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佐竹本三十六歌仙絵

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佐竹本三十六歌仙絵(さたけぼんさんじゅうろっかせんえ)

今なお私たちに受け継がれた和の世界―― それを代表するひとつに、和歌の世界があります。千年もの昔から、私たちは少ない言葉のなかに遊び、自然の豊かさを、また人々の情感あふれる営みを詠じてきました。時は平安王朝の御代、多くの名だたる歌人が輩出され、歌仙と呼ばれる達人が選ばれます。いつしか彼らの秀歌は人々の間に広がり、和歌は書に託され、肖像は絵に託されるようになりました。鎌倉時代の歌仙絵では最も著名のは佐竹本三十六歌仙絵。作者は藤原信実(ふじわら-ののぶざね) 。 【藤原信実】 ふじわら-ののぶざね(1176頃-1265頃) 鎌倉前期の画人・歌人。隆信の子。法名、寂西。父の似せ絵を発展、「後鳥羽上皇像」「三十六歌仙絵巻」などの作者と伝える。また、「今物語」の著者とされる。(【今物語】 いまものがたり 説話集。一巻。藤原信実撰と伝える。1239年以後の成立。平安末期から鎌倉時代にかけての説話を収める。風流・情事・和歌・連歌・神祇・滑稽譚など五三編。歌物語的性格をもつ。)


五七五七七という限られたことばの世界において、日本らしさを表現しようとした和歌には、かつて「歌仙」と呼ばれた名人がいました。十一世紀の前期に活躍した歌人・藤原公任は、『万葉集』と『古今和歌集』の時代の歌人たちから三十六人を厳選し「三十六人撰」という歌集をつくりました。これが契機となり、以降、これら三十六人を歌仙として崇める習慣も一般化してゆきました。やがて鎌倉時代に入るころには、彼らの像は図に描かれ、その脇には像主の代表歌を添えて書く形式が生まれましたが、この形式を通常「歌仙絵」と呼びます。中でも「佐竹本三十六歌仙絵」は現存する最古の歌仙絵として、またその精緻な表現美からも第一の名品として広く世に知られています。

この佐竹本にはちょっとしたドラマがあります。佐竹本は、もと三十六の歌仙の像が軒を並べるようにして描かれた絵巻物(二巻仕立)でした。この絵巻は、古く秋田藩佐竹家が所持したところから、今日「佐竹本」の愛称があります。しかしながら名品ゆえの宿命とでもいいましょうか、売り立てられる運命になった佐竹本を持ちこたえられるだけの有力者は現れず、大正八年、当時の数寄者や有力な茶人、好事家たちによって切断され、分割所蔵されるに至りました。こうして佐竹本は新たに掛物の姿となって鑑賞されることとなりました。この中で、現在出光美術館には、柿本人麿像と僧正遍昭像が所有されています。


◆佐竹本三十六歌仙絵 住吉明神(さたけぼんさんじゅうろっかせんえ すみよしみょうじん)
歌仙絵の類品中,現存最古のもの。もとは,藤原公任の『三十六人撰』にもとづく三十六歌仙を一歌仙一図の絵姿に描き,それぞれの略伝と詠歌を添えた上下2巻の巻物であった。和歌神・住吉明神の社頭を描いた一図がもと下巻巻頭にあったところから,上巻冒頭には玉津島神社社頭の図があったとみなす説がある。佐竹家から出たのち,大正8年に切断分割された。ほとんどの歌仙は背景を一切描かず,顔の表現に力が注がれ,似絵の流行を反映している。


◆佐竹本三十六歌仙絵「柿本人麿」

【柿本人麻呂】かきのもと-のひとまろ

天武・持統・文武朝の歌人。日並皇子(ひなみしのみこ)・高市皇子(たけちのみこ)の大舎人(おおとねり)といわれる。万葉集の代表的な歌人。長歌、特に挽歌に優れ、枕詞・序詞などの和歌技巧を駆使した荘重雄大な歌風によって、後世歌聖としてたたえられた。生没年未詳。

歌仙の第一位に置かれるこの柿本人麿は万葉の歌人ですが、平安の歌人の世界では伝説的なヒーローとして認められ、特に「歌聖」と呼ばれていました。萎えた烏帽子を頭にかぶり、ゆったりとした装束を身にまとっています。膝を崩してすわる格好では、右脚を立て、その膝上に筆を持つ右手を置いています。その足下には梅の意匠をあしらった硯箱が見えています。墨は今し方擦られた状況。左手には歌を書きとどめるために用意された紙を二つ折りにもち、詠歌を思案する姿です。

ところで古来、高貴な公家たちの歌会では、柿本人麿の絵を掲げる習慣があったようです。その起源は平安時代十二世紀の初めまで遡ります。また鎌倉時代ごろの著名な説話の中にも、夢の中に人麿が現われた話が載っており、柿本人麿に逢うと秀歌が詠めるようになるという信心があったようです。現在もなお、柿本社、人麿社として各地に祀られ、和歌の神として崇拝されていることは、歌人たちが柿本人麿を敬い愛してきた歴史を物語っています。


◆佐竹本三十六歌仙絵巻断簡(小野小町)
 
【小野小町】おの-のこまち

平安前期の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。伝未詳。恋愛歌で知られ、古今和歌集をはじめ勅撰集に六二首が入る。絶世の美女とされ伝説も多く、謡曲・御伽草子・浄瑠璃などの題材となった。家集「小町集」

華麗な女房装束に、流れるような漆黒の髪が映える、優雅この上ない女人の後ろすがた。歌人としても名高い小野小町が、詩作にふける一瞬をとらえたこの作品は、佐竹本三十六歌仙絵の中でも白眉の1点といえましょう。

 古来の名だたる歌人(歌仙)たちの和歌に、その絵姿を描き添える「歌仙絵」は、中世より連綿と制作されてきました。この佐竹本は、数ある歌仙絵のなかでもっとも古く、また優れた逸品として知られ、もと、秋田の佐竹侯爵家に伝来した由来からこの名で呼ばれています。


◆佐竹本三十六歌仙絵巻断簡(藤原朝忠)

【藤原朝忠】ふじわら-のあさただ 

(910-966) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。定方の子。従三位中納言。土御門中納言と号す。多彩な恋愛贈答歌を残し、晴の歌にもすぐれていた。「後撰和歌集」以下の勅撰集に二一首入集。家集「朝忠集」
平安時代中期に、藤原公任(966〜1041)が『万葉集』・『古今集』・『後撰和歌集』のなかから36人の歌人を選んだのが、三十六歌仙の始まりとされ、鎌倉時代に、歌仙尊重と似せ絵の流行によって、「三十六歌仙絵」が生まれたとみられる。
現存のもので、最も古く、傑出しているのは、「佐竹本三十六歌仙絵」(佐竹家旧蔵)で、書は後京極(藤原)良経、絵は藤原信実と伝える。もと2巻であったが、大正8年(1919)に、一歌仙ごとに分割され、諸家に分蔵されているうちの2幅である。
藤原朝忠は、右に「中納言従三位藤原朝忠 三条右大臣定方卿二男母中納言山蔭女 別当右衛門督延喜御時人号土御門中納言 あふことのたえてしなくはなかなかに 人をも身をもうらみさらまし」と、朝忠の略歴と和歌が記され、衣冠束帯で斜め後向きの朝忠の姿を描いている。肩の張った強装束で、束帯の黒袍は彫塗の技法で白い直線を残し、端正な形であり、後に流した裾の線は流麗で、当時の優雅さを感じさせる。 昭和60年「石川県の文化財」より


◆佐竹本三十六歌仙絵巻断簡(清原元輔)

【清原元輔】きよはら-のもとすけ

(908-990) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。深養父の孫。清少納言の父。肥後守。梨壺の五人の一人として万葉集の訓釈(古点)ならびに後撰和歌集の撰に参加。家集に「元輔集」がある。


◆佐竹本三十六歌仙絵・(斎宮女御)

【斎宮女御】さいぐう-のにょうご

(929-985) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。本名、徽子(きし)。重明親王の王女。斎宮から村上天皇の女御となり、規子内親王を生む。「天暦十年歌合(斎宮女御歌合)」を催す。承香殿女御。式部卿女御。家集「斎宮女御集」

歌仙絵は背景が一切描かれないのが普通だが、“斎宮女御”の場合、だだ一人皇族であるため、畳の上に描かれている。別格扱いは畳だけでなく、几帳がおかれ、斎宮女御の背後には州浜と赤い梅の花が描かれた障子が添えられる。こういうセッティングはもう源氏物語絵巻となんら変わりない。右でわかる通り、衣装の部分では緑青のところに剥落が多い。髪の毛の細かい表現や袖で口元を隠すポーズは源氏物語の姫君や女房と同じだが、斎宮女御の顔は紫上などよりはふっくらしており、リアリティを感じる。単眼鏡で衣装をみると繊細な文様や線がみてとれる。何度もみて気がついたのは、障子近くの赤い地に引かれた金泥の線。オリジナルの色はこれよりずっと綺麗だったのだろ。


◆佐竹本三十六歌仙絵巻断簡(小大君)

【小大君】こだいのきみ

平安中期の女流歌人。三十六歌仙の一人。東宮時代の三条院に女蔵人(によくろうど)として仕え、左近と呼ばれた。家集「小大君集」。生没年未詳。こおおぎみ。

佐竹本三十六歌仙絵のひとつ。小大君は10世紀末から11世紀ごろの人で東宮時代の三条天皇に仕えたおりは左近〔さこん〕と呼ばれた。



◆佐竹本三十六歌仙絵巻断簡(在原業平)

【在原業平】ありわら-のなりひら 


(825-880) 平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。在五中将・在中将と称される。阿保親王の第五子。歌風は情熱的で、古今集仮名序に「心あまりて言葉たらず」と評された。「伊勢物語」の主人公とされる。色好みの典型として伝説化され、美女小野小町に対する美男の代表として後世の演劇・文芸類でもてはやされた。家集「業平集」

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◆北野天神縁起絵巻承久本

国宝として北野天満宮に所蔵されてあるます。
北野天神縁起絵巻は,菅原道真公の幼少期からの伝説に始まり,藤原時平の讒言によって大宰府へ左遷,薨去後,都で起こる災害や天変地異の数々がダイナミックに描写された,非常に貴重な作品です。とりわけ根本縁起といわれる承久本は現存する絵巻の中でも最も古いものとして知られ,詞書や絵が豊富で鮮明,躍動感に富んでいます。
 
平安時代に活躍した菅原道真(845〜903)は、すぐれた学者であり、政治家でした。しかし、道真は、政敵・藤原時平の手により九州の大宰府へ左遷され、悲運のうちにその生涯を終えることとなります。
道真が死を迎えたその直後から天変地異が相次ぎ、疫病が人々を襲いました。さらに時平をはじめ、ライバル達が相次いで不幸に襲われます。そして、その災いは醍醐天皇の周りの人々にも広がっていきました。そして御所の清涼殿に雷が落ち、その直後、醍醐天皇までもがこの世を去ります。人々は、これらを道真の怨霊による祟りとおそれ、その霊を慰めるために、京都・北野の地に天満天神として祀りました。
「天神さま」とは、雷のことで農耕の神様でした。しかし、道真が天神さまとなってから、「学問の神」・「詩文の神」・「書道の神」・「芸能の神」として庶民の幅広い信仰を集めるようになりました。


◆写真

1、北野天神縁起承久本巻2--右大臣にのぼりつめた道真

帝の寵愛(ちょうあい)を受けた菅原道真(すがわらのみちざね)は、学者でありながら異例の出世を遂げ、899年(昌泰しょうたい2年)2月14日、ついに右大臣にのぼりました。この時、道真は55歳。絵巻は、右大臣に任命され、急きょ参内(さんだい)する大納言道真を描いています。黒の袍(ほう)、白袴(しろきはかま)、浅沓(あさぐつ)をはき後ろに長々と裾きょを引いて歩く道真。青色の袍を着た5位の随身たちが道真の前後を制し、束帯に威儀を正した2人の公卿が先駆けをつとめています。

2、北野天神縁起承久本巻3--道真、時平のいずれを重用すべきかを問う新帝
絵巻には、大内裏(だいだいり)を出発した醍醐天皇(だいごてんのう)の行幸の列が、華々しく京大路を行く様子が描かれています。向かっているのは父宇多法皇のいる朱雀院(すざくいん)。16歳の幼い新帝は政を行うのに、菅原道真(すがわらのみちざね)、藤原時平(ふじわらのときひら)のいずれを重用すべきかと相談に行くのです。珍しそうに垣根から顔をのぞかせる童、威儀を正し道を急ぐ群臣たちなどが、美しい彩色でいきいきと描かれています。行列中央の葱花輦(そうかれん)の中には、黄櫨染(こうろぜん)の袍(ほう)を着た新帝・醍醐天皇の姿が見えます。
壮麗な朱雀院(すざくいん)の建物のひときわ豪華な一室は、宇多法皇の居室です。そこで宇多法皇に対面する新帝・醍醐天皇(だいごてんのう)。宇多法皇は、代々政治を司ってきた藤原家の血統を継いでいるという点で、時平が抜きんでているがまだ30歳と若く、学才の点から道真を重用すべきと答えます。帝と法皇の前で、ひれ伏しているのは道真。帝を助け政を行うようにと、ひそかに内意を受けています。ここは、絵巻特有の異時同図の構図で描かれています。

3、北野天神縁起承久本巻3--太宰府へ左遷、宇多法皇に別れを告げる道真
右大臣にまでのぼりつめた菅原道真(すがわらのみちざね)は、その絶頂期に左大臣藤原時平(ふじわらのときひら)の策略で、大宰府へ流されてしまいます。絵巻には、大宰府左遷の命を受け、朱雀院(すざくいん)の宇多法皇の御所に駆けつけた道真が描かれています。束帯姿で別れを告げる道真。僧衣の法皇や、道真に仕える随身や家司(けいし)たちの表情にも、深い憂いが漂っています。

4、北野天神縁起承久本巻3-咲き誇る紅梅に別れの歌を詠む
絵巻が写しているのは菅原邸の紅梅殿の様子。道真の罪への追求は重く、住み慣れた住まいを明け渡すことになりました。部屋の中にいるのは道真。咲き匂う梅の木を見上げ詠んだのが、あの有名な「東風吹かば・・・」の歌です。
庭上や簀子(すのこ)の上には主人の悲運に嘆き悲しむ人々が、絵巻の左手には唐衣姿の北の方や女たちが、簾(すだれ)を深々と下ろした部屋で泣き伏している姿が見られます。

5、北野天神縁起承久本巻4--恩賜の御衣に涙する配所の道真
大宰府で道真を待っていたのは、月は漏り、蓬が茂る、わびしい蓬屋(ほうおく)。生活は貧しく惨めなものでした。わずかな近習を相手に詩歌を友として日々を送る道真。絵巻は、そんな配所での道真の姿を描いています。部屋の中に、白い狩衣、緑地唐草文の指貫さしぬきをはいているのが道真。簀子の上の行李(こうり)には、帝から賜った御衣(おんぞ)が入っています。薫香の香りに悲運を嘆いて道真が詩を詠むと、近侍の人々も袂(たもと)を顔に押し当て涙を流します。『北野天神縁起絵巻きたのてんじんえんぎえまき』の中の、白眉ともいわれる場面です。

6、北野天神縁起承久本巻5-雷神に向う時平
903年(延喜3年)2月25日に菅原道真(すがわらのみちざね)は大宰府で横死(おうし)を遂げます。それからというもの、天変地異が次々と京の都を襲うようになり、いつしか「道真の怨霊の仕業…」と噂されるように。絵巻には、雷神が清涼殿の藤原時平(ふじわらのときひら)を襲う様子が描かれています。不気味なまでの黒雲が朱塗りの柱を覆い、赤身の裸身に褌(たふさぎ)をはき、背に連太鼓を負った異様な形相の雷神が雷を落としています。逃げまどう殿上人や公卿たち。一方、気丈な時平は、凛々しく太刀を振りかざし「われ1人相手いたさん」と虚空をにらんでいます。



★伝説★


◆梅を飛ばすほどの 望郷の念

九州・大宰府に流された菅丞相(かんしょうじょう)は、わびしい日々を送ります。都を想う気持ちは強く、ある夜の夢の中で、都に残した愛樹の梅を想い歌を詠みます。
「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」
すると、安楽寺へ行けというお告げが返ってきます。その寺へ白太夫と向かおうとすると、寺の使いと行きあい、丞相の愛する梅が一夜のうちに寺に飛び来たったことを知らせます。丞相の望郷の想いの強さが梅を引き寄せたのです。

◆帝位を狙う時平に怒る

夢のお告げで安楽寺をたずねます。そこで一夜にして飛んできた梅の木を見ます。驚いているところに梅王丸が、菅丞相(かんしょうじょう)の命をねらう鷲塚平馬と登場します。平馬の話によると流罪後も藤原時平は、丞相の命を狙っていることを知ります。さらに、時平は帝位も奪おうと考えていることを知り、梅王丸に、その陰謀を都に知らせるように命じ、自らは怒りに満ち雷神となって帝をお守りしょうと天拝山に駆け上がって都へ向かいました。

◆別れがたい思いを 胸にしまい込む

菅丞相(かんしょうじょう)と娘苅屋姫(かりやひめ)との別れの時。丞相は桧扇(ひおうぎ)をのこして立ち去ろうとします。桧扇を手にし崩れ落ちる苅屋姫。おもわず姫を案じて、一瞬、そちらを見やる気配の父丞相ですが、振り返ることなく花道へと向かいます。まるで丞相は、自らの哀切に満ちた気持ちを桧扇に託したかのように、感情を抑えて去っていきます。

◆伝授は、伝授。勘当は、勘当

菅家は、代々、書道の家柄です。家伝の筆法を伝授するよう帝からの命を受けた菅丞相(かんしょうじょう)は、自邸にこもり心身を清めようと精進します。筆法を伝授するに値するのは誰か。悩んだ末に、不義のために勘当した武部源蔵(たけべげんぞう)を呼び出し、筆に鈍りがないか確かめます。そして、「伝授は、伝授。勘当は、勘当」として筆法を伝授するのです。丞相は、筆道の奥義を伝えられたことに胸をなでおろします。

◆左遷の真実

菅原道真左遷の理由は、「醍醐だいご天皇を廃して、道真の娘が嫁いだ斎世親王(ときよしんのう)(醍醐天皇の弟)の擁立を企てている」というもので、道真には一言の弁解も許されませんでした。

学者の家柄でありながら右大臣となり、しかも菅原家の門下生が中央官司の大半を占めるなかで国政改革が行われていくという、あまりに輝かしい道真の隆盛…。左大臣藤原時平(ふじわらのときひら)にとって道真は実に目障りな存在でした。そんな時平が、道真を妬む学者や出世を阻まれている皇族出身者たちと組んで左遷を企てた、というのが一般的な見方です。
道真が大宰権帥(だざいのごんのそち)に赴くという左遷の報せを聞いて、宇多(うだ)上皇は内裏(だいり)に駆けつけ醍醐(だいご)天皇との面会を申し出ましたが、蔵人頭(くろうどのとう)藤原菅根(ふじわらすがね)らに阻まれ、門の中に入ることはできませんでした。上皇は1日中庭に座り込んでねばりましたがついに日暮となり、帰らざるをえませんでした。こうして頼みの綱であった上皇の擁護も受けることができず、左遷は実行されたのです。

◆荒れ放題の太宰府での暮らし

左遷が言い渡され、大宰府へと出発するまでに与えられた時間はわずか7日間。そして同行者は幼い2人の子供と老僕1人、監視の左衛門少尉と2人の兵士、車につけた馬だけでした。しかも通過する国々にも道真に食料や馬を補給してはならないとされ、惨めで苛酷な大宰府までの旅でした。
そしてやっと辿り着いた大宰府での暮らしもひどいものでした。用意された小さな茅葺きの官舎は空家のままに荒れ果てた状態で、床は抜け落ちそうで、庭には草が生い茂っていました。
垣根はところどころ破れて修繕が必要で、井戸はふさがり修理しなくてはならない有様…。そして待遇においても俸給も従者もなし、政務を行ってもいけないというひどいものでした。
虚弱だった道真は胃を病み、脚気(かっけ)や不眠症、皮膚病に悩まされ、眠れぬ夜が続きました。そして心の支えだった幼い2人の子供のうち男の子が亡くなり、道真の心は深く傷つき、我が身の悲運を嘆きました。大宰府左遷後わずか2年、59歳でさびしく世を去ったのです。

◆太宰府に眠る

当時、他国で死んだ遺骨は故郷へ帰すことになっていましたが、菅原道真は大宰府に葬られました。大宰府に来た当初、京の都へ帰ることばかりを夢見ていた道真ですが、いつしか諦めの境地となります。そして次第に仏への信仰を厚くしていくなか、「遺骨を京の都へ帰すことを望まない」と遺言します。
道真が亡くなったのは、903年(延喜3年)2月25日(現在の暦では3月26日)。亡骸を乗せた牛車(ぎっしゃ)が北東を目指しました。
ところが、不思議なことに、突然、牛車(ぎっしゃ)が動かなくなります。そこで「道真さまはここでお眠りになりたいのだろう」と従者の味酒安行(うまさけやすゆき)が判断をして、その場所に埋葬しました。
のちにこの味酒安行が天神の託宣を受けて、道真の墓所に神殿を建てて道真を祀り天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)と呼び、安楽寺から、現在の太宰府天満宮へと移り変わっていきました。

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◆北野天神縁起絵巻(きたのてんじんえんぎえまき)


菅原道真の霊をしずめるために,道真を主祭神として建てられた京都の北野天満宮の縁起を記した絵巻物。鎌倉時代に成立し,諸国の天満宮に広く流布している。絵巻として最も古く優れたものは,北野天満宮所蔵の藤原信実の作と伝えられる「根本縁起」と呼ばれるものである。これは1219年(承久1)の詞書きをもち9巻からなるが,第9巻「利生記」の部分は,白描下絵のままで未完である。この絵巻はほかのものに比べ,異例の構成と規模をもち,色彩は濃厚であり筆致も荒々しく,重量感にあふれた画風は独特であり,「弘安本」(1278成立)が色彩も淡く優雅で大和絵の典型であるのと対照的である。他の流布本は多く,3巻または6巻からなるが,構成は類似しており,道真一代の伝記とその死後のたたり,北野天神社創建の由来,およびその霊験を描いている。
菅原道真をまつる北野天満宮の縁起絵巻です。優れた才能を持ち、異例の出世をする道真が、中傷により太宰府に左遷されて死亡し、その後に怨霊となって猛威をふるい、やがて北野天満宮にまつられる理由と、天神の霊験利益の数々が描かれています。



◆北野天神縁起絵巻(弘安本)(きたのてんじんえんぎえまき(こうあんぼん)

東京国立博物館所蔵品

讒言によって配所で死んだ菅原道真(845-903年)の霊を天神として祀る北野天満宮の草創の由来と,その霊験譚を集めた「北野天神縁起絵巻」は,社寺縁起絵巻の中でも,最も流布したもので,遺品も多い。この作品は,「弘安本」と呼ばれる一本で,北野天満宮所蔵の3巻から流出した絵が,現在当館及び大東急記念文庫,米国・シアトル美術館などに分蔵される。北野天満宮蔵の下巻の詞書の末尾に「弘安元年」とあり,画風からもその頃の制作と思われる。


◆【菅原道真】すがわら-のみちざね 

(845-903) 平安前期の学者・政治家。是善の子。菅公(かんこう)・菅丞相(しようじよう)と称される。宇多・醍醐両天皇に重用され、文章博士・蔵人頭などを歴任、右大臣に至る。この間894年遣唐大使に任命されたが建議して廃止。901年藤原時平の讒訴(ざんそ)で大宰権帥に左遷、翌々年配所で没した。性謹厳にして至誠、漢詩・和歌・書をよくし、没後学問の神天満天神としてまつられた。「類聚国史」を編し、「三代実録」の編纂(へんさん)参与。詩文集「菅家文草」「菅家後集」


◆【藤原信実】ふじわら-ののぶざね 

(1176頃-1265頃) 鎌倉前期の画人・歌人。隆信の子。法名、寂西。父の似せ絵を発展、「後鳥羽上皇像」「三十六歌仙絵巻」などの作者と伝える。また、「今物語」の著者とされる。



◆北野天満宮(きたのてんまんぐう)

学問の神様として知られる菅原道真を祭っている北野天満宮は全国の天神さんの総本社。道真は神童といわれた平安時代前期の公卿、文人。宇多、醍醐天皇に重用され、44歳で右大臣に昇進した。この切れ者の道真の権力拡大を藤原一族が恐れた。道真は昌泰4年(901)藤原時平らの讒言(ざんげん)によって九州・太宰府に左遷され、2年後、失意のうちに59歳で太宰府で没した。
 道真死後、藤原時平が39歳の若さで死亡したほか、朝廷の要人が死亡したり清涼殿への落雷、飢饉や疫病のまん延などさまざまな異変が起こった。これを道真の怨霊のたたりと都の人たちは恐れた。道真没後44年の天暦元年(947)に北野の地に道真の霊を祭ったのが北野天満宮の始まりとされている。

 天慶5年(942年)に右京七条の巫女、多治比文子(たじひあやこ)に道真から『北野に社殿を造り自分を祀るように』との御託宣があったという。

 道真の霊を鎮めるため、文子は当初、自宅の庭に瑞垣を造り祀っていたが、北野の朝日寺の僧、最鎮に相談し、天暦元年(947年)に現在の地に祀るようになったとされている。最初は道真の霊を鎮めると共に皇城鎮護の神として祀られていたようであり、一条天皇が行幸されて以来、代々の天皇の行幸が数多く、皇室の崇敬、国民の信仰も厚かったようである。

 江戸時代になって幕府は庶民の教育機関として全国に寺子屋を設立させた。その際、精神的な支柱として、かつて学者であった道真の神霊を分霊し全国に奉斎したという。

 以来、神霊は「天神様」と称され学問の神として信仰されるようになったといわれている。
北野天満宮は梅の名所としてよく知られており、楼門をくぐった境内にも多数の梅の木が植えられている。梅の木が約2000本植えられているといわれている「梅苑」は楼門手前の西側にある。

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男衾三郎絵巻〔おぶすまさぶろうえまき〕


紙本着色,全1巻の絵巻。縦約29cm,横約13m,詞書6段,絵も6段仕立てである。筆法は軽妙洒脱で家屋の描法も吹抜屋台式であり,人物・樹木・風景などの描法も典型的な鎌倉期のもので稚拙な部分もあるが,それがこの絵巻に活気をもたらしている。全体の画風・筆法が,1295年(永仁3)作と推定されている伝藤原(土佐)隆相筆の『伊勢新名所歌合絵巻』と,近似しているところから,この絵巻の年代もそのころとされ,筆者も同一人とされている。この絵巻の内容は武蔵国の住人男衾三郎という武芸一点張りの勇猛な典型的東国武士と,その兄吉見二郎という風流華奢な京かぶれの男とを対照させ,その両者の末路を対比しようとした物語である。大番勤めのため兄弟相前後して出発,兄は山賊に殺害され,弟は帰郷後その母子を虐待,また観音祈願で授かった兄の娘の可憐物語など,京対東国・無神論対観音信仰を盛り込んだ珍しい教訓的風俗絵巻である。

男衾三郎絵巻は、鎌倉時代のはじめ、関東の武蔵国に所領を有した二人の兄弟、吉見二郎と男衾三郎という武士を主人公とした絵巻で、兄吉見二郎が戦死した後、弟の男衾三郎が兄の妻と美しい娘「慈悲」を下働きとして虐げるという、「継子いじめ」を主題にした物語です。現存するのは一巻であり、これは、本来二巻あったものが伝来の途中で後半部分が失われたものと考えられています。



◆男衾三郎の娘(右)と、騙されて結婚しかかる貴族の男(左)場面

大まかに『男衾三郎絵巻』のストーリーを説明すると……、
 鎌倉時代・武蔵国に吉見二郎と男衾三郎という兄弟がいた。
 兄の吉見二郎は美しい女性を妻にし、美貌の娘「慈悲」を授かるが、早くして盗賊に命を奪われてしまう。
 一方、弟の男衾三郎は優雅な兄とは違い剛健な荒武者だった。しかし、この男は素晴らしい変人で、常日頃から「醜い女を妻にしたい」と思っており、望み通り醜女を妻にした。
 二人の間に産まれた子供は、メンデルもびっくりの優性遺伝ぶりを見せ、見事な天然パーマ。ちなみに顔もコピーロボットの如く瓜二つ。
 さて、父の吉見二郎を失った慈悲は、父親の遺言通り叔父の男衾三郎の世話になります。しかし、そこで待っていたのはシンデレラ並の継子いじめ。伯母と従妹は美しい慈悲が憎らしくて仕方ない。慈悲を小間使いのようにこき使います。
 さて、年月は過ぎ、娘達は揃って年頃を迎えます。
 世の中に男衾三郎のような趣味を持つ男性が何人もいれば良いのですが、そう上手くいくはずもなく、求婚者達は美しい慈悲の元へ集まり、男衾三郎の娘は除け者に。
 伯母は一計を企み、目をつけた貴族の男に、「慈悲と結婚させる」と言い、寝所に慈悲の代わりに自分の娘を置いておく……

 上の絵はその場面です。
「うわ、誰だよ! 話が違うじゃないか」
 と言わんばかりに、顔を背ける貴族男性が笑えます。
 酷い描かれようですが、絵師が楽しんで描いているのが伝わってきます。確実に、慈悲よりも描く時間かかってますしね。
 のっぺりと平面的な、引目鉤鼻下ぶくれ平安美人画よりも、よっぽど絵からの力を感じます。


◆和琴◆

壁に立てかけた。尾部が櫛形で弦の末端が垂れ下がり、現在とは異なる形態です。隣には琵琶が袋に入れて収められています。 


◆笠懸(かさがけ)
鞍を立ち透かしている様がよく判る。
晴れの儀である流鏑馬の後、余興に射手の綾藺笠を的にして引目の矢で射たことに始まるとも言われるが、平安中期にはすでにその語がみられている。始めの頃は綾藺笠を的にかけていたが、後には笠の的にならい、鹿のなめし革を薄紅色に染めた洗革で径60センチほどの半球型の的を作り三箇所に紐をつけて的串に結び、弦を外した弓の丈八張分である八杖(ヤツエ)の距離から射るのを常とした。笠懸引目は的の笠を損ねない為に、鏑矢の鏑よりも大きめにつくり、桐や朴などの軽い木で溜塗にして作る、鏑矢と同じで中空で音が鳴る。響目(ひびきめ)ゆえにヒキメという説もある。



◆鎌倉時代◆

鎌倉時代(かまくらじだい、1185年 頃-1333年 )約150年間は、日本史 で幕府 が鎌倉 に置かれていた時代を指す日本の歴史 の時代区分の一つ。朝廷と並ぶ政治の中心となった鎌倉幕府 が相模鎌倉に所在したことから鎌倉時代と称する。
成立時期は源頼朝 が征夷大将軍 (将軍)に任じられて鎌倉幕府 を開いた1192年 とするのが一般的であるが、源頼朝が平家 打倒のために挙兵した1180年 説、寿永二年十月宣旨 で東海道 、東山道 の支配権が認められた1183年 説、義経追討の名目で地頭の設置権を獲得した1185年 説、頼朝が上洛し権大納言・右近衛大将に任命された1190年 説など様々な説もある。
武士階級が天皇・貴族階級と分離し新たな支配体制を求め鎌倉幕府を開き、封建政治を始めた時代である。封建政治は、この後江戸幕府崩壊(1868年 ・慶応 4年)まで続く。
1185年に、源頼朝 は大江広元 の献策を容れて弟の源義経 の追討を目的に全国に守護・地頭を設置する。守護は一国に1人ずつ配置され、謀反人の殺害など大犯三ヶ条 や国内の御家人の統率が役割の役職。地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割であった。鎌倉幕府の権威を背景に荘園を侵略し、豊作凶作にかかわり無く一定額の年貢で荘園管理を一切請け負わせる地頭請 や、荘園を地頭分と領家分に強引にわける下地中分 など、一部で横暴も多くあった。

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後三年合戦絵巻〔ごさんねんかっせんえまき〕

今より九百年前、応徳三年(1086)奥州で起きた藤原家衡、武衡の乱で、源義家が苦戦の末平定した戦闘の模様を画いた約20メートルにも及ぶ長い絵巻物。

悲惨な戦闘の情景を精緻に描いた合戦絵巻の秀作で、目を覆うような場面がそこここに描かれている。これは石見地方の旧家に伝わっていたものですが、水害で見られぬほど傷んだものを修復したものです。この原本は重要文化財として東京国立博物館にあり、当館所有のものは、元禄十四年十月(1701)に数本写された物の一つです。このうち現在わかっているものは岩崎家「静嘉堂文庫」のものと当館のふたつだけしかなく、非常に貴重なもので一見に価するものです。



後三年の役 あらまし

平安の時代、出羽の清原氏、陸奥の安倍氏というこの地方を支配していた豪族がいました。ところが、「前九年の役(1051〜1062年)」「後三年の役(1083〜1087年)」という奥羽を舞台とする二つの歴史に残る大きな合戦があいついで起こります。

前九年の役は、永承六年(1051年)多賀国府にいた将軍源頼義(よりよし)、義家(よしいえ)親子が出羽の豪族清原氏の助けをかりて、陸奥の豪族安倍氏を滅亡に追い込んだ「北方の王者」の交代劇ともいえる戦いでした。

この戦いで、清原氏は、安倍氏の領地をあわせ奥羽に強大な支配力をうちたてました。ところが二十年後複雑な血縁が絡み合う清原一族の間に内紛が生じました。この内紛にうまく介入したのが源義家でした。長男真衛(さねひら)が病死し、いったん収まるかにみえた内紛でしたが、今度は領土の配分をめぐって、家衡(いえひら)、清衡(きよひら)の異父兄弟が争います。妻子を弟家衡に殺された清衡は、源義家に助けを求めました。こうして、「後三年の役」と呼ばれる戦いの火ぶたが奥羽の地に再び切られたのです。

沼の柵(雄物川)にたてこもり、義家軍を退けた家衡は、叔父武衡(たけひら)のすすめにより、難攻不落といわれる金沢柵に移りました。ところが、実弟義光(よしみつ)の参戦で意気上がる義家軍の執拗な攻撃や、兵糧攻めにあい、必死の防戦もむなしく、金沢柵は落ち、家衡、武衡は捕らえられ合戦は終わりました。奥羽の長い戦乱の時代は清原氏の滅亡とともにひとまず幕を閉じることと成るのです。
 
後世に、「後三年合戦絵詞」として、絵巻に残された、この合戦は、「雁行の乱れ」「片目のかじか」など、数々の伝説を伝え、今でも語りつがれています。
 
源義家も京都に帰り、新たにこの地方に君臨したのは清衡でした。姓を「清原」から「藤原」へ改めた清衡は、以後、百年にわたる平泉黄金文化のいしずえを築いていったのです。
 


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