|
◆牧牛図ぼくぎゅうず
一山一寧賛
1幅
絹本墨画 掛幅
縦88.1 横43.2(cm)
鎌倉時代
本図の賛は『一山一寧語録』偈頌にある十牛図賛語十首のうちの第五「牧牛」と一致する。禅林で修行の過程を示すために牧童(修行者)と牛(心)との関係に比して表した十牛図十幅の中の第五図が遺ったもの。中国画の手本に倣う制作と思われる。本来円相中に描かれるべきところを掛幅装とする。画題中心の牧童と牛が細密に描かれる他は、土坡・水流・遠山等に粗放な用筆がめだつものの、画面は牧歌的な空間を巧まずしてとらえていて、魅力がある。
なお、第十幅目にあたる賛語が記録から知られ、本図は寧一山が梅岩居士金刺満貞のために延慶3年(1310)に着賛したことがわかる。梅岩居士はかつて寧一山を信州に招き自領内の慈雲寺の開山とした。 周知のように寧一山(1247〜1317)は、中国・元時代の臨済宗の高僧。大徳3年(1299)に西澗子曇、石梁仁恭(せきりょうにんきょう)とともに来朝した。一時北条氏によって囚われたが、ついに鎌倉建長寺に招かれ、さらに円覚寺・浄智寺に住し、正和二年(1313)には上洛して南禅寺三世となる。日本国禅林に強い影響を遺し、またその墨跡の伝来も多く、さらに初期水墨画や頂相に多数の着賛があることでも知られる。その語録賛語は絵画史から見ても重要な資料である。
◆松下達磨図(しょうかだるまず)
1幅
絹本墨画淡彩
一山一寧賛(いっさんいちねいさん)
縦100.8 横50.8
鎌倉時代
達磨は禅宗の初祖。西方から中国に渡来し,少林寺で9年間,面壁座禅したという。顔の表現や衣文線に優れた技量がうかがえるにもかかわらず,岩の描写に稚拙さが目立ち,背後の雲を輪郭線で描くところは,水墨画導入の初期段階にあることを示す。一山一寧(1317年没)は正安元年(1299)に来朝した中国(元)の僧。制作年代は14世紀初頭と推定される。
◆一山一寧墨跡 進道語
いっさんいちねいぼくせき しんどうご
鎌倉時代 1幅
28.8×47.6 紙本墨書
正安元年(1299)元王朝の外交使節として一山は船を東海に浮べた。北条政府は一山をモンゴルのスパイと疑って、伊豆の修禅寺におし込めた。しかし師の才幹は執権貞時にきこえ、同年末迎えられて鎌倉の諸大寺を司り、更に後宇多法皇に招かれて、京に入って南禅寺の主ともなり、文保元年(1317)に春秋七十一を重ねて世を去った。その書風は顔真卿の流れを汲むかと見られる。本幅は固山一鞏に対して悟後の修行を激励した進道の語である。固山は一山の来朝匆々、十六歳の若年で博多に赴いて謁しているが、これはその後十七年を経た正和五年(1316)の作にかかる。
◆一山一寧(いっさんいちねい)(1247〜1317)
天龍夢窓国師の師
一山一寧禅師は台州臨海県の出身。台州地区は浙江省の東海沿海にあり、天台などの七県を管轄しています。台州はほとんどが丘陵・山地で天台宗の発祥の地。
一山は出家し、学問仏教の天台を学びます。そして禅に転じ、天童山や阿育王寺で修行、完成されました。
さて時に元の世祖は日本からみつぎものを強制するため、日本に使いを派遣することを決めました。そこでまず舟山列島の補陀落山観音寺の愚渓らに白羽の矢を当てますが、暴風雨のために目的を果たすことができません。
ついで愚渓と王積翁を遣わし、対馬までは来たものの、日本に行くのを反対した船員により王積翁は殺害され、愚渓はまた観音寺に戻るのでした。
元は三度目の使いとして愚渓に命じます。が、年老いてかなわず、代わりに同郷で、のちに観音寺に入り愚渓の席を継いだ一山を推挙します。そこで一山は門人らと共に正安元年(一二九九)に博多に入ったものの疑いをかけられ、伊豆の修禅寺に幽閉、許され、北条時貞から厚く信仰され、鎌倉の建長寺の住持となりました。
のちに浄智寺を経て、正和二年(一三一三)、規庵祖円禅師のあととして、後宇多法皇の招請をうけ、京にのぼり南禅寺の住持となり、文保元年(一三一七)十月二十四日に南禅寺で寂しました。七十一才でした。
一山は若いときに天台学を修めたため、広い知識があり、それを通して中国貴族社会の教養を日本に紹介した大きな業績があります。
また、禅だけに限らず、朱子学史上、書道史上、文学史上でも重要な力を発揮、特に文学の上では五山文学の祖ともされております。
一山の法を嗣いだのが夢窓疎石。天龍寺の開山であり、七朝の帝師とあがめられた禅僧です。
◆【賛/讃】さん
(1)漢文の文体の一。人や物をほめたたえる際の文体。多く四字一句とし韻を踏む。
(2)東洋画で、その絵に関した詩歌・文章を画面の中に記すこと。また、その詩歌・文章。画賛。
(3)仏・菩薩の功徳をほめたたえた言葉。梵讃(ぼんさん)・和讃の類。
|