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佐竹本三十六歌仙絵(さたけぼんさんじゅうろっかせんえ)
今なお私たちに受け継がれた和の世界―― それを代表するひとつに、和歌の世界があります。千年もの昔から、私たちは少ない言葉のなかに遊び、自然の豊かさを、また人々の情感あふれる営みを詠じてきました。時は平安王朝の御代、多くの名だたる歌人が輩出され、歌仙と呼ばれる達人が選ばれます。いつしか彼らの秀歌は人々の間に広がり、和歌は書に託され、肖像は絵に託されるようになりました。鎌倉時代の歌仙絵では最も著名のは佐竹本三十六歌仙絵。作者は藤原信実(ふじわら-ののぶざね) 。 【藤原信実】 ふじわら-ののぶざね(1176頃-1265頃) 鎌倉前期の画人・歌人。隆信の子。法名、寂西。父の似せ絵を発展、「後鳥羽上皇像」「三十六歌仙絵巻」などの作者と伝える。また、「今物語」の著者とされる。(【今物語】 いまものがたり 説話集。一巻。藤原信実撰と伝える。1239年以後の成立。平安末期から鎌倉時代にかけての説話を収める。風流・情事・和歌・連歌・神祇・滑稽譚など五三編。歌物語的性格をもつ。)
五七五七七という限られたことばの世界において、日本らしさを表現しようとした和歌には、かつて「歌仙」と呼ばれた名人がいました。十一世紀の前期に活躍した歌人・藤原公任は、『万葉集』と『古今和歌集』の時代の歌人たちから三十六人を厳選し「三十六人撰」という歌集をつくりました。これが契機となり、以降、これら三十六人を歌仙として崇める習慣も一般化してゆきました。やがて鎌倉時代に入るころには、彼らの像は図に描かれ、その脇には像主の代表歌を添えて書く形式が生まれましたが、この形式を通常「歌仙絵」と呼びます。中でも「佐竹本三十六歌仙絵」は現存する最古の歌仙絵として、またその精緻な表現美からも第一の名品として広く世に知られています。
この佐竹本にはちょっとしたドラマがあります。佐竹本は、もと三十六の歌仙の像が軒を並べるようにして描かれた絵巻物(二巻仕立)でした。この絵巻は、古く秋田藩佐竹家が所持したところから、今日「佐竹本」の愛称があります。しかしながら名品ゆえの宿命とでもいいましょうか、売り立てられる運命になった佐竹本を持ちこたえられるだけの有力者は現れず、大正八年、当時の数寄者や有力な茶人、好事家たちによって切断され、分割所蔵されるに至りました。こうして佐竹本は新たに掛物の姿となって鑑賞されることとなりました。この中で、現在出光美術館には、柿本人麿像と僧正遍昭像が所有されています。
◆佐竹本三十六歌仙絵 住吉明神(さたけぼんさんじゅうろっかせんえ すみよしみょうじん)
歌仙絵の類品中,現存最古のもの。もとは,藤原公任の『三十六人撰』にもとづく三十六歌仙を一歌仙一図の絵姿に描き,それぞれの略伝と詠歌を添えた上下2巻の巻物であった。和歌神・住吉明神の社頭を描いた一図がもと下巻巻頭にあったところから,上巻冒頭には玉津島神社社頭の図があったとみなす説がある。佐竹家から出たのち,大正8年に切断分割された。ほとんどの歌仙は背景を一切描かず,顔の表現に力が注がれ,似絵の流行を反映している。
◆佐竹本三十六歌仙絵「柿本人麿」
【柿本人麻呂】かきのもと-のひとまろ
天武・持統・文武朝の歌人。日並皇子(ひなみしのみこ)・高市皇子(たけちのみこ)の大舎人(おおとねり)といわれる。万葉集の代表的な歌人。長歌、特に挽歌に優れ、枕詞・序詞などの和歌技巧を駆使した荘重雄大な歌風によって、後世歌聖としてたたえられた。生没年未詳。
歌仙の第一位に置かれるこの柿本人麿は万葉の歌人ですが、平安の歌人の世界では伝説的なヒーローとして認められ、特に「歌聖」と呼ばれていました。萎えた烏帽子を頭にかぶり、ゆったりとした装束を身にまとっています。膝を崩してすわる格好では、右脚を立て、その膝上に筆を持つ右手を置いています。その足下には梅の意匠をあしらった硯箱が見えています。墨は今し方擦られた状況。左手には歌を書きとどめるために用意された紙を二つ折りにもち、詠歌を思案する姿です。
ところで古来、高貴な公家たちの歌会では、柿本人麿の絵を掲げる習慣があったようです。その起源は平安時代十二世紀の初めまで遡ります。また鎌倉時代ごろの著名な説話の中にも、夢の中に人麿が現われた話が載っており、柿本人麿に逢うと秀歌が詠めるようになるという信心があったようです。現在もなお、柿本社、人麿社として各地に祀られ、和歌の神として崇拝されていることは、歌人たちが柿本人麿を敬い愛してきた歴史を物語っています。
◆佐竹本三十六歌仙絵巻断簡(小野小町)
【小野小町】おの-のこまち
平安前期の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。伝未詳。恋愛歌で知られ、古今和歌集をはじめ勅撰集に六二首が入る。絶世の美女とされ伝説も多く、謡曲・御伽草子・浄瑠璃などの題材となった。家集「小町集」
華麗な女房装束に、流れるような漆黒の髪が映える、優雅この上ない女人の後ろすがた。歌人としても名高い小野小町が、詩作にふける一瞬をとらえたこの作品は、佐竹本三十六歌仙絵の中でも白眉の1点といえましょう。
古来の名だたる歌人(歌仙)たちの和歌に、その絵姿を描き添える「歌仙絵」は、中世より連綿と制作されてきました。この佐竹本は、数ある歌仙絵のなかでもっとも古く、また優れた逸品として知られ、もと、秋田の佐竹侯爵家に伝来した由来からこの名で呼ばれています。
◆佐竹本三十六歌仙絵巻断簡(藤原朝忠)
【藤原朝忠】ふじわら-のあさただ
(910-966) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。定方の子。従三位中納言。土御門中納言と号す。多彩な恋愛贈答歌を残し、晴の歌にもすぐれていた。「後撰和歌集」以下の勅撰集に二一首入集。家集「朝忠集」
平安時代中期に、藤原公任(966〜1041)が『万葉集』・『古今集』・『後撰和歌集』のなかから36人の歌人を選んだのが、三十六歌仙の始まりとされ、鎌倉時代に、歌仙尊重と似せ絵の流行によって、「三十六歌仙絵」が生まれたとみられる。
現存のもので、最も古く、傑出しているのは、「佐竹本三十六歌仙絵」(佐竹家旧蔵)で、書は後京極(藤原)良経、絵は藤原信実と伝える。もと2巻であったが、大正8年(1919)に、一歌仙ごとに分割され、諸家に分蔵されているうちの2幅である。
藤原朝忠は、右に「中納言従三位藤原朝忠 三条右大臣定方卿二男母中納言山蔭女 別当右衛門督延喜御時人号土御門中納言 あふことのたえてしなくはなかなかに 人をも身をもうらみさらまし」と、朝忠の略歴と和歌が記され、衣冠束帯で斜め後向きの朝忠の姿を描いている。肩の張った強装束で、束帯の黒袍は彫塗の技法で白い直線を残し、端正な形であり、後に流した裾の線は流麗で、当時の優雅さを感じさせる。 昭和60年「石川県の文化財」より
◆佐竹本三十六歌仙絵巻断簡(清原元輔)
【清原元輔】きよはら-のもとすけ
(908-990) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。深養父の孫。清少納言の父。肥後守。梨壺の五人の一人として万葉集の訓釈(古点)ならびに後撰和歌集の撰に参加。家集に「元輔集」がある。
◆佐竹本三十六歌仙絵・(斎宮女御)
【斎宮女御】さいぐう-のにょうご
(929-985) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。本名、徽子(きし)。重明親王の王女。斎宮から村上天皇の女御となり、規子内親王を生む。「天暦十年歌合(斎宮女御歌合)」を催す。承香殿女御。式部卿女御。家集「斎宮女御集」
歌仙絵は背景が一切描かれないのが普通だが、“斎宮女御”の場合、だだ一人皇族であるため、畳の上に描かれている。別格扱いは畳だけでなく、几帳がおかれ、斎宮女御の背後には州浜と赤い梅の花が描かれた障子が添えられる。こういうセッティングはもう源氏物語絵巻となんら変わりない。右でわかる通り、衣装の部分では緑青のところに剥落が多い。髪の毛の細かい表現や袖で口元を隠すポーズは源氏物語の姫君や女房と同じだが、斎宮女御の顔は紫上などよりはふっくらしており、リアリティを感じる。単眼鏡で衣装をみると繊細な文様や線がみてとれる。何度もみて気がついたのは、障子近くの赤い地に引かれた金泥の線。オリジナルの色はこれよりずっと綺麗だったのだろ。
◆佐竹本三十六歌仙絵巻断簡(小大君)
【小大君】こだいのきみ
平安中期の女流歌人。三十六歌仙の一人。東宮時代の三条院に女蔵人(によくろうど)として仕え、左近と呼ばれた。家集「小大君集」。生没年未詳。こおおぎみ。
佐竹本三十六歌仙絵のひとつ。小大君は10世紀末から11世紀ごろの人で東宮時代の三条天皇に仕えたおりは左近〔さこん〕と呼ばれた。
◆佐竹本三十六歌仙絵巻断簡(在原業平)
【在原業平】ありわら-のなりひら
(825-880) 平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。在五中将・在中将と称される。阿保親王の第五子。歌風は情熱的で、古今集仮名序に「心あまりて言葉たらず」と評された。「伊勢物語」の主人公とされる。色好みの典型として伝説化され、美女小野小町に対する美男の代表として後世の演劇・文芸類でもてはやされた。家集「業平集」
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