は「清平楽」という毛沢東の姿図とそこに詩を並べた絵を描いた。彼は死ぬまでに同じ様な画を計200枚以上描いて、これは「山水画と革命の結合」として革命に奉仕したとされ、その形式は全国に広まった。だがこの形式の山水画を現在は見つけるのが難しい。

 
1990年の頃「毛沢東安源に行く」の画は606万元した。それから10数年、今は更に値が上がっているのではないか、と言われる。
  
  中国は建国後もこれを芸術の基本として、党の政治課題に従属させました。
 芸術だけで無く、農業も工業も議会も司法も全てを政治に従属させました。

 現実の農民の生活を改善しなくて、それを「英雄的に明るく健康的」に描く、これほど農民を馬鹿にした話はないでしょう。

 
 北京から汽車に乗って1時間も行った農村では奴隷状態が存在することを、日本の作家山崎豊子は「大地の子」の中で主人公の妹として描きました。
 この現実を「社会主義を受け入れた作家」は描くことが出来ないのです。

 
 悲惨なことは、「政治の優位」を一時的にせよ芸術家が賛同してしまったことです。
 で、強要され、賛同した芸術家はどうなったでしょうか。「労働者農民を主人公に」という思想の行き着くところへ行ったのです。
 彼等は「教養」「学歴」が有る人が多く、文革が始まると敵階級・資産階級として追求糾弾されます。自殺したり、殺されたりする人が続出しした。

 日本で言うと「森鴎外」に相当するような有名な文筆家が居ます。「老舎」と言います。この人は文革が始まると同時に学生達に連日追求されて、ついに遺体が発見されます。その死因は約30年ほどして、家族が「殺されたのではなく、自殺した」と発表しました。でも真因をだれも疑っているでしょう。


ちょうどこの時スエーデンでは老舎を「ノーベル文学賞」に決定し連絡するところだった。

  さて、中国が建国後に描いた多くの画が「同じような傾向の作品ばかりであること」で、中国では芸術が感動とは関係ないものであり、政治宣伝にしか過ぎないとして、興味が失われていきました。

 

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