日本絵画

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◆室町の東山文化期に、水墨画を大成したのが、雪舟〔せっしゅう〕。15C後半だ。応仁の乱によって荒廃した京都を逃れて、「小京都」と呼ばれた山口に雲谷庵〔うんこくあん〕を構え活動した。
 「山水長巻〔さんすいちょうかん〕(四季山水図巻〔しきさんすいずかん〕)」・「秋冬山水図〔しゅうとうさんすいず〕」・「天橋立図〔あまのはしだてず〕」などが代表作だ。
 雪舟になると、それまでの水墨画に、雪舟独特の強さ・不思議さが加わる。 「秋冬山水図〔しゅうとうさんすいず〕」。筆がグッグッっと運ばれる。よく見ると、手前におじさんが坂道をよっこらしょよっこらしょと登っている。もう少し行くと、家がある。でも、その家の右上には、山なのか岩なのかよくわかんないものがあり、なんじゃらほいと思っていると、家の向こうには、これまた山なのか異次元空間なのかよくわかんない輪郭がある。あのおじさんは、実は、あの異次元空間に向かって歩いてるのかな……。



1、四季山水図(春、夏、秋、冬) 4幅 雪舟筆 福岡・石橋財団石橋美術館別館



2、秋冬山水図(2幅)京都国立博物館蔵

周文,南宋時代の諸大家,明時代の浙派など,多様な様式学習を経て,雪舟は自己の作風を確立した。たとえば冬景の画面中央から上端にのびる垂直線は調子が強く,この線と周囲の描写との関係は一見わかりにくい。しかしこれは,中国の山水画によく現れる,オーバーハングする断崖の輪郭線が極度に強調されたものなのである。このように,構築的な空間構成,強調された輪郭線,また細い線による簡略化された皴法に雪舟様式の特徴が見出せる。



◆長い道のりの果て、自らの理想郷を、真正面から描くことに成功した画家がいる。 雪舟である。画家は、室町時代の後期、現在の岡山に生まれた。 10代で京都の寺に入門、画僧となる。 そのまま、こころ穏やかな生涯を、送れそうにも思えたことだろうが、時代とは、天才を育てるために、変化を与えるものである。
当時の社会の構成単位であった荘園が、ゆらぎ出していたのだ。 そして、それらを基盤にしていた幕府も、不安定になりつつあったのだ。
京都の治安は悪化し、40代になっていた画家は、現在の山口へと避難。 やがて、応仁の乱(1467-77)が起きたのと同じ頃、遣明船に乗って、中国に渡るのである。
中国では画壇に参加。 大陸の自然に啓示を受けつつ、宋や元の時代の古典絵画を存分に研究した。 そして、帰国したのち、個性的な名作を、次々と生み出していくことになる。
『秋冬山水図・冬景』。奥山の風景だ。 左やや下に、家が幾つか見える。 なかなか立派なものもあるが、素朴なタッチで描かれているので、清らかな風情がする。
その背面には、岩壁がある。 それは、絵の中央から上方へと、力強く、そして伸びやかに放れる筆で描かれた、恐るべき高さへと屹立する、巨大なものである。
里の辺りからは、手前にかけて、川が流れているようだ。 よく観てみると、傘を被ったひとが、川沿いの岩々の、あるかなきかの道(ナローパス)を、飄々(ひょうひょう)と、里の方角へ、歩みを進めている。
しなやかで、力強い筆運びで描かれた作品です。それは、室町が崩れ、動乱の戦国時代に突入して行ったとき、画家 雪舟が、豁然(かつぜん)と世に問いた、辿りつくべき理想郷であったからなのだろう。
さて、伝えられている、雪舟の名品を観ていると、目の前にある風景を、写生しているのではないと思われるものが多いことにも、気がつく。
恐らく、長い画業と中国での研鑽において身に付けた、数々の風景のパーツを、漢詩など、文学的なテーマを基調にして、再構成をしているのではないかと思う。
そのせいか、雪舟の名を耳にするとき、例えば文学の「俳諧」を思い出したりする。 小林一茶というよりは、『奥の細道』で知られる、松尾芭蕉のほうが、近そうだ。
また、構成的なところが、「音楽」を思い浮かべさせたりする。 天真爛漫(てんしんらんまん)なモーツァルトというよりは、ロマンに燃えるベートーヴェンのほうが、近そうである。

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周文(しゅうぶん)


室町時代中期の画僧。生没年不詳。字は天章,号は越渓。相国寺の禅僧となり,都管の役につく。画を如拙に習ったらしく,のちに如拙の後を継いで足利幕府の御用画師となる。1423年(応永30)に幕府の使節とともに朝鮮にゆき,このころすでに優れた評価を得ていたと思われる。応永詩画軸の名品や,それに続く室町中期の掛幅には,周文筆を伝称するものがたいへん多いが,真跡はまだ確定されず,高名なわりには貞の多い作家である。伝称作品には,《三益斎図》(静嘉堂),《江天遠意図》(根津美術館),《初秋送人図》(常盤山文庫),《陶道明聴松図》,《水色巒光図》,《蜀山図》(静嘉堂),《竹斎読書図》(東京国立博物館)などのほか,《四季山水図屏風》(前田育徳会ほか)があり,花鳥図屏風もあったと伝える。これら伝称作品を分類・整理することによって,周文は南宋院体画風の余白を生命とする瀟洒な水墨山水を本旨としながら,これに禅僧らしい解釈を加え,高士隠逸の理想と禅の境地とを重ね合わせた独自の画境を確立したものと見られる。詩画軸には書斎図,送迎図,詩意図(詩の意をとって主題とする)等があるが,いずれも五山の有力な禅僧たちとの交友から生まれたものが多い。当時の修禅の傾向から宋学趣味を画に反映した場合,やや観念的な閉鎖的な世界を現すこともある。一方,士大夫文人趣味を濃厚に反映し禅僧としての立場を離れて自由に画作した場合,枯淡で象徴的な独特の表現に至っている。永享年間(1429‐41)には仏像彫刻や彩色にも携わっており,また,宮廷・幕府関係の邸宅に障壁画を描いた記録もあり,屏風,襖等の大画面構成においても,ひとつの典型を創造したと見られる。54年(享徳3)ころまでは活動の形跡があり,一説に58年(長禄2)雪舟に奥義を授けたという。63年(寛正4),小栗宗湛が幕府御用画師となる以前に没したか,活動を止めたものと推定される。弟子には雪舟,岳翁蔵丘,墨渓(兵部),文清などがある。なお,来日李朝画家秀文とは別人である。



1、「水色巒光図」 伝周文筆


1幅
紙本墨画淡彩
縦108.0 横32.7(cm)
文安2年(1445)
奈良博物館蔵


先に絵が描かれ、後からこれに詩想(しそう)を得た禅僧が画讃(がさん)を書き連ねた形式の水墨画を「詩画軸(しがじく)」という。「詩画軸」は縦に長い料紙を用いるのが普通で、下方の小さな画面と、余白と、上部の画讃からなる。

 だが、この図ほど余白が生かされている例は少ない。一般には、わずらわしいほど多くの画讃で余白が埋められている。構図に視線を導く方向性が希薄な作品が多いなかにあって、この図を見るときにはいつも、目には見えない中軸線の存在を意識させられる。画面下辺に立ち上がる美しい姿をした松の木から、その上方の、空中に浮かんでいるような主山へと目を移すにつれて、さらに上へと視線が導かれる。山水の上部にはかなり長い余白が残されていることもあって、無限の天空を志向する絵師の意志を感じとることができる。

 余白を隔てた最上辺には三人の禅僧による画讃が行儀よく並んでいる。この図は冒頭の江西竜派(こうせいりゅうは)の初句をとって『水色巒光図(すいしょくらんこうず)』とも称される。竜派は俗世間から隔絶した山水の色と光とを称え、二人目の信仲明篤(しんちゅうとくめい)はこの図から春の兆しを感じとっている。だが、最後の心田清播(しんでんせいは)をも含めて、三僧ともこの図においては木陰の書斎が主題であることを見逃してはいない。都会の俗塵のなかでの生活を余儀なくさせられている禅僧にとって、理想郷は画中に求めるしかなかった。

 心田清播は文安2年(1445)5月という年月を記している。これによって画面の左右どちらかの片隅に重点をおいた、いわゆる辺角の景から雪舟のように中軸を明示した山水への転換が図られた時期が推測できる。  この図には雪舟のように山水の緊密なまとまりはないが、これを絵師の未熟さに帰してはならないだろう。確かに、主峰、書斎、葦辺の舟といった三つの要素の間に有機的な繋がりは認めることはできない。だが、むしろそれによって、この世ならざる幻想的な光景を生み出すことが可能となった。

 この図は、一時代を画した周文が姿を消し、雪舟が育とうとしていた日本水墨画界の、重要な転換期を象徴する傑作である。



2、三益斎図・伝周文(室町時代)
(静嘉堂文庫)


本図は実際の書斎を写したものではなく、禅の精神世界をこの幽玄な山水を通して表現したものです。「三益」とは松、竹、梅のことで、山水画に出てくる書斎の周辺によく描かれます。また、図の真中に置かれた高い山の配置には北宋山水画の影響がうかがえます。




3、江天遠意図

こうてんえんいず
周崇(しゅうすう)等十二僧賛
室町時代1幅116.0×33.0
紙本淡彩重要文化財
根津美術館蔵


典型的な応永詩画軸の一例で、淡路島を遠望する図柄と言われているが、実景図か否かはにわかに断じ難い。偏角景構図は梁楷・馬遠など南宋院体山水図のそれを祖述するものであろう。余白の多い平遠な構図は画趣すこぶる深い。周文筆の伝称がある。賛者のうち周チョウが応永二十六年(1419)に示寂している。



4、四季山水図屏風(しきさんすいずびょうぶ)


6曲1双
紙本墨画淡彩
伝周文筆(でんしゅうぶんひつ)
各縦150.4 横355.4
室町時代
東京国立博物館蔵


周文は花鳥・山水の障屏画も描いたことが記録から知られ,大画面山水画の領域において重要な役割を果たしたと推測されるが,確かな遺品はない。本図も他の伝周文筆山水図屏風と同様に,周文の弟子の世代の画家の作品と考えられている。図様は南宋の山水画家,夏珪など,当時舶載されていた中国絵画の名品から適宜選択したモチーフをつなぎ合わせたものと想像される。

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浮世絵師鈴木春信の人物画


江戸の重要なメディア(媒体)として愛された浮世絵には、四季の風俗、芝居や遊里などの遊興、名所や動植物、古典文学の絵画化など、実に幅広い主題が描かれています。またそれらの主題を、時代を代表する人気絵師たちが、実に生き生きと表現しているのです。

鈴木春信の人物画はどこがいいかというと、まずは「線」だ。 独特の柔らかいものだ。
そして、色彩だ。 アクセント的に、朱色が使用される作品も多くあるが、うすい色の緑、だいだい、黄、茶など中間色(原色の反対語)のみで制作されることもある。
春信が活躍した18世紀後半には、のちの19世紀、例えば 葛飾北斎の絵で使用されたような、多色刷の木版画用に大量に使う、青色絵具がなかったこともあろう。 青抜きでの、色面構成を試行するうちに、独特の美しさを持つ色使いが、出来上がったようだ。
これら、絵画的要素の元に、品良く描きだされる春信の人物や景色には、どこか、ほっとさせるものがある。 時間をかけて、眺めていたくなる。 そうやって、安心して観ていると、不思議なことに、あれこれ自然と、想像も湧いてくる。



◆「雨中夜詣」


若い娘が夜の雨中に宮詣をする。手にした小田原提灯が夜の景であることを暗示している。斜めに降る雨、風に揺れる樹木、娘の裾の乱れなど動きのある構図は印象的である。


◆「二月 水辺梅」又名「風流四季哥仙 」


本図は、画中の「水辺梅 末むすぶ 人の手さへや 匂ふらん 梅の下行 水のなかれは」という和歌の意をふまえ描かれた図である。夜のデートを描いたもので、男は彼女のために、梅の枝を折っている。なんとも春信らしい風流な図である。

古来、暗香浮動と表現される梅花の香り。漆黒の夜の闇のなかにもほのかに匂い漂うそれを、本図では作品の主題としたものである。朱色の柵によじのぼり、大きな梅が枝を手折ろうとする少年と、それをみる少女とが、あたかも夢幻の世界の住人のようにとらえられる。
 浮世絵は誕生後一世紀を経て、十八世紀中葉にようやく極彩色の色摺版画へと大きく脱皮するが、その当時中心的な役割を演じた絵師が鈴木春信である。文学的な叙情性とともに、多分に中性的な感覚に包まれた春信の登場は、新時代の浮世絵の幕開けを高らかに告げる象徴的な出来事でもあった。明和期の作。


◆「笠森お仙」

明和頃(1764〜1772)中判錦絵

明和(1764〜1772)頃、江戸の谷中(やなか)の笠森稲荷の前に、鍵屋という茶屋がありました。その茶屋には、お仙という、たいへん美しい看板娘がいました。お仙は明和の三美人の一人として名高く、当時の浮世絵によく描かれています。

絵師の鈴木春信は、錦絵の創始者として有名です。浮世絵は、それまでは色数が限られていましたが、春信らによって、版木を摺り重ねる技術が考案され、多色摺りの錦絵と呼ばれる絵が創り出されました。

茶屋の起源

お茶はもともと薬と考えられ、寺院で、信者の病気治療として施されていましたが、門前の茶屋で、薬湯として売られるようになりました。一般庶民は、ここで喫茶を親しむよなになりました。やがて茶湯が、娯楽対象となると同時に茶店も進化し美人を雇うなどして競争を始めました。この店が江戸時代には「水茶屋」とよばれ、のちに料亭や、相撲茶屋などに発展して分かれてゆきました。また、「出合茶屋」は、現在のラブホテルのことです。上野不忍池付近に多くあって、「池の茶屋」とも言われました。ここには、一見して料理茶屋に見える出合茶屋も多くあったようです。不義密通が死罪であった時代だったので、人目につかない密会の場所として利用されました。キセルを持った青年に、茶を出す
お仙は、江戸谷中の笠森稲荷の境内の水茶屋「鍵屋」の娘でした。そこで「笠森お仙」と言われ、13才から店に出ていましたが、鈴木春信により描かれた錦絵が、大評判を呼び、江戸三大美女と騒がれ、「鍵屋」は押すな押すなの大繁盛しました。1770年/明和 7年 6月15日 錦絵師・鈴木春信が 46才で没すると18歳のお仙は、突然いなくなってしまいます。神隠しにあったとか、役者と駆け落ちしたとか横恋慕にあって殺されたか、さまざまな噂も有りましたが、実際は結婚していました。



◆「縁先物語」

女性が若い男の肩に手を回し耳元で囁いている。その光景を障子の間からこっそりと見る娘。なんとも色気のある風景です。「心中天網島」に題材を得ているともいわれる図である。
春信の「絵」全般に言える特徴は、
 男女の違いがはっきりしないところにある。
 それゆえ、現代では「ユニセックスの絵師」と言われる。
 
 女性の不義に厳しい時代に描かれたこの絵は
 何を見る側に問い掛けているのだろう。

 右側の男性に、言い寄る女性。
 男性の着ている着物の縞は「ヨロケ縞」と呼ばれ
 当時の流行らしい。
 女性の帯が前結びに見えるが、当時は既婚者の風習のようだ。
 であれば、障子の奥で覗いているのは、娘か…
 
 対で咲く萩の花が意味深にも思える。



◆「縁先美人」別名「見立無間の鐘」


東海道五十三次の途中にある小夜の中山にあった(現在の静岡県掛川市から菊川町にかけての坂にある地名)民話を基にした、さまざまな物語 小泉八雲も取材して怪談を書いた。代表例 掛川市東山の曹洞宗無間山観音寺にあった「無間(むけん)の鐘」と呼ばれる鐘を撞(つ)くと、大金を得るが、死後では無間地獄におち、地獄での食物が全て蛭(ヒル)に変わるという。 1728年2月、京都の市山助五郎座「傾城満蔵鑑」で、初代瀬川菊之丞がこの無間の鐘の伝説を芝居の世界に取り込んだ。  菊之丞演じる傾城金山は、父が失った金を得るため、手水鉢を無間の鐘に見立てて、必至に念じて叩くと、天から金が降ってきた。しかし、金山は死後、蛭(ヒル)地獄に堕ちて苦しんだ。この芝居は大当りし、江戸でも趣向が変わった芝居が演じられた。
この手水鉢を叩いた女性の名は、有名なところでは「梅ヶ枝」もあり、小泉八雲や十辺舎一句などは「梅ヶ枝」としている。春信が描いた「見立無間の鐘」は、手を袖に引っ込め、首をすくめているところや、手水鉢の後ろに咲く花は「ロウバイ」のようで季節は早春か。喧騒とした宴席を、トイレに行くふりをしてぬけ出した遊女が、縁先で酔いをさましにながら、物思いにふけっている様子が描かれている。障子には飲めや唄えやのの姿が、影絵としてうつされている。この遊女は、手水鉢を前にして、最近評判の芝居のように叩けばお金が出るのかしらんと思案しているようだ。



◆「夕立」


干してある着物に、メ・イ・ワ・二の文字が読める。
 明和二年の絵暦である事を示している。
 
 同じく干してある着物の左袖に、大と描かれ
 その年の陰暦・大の月を示す。
 右側の、二、三、五、六、八、十の数字が、
 明和二年の大の月と表現されている。
 
 この絵にも、春信の作風である
 気品・少女っぽさのレトリックとして、
 顔はウリザネ・かぎ鼻
 ふわっと浮くような重量感の無い全体像
 手が極端に小さいなどの特徴がある。



◆「柳の川岸」


同じくらいの年の娘が、ふたり描かれている。 ひとりは岸辺に、ひとりは船の前のほうに。
岸の娘が、閉じたばかりと思われる傘を、手にしていることから、雨上がりらしい。 柳の枝もあることから、6月頃か、夏にかけてくらいの季節だろう。
船は今、岸辺に着いたところだ。 「松(待つ)」の絵柄の着物の岸の娘は、手招きをし、どこかに、いざなっているらしい。
船の娘は、ぞうりを履いてなく、どうやら着替えの最中だったようだ。 よく観ると、船の中では男性が、衣服を入れる長持(ながもち)を抱えている。 ふむ、船中で着替えて、これからどこへ行くのだろうか?
画面にも表れている、絵師のやわらかな心持は、観ているものの想像の翼を、時間と共に、心地よく広げていってくれる。 はっきりとは判らない点が、残ったとしても、こうした体験をさせてくれる内容こそが、春信芸術の、独自性なのだろう。
そして、根に素直さもある、この芸術が誕生し、好まれ、支持されたのには、平和な世が背景にあったことだろうと想像しても、また楽しくなるものだ


◆「清水の舞台から舞い降りる美女」


錦絵の絵師として名を馳せた春信は、
 次々に絵暦を発表している。
 
  この絵にも、春信流が顕著で
  「見立」として、絵趣向で大の月を
  見る側に「謎」を問いかけている。
 
  暦としての実用品ではなく
  完全に美術品である。


◆雪下の相合傘





◆鈴木春信(すずきはるのぶ)享保10年<1725>〜明和7年<1770>


江戸中期の浮世絵師。上方で西川祐信に学び、のちに江戸に出て宝暦6年(1756)
ごろから作画をはじめる。明和2年(1765)に江戸の文化人のあいだで絵暦が
流行し、摺りの技術革新も伴って多色摺版画(錦絵)が完成する。春信は絵暦を作
成した中心人物だった。浪漫性にあふれた感覚は評判をよび、没年までのわずか5
年間で一時代をなし、後世にまで大きな影響を与えた。
谷中笠森お仙の美人画が大評判に。江戸出身の浮世絵師。錦絵の創始者。はじめ上方浮世絵の影響を受けながら、情緒に富む繊細な美人画を描いた。谷中笠森稲荷の水茶屋の看板娘お仙など、町娘をモデルにした美人画が好評を博し、一世を風靡。700点を越える錦絵を制作したが、人気の頂点で急死した。


春信の描いた絵の特徴

(1)見立絵(みたてえ)    
  説話・伝説・漢詩・歴史・謡曲などから取材したテーマを、
  当時の流行や評判の高い人物・風景・小道具などにおきかえて描いたもの。
  見る人の、目に映る視覚を通して、全体モチーフから感じる想像感覚で
  元のテーマを表現・認識させようとする、「謎」かけをしている絵。

  当時は、この「見立」…謎かけに対し自分なりの解釈を立て
  この「謎」かけを解く過程を交換しながらコミュニケーションを
  深め合っていたようですが、
  現在も正解が定かで無い絵も多い。

  別の観点で春信の「見立絵」は、隠れキリシタン信者の心の支えとして、
  見かけは女性像だが、「マリア」像として機能したとも言われている。
  大和絵にこだわり、多くの作品が気品に満ちていたので、
  このような解釈を生んだのかもしれない。

(2)多くの斬新な技術の多用
  後の浮世絵では当然の版画技術が、革命的に同時に数多く発表された。
  一例として、
  キメ出しといわれる、版画の一部を浮き出させる(エンボス)表現。
  凹版を作り、紙を当て、裏から刷毛などでたたき出してふくらませる技法。
 
  鈴木春信の作品は錦のように美しいということで、錦絵と呼ばれました。
  当時は「浮世絵」という言葉・カテゴリーが既にありましたが
  あえて「錦絵」とこだわっていたので、
  歌舞伎役者など当世風俗に重点をおく「浮世絵」とは違うと
  言いたかったようです。
  
(3)独特で伝統的な女性像
  顔つきは大和絵の特徴であるウリザネ・かぎ鼻が踏襲されていますが
  細い縞(しま)の紬(つむぎ・絹織物)/縦縞の着物を着せてスタイリッシュに見せている。
  当時は、縦縞紬生地は国産品が少なく、中国などからの輸入品が多かったようで、
  ファッション性としては最先端・超高級指向だったようです。
  また、宙に浮くように、ふわっとして重量感がなく、手が異常に小さいなど
  少女のように見えるよう、ディフォルメに

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◆瓢鮎図


瓢鮎図
如拙筆
紙本墨画淡彩
111.5 x 75.8 室町時代(15世紀)
<国宝(京都 退蔵院)>

「瓢鮎図〔ひょうねんず・ひょうでんず〕」を描いた相国寺〔しょうこくじ〕の画僧・如拙〔じょせつ〕。
「瓢鮎図〔ひょうねんず・ひょうでんず〕」は、ツルツルでまるっこいヒョウタンで、ヌルヌルしててただでもつかまえにくいナマズを捕まえようとしてる絵だ。もちろん、そんなこと不可能だ。しかし、その不可能性をじっと見つめるところからこそ、この宇宙における存在の可能性の追求がはじまる。……何のことかわからないって? それが、禅なのじゃ。

退蔵院の目玉で国宝に指定されている『瓢鮎図』。この絵は山水画の始祖といわれている如拙*1)が、足利尊氏の命により心血注いで描き、現存する彼の作品の中で最高傑作といわれています。

「ただでさえ捕まえにくいなまずを、こともあろうに瓢箪で捕まえようとする。」この矛盾をどう解決するか、将軍義満(義持という説もある)は当時の京五山の禅僧31人に参詩を書かせました。高僧連が頭をひねって回答を連ねた様子は正に壮観です。そのいくつかを紹介しましょう。

『瓢箪で鮎を押さえつけるとは、なかなかうまいやり方だ。もっとうまくやろうなら、瓢箪に油をぬっておくがよい』(周宗)
『瓢箪でおさえた鮎でもって、吸い物を作ろう。ご飯がなけりゃ、砂でもすくって炊こうではないか。』(梵芳)

この瓢鮎図は、退蔵院に伝えられる宝物のうちで一番重要な物で、室町時代の漢画の代表的名品として知られています。さて、本図は題詞にも記されているように、円滑の瓢箪をもって無鱗多涎の鮎魚を押さえ捕らえうるかどうかという禅特有の意味深長な公案を画因とする禅機画です。ここに「鮎」とあるのは「なまず」のことで、普通「なまず」は「鯰」という字を書きますが、この鯰は国字(日本の文字)のため、中国由来の「鮎」と表記されています。
このような画因による本図では、俗塵を絶した閑寂な野辺の一角、芦の生える川の畔に、蓬髪有髭の一田夫が両手で一瓢を押さえて立ち、水中に泳ぐ魚を捕らえんとする光景が画面中央に見られます。なおその岸辺には数株の竹があり、背景遠くには山陰を浮かび上がらせていますが、全体としての図様は極めて簡素です。しかし描写は以外に精密で、その筆致は細かいけれど、つよい弾力をもち宋元画の技法をよく消化しています。そしてこの作家独特の作風を生み出し、なかなか格調の高い作品をつくっています。その作風上の特色は、とくに酒税と瓢逸を示す超俗的な人物の面貌容姿の表現やその人物をつつむ近景の動的な描写などがうかがわれますが、美術史的に興味を引く一つの重要な点は、それが禅機画*2)でありながら、全体としての構図が山水画的な特色を備え、室町時代の漢画である山水画の早き例とも見られることです。このような本図の筆者如拙は、詳しい経歴は明らかではありませんが、京都相国寺に住した禅僧で、室町初等に画技をもって名をなした人物だと言われています。本図は、彼の遺作としてもっとも信ずべき確証をもちその歴史的価値は極めて大きいものでしょう。



◆王羲之書扇図(おうぎししょせんず)


如拙筆

紙本墨画淡彩 83.1×32.6cm
室町時代(15世紀前半)
重要文化財
A甲284
京都国立博物館

書聖王羲之が扇売りの老婆のために扇に字を書いてやったので、人々が競って買ったという故事を描く。大樹のもとに坐って揮毫する王羲之を中心に2童子と老婆を、扇面の形を巧みに生かしながら調和よく配している。図中に大岳周崇(だいがくしゅうすう)の賛があり、図上に惟肖得巌(いしょうとくがん)の永享2年(1430)の追題がある。この題記によれば、この扇子は如拙(じょせつ)が描き、周崇が愛用し、のちに弟子の子鞏蔵主(しきょうぞうす)が掛幅に仕立てたことが知れる。南宋の梁楷(りょうかい)に私淑した如拙が減筆的手法を駆使して描いた好作である。



◆日本の水墨画


墨一色で表現した絵画は、日本では正倉院宝物の「墨画仏像」のような奈良時代の作例があり、古代から制作されていた。しかし、美術史で「水墨画」という場合には、単に墨一色で描かれた絵画ということではなく、墨色の濃淡、にじみ、かすれ、などを表現の要素とした中国風の描法によるものを指し、日本の作品については、おおむね鎌倉時代以降のものを指すのが通常である。着彩画であっても、水墨画風の描法になり、墨が主、色が従のものは「水墨画」に含むことが多い。
平安時代初期、密教の伝来とともに、仏像、仏具、曼荼羅等の複雑な形態を正しく伝承するために、墨一色で線描された「密教図像」が多数制作された。絵巻物の中にも『枕草紙絵巻』のように彩色を用いず、墨の線のみで描かれたものがある。しかし、これらのような肥痩や濃淡のない均質な墨線で描かれた作品は「白描」(はくびょう)ないし「白画」といい、「水墨画」の範疇には含めないのが普通である。


○初期水墨画

中国における水墨画表現は唐時代末から、五代〜宋時代初め(9世紀末〜10世紀)にかけて発達した。中国の水墨画が写実表現の追求から自発的に始まったものであるのに対し、日本の水墨画は中国画の受容から始まったものである。日本における水墨画の受容と制作がいつ頃始まったかは必ずしも明確ではない。すでに12世紀末頃の詫磨派の仏画に水墨画風の筆法が見られるが、本格的な水墨画作品が現れるのは13世紀末頃で、中国での水墨画発祥からは4世紀近くを経ていた。13世紀末から14世紀頃までの日本の水墨画を美術史では「初期水墨画」と呼んでいる。水墨画がこの頃盛んになった要因としては、日本と中国の間で禅僧の往来が盛んになり、宋・元の新様式の絵画が日本にもたらされたことが挙げられる。13世紀になり、無学祖元、蘭渓道隆らの中国禅僧が相次いで来日した。彼らは絵画を含め宋・元の文物や文化を日本へもたらした。鎌倉の建長寺仏日庵の所蔵品目録である「仏日庵公物目録」(ぶつにちあんくもつもくろく)は元応2年(1320年)に作成された目録を貞治2年(1363年)頃に改訂したものであるが、これを見ると、当時の建長寺には多数の中国画が所蔵されていたことがわかる。
日本の初期水墨画は絵仏師や禅僧が中心となって制作が始められた。師資相承(師匠から弟子へ仏法を伝える)を重視する禅宗では、師匠の法を嗣いだことを証明するために弟子に与える頂相(ちんぞう、禅僧の肖像)や禅宗の始祖・達磨をはじめとする祖師像などの絵画作品の需要があった。この時期に制作された水墨画の画題としては、上述の頂相、祖師像のほか、道釈画(道教および仏教関連の人物画)、四君子(蘭、竹、菊、梅を指す)などが主なものである。なお、水墨画と禅宗の教義とには直接の関係はなく、水墨画は禅宗様の建築様式などと同様、外来の新しい文化として受容されたものと思われる。鎌倉時代の絵巻物に表現された画中画を見ると、当時、禅宗以外の寺院の障子絵などにも水墨画が用いられていたことがわかる。
14世紀の代表的な水墨画家としては、可翁、黙庵、鉄舟徳済などが挙げられる。可翁については作品に「可翁」の印が残るのみで伝記は不明だが、元に渡航した禅僧の可翁宗然と同人とする説が有力である。黙庵は元に渡り、同地で没した禅僧である。鉄舟徳済は夢窓疎石の弟子の禅僧で、やはり元に渡航している。


○室町水墨画


室町時代は日本水墨画の全盛期と言ってよいであろう。足利家が禅宗を庇護したこともあり、禅文化や五山文学が栄え、足利家の寺である京都の相国寺からは如拙、周文、雪舟をはじめとする画僧を輩出した。また、東福寺の画僧・明兆(みんちょう)は、濃彩の仏画から水墨画まで幅広い作品を制作した。8代将軍足利義政は政治を省みなかったが、文化の振興には力を入れ、唐物と呼ばれる中国舶載の書画、茶道具などを熱心に収集・鑑賞した。当時の日本で珍重されたのは、中国・南宋時代の画家の作品で、夏珪、馬遠、牧谿(もっけい)、梁楷、玉澗(ぎょくかん)らが特に珍重された。牧谿、梁楷、玉澗などは中国本国よりも日本で評価の高い画家である。なお、室町時代の日本画壇が水墨画一色であったと考えるのは誤りで、この時代には伝統的な大和絵の屏風も盛んに描かれていたことが、20世紀後半以降の研究で明らかになっている。
14世紀までの日本水墨画が頂相、祖師図、道釈画などの人物画や花鳥画を中心としていたのに対し、15世紀には日本でも本格的な山水画が描かれるようになる。日本の水墨山水画のうち、もっとも初期の作とされるものは、「思堪」という印章のある『平沙落雁図』(個人蔵)である。この作品には中国出身の禅僧・一山一寧の賛があり、彼の没年である1317年が制作年代の下限となる。画面下部に「思堪」の朱印があり、これが画家名と思われるが、その伝記等は不明である。この『平沙落雁図』にはまだ水墨画の画法をこなしきれていない稚拙な部分があり、遠近感の表現なども十分ではない。それから約1世紀を経た応永年間(15世紀初頭)に、「詩画軸」と称される一連の作品が制作される。
「詩画軸」とは、「詩・書・画一体」の境地を表わしたもので、縦に長い掛軸の画面の下部に水墨画を描き、上部の余白に、画題に関連した漢詩を書いたものである。この種の詩画軸で年代のわかる最古のものとされるのが藤田美術館蔵の『柴門新月図』(さいもんしんげつず)で、応永12年(1405年)の作である。この図は杜甫の詩を題材にしたもので、絵の上部には序文に続いて18名の禅僧が詩文を書いており、絵よりも書の占めるスペースが倍以上大きい。15世紀前半に制作された詩画軸の代表作としては他に『渓陰小築図』、『竹斎読書図』、『水色巒光図』(すいしょくらんこうず)などがあり、絵の筆者は『渓陰小築図』が明兆(みんちょう)、『竹斎読書図』、『水色巒光図』が周文との伝えもあるが、確証はない。この時期の詩画軸は、「書斎図」と呼ばれる、山水に囲まれた静かな書斎で過ごす、文人の理想の境地を題材にしたものが多い。
この時代にはようやく画人の名前と個性が明確になってくる。相国寺の画僧・如拙は、著名な『瓢鮎図』(ひょうねんず、京都・退蔵院蔵)をはじめ、若干の作品が知られる。やはり相国寺の画僧であった周文は、幕府の御用絵師としての事績が文献からは知られ、詩画軸、山水屏風などに「伝周文筆」とされる作品が多数残るが、確証のある作例は1点もない。
15世紀の後半には、水墨画家としてのみならず、日本絵画史上もっとも著名な画家の一人である雪舟(1420 - 1502/1506)が登場する。雪舟は備中国(岡山県)の出身で、地方武士の血を引くと言われる。上京して相国寺の僧となるが、後に大内氏を頼って山口に移住。応仁の乱(1467−1477年)の始まりと前後して中国・明に渡航、足掛け3年滞在して帰国した。帰国後は山口、大分など、もっぱら地方を遍歴して制作し、80歳代まで作品を残している。雪舟は明応4年(1495年)、76歳の時、弟子の宗淵に与えた作品『山水図』(通称「破墨山水図」)の自賛に、「自分は絵を学ぶために明に渡航したが、そこには求める師はいなかった」と記し、先輩に当たる如拙や周文の画業をたたえている。この自賛は、日本の画家が自らの画業について語ったものとしては最古のものであり、日本人画家としての自負がうかがえる。雪舟は中国絵画の影響を消化しつつ『天橋立図』のような日本の実景を題材にした独自の水墨画を制作した。また、多くの弟子を育成し、彼らの中には秋月(薩摩出身)、宗淵(鎌倉円覚寺の画僧)など、それぞれの出身地に帰って活躍した者もいた。こうした面でも、雪舟が日本絵画に与えた影響は大きかった。
室町時代には、地方にも多くの画人が現われ、その多くは武家の出身であった。その代表的な存在が雪村です。

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◆室町時代の日本水墨画◆



○室町時代、中国から日本が吸収した絵画は「宋元の水墨画」。


唐絵画から多大な影響をうけた平安絵画は後期になると、その影響から徐々に脱し、日本的な絵画を志向します。いわゆる大和絵の誕生です。これが平安期における中国絵画からの大規模摂取による大きな成果です。今回は第二の大規模摂取と呼ばれる―室町時代における「宋元の絵画」からの摂取と日本の水墨画の誕生についてお話します。

二回目の大規模摂取は、一般には室町時代とされていますが、鎌倉時代の中頃には
その兆候が見受けられるようになります。ここでちょっぴり、それまでの絵画史を振り返っておきましょう。平安期の前後は中国から主に仏画を吸収しましたが、仏画は技法においては線を中心としたものが大半で、丁寧に施された鮮やかな色彩が特徴です。また、構図や図柄には固定的なものが多く、自由な表現はまだまだ前面に出ていません。  
 こうした状況は室町時代になると、伝統絵画の概念を覆す中国渡来の水墨画の登場により、大きな変化を見せます。当時、水墨画はまさしく“最先端”の絵画で、人々は水と墨による無限の表現性・発展性をそこに見出し、驚嘆しました。こうして移入された水墨画は日本の近世絵画の幕開けを告げることになります。


○中国絵画の頂点とされている宋元絵画とは。


室町絵画の最大な特徴は、一言でいえば、宋元絵画の移入によってもたらされた、新しい絵画様式、即ち水墨画の興起です。その影響は近世絵画の端緒を開いたといわれるほど大規模なものでした。では、日本絵画に革新した「宋元絵画」とは、一体どんなものなのでしょうか。「宋元」というのは中国の北宋(960年〜1127年)、南宋(1127年〜1279年)、そして元(1279年〜1368年)の三つの時代の総称です。始まりは藤原時代、終わりは鎌倉時代の後期に当たります。「宋元絵画」といえば、今日でも、日本の画家はもとより、絵画ファンにとっても一度は耳にした言葉ではないでしょうか。宗元時代の絵画は、中国数千年の絵画史の中でも最高峰に達した絵画で、晋、唐のそれを遙かに凌ぐものだと評価されています。では、その功績について説明しましょう。


○写実画(院体)と水墨画、二大潮流を生んだ宗元の画壇。



一般に宋元絵画の功績は二つあると言われていますが、第一は徹底した写実主義を完成したことです。宋の皇帝は“画院”という機構を設立し、宮廷画家を大勢育てました。数千年に及ぶ中国絵画史において、国を挙げて絵画を奨励した時代は他に類を見ません。対象物を徹底的に観察し、緻密に描写する画風は宋時代の主流で、「院体」と呼ばれました。その様式は近代の日本画壇にも受け継がれ、横山大観、速水御舟、小林古径など、近世の日本画壇を代表する画家たちに大きな影響を与えました。 
 宋元絵画の二つ目の功績、それは水墨画の完成といわれています。水と墨、白と黒の濃淡を駆使して豪快に描く画風は、写実絵画の対極を為す絵画として登場しました。だからといって、水墨画は決して偶発的に発生したものではありません。写実主義が全盛を極めていた時代にあって、外形の写実を過分に追求する技法や極彩色を飽き足らなく思っていた一部の文化人や画家たちは、絵画の精神性と発展性を求め、水墨という新しい絵画様式を創造しました。それは「文人画」と呼ばれ、室町時代の日本にも移入されることになります。水墨画は元の時代を迎えると、中国絵画の主流になり、全盛期を謳歌します。このように中国絵画に見る外形的表現から内面的表現への芸術理念の転換は、写実絵画が最終的に抽象絵画へ発展した西洋絵画の流れにも暗合するものではないか。


○室町絵画の最大の特色は、水墨画の誕生である。


室町時代、中国絵画から大規模な摂取を行った日本絵画ですが、対象は前述したように水墨画でした。水墨画は宋時代以降、中国の文化人や禅僧の間でもてはやされ、禅宗の場合は修行の一環としても描かれました。鎌倉時代の中期、禅宗の移入に伴い、宋元の水墨画は日本へ渡来。やがて禅僧の余技として描かれるようになりました。描く対象は蘭、梅、竹、道釈人物など簡単なモチーフが多く、技法も拙稚でしたが、次第に本格的な山水や花鳥が描かれるようになり、中国絵画の模倣から日本独自の水墨画が生まれるようになります。題材と技法が成熟するにつれ、水墨画は禅僧の余技にとどまらず、専門の画僧が現れます。


○開祖・明兆から如拙、周文へ。日本の水墨の系譜。


初期の画僧で有名なのが明兆(みんちょう)です、彼は元時代の宮廷画家・顔輝(がんき)の画風に学び、水墨画を専門にした最初の画僧といわれています。明兆につぐ画僧は如拙(じょせつ)です。彼により水墨の山水画は確立されましたが、それを受け継ぎ発展させたのが周文(しゅうぶん)です。周文は如拙に絵を学ぶ以外に、彫刻にも精を出し、後に幕府の御用絵師になりました。山水画の完成者といわれている如拙には、残念ながら、現存する確実な遺品は一点もありません。生没年月も不明で、謎の多い画家です。さて、周文の絵が一世を風靡するようになると、多くの後継者が出現しました。



◆羅漢図
らかんず

吉山明兆(きちざんみんちょう)筆
南北朝時代 2幅
各173.6×89.4 絹本著色
淡路島に生まれた明兆(1352-1431)は、師大道一以と共に東福寺に入り、兆殿主と呼ばれて多くの画像制作に当たった。本図は永徳三年から至徳三年(1383-6)にかけて描いた五百羅漢五十幅中の零本である。宋元羅漢図を範とした明兆三十歳代の大作で、後年の水墨画家としての資質を予測させよう。


◆白衣観音図
びゃくえかんのんず

伝明兆筆 健中清勇賛
みんちょう けんちゅうせいゆう
室町時代 / 15世紀
紙本墨画
縦62.0 横28.6
東京博物館蔵

明兆筆と伝えられる水墨画の白衣観音図中では代表格。賛者の健中清勇は建仁寺の住職(第百二十一世)をつとめた。右下に押捺される「破艸アイ印」の印文を,明兆が自身を師の大道(一以)に捨てられた破れ草鞋になぞらえたとする説が流布しているが,それは近世の俗説で,本来は「踏破草鞋」すなわち沢山の草鞋をすり減らすほど多くの師匠のところへ見参して修行を重ねた意で,現代ならさしずめ「一生懸命」といったところではないだろうか。


◆大道一以像
だいどういちいぞう


紙本墨画 掛幅
縦47.0 横16.2(cm)
室町時代
大道一以(1292〜1370)は、臨済宗聖一派の人。出雲に生まれ、建長寺の約翁徳倹(やくおうとっけん)、南禅寺の規庵祖円(きあんそえん)、一山一寧(いっさんいちねい)、東福寺の南山士雲(なんざんしうん)、乾峰士曇(けんぽうしどん)などに歴参したのち、蔵山順空(ぞうざんじゅんくう)の法を嗣ぎ、東福寺永明院に住した。また淡路の太守細川師氏に招かれて安国寺を開いた。その後上洛して東福寺(二十八世)、南禅寺(三十二世)に住したが、晩年淡路に帰る。
 図上部には、東福寺退耕庵の性海霊見(しょうかいりょうけん)(1315〜1396)が、明徳5年(1394)に、淡路の細川満春の求めにより着賛している。『性海霊見遺稿』には「大道和尚賛 坐石上上有松木蘿挂之左右鹿鵠兆殿司筆」とある画賛が数首収録されている。本図の賛と一致するものはないが、本図を髣髴とさせる明兆画の大道像が複数存在したことは間違いない。
 明兆(1352〜1431)は、淡路の出身で大道一以の弟子。その諱である吉山は大道から得ている。五百羅漢図をはじめ多作の画僧としての活躍は周知だが、こうした水墨画の頂相にはほかに東福寺の聖一国師岩上像がある。図は、通例の頂相の椅子に坐す姿には表さず、松樹下の岩上に左足をおろして半跏する大道和尚を描く。右手には竹製の長い挂杖をとる。下方に鹿と白鵠が配されるのは、山中羅漢図に見立てたためであろう。面相には濃淡墨を使い分け、外隈を施してやわらかい表情を作り、鹿には墨暈をまじえた軽快な筆致が見られる。小品ながら明兆壮年の印象深い作品である。



◆鉄拐図・明兆(室町時代)

明兆は東福寺で器物を整理する備品係でしたが、下位の僧にもかかわらず、画才を認められて専門の画僧になりました。本図は中国の仙人・鉄拐李を描いた明兆の代表作の一つで、その図柄と表現は元時代の顔輝にそっくりです。


◆東福寺〔とうふくじ〕の画僧・明兆〔みんちょう〕
(1351〜1431)

水墨画家として大きな名を残しています。
雪舟が日本独自の水墨画の世界を開いた画家とされるのに対して、明兆は日本最初
の本格的な水墨画家として位置付けられているようです。
そのため雪舟と並んで「画聖」の名で呼ばれています。
の字は吉山(きちざん)、号は 破草鞋(はそうあい)です。南北朝から室町時代初期にかけて活躍した絵師で、淡路安国寺大道一以に従い東福寺に入り、同寺の画僧となりました。殿司(でん す)という仏殿のことを行う役職に就いたことから、兆殿司(ちょうでんす)と呼ばれ、東福寺、あるいはその末寺公用の絵画を多数描きました。東福寺の巨 幅、「仏涅槃図」などは有名です。宋元画に範をとる、力強い墨線による絵画が多く残っていま す。明兆は東福寺の絵画制作の長としても優秀で、一之(いっ し)、赤脚子(せっきゃくし)などの弟子が育ちました。
 なお、現在でも数多くの寺院で明兆筆の伝承を持つ絵画が伝わっています。これらは単なる伝承というより、今 まで語り継がれてきた明兆のイメージを現在に 伝えるものと考えても良いでしょう。安国寺の住職が京都の東福寺に入り、明兆も 17、8歳のころ、住職を慕って東福寺に入り、そしてこの寺で一生を送ることになります。
文化の中心・京都にいた明兆は、中国美術に接することによりその才能を開花させ、三代将軍足利義満、四代将軍足利義将の庇護を受けました。 79歳で没するまで絵を描き続け、「五百羅漢像」「聖一国師像」「白衣の大観音」などの作品が残されています。その多くが重要指定文化財に指定されています。

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