日本絵画

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 絵巻物とは、絵入りの経巻である絵因果経などを先行表現とし、絵と文章(詞書)を交互に記して、鑑賞者が物語(縁起、伝記等)の時間の流れを追うことを容易にした、一種の総合芸術である。
 絵巻物というと、文学作品等をわかりやすく要約した民衆的な芸術という印象が生じやすい。確かに、鎌倉時代後半から室町時代にかけて、寺社縁起といったかたちをとおして絵巻物は民衆と接触し、いってみれば通俗化していった。しかしこれからみる院政期の絵巻物は、民衆とは無縁の、朝廷を中心とする少数者のための贅沢な宝であったことを最初に確認しておく必要がある。
 そうしたなかで小論が特に注目するのは、ヨーロッパ近代絵画の遠近法とは異なる、絵画史でいっぱんに「逆遠近法」と呼ばれる空間表現と、異なった時間に生じたできごとをひとつの空間に同時に展開させる「異時同図法」という時間表現である。
 これらはいったいどのようにして絵巻物のなかに生じたものなのだろうか。まずは先学の指摘をみてみよう。

長巻である絵巻には反復描写の自由が許されているが、同時にこれを誤ると冗長感を生み、画面展開の面白みを失うおそれがなくはない。そこで画家は、不合理、不自然を承知の上で、あえて異時同図の非現実的な構図を創作したのではなかろうか。
異時同図法を「画面展開の打開策」(前掲書)のための省略法と位置づける。しかしこれはあまりにも「合理的」に過ぎるみかたではないか。小論はむしろ、絵巻物を描いたり、鑑賞した院政期の人間が、こうした表現を「不合理、不自然」と感じていたかを問題にしてみたいのである
仏教、なかでも密教系の経典には、千手観音を頂点とする多面多臂すなわち多くの顔(頭)と腕をもつ菩薩や天界の存在が数多く登場し、そうした存在の像や図画が多くつくられている。それらを想像裡の「異形」の存在ととらえるのはある意味で正しいのだろうし、それらの像は、そうした存在をあるリアリティーをもって写そうとしたものといえると思う。しかし人間の想像力がそうした存在を生み出したことのリアリティーにまでさかのぼって考えようとすれば、それらは単なる異形の存在というだけではすまされない。
 小論の関心のなかでいえば、たとえば千手観音という多面多臂の菩薩は、あるときは祈り、あるときは癒し、あるときは戦うといった大乗仏教求道者・修行者の人間(衆生)救済の多様なはたらきを時間的に集約してひとつの身体のうえに表現したものと考えることも許されるのではないか。
 「時間」を単純に流れ去るものとのみとらえ、(芸術・宗教上の)表現を、流れ去る時間の一点を静止させて特定の存在を描写したものとみなすと、想像裡の異形の存在でしかありえないものも、時間にたいするみかたを変えることで自然な存在(心的なリアリティーをもった存在)へとあり方を変えてくる。
 ただ千手観音は、密教特有の変化観音のなかでもいわば第2期に登場したため、先行する諸尊の性格を合わせもっており、必ずしもその性格が読み取りやすいとはいえない。そこで千手観音以前に成立した変化観音をみると、たとえば十一面観音は、同様の変容をやや異なった方向から行っているように思える。
十一面観音の頭の上には、その名のとおり11あるいは10の異なった顔が小さく付けられ、この観音菩薩の四方をみわたす力とさまざまな容貌(表情)の変化が表現されている。しかし静寂な慈悲からその裏面の大笑(教学上は邪行のものへの蔑みの笑いとされる)にいたるさまざまな容貌は、時間ごとの菩薩の表情あるいは心理の変化を表わそうとしただけのものではあるまい。いやむしろ、それは瞬間瞬間の表情やその裏にある心理がけして喜怒哀楽のそれぞれに割り切れるような一面的なものではなく、本来多面的なもの、人のこころのはたらきは(表層意識であれ深層意識であれ)特定の感情に還元できるような単純なものではなく、じつはすべての瞬間にすべての感情が含まれていることを図像化したものではないか。
これら変化観音をはじめとする多面多臂の尊像が顕密体制下の寺院にひろくみられるという点からしても、院政期のひとびとが人間心理や行動と時間の関係について、われわれとは異なった感覚をもっていたのは明らかだと思う。
 またこうした特異な時空感覚の表出は、個々の尊像についていえるだけではない。
 密教の世界観を総合的に図像化した曼荼羅のなかでも、たとえば金剛界曼荼羅は、一幅の図のなかで大日如来の智の側面を九つの区画(会場/えば)に分けて同時に表現している。平面上に一気に展開するか、右から左へ全体を徐々に見るかの違いはあっても、一個の作物として考えた場合、金剛界曼荼羅は絵巻物と似た造形上の構造をもっているといっていいだろう。しかも金剛界曼荼羅の九つの区画は、中央の成身会(じょうじんえ=羯磨会<かつまえ>)から降三世三昧耶会(ごうさんぜさんまやえ)まで、上転(修行)、下転(救済)の二つのはたらきにそって配列されてはいるが、これは修行あるいは救済の時間的な流れを単純に追ったものではない。これら九つの区画は、大日如来の智の世界をいわ構造的に表現しようとしたものであり、それぞれの局面が同時にはたらいている、ダイナミックな世界観の表出なのである。
以上のような同時代の表現(もちろん先行表現でもある)との関係からいって、絵巻物のなかには、密教的思想(発想法)がかなり深く入りこんでいるといえると思う。ただわれわれは、院政期、とりわけ後白河院の時代の絵巻物の制作が、密教的契機(世界観)に基づくものか、あるいはまた新たに興った浄土教的契機(世界観)に基づくものか、ここで性急に断定する必要はあるまい。密教にしても浄土教にしても、表現の背景などではなく、結局は絵巻物の表現と同じ資格で時代に与っているのではないか。

絵巻物の存在は、「源氏物語」(絵合巻)のなかですでに言及されているが、その制作がさかんになったのは、院政期とりわけ後白河院時代であった。

小論では、以下、後白河院政期前後を代表するいわゆる<四大絵巻>のなかから、時間と空間に関して独自の表現を行っている「源氏物語絵巻」「伴大納言絵巻」「信貴山縁起絵巻」をとりあげ、その主要なレトリック(表現方法)がどのように用いられているか通覧していく。残るひとつ「鳥獣人物戯画」も、比喩がどのように使用されているかといった観点から興味深いが、それについては別の機会に考察してみたい。

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11世紀後半、藤原氏と外戚関係のない後三条天皇が登場して、藤原氏は急速に没落していった。さらに、白河上皇が、藤原氏にトドメをさすために、院政を行う。天皇の地位は子どもに譲っちゃって、自分は「影のドン」になるわけだ。
 「影のドン」の会長(上皇)が運転手つきの黒い外車で乗りつけて、重役たち(藤原氏)が決めたことを、一言で却下する。社長(天皇)より、「影のドン」の会長(上皇)の方が、そういうことをやりやすいのだ。
 そして、「影のドン」である会長(上皇)は、ガードマンに、普通の社員(貴族)でなく、白いスーツにサングラスの荒くれ者(武士)をつける。それが、地方武士団の棟梁〔とうりょう〕である平氏だ。
 こうして、平氏が、上皇のボディガードとして、のし上がってくる。時代は、貴族の時代から武士の時代に移り変わっていく。
 そう、時代の主役が、都の貴族から、地方武士団の棟梁である平氏に変わっていくことによって、院政期文化では、文化も都から地方へと広まっていったんだね。

A 院政期文化の建築は、地方のお寺
 院政期文化では、文化が地方に広まっていったから、有名な建築は地方ばかりだ。今までの建築が、ほぽ奈良や京都ばかりなのに比べて大違いだね。やっぱりこの時期は、大きな時代の転換点なのだ。

 まずは、中尊寺金色堂〔ちゅうそんじこんじきどう〕。
 藤原氏の一派が都から流れ流れて、武士化して、岩手県に根づき、奥州藤原氏〔おうしゅうふじわらし〕となった。その周辺は、金の産地でもあり、岩手県の平泉〔ひらいずみ〕に、突如、黄金に輝く奥州藤原文化が現れたんだ。
 その奥州藤原氏の祖・藤原清衡〔ふじわらのきよひら〕がつくったのが、中尊寺金色堂だ。もう目もくらむばかりのキンピカさだ。「金色堂」と呼ばれてるけれど、実際には「阿弥陀堂」で、中にはこれまた阿弥陀如来さんがいてはる。このキンピカぐあいも、平等院鳳凰堂とは別の意味で、地上の極楽浄土だ。阿弥陀如来さんの近くには、清衡・基衡〔もとひら〕・秀衡〔ひでひら〕の奥州藤原氏三代のミイラが納められている。

 それから、福島県の願成寺〔がんじょうじ〕にある白水阿弥陀堂〔しらみずあみだどう〕。これも、阿弥陀堂だから、もちろん、阿弥陀如来さんがいてはるわけだ。

 鳥取県にあるのが、三仏寺投入堂〔さんぶつじなげいれどう〕。
 すごい断崖絶壁に建っている。「投入堂」という名前も、まるででっかい巨人が、断崖絶壁のちょっとへこんだところに建物を「投げ入れ」たみたいだからついた名前だ。
 うーん、何もこんなところに造らなくってもいいのに……。実は、呪術をあやつる役行者〔えんのぎょうじゃ〕の修験道場だから、こんな場所にあるんだけどね。

 そして、大分県にあるのが、富貴寺大堂〔ふきじおおどう〕。これも、名前にはないけれど、阿弥陀堂だ。

 どれも、奈良や京都じゃなくて、地方にあるよね。これが、この時代の特徴なんだ。

B 院政期文化の彫刻も地方だよ
 彫刻も、院政期文化の時代は、地方だ。

 まずは、中尊寺一字金輪像〔ちゅうそんじいちじきんりんぞう〕。
 岩手県の平泉にある中尊寺だね。

 それから、変わってるのが、大分県にある臼杵〔うすき〕の磨崖仏〔まがいぶつ〕。
 崖に62体の石仏が刻まれている。

C 院政期文化の絵画は、絵巻物
 院政期文化の絵画は、何といっても、絵巻物〔えまきもの〕。
 絵と詞書〔ことばがき〕(ストーリー)を交互に、右から左に描いて、巻物にしたものだね。

 まずは、常盤光永〔ときわのみつなが〕作の「伴大納言絵巻〔ばんだいなごんえまき〕」。
 そう、866年に、応天門〔おうてんもん〕の火災にからんで、藤原良房〔ふじわらのよしふさ〕が、伴善男〔とものよしお〕を排斥した応天門の変を描いたものだね。
 たぶん、図説を開くと、めらめらと真っ赤な炎と黒い煙をあげて燃え上がる応天門と、それを見ようと集まった野次馬たちの表情豊かな姿が、載ってるんじゃないかな。
 「あー、これが『伴大納言絵巻』ね」と、ぼくたちはやり過ごしてしまう。 でも、実は、この時代に、こんなに人間の表情が生き生きと描かれてるって、世界史的に見てもスゴいことなんだ。12世紀後半、たとえば、ヨーロッパではまだルネサンス前。絵画といえば、なんの表情もない、キリスト教のマークのような絵だけだ。ヨーロッパ人が、生き生きとした人間の表情を描きはじめるのは、それから200年後だ。なのに、日本人は、もうこの時代に、こんなに豊かに人間の表情を見つめていた。
 応天門が燃えるパチパチという音や炎の温度、野次馬たちのざわざわ騒ぐ声が聞こえてきそうだ。
 これは、スゴいことだね。

 次は、「信貴山縁起絵巻〔しぎさんえんぎえまき〕」。
 命蓮〔みょうれん〕という超能力をもつお坊さんの起こした奇跡を描いたものだ。
 図説には、たぶん、倉や米俵が空を飛んでる絵が載ってると思うけど、よく見てごらん、超能力に驚く人々の姿は、現代のギャグマンガもビックリの動きや表情だから。マネしたら、ギャグに使えるかもしれへんで……。

 それから、藤原隆能〔ふじわらのたかよし〕作の「源氏物語絵巻〔げんじものがたりえまき〕」。『源氏物語』自体は、国風文化だけど、「源氏物語絵巻」は院政期文化だから、気をつけよう。
「源氏物語絵巻」では、重要な言葉がふたつある。「引目鉤鼻〔ひきめかぎばに〕」と「吹抜屋台〔ふきぬけやたい〕」。
 「引目鉤鼻」っていうのは、目はピッと横に線を引いただけ、鼻はひらがなの「し」の字みたいなのを書いただけ、ってこと。
 「吹抜屋台」ってのは、まるで屋根がなくって、空中から撮影しているようなアングルで描いてるってこと。

 「鳥獣戯画〔ちょうじゅうぎが〕」は有名だね。鳥羽僧正覚猷〔とばそうじょうかくゆう〕作だ。
 動物に託して、当時の貴族界や仏教界を風刺している。いばってる蛙とかね。
 これも、世界史的に見て、こんな時代に、これほど生き生きと、しかも動物に託して、人間性をえぐってるなんて、かなりスゴいことなのだ。

 絵巻物のラストは、「年中行事絵巻〔ねんじゅうぎょうじえまき〕」。
 宮廷行事の様子が描かれている。

 実は、絵巻物って、現代のアニメの元祖でもある。
 アニメーションの高畑勲〔たかはたいさお〕氏も、『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』という本で、「いまや世界中でもてはやされる日本のアニメ。その隆盛のわけは?」として、「信貴山縁起絵巻」「伴大納言絵詞」「鳥獣戯画」の「驚くべき動きの魔術」を大絶賛しているほどだ。

 そうそう、院政期文化の絵画には、あと、装飾経〔そうしょくきょう〕というのがある。お経の飾りに絵が描いてある。

 ひとつめは、「扇面古写経〔せんめんこしゃきょう〕(扇面法華経冊子〔せんめんほけきょうさっし〕)」。
 法華経が書いてあって、背景には当時の貴族や庶民の生活が描いてある。

 もひとつが、「平家納経〔へいけのうきょう〕」。
 平清盛らが、平氏一門繁栄御礼のために、平氏の氏神の厳島〔いつくしま〕神社に奉納したんだ。
 やっぱり、法華経が書いてあって、華麗な絵がほどこされてるね。


1、「伴大納言絵巻〔ばんだいなごんえまき〕」
平安末期の貴族社会の権力闘争と没落を描いた絵巻には「平治物語絵巻」、「後三年合戦絵巻」とこの「伴大納言絵巻」が有名である。「信貴山縁起絵巻」と同様な物語性(説話風)に画面が構成される。画面が時間空間的に流れる手法は日本絵巻物の独創性でもある。アニメの世界でもある。この画面に画かれた描写はあまりに膨大でドラマチックで面白い。応天門の焼失にはじまるストーリが子供の喧嘩から意外な展開を向かえる実に面白い脚本である。そして庶民や貴族・武士の表情を見事に描ききっている。


2、「源氏物語絵巻〔げんじものがたりえまき〕」
平安時代後期の絵巻物。白河・鳥羽上皇の院政期(1120〜1140ごろ)に,院や女院を中心とする入念な企画として制作されたものと思われ,『源氏物語』54帖の各帖から1場面ないし3場面を抜き出して絵画化し,対応する本文の一節を美しい料紙に書写した詞書を添える。当初は80〜90場面が10〜12巻くらいの絵巻に構成されたと推定されるが,現在では19段の画面と20段の詞書が徳川黎明会と五島美術館とに分蔵されるほか,詞書の断簡8種,絵の断簡1種が伝わるにすぎない。詞書の書風が5種類ほどに分類され,画面相互の間にも表現の相違を指摘できるので,院政期を代表する複数の宮廷画家と書家とが,物語の各部分を分担制作したことがわかる。いずれも料紙の上にまず自由な墨線で構図を下描きしたのち,色鮮かな岩絵具で全面を厚く塗りつめ,しだいに細部の図様を整えながら密度ある画面に仕上げてゆく「つくり絵」の手法によっている。画中の人物は「引目鈎鼻」と通称される類型化された顔容表現をとるが,緻密な画面構成と色彩効果とによって,各場面の情趣と人物の心理とが巧みに造型化され,王朝物語の世界を後代に伝えてくれる


3、鳥獣戯画 ちょうじゅうぎが
 この絵巻の形式的な特徴をあげれば,ほかのほとんどの絵巻が紙本着色であるのに対して,これは全巻紙本白描であること。そしてさらに詞書をまったく用意しなかったとみえて,全巻絵を連続的に描いていることなどである。大きさをみると4巻とも紙の縦は約30cmとほぼ揃っているが,横すなわち長さは第1巻(甲巻ともいう)は約1,148cm・第2巻(乙巻)は約1,189cm・第3巻(丙巻)は約1,130cm・第4巻(丁巻)のみ短く約933cmである。
 さてその描くところの場面・内容をみると,第1巻(甲巻)では猿・鬼・蛙・狐・雑子・猫など合計103匹が登場して,いずれも擬人化され,溪流に沐浴したり,賭弓をしたり,袈裟を着た猿,鹿を引く兎,逃げるもの,追跡するもの,倒れた蛙をほかの動物が囲んで眺めたり,蛙の田楽踊り,兎と蛙の相撲,蛙に投げ飛ばされる兎,蛙を壇上に祭り,猿・兎・狐が袈裟を着て読経し,まわりに動物の会葬者が見守り,最後に猿が兎・蛙からおきよめを戴く場面で終わっており,いわゆる「鳥獣戯画(巻)」と呼ばれる最もポピュラーな巻である。第2巻(乙巻)はほかの巻のように戯画ではなく,動物生態図で説話の筋はない。すなわち野馬に始まり,牛・鷹・犬・鶏・鷲・水犀・麒麟・豹・山羊・虎・獅子・竜・象・獏など空想的なものも含めて総計69匹の鳥獣を描いている。一名「鳥獣写生巻」ともいわれている。第3巻(丙巻)は人間が登場して,前半は囲碁・双六・将棋・耳引き・首引き・睨み合い・褌引き・闘鶏・闘犬の9場面を描き,いずれも賭けごとのようである。後半は第1巻とテーマがやや似ていて,猿・兎・狐などが人まねをして遊ぶところを描いている。一名「人物鳥獣戯画巻」とも呼ばれる。最後の第4巻はテーマとしては第3巻の前半部にやや近いもので,人間社会のことを描いている。すなわち法力競べ・流鏑馬(やぶさめ)・法要・球投げなど僧侶・俗人達の勝負事や行事のさまである。一名「人物戯画巻」ともいう。
 以上通観してわかるとおり,各巻内容はまちまちで一貫せず,それらの主題の意味が何であるのか,その解釈をめぐって容易に断じがたく,種々の議論が行われているが,第1巻と第3巻後半などは明らかに平安末期の社会批判の諷刺画,ことに当時の仏教界に対する諷刺であろう。また全巻に賭博がみられることは俗界への諷刺であろう。とすれば,この作者の意図は先述の高山寺の地理も考え合わせると,下界の京の卑俗から超脱して神仙世界への憧れを暗示したものである。

芍薬

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【芍薬】しゃくやく

キンポウゲ科の多年草。アジア北東部原産。日本では古くから薬用・観賞用に栽培され、多数の園芸品種がある。高さ60センチメートル内外。葉は二回三出複葉。五月頃、茎頂にボタンに似た径10センチメートル内外の花を一個つける。花色は淡紅・紅・白などで、雄しべは時に弁化して翁咲きや八重咲きになる。漢方で根を鎮痛・鎮痙薬とする。夷草(えびすぐさ)。夷薬。貌佳草(かおよぐさ)。



立てば芍薬坐れば牡丹


芍薬に逢瀬のごとき夜があり(森澄雄)

芍薬やつくえの上の紅楼夢(永井荷風)

 
歳時記をひもといてみると、美女のたとえに引かれるだけあって、芍薬はなかなか色っぽい句を生んでいるようです。

 

緑金の虫芍薬のただなかに(飯田蛇笏)

芍薬のゆさゆさと夜が生きてをり(鍵和田柚子)

 

芍薬の花の季節はまた、大地の生と性が目覚め、交響曲を奏でる時でもあるのですね。色、水、風、すべてに生命の匂いを感じるのがこの季節ではないでしょうか。

 

芍薬を嗅げば女体となりいたり(山口誓子)

 

芍薬の香りを、フランスでは白ワインの香りの形容につかうことがあるそうです。ソーヴィニヨン・ブラン種から醸すロワール地方のサンセールやプイイ・フュメで、これもたとえるならやはり女性、それもしなやかで爽やかで、大人の女性の落ちつきも十分感じさせる、そんなワインだと思います。

それにしても芍薬ってとても東洋的な名前だし、花の雰囲気も東洋的だと思っていたので、へえ、フランスにも芍薬はあるのか、と調べてみたら、とんでもない。西洋でも古代から薬草としての歴史をもっていて、芍薬を指す「ピオニイ」の由来はホメロスにさかのぼるようです。観賞用としても日本より欧米で好まれ、栽培品種は欧米のほうが多い、とこれはインターネットで仕入れた知識です。

漢方治療での芍薬は、根を乾燥したものを使います。とても多くの薬に配合されていて、たとえば皆さんご存じの葛根湯(かっこんとう)にも、芍薬は入っているのです。

生薬としての芍薬を芸人にたとえてみれば、芸風が広くて主役、脇役、いろいろこなせる大女優というところでしょうか。補血薬といって血の不足を補う薬に分類されていますが、痛みや痙攣をやわらげる、など多面的な薬効があり、その有効成分が薬理学的によく研究されていることでも、多くの生薬の中で女王格だと思います。

 

芍薬が主役級を演じている漢方薬をいくつか紹介しましょう。

芍薬甘草湯(しゃくやくかんぞうとう)は、芍薬と甘草という二つの生薬だけから作る、とてもシンプルな漢方薬ですが、腰痛、尿路結石など下半身の痛みや筋の痙攣によく効きます。

もう一つ、芍薬の名が冠された有名な漢方処方に当帰芍薬散(とうきしゃくやくさん)があります。この薬は昔から女性の聖薬とされ、生理に伴う体調不良、不妊、流産防止などによく使われてきました。近年になって、この当帰芍薬散が老年痴呆に有効なのではないか、という研究結果が報告され、注目を浴びています。この研究をなさっているのが、アメリカ・テキサス大学の先生なのも面白いところです。

漢方といえば本場中国、と反射的に考えがちですが、富山医科薬科大学では、漢方の研究のためにアメリカに留学する先生もあれば、中国から漢方研究のために富山へ留学して来る方も少なくありません。漢方の世界地図も塗り替えられつつあるのです。

さて、芍薬とならび賞される牡丹は、英語ではツリー・ピオニー、木の芍薬と呼ぶように、芍薬のごく近い親類です。漢方治療では根の芯の部分を除いて乾かしたものを使います。血の巡りをよくする生薬とされ、女性薬に多く配合されています。芍薬よりは、目鼻立ちのはっきりした個性派女優というところでしょうか。

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国風文化は、藤原氏が栄華を誇った10世紀から11世紀前半の文化だ。
 まず、日本に大きな影響を与えた大国・唐が衰えて、894年に菅原道真の進言によって遣唐使が廃止された。それで、中国の影響がなくなっちゃう。もともと、日本人って、雄大な中国民族と違って、繊細な民族だから、中国の影響がなくなると、文化も繊細優雅になってくる。唐が滅びてから、中国は長く混乱状態に入ったから、日本もほとんど中国と関係を持たず、一種の鎖国状態。どんどん日本独自の繊細な文化が発達してくるわけ。
 それから、藤原氏が外戚政策によって勢力を伸ばしてくる。藤原氏が自分の娘と天皇を結婚させて、天皇と藤原氏の娘の間に子どもが生まれる。その子どもが次の天皇になるわけで、つまり、藤原氏が天皇のおじいちゃんになるわけだ。そのため、藤原氏は、自分の娘の周りに有能な女房を集めるわけだ。文化も、その女房中心に形成されるようになる。たとえば、紫式部は、藤原道長の娘・彰子の女房のひとりだし、清少納言は、藤原道隆の娘・定子の女房のひとりだ。女性中心の文化だから、やっぱり、繊細優雅になってくる。
 おまけに、この時代の主人公は高貴な貴族で、大きな戦もないから、さらに繊細優雅さアップだ。
 そう、国風文化は、繊細優雅な文化なのだ。

 もっとも、「美術史」ってことでいえば、女性中心の文化だから、あまり建築や彫刻は盛んじゃない。まさしく『源氏物語』や『枕草子』や『古今和歌集』といった文学が中心の文化なのだ。これら文学は、まさに繊細優雅さ最高潮。
 でも、むしろ、美術史の分野では、これから説明する浄土教美術が中心になる。だから、国風文化は全体としては繊細優雅なんだけど、美術史でいえば、あんまり繊細優雅とは関係ない。
 そこのところを、よく理解しておいてね。

A 国風文化の建築は、バーチャル極楽
 この時代、仏教で浄土教〔じょうどきょう〕というのが広まった。
 仏教には、末法思想〔まっつぽうしそう〕ってのがあって、それが、なんと大変なことに、1052年に、末法の世、つまり暗黒の世界がやってくるというのだ。
 だから、実は、貴族たちは、きらびやかな生活の裏で、不安で不安でしかたがなかったんだね。
 そう、まさに、人々は、暗黒の世界の到来におびえ、阿弥陀如来〔あみだにょらい〕さんが、苦しみも不安も何もない幸せな極楽浄土〔ごくらくじょうど〕に連れて行ってくれることを願ったんだ。
 貴族たちは競うように、阿弥陀如来像をつくり、阿弥陀堂を建てた。

 まず、当時の最高権力者・藤原道長がつくった阿弥陀堂が、法成寺無量寿院〔ほうじょうじむりょうじゅいん〕。もっとも、これは、現存していない。
 でも、人間って不思議だ。
 娘の彰子〔しょうし〕・妍子〔けんし〕・威子〔いし〕を天皇と結婚させ、一家三立后〔いっかさんりつごう〕を果たし、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることも無しと思へば」とまで詠み、文字どおり栄華を極めた道長が、死ぬときは、阿弥陀如来像の指と自分の指を五色の糸でつないで死んだというのだ。
 人間って、やはり弱い存在なんだね、どんなに栄華を極めても……。

 そして、道長の子・藤原頼通〔ふじわらのよりみち〕がつくったのが、かの有名な平等院鳳凰堂〔びょうどういんほうおうどう〕だ。
 なんか今では、十円玉とかで見慣れすぎてしまってるけど、改めて見てみると、平等院鳳凰堂は、空に舞い上がるような姿をしている。その姿が、前にある池に映り美しい。
 中には、金色に輝く阿弥陀如来像がいてはって、周りの壁には、阿弥陀如来の家来のたくさんの菩薩さんがちりばめられ、さらに、扉にも阿弥陀如来と菩薩が人を迎えに来てくれる来迎図〔らいごうず〕という絵が描かれ平等院鳳凰堂のなかに入る人は、今、このまま阿弥陀如来さまが極楽浄土に連れて行ってくれるような幻想にとらわれる、……そんな光景が広がっている。
 もう極楽の3D〔スリーディー〕状態だ。バーチャル極楽だ。
 ぼくたちが3Dで、その空間にいるように感じるのと同様に、頼通たちは、本当に極楽浄土に来て、阿弥陀如来とともにいるような気持ちになったのだ。

 もうひとつ、法界寺阿弥陀堂〔ほうかいじあみだどう〕も覚えておこう。
 これは、日野資業〔ひのすけなり〕が京都の南部につくった阿弥陀堂だ。

 それから、阿弥陀堂以外の建築としては、醍醐寺五重塔〔だいごじごじゅうのとう〕を覚えておこう。

B 国風文化の彫刻は、阿弥陀如来像
 国風文化の彫刻で覚えなくちゃいけないのは、両方とも、いまやった阿弥陀堂に納められた阿弥陀如来像だ。

 まず、ひとつめは、定朝〔じょうちょう〕作の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像〔びょうどういんほうおうどうあみだにょらいぞう〕。
 もちろん、平等院鳳凰堂に納められてるよ。
 「如来」さんなので、質素な服を着て、頭に智恵のコブがあるね。そして、「阿弥陀如来」さんだから、手がOKマークのような「来迎印〔らいごういん〕」になってる。

 もひとつ、法界寺阿弥陀如来像〔ほうかいじあみだにょらいぞう〕。
 法界寺阿弥陀堂にある。定朝作ではないけれど、同じ定朝様式だ。平等院鳳凰堂阿弥陀如来像とそっくりで、ほとんど区別がつかないほどだね。

 そう、この時代の彫刻の造り方は、寄木造〔よせぎづくり〕といって、いろいろな部品ごとに分けて造って、後で組み合わせる方法になってる。つまり、定朝が弟子に「おまえはこの部分を彫ってなー」とか作業分担ができるわけで、だいぶ能率的になったわけだ。

C 国風文化の絵画も、阿弥陀如来さん
 国風文化時代は、絵画も阿弥陀如来さんがらみだ。
 来迎図〔らいごうず〕っていって、阿弥陀如来さんがたくさんの菩薩さんをしたがえて、暗黒のこの世から、何の苦しみも不安もない幸せな極楽浄土に連れに迎えに来てくれる、そんな絵だ。

 高野山聖衆来迎図〔こうやさんしょうじらいごうず〕は、真ん中に雲に乗った阿弥陀如来さんがいてはって、その周りにたくさんの菩薩さんがいてはる。

 平等院鳳凰堂扉絵〔びょうどういんほうおうどうとびらえ〕は、平等院バーチャル極楽の一部だね。

 その他に、日本風の花鳥風月を描いた大和絵〔やまとえ〕が現れた。国風文化の美術史でやっと登場した、日本風の繊細優雅な作風だね。
 巨勢金岡〔こせのかなおか〕や百済河成〔くだらのかわなり〕が有名だけど、特に覚えなくちゃいけない代表作はないよ。
 あ、君たちは、『源氏物語絵巻』とか思い出すかもしれないけれど、あれは、もうひとつ後の院政期文化だからね。

 また、漆〔うるし〕で文様を描き、金銀粉を蒔〔ま〕きつける蒔絵〔まきえ〕も描かれるようになった。これも、特に暗記すべき代表作はないよ。




****藤原一族の栄華・・・「光源氏の」モデルになった道長の栄華・・・藤原氏は平安時代の半ば「源氏物語」の主人公「光源氏」のモデルになったといわれる道長の時代に、全盛期を迎えます。道長は後に摂政・関白となる藤原兼家の4男として生まれました。普通ならばとても権力の座につけるとは思えない境遇なのですが、歴史は道長を権力の座へと導きます。道長は光源氏と同じように、女性にとても人気がありました。それも、年上の高貴な有力な家柄の女姓に特に人気があったのです。このことは、後に権力の座につく道長にとってとても重要な要素となります。というのは、長男の道隆が関白になったあと、2男、3男が次々に病死するという事情が影響したこともありますが、実姉の詮子(せんし)=円融帝の妻、を初め、有力な女性のバックアップなくしては出世は出来なかったのです。こうして道長は権力を握ると、宴の席で次のような歌を詠みました。「この世をば、我が世とぞ思ふ望月の、欠けたることもなしと思えば」藤原氏の絶対の栄華と、道長の揺るぎのなき自信を表現した歌だとは思いませんか?  



高野山聖衆来迎図 こうやさんしょうじゅらいごうず



 高野山の有志八幡講十八箇院が所蔵する平安後期の来迎図。絹本着色の絵で,いま縦横210.0cmの中幅と,縦210.0cm,横105.2cmの左右幅に分れているが,もとは一幅の大画面であったと思われる。中央に阿弥陀如来坐像を正面向きに大きく描き,その左右や後方に楽器や幡をもった聖衆を配し,前方に観音と勢至の2菩薩が先導するさまを描いている。画面の左下に紅葉した山があり,下方には広い水面がある。雲に乗って極楽浄土から来迎した仏たちは,いま大空を旋回して正面を向いたところで,聖衆は遠いものは小さく近いものは大きく描かれて,画面に奥行を与えるとともに,雲の形と相まって運動感の表現にも役立っている。阿弥陀如来は金色に彩られ,その衣には華麗な切金(きりかね)文様が用いられており,平安後期も12世紀後半の作であろう。もと比叡山の安楽谷にあったが,織田信長の焼打の時に高野山へ移されたと伝える。

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両界曼荼羅は、金剛界と胎蔵界より成り、教理の説明または修法の対象とされ、金剛界は仏の力が一切の煩悩を打ち破ること、金剛(ダイヤモンド)のごとく強きことを表わし、胎蔵界はその妙力がまだ発露しないこと子の胎内にあるがごときを示したものである。
 両界ともに大日如来を中心に、金剛界は諸尊を周囲にめぐらした組織により、胎蔵界は諸尊の配置によって仏界を図示しているが、真理は金胎不二にあると解く。したがってその表現と内在の両世界を分析し仏格をもって図示したものといえる。そこでは、すべての仏、菩薩、天部、鬼神が包含されている。大日如来は文字どおり日輪(太陽)であり、万物万象の母にたとえられるのである。
密教のもつわかりにくいというイメージは、そのシステムが重層的で複雑であることによる。しかし、そのシステムはいたって体系的であり、理路整然としていることを知る時、我々は密教及び視覚的な密教美術の世界観にひきつけられることとなる。
 密教の体系的システムを示す最も基本的な表現形態が曼荼羅(まんだら)であり、曼荼羅という図像の形成意図を知ることが、密教を知る先決手段となる。
 曼荼羅−−マンダラという用語は、古代インドの言葉であるサンスクリット語(梵(ぼん)語)で、本質(真髄・さとり)を表現したものという意味で、聖なる空間を示す。数ある曼荼羅のなかでも両界(りょうかい)曼荼羅は、密教最高の理念ないし密教の理想世界を象徴するものとされる。大日如来を中心にして多くの諸尊が実に整然と、配され、一つ一つの仏の個性が見事に生かされた統一の世界−−共存の原理によって成り立つ世界−−が表現されている。
 純密の根本経典ともいえる『大日経』と『金剛頂経』のいわゆる両部大経をもとに構築された胎蔵曼荼羅と金剛曼荼羅《注6》を合わせて両界(両部)曼荼羅という。両経典はインドにおいて7〜8世紀に相前後してそれぞれ異なる地域で別々に成立し、各曼荼羅も独立して存在したようである。これが一具の曼荼羅として整備されたのは、空海の師である恵果(けいか)に負うものとされ、中国の二元的思想−−陰陽二元論など、事象を対(つい)概念で把握すること−−によったことも考えられている。理という物理的なものの形の世界[胎蔵界]と、智という精神的なものの働きの世界[金剛界]という二つの世界が揃ってはじめて密教世界であるとともに、仏の本質をも意味するのである。両者の分かちがたいことを「理智不二(りちふに)・金胎(こんたい)不二」という。
 さて、空海が806(大同元)年に請来した両界曼荼羅は間もなく損傷し、821(弘仁12)年に最初の転写本が作られ、これ以後も1191(建久二)年、1296(永仁4)年、1693(元禄6)年に京都・東寺(教王護国寺)において転写され、空海請来本の図相が伝えられている。この空海が請来した両界曼荼羅は、現行の画像という意味で現図(げんず)曼荼羅といわれる。
 現図曼荼羅の画面構成はどのようなものであろうか。
 胎蔵界曼荼羅は、左右対称が強調されたもので十二大院からなり、中心に大日如来(法界定印)、そのまわりに合計約400の諸尊を配する。中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)を中心として、上下は各四重、左右は各三重とし、それらがほぼ左右対称に構成されているが、これを次の三部編成にまとめてその働きを表している。(1)仏部−−中台八葉院・遍智(へんち)院・釈迦院・文殊(もんじゅ)院・持明(じみょう)院(五大院)・虚空蔵(こくうぞう)院・蘇悉地(そしつじ)院及び上下(東西)外(げ)金剛部院の中央列−−は、密教の真髄である智恵と慈悲を表し、(2)蓮華(れんげ)部−−観音院(蓮華部院)・地蔵院及び向かって左(北)の外金剛部院−−は、やさしい姿でもって慈悲の相を示し、(3)金剛部−−金剛手院(金剛部院)・除蓋障(じょがいしょう)院及び向かって右(南)の外金剛部院−−は、威厳をもって智恵の相を示しているとされる。なお、最外院の外金剛部院は、曼荼羅の周囲を警護する仏法護持の諸神をめぐらす、つまり、先の三部を護る所とされている。
 これに対して、金剛界曼荼羅は一般に九会曼荼羅といわれるように、三段三列の九つの曼荼羅から構成されている。上段中央の一印会(いちいんえ)を大日如来(智拳印)一仏のみで表すほかは、中心となる成身会(じょうじんえ)(羯磨(かつま)会)の1061尊を含め合計約1500尊を配する。なお、上段向かって右の理趣会が金剛薩 (さつた)を本尊とする以外は、全て大日如来を本尊として表している。各一会一会が画面中心の大日如来に向かって強い求心的構成を示し、上下左右(東西南北)の対称性が保たれている。
 九つの曼荼羅のうち中心に位置する成身会は、『金剛頂経』が説く人間の精神活動の真相を表しており、金剛界曼荼羅の根本をなしている。第一重院の大円相中の五つの中円相(五解脱輪)の中心に位置する諸尊によって五部の構成を示している。中央中円相の大日如来・上(西)の無量寿(むりょうじゅ)(阿弥陀)如来・下(東)の阿 (あしゅく)如来がそれぞれ胎蔵界の仏部・蓮華部・金剛部を示し、向かって左(南)の宝生(ほうしょう)如来を宝部、右(北)の不空成就(ふくうじょうじゅ)如来を羯磨部とする。宝部は人間生活に不可欠の財宝を象徴し、羯磨部はこの世の全ての働きを表しているとされる。

ところで、密教の世界観は立体的なものである。従って、両界曼荼羅は、図としては平面でありながら、実は球体を表出しているのである。球を半分に切り、それを左右に展開したことになる。両界の各構成図をみると、胎蔵界と金剛界では上下左右の東西南北の位置が丁度逆転していることに気付く。これは重要なことで、両界が合体して固定することなく、永遠に、互いに回転運動していることを示している。つまり、両界の東西を合わせると南北が合致せず、南北を合わせると東西が合致せず、合致しないところが反発し合い、回転して合致しようとするということである。我々(我々の存在する地球)は意識しないにしろ、宇宙のなかで回転しており、仏(密教)の世界の中で我々も同じ状況にあるということである。両界が固定していれば、回転している我々が固定しない(逆も同じ)ことになるのである。まさに宇宙感覚である。

画像は輪王寺蔵両界曼荼羅図: 金剛界 (こんごうかい)と胎蔵界(たいぞうかい)



最澄と空海

延暦23年(西暦804年)、遣唐使の一員として法華経教理探求を究極の目的に唐に渡った最澄(伝教大師)は、天台山で法華経関係の教理を学ぶと同時に、密教の思想を相承し、更にひろく禅や戒律も兼学しました。目的を果たして帰朝した最澄は、延暦25年(西暦805年)、日本に天台宗を開きます。法華経を中心とした中国天台の教えに密教を加え、顕教(釈迦如来の教え)、密教(大日如来の教え)双方に同等の重きを置いた最澄の教学は、日本天台の基盤となりました。それに対し、最澄と共に入唐、最澄の約1年後に帰朝した空海(弘法大師)は、密教を最上の法門(教え)とする真言宗を開きました。当時の中国最新の密教を導入した空海の本格的な真言密教(東密)に追いつくべく、天台密教(台密)では、最澄の跡を継いだ円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)が入唐して東密に比肩する成果をもたらします。最澄・空海以降の密教は、教理と修法(実践)が体系化される以前の密教(雑密)に対し純密と呼ばれ、儀礼・法具等整備され現在に受け継がれています。



真言宗の教え

<即身成仏>
真言宗の教えの中心は、現在生きているこの身このままで仏になることができるという「即身成仏」の教えです。
私たちは本来、仏性といって仏さまと変わらない心を持っているのですが、普段はそれを忘れて貪り、怒り、無知といった様々な煩悩に惑わされています。真言宗では、手に仏さまを表す印を結び、口に仏さまの真実の言葉である真言を唱え、心に仏さまを想う、「三密」という修行によって、本来の心に気づくことができると説きます。つまり、私たちの行為と言葉と心を仏さまと一つに合わせることによって、精神を含めた身体全体で直感的にさとりに至ろうとするのです。

<大日如来>
真言宗の本尊は大日如来です。大日如来は、宇宙生命の本体、あるいは宇宙一切の存在を仏さまとしたものです。その名前は太陽をイメージしてつけらえていますが、その智慧の光と慈悲の働きが、昼夜を分かたず影日向をつくらず、あらゆる人に及び、太陽を超えたものであるということから、大日と名付けられています。

<曼荼羅>
仏さまのさとりの世界を、私たちが知覚的に感じられるように図示されたものが曼荼羅です。真言宗では大日如来を中心とした「大悲胎蔵生曼荼羅(胎蔵曼荼羅)」と「金剛界曼荼羅」の両部曼荼羅を特に重要視しています。
「胎蔵曼荼羅」は、それぞれの違いを認め、生きとし生けるものすべてを活かしていこうという「慈悲」の世界を表しており、「金剛界曼荼羅」はダイヤモンド(金剛)のように壊れることのない仏さまの「智慧」がどういうものか、仏さまのさとりとはどういうものかを視覚化したものです。

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