日本絵画

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絹本著色 掛幅 描表具
縦120.2 横81.1(cm)
鎌倉時代


親鸞聖人(1173〜1262)は、はじめ青蓮院慈鎮により得度し、比叡山や南都で修学した後、法然に従って専修念仏の門に入り、師の没後『教行信証』を著して浄土真宗を開創した。
 本図は熊皮御影(くまがわのみえい)として知られる画像で、親鸞は首に帽子を巻き袈裟を着け、両手で数珠をまさぐる姿で、上畳に敷いた熊皮に坐している。その前には杖が横たえられている。安城御影(あんじょうのみえい)が敷物を狸皮とし、杖のほかに火桶と草履を置くが、本図にこれはない。いずれにしても親鸞の活発な布教活動を象徴する画像であり、老貌の親鸞が静かに坐す姿には祖師を尊敬のまなざしで見る弟子の視線が感じられる。画面右上の色紙形に七言四句の偈「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能莊嚴 臨終引導生極樂」がある。これは、親鸞が六角堂にこもった際に救世観音が夢に現れて告げた偈句であるという。絵伝にも録されている。
 図は、親鸞の面貌をよく写しているが、安城御影の鋭い面相線はなく、鏡御影(かがみのみえい)の像主を眼前にしたごとき現実味のある表現からも離れている。おそらくやや時代の降る鎌倉時代終わり頃、教団の成熟期にかかるころの制作と思われ、表現はむしろ古式の高僧像の伝統的技法に従っていると思われる点が注目される。
 巻留めに「□信房御影 四句文尊円親王 繪浄賀法橋」とある。これによれば画中の偈は青蓮院流尊円(1298〜1356)により、画筆者は浄賀(1275〜1356)とされる。浄賀は覚如(1270〜1351)が永仁3年(1295)に最初の「善信上人親鸞伝絵」を描かせた絵師である。その画系は康楽寺派と呼ばれ真宗の絵伝・祖師像を描いた。但し、浄賀本人の作品は残っておらず、これが同人唯一の現存作品かどうか問題が残る。なお、本図は天地左右に当初の描表具を残している。

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◆法然上人絵伝〔ほうねんしょうにんえでん〕

法然上人絵伝は、知恩院に伝わる国宝で、徳治2年(1307)叡山功徳院の舜昌(しゅんじょう)が後伏見上皇の勅命を受けて製作に着手し、十余年の歳月をかけて完成したものである。
全長548mの長大な絵巻物は、阿弥陀仏の四十八願にちなんで48巻からなる。大和絵の手法で書かれた絵は当代一流の土佐吉光〔とさよしみつ〕らの画師の手になり、詞書(ことばがき 前書)も後伏見上皇をはじめ天皇や貴族など多数が染筆(せんぴつ 揮毫)するなど、鎌倉末期の一流の芸術家や文化人が総力を結集して作り上げた傑作である。

内容は、法然の伝記を中心に法語(ほうご 仏の教えを説いた文)や消息などをおさめ、さらに門弟や天皇・公卿から武士・庶民に至るまで浄土教帰依者の往生伝を伝説的要素も含め詳しく描いている。ただし、入滅後に作られたものであるため、そのまま法然の言行とはいい難い。

平安末期から鎌倉時代にかけて,栄西,道元,日蓮,親鸞,一遍ら,新仏教の旗手たちが踵を接して登場した.その先駆けとなったのが,浄土宗の開祖法然(1133−1212)である.他力念仏により極楽浄土に往生することを説き,当時の天皇・公家から一般の庶民まで,多くの人々に帰依された法然の伝記『法然上人行状絵図』。元祖法然上人の生涯を描いた絵伝ですが、その誕生から入寂に至る行状のほか、法語、消息、著述などの思想もあらわし、さらには門弟の列伝、帰依者(天皇、公家、武家)の事蹟までをも含んで四十八巻に構成されています。

まずは、春の一日、子どもたちが庭で遊び、その様子(ようす)をおとうさんとおかあさんが暖かく見守っています。真ん中の二人の子どもは何をしているかわかりますか。これは竹馬遊(たけうまあそ)びです。いま私たちは「竹馬」というと、竹の棒の適当な高さのところに足場(あしば)をゆわえつけて、これに乗って歩く遊びを思い出しますが、もともとの竹馬は、ここに描かれているように、葉の付いた竹の元の方に紐(ひも)を付け、これを手綱(たづな)のようにしてまたがり、竹を馬に見立(みた)てて走るものでした。幼なじみという意味で使われる「竹馬(ちくば)の友(とも)」という言葉は、こうして一緒に走りまわって遊んだ友達ということからできた言葉なのです。ここにはそのほかに古い草履(ぞうり)に紐を付けて犬を走らせている子どもや、犬を抱いた少女、またこのようすを木の陰から見ている子どもたちも描かれています。
 
ここにとりあげた場面は、法然上人が、竹馬遊びをする年頃から、ときどき西の壁(かべ)に向かって念仏をしていたという逸話(いつわ)をあらわしたものです。たしかに画面の左端に壁に向かう子どもが描かれていますが、よく見るとこの部分は、最初板戸(いたど)を描いていたところを塗(ぬ)り消して、わざわざ西に向かう子どもを描き加えていることがわかります。もともとこの絵巻の画家は、この逸話を無邪気(むじゃき)に遊んでいる子どもたちの姿で描いていたのですが、後になって、法然上人が子どもの時から他の子と違っていた、すなわち西の方にある極楽浄土に憧(あこが)れていたということを強調(きょうちょう)するために、このように改めたものです。
 
この法然上人絵伝のように、仏教の新しい宗派(しゅうは)を開いたお坊(ぼう)さんや、徳(とく)の高いお坊さんの伝記をあらわした絵巻を「高僧伝絵(こうそうでんえ)」と呼びます。高祖伝絵は鎌倉時代(かまくらじだい)にとても多く作られました。この時代に新しく始められた宗派では、宗派を開いたお坊さん(宗祖〈しゅうそ〉)に対する信仰(しんこう)が強く、新しく信者(しんじゃ)を獲得(かくとく)するためにもそのお坊さんの伝絵を作ることが重要であったのです。特に法然上人の始めた浄土宗では伝絵を作ることに熱心で、いくつもの違った種類の法然上人絵伝があります。ここに紹介(しょうかい)したのは、そのうち知恩院(ちおんいん)に伝来(でんらい)しているもので、全部で四十八巻あり、日本の絵巻のなかで最も巻数の多い絵巻として有名なものです。この「竹馬遊び」の段のある第一巻は、両親が神仏(しんぶつ)に祈(いの)ったおかげでおかあさんが身ごもり、やがて男の子(法然上人)が誕生したこと、またおとうさんが敵の夜襲を受け、その時の傷(きず)がもとで、この男の子をお坊さんにするように遺言して亡くなったことなどが描かれています。

高僧伝絵は、宗教的な意味あいから作られたものですが、現代の私たちにとっては、絵画として楽しむことができますし、また、最初に言ったように、昔のようすを知る貴重(きちょう)な資料(しりょう)にもなっています。絵巻を見るときには、絵としての美しさや物語の内容を楽しむだけでなく、そうした昔の暮らしにも目を向けてみましょう。


◆知恩院

除夜の鐘と日本一の大きさを誇る三門(さんもん)で有名な知恩院は、祇園祭で知られる京都・八坂神社の東方、東山連峰の一つである華頂山(かちょうざん)山麓にあり、承安5年(1175)法然上人(ほうねんしょうにん)が浄土宗の総本山として開基したお寺である。山号は華頂山といい、「華頂山知恩教院大谷寺」(かちょうざん・ちおんきょういん・おおたにでら)が正式名称である。
法然上人がこの地で入滅したときには、簡素な庵があるだけの寺であったが、後に秀吉や家康の庇護を受け、現在の壮大な堂宇が構築された。特に、徳川幕府は、ことあらば戦用の城郭に転用すべく多大な援助を惜しまなかったようで、境内の至る所に「丸に三つ葉葵」の紋所が目につく。
知恩院三門は、仏道修行の悟りを示す「空門」「無相門」「無願門」の三つの門を表し、正式には三解脱門(さんげだつもん)という。迷いから解放されようとする者が通らねばならない門とされている。
元和7年(1621)徳川幕府によって建立された知恩院三門は、高さ24m、間口50mの重層入母屋本瓦葺きで、わが国現存の木造建築の中で最大の楼門である。平成14年(2002)5月23日御影堂(本堂)とともに国宝に指定された。
知恩院の三門は、石川五右衛門の「絶景かな」で知られる京都・南禅寺の三門(高さ22m)と山梨・久遠寺の三門(高さ21m)とともに日本三大門に数えられる。


◆法然上人

法然上人(法然房源空 1133-1212)は、浄土宗の開祖である。浄土仏教の元祖は空也上人(くうやしょうにん 903-972)まで遡るが、浄土系の仏教が大きく飛躍するのは鎌倉時代の始め頃からである。
平安時代の末期、仏教に帰依(きえ)して種々の善行を積めば極楽浄土へ行けるが、そうでなければ血の池や針の山などのある地獄へ落ちるといった論法が行われており、京都の公家たちが多数信者になった。しかし、お寺に寄進などする余裕のない一般大衆は、救われなかった。

そこで、法然や親鸞らの浄土系仏教の伝道者たちは、「阿弥陀(あみだ)が全ての人々を救済するまでは自分は仏にならない」という阿弥陀の本願を根拠に、その阿弥陀に帰依する心を持って「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と一心に念仏を唱えさえすれば、たとえ悪人でも必ず極楽往生できるという考え(専修念仏せんじゅねんぶつ)を庶民に広めた。 この無条件の本願念仏の教えは、非常に分かりやすく、浄土系仏教は急速に発展していった。

法然は美作国(みまさかのくに 岡山県)の生まれで、13歳の時比叡山に登り、源光の下で修行を積み、18歳の頃には多くの経典を読破した秀才だった。
しかし法然は「このような教義で人々を救えるのだろうか?」と疑問を持ち、やがて源光の下を辞して黒谷(くろたに)の叡空の所に移る。

そこには無冠の聖(ひじり)たちが集まり、厳しい求道の思索に明け暮れていた。法然は黒谷で20年以上過ごし、その間多くの仏典を読み、また一般大衆の集まる祈祷所などに赴いて人々と触れ合った。
彼の運命を決定的にしたのは、唐の高僧・善導の著書「観経疏(かんぎょうのしょ)」に出会ったことだった。そこには、極楽浄土への往生を一心に願い、常に念仏を唱えていれば、必ず阿弥陀仏がその者を救ってくれるという思想が記されていた。彼は、会ったこともない異国の善導を師と仰ぐようになった。
1175年、法然43歳のとき、この思想を元に一派を立てた。その拠点にしたのは京都東山の吉水(よしみず)に建てた小さな庵で、現在の御影堂のあるところである。

彼の教えは、無条件の専修念仏によって全ての人間が救われるというもので、念仏以外の一切の行業が不要となる。それは既成の仏教教団の教えを根底から否定することになり、権威や秩序を支える道徳や倫理に対する根元的な挑戦であった。

そのため彼は弟子たちと共に激しい弾圧を受けることになった。建永2年(1207)に起こった建永の法難では、 二人の弟子が死罪になり、法然は四国に、親鸞(しんらん)を含む数人の弟子が新潟など各地に流罪(るざい)になった。しかしこれは結果的には浄土系仏教を全国に広めることになった。

法然は死の直前になって許されて京都に戻り、建歴2年(1212)正月25日、吉水の大谷(おおたに)禅房で数人の弟子に看取られ、静かに入滅(他界)した。享年80歳だった。その後、弟子の証空がその遺志を継いで専修念仏を広め、浄土宗西山派(せいざんは)の基礎を作った。また、弟子の親鸞は、許された後、直ぐには京都に戻らず、関東に赴いて浄土真宗を広めた。

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雄大な松林の中、履物を脱いで木に登り、香炉と数珠を枝に掛け、小鳥の鳴声を聴きながら坐禅を組む明恵。肖像画であるにもかかわらず、人物よりも背景の方が大きいというのは珍しいし、それがまた明恵の人格も象徴している。また、体が大地から離れているので、世俗からも離れていることも表している。弟子の成忍(じょうにん)が描いた。明恵上人〔みょうえしょうにん〕は、鎌倉新仏教に押される中、奈良仏教の華厳宗〔けごんしゅう〕の改革を進めた僧だ。

この画像『明恵上人樹上坐禅像』は即ちこの仏光観を修しているところを描いたものである。上部の讃に見える「縄床樹定心石」というのは1223(貞応2)年、加茂から栂尾に帰った明恵が、後山を楞伽山(りょうがせん)と名づけ、その中に縄床樹、定心石と名づけた2ヶ所を修法のために選び定めたことによるものである。
「松の下岩根の苔の墨染めの袖のあられやかけし白玉」
この和歌は1225(元仁2)年、吹雪の中で縄床樹座禅を終わった後に詠まれたものであるが、自然とともにある明恵の人間性と時日を選ばぬ修法の厳しさを教える。栂尾に帰ってから晩年に至る間の明恵は、最も安定した宗教生活を送ることができたといわれる。
奥深く続く松林には白雲がたなびき、小鳥が鳴き飛び、リスが明恵を窺い見、藤花が咲く。小枝にかけた香炉からは閑静な空間を象徴するかのようにゆっくりと香煙が立ち昇る。ここで明恵は静かに坐禅入観している。この図様は伝統的な祖師像の形式とは全く縁がなく、いささか羅漢図に似ている。明恵が羅漢に宗教的な愛情を抱いていたことはすでに著名であるが、縄床樹における坐禅にはそうした羅漢敬慕や、自らを羅漢に擬す心持があったのではないかとも考えられ、また高山寺においては幾度か十六羅漢像の施入、造顕のことがあったことを思うと、このようは祖師像が作られるについては、その発想の底に羅漢図がある種の影響を与えているのではないかと考えることは可能である。
しかし、この図にはそうした表面的な類似から飛躍する内容がある。やや上方に視点を取り、松樹を林立させてその樹間から明恵をのぞかせる構成は独特のものであるし、松樹もこれまでの大和絵の松樹と異なった生命を息吹いている。深々とした風景の描写の中に、いかにも閑雅な栂尾山中の風趣を出しているのも、これを描いたであろう上人の高弟恵日房成忍が、自己を取り巻く自然と生活によく密着した人であったことを示すものであろう。
大和絵は鎌倉時代に入って宋画の感化を受けて次第に変貌してゆくが、この図に見る技法、空間把握の感覚には同時代的な変貌とともに成忍の個性的な色彩を強く出しているように思われる。

和歌山有田出身。南都六宗の華厳宗(大本山は東大寺)の学僧。諱(いみな、没後の贈り名)は高弁。鎌倉初期の同時代を生きた法然、親鸞、日蓮と違って新宗派を開いた教祖ではないので、現代では知名度が低いけれど、当時は旧仏教界側の最も影響力の大きな人物の1人だった。父は平重国、母も武家出身。
1180年、7歳の時に母が病没、父も半年後に挙兵した頼朝軍と戦い東国で敗死してしまう。翌年、両親を失った明恵は、亡き母が生前に彼を京都高尾・神護寺の薬師仏に仕える僧にしたがっていたことから、同寺の叔父を頼って仏門を叩き、名僧文覚(もんがく)の弟子となる。
※明恵は母がこの薬師仏に祈願して授かった子どもだった。

熱心に華厳宗を学び、16歳の時に東大寺にある鑑真が作った戒壇院で公式に出家。これまで以上に力を入れて修行するが、京都や奈良の僧たちが出世レースに明け暮れている姿を見て違和感を感じ、1196年(23歳)、故郷紀州に戻ると山中に小さな庵を建てそこに篭って修行を続けた。
この時の仏道を究めんとする明恵の決意は相当なもので、学識で有名になり傲慢になりつつあった自分を戒める為に、そして色欲の煩悩など全ての俗念を取り去る為に、庵に入ってすぐ右耳を切り落としている。彼は「これでもう自分から人前に出なくなる。人目をはばかり、出世しようと奔走することもない。私は心が弱いので、こうでもしなければ道を誤ってしまう」と語り、そして「目を潰すとお経が読めなくなる。鼻がないと鼻水が落ちてお経が汚れる。手を切ると印が結べない。耳は見栄えが悪くなるだけだ」と耳を選んだ理由をあげている。以後、明恵は自身の事を「耳切り法師」と呼ぶようになった。
※ゴッホは耳を切ったり『ボンズ(坊主)としての自画像』を描いている。明恵の影響、というのは考え過ぎだろうが、文献で“坊主”を知っている以上、可能性が全くゼロともいえない。

1199年(26歳)、神護寺に帰るが、師の文覚が後鳥羽上皇への謀反の嫌疑で流刑となり死去、神護寺は荒廃し明恵は各地を流転する。次第にあらゆる全仏教の原点となる釈迦の遺跡を巡拝したいとの思いを強め、30歳、32歳の時に2度にわたってインド渡航を計画した。三蔵法師の旅行記などを熟読して長安からの日程表を作り旅支度をしたが、病に伏したり周囲の猛反対や神託の為に頓挫。実際、大陸の治安はチンギスハンの勢力拡大と共に悪化しており旅を出来る状況ではなかったという。

1206年(33歳)、後鳥羽上皇から京都郊外の栂尾(とがのお)を与えられ、華厳宗の修行道場として高山寺を再興する。明恵は坐禅をこよなく愛し、数日分の食料を小ぶりの桶に入れて裏山に行き、「一尺以上ある石で、私が坐ったことのない石はない」というほど、昼夜を問わず石の上、木の下などで坐禅を重ねた。
明恵は常に釈迦を深く慕い、憧れていた。心の中心にいたのは釈迦だ。彼は釈迦を敬慕するあまり、仏陀伝を聞いている途中で失神したという。そして釈迦の言葉を理解する為にも、学問、戒律、行を重視していた明恵は、1212年(39歳)、念仏(南無阿弥陀仏)さえ唱えれば阿弥陀の大慈悲で極楽往生できるという法然・親鸞の浄土教へ反感を持ち、『摧邪輪(さいじゃりん)』を著して、舌鋒鋭く猛烈に抗議した(ちなみに親鸞とは年が同じ)。

1215年(42歳)、臨済宗開祖の栄西禅師が没する。明恵は30歳頃から栄西と交流があり、明恵の誠実さに惚れ込んだ栄西は「宗派の後継者になって欲しい」と願ったが、明恵はガラじゃないとこれを固辞。栄西は「せめてこれだけでも」と、自分の大切な法衣を明恵に贈った。栄西は弟子達に「分からないことがあれば明恵上人に聞け」と言い残したという(すごい信頼ぶりだ)。

栄西はまた、宋から持ち帰った茶種を明恵に渡した。明恵は高山寺に茶園を作って栽培し、優れた効能を知ると宇治に広め、そこから静岡や各地に茶が伝わった。高山寺のある栂尾は茶の発祥地として鎌倉後期には日本最大の産地となり、毎年天皇にも献上された。

1221年(48歳)、承久の乱で幕府軍に追われて高山寺の境内に隠れていた上皇側の落武者をかくまい、明恵はその罪で六波羅(治安機関)の北条泰時の下に連行される。泰時に真意をただされた明恵はこう語った「私は親友に祈祷を依頼されても引き受けない。なぜか。全ての人々の苦しみを救う事が重要であり、特定の人の為に祈祷などしないのだ。この戦でも、どちらか一方の味方をするつもりはない。高山寺は殺生禁断の地である。鷹に追われた鳥、猟師から逃げてきた獣は、皆ここに隠れて命を繋いでいる。ましてや人が岩の狭間に隠れているのを、無慈悲に追い出せようか。むしろ袖の中でも袈裟の下でも隠してあげたいし、私は今後もそうするつもりだ。もしも、この当然のことが許されぬのなら、即座にこの愚僧の首をはねられよ」。この毅然とした態度、高潔な徳に泰時は胸を打たれ、無礼を謝ると帰りの牛車を用意して寺に届けた。この後、泰時は明恵を師と仰ぎ、教えを請うためにしばしば高山寺に足を運んだ。この2年後、明恵は夫を戦で失った妻たちの為に尼寺(善妙寺)を開いた。

1231年(59歳)、明恵は紀州で法要を行ない、帰って来た後に疲れが出て床に伏した。そして翌年1月、明恵は「今日臨終すべし」と告げて、弟子たちに「名声や欲得に迷わぬように」と戒め、しばらく座禅をした後、「時が来たようだ。右脇を下に身を横たえよう」と横になり、蓮華印にした手を胸に置き、右足を真っ直ぐ伸ばし、左膝を少し曲げて重ねた。最期は顔に歓喜が満ち、安らかな大往生だったという。明恵は禅堂院の後方に、弟子によって丁重に埋葬された。現在、廟前には毎年11月8日に茶業者が訪れ、その年の新茶を供える献茶式が行われている。
栄誉を避け、戒律を守り、ひたすら釈迦を慕い、心静かに修行し続けた清僧・明恵。訃報を聞いた天台座主の良快は、宗派が異なるにもかかわらず「今の世は、明恵上人のような人こそ聖人と言うのだ」と称えたという。

【月の歌人・明恵】
明恵がまだ10代半ばの頃、放浪歌人の西行法師が何度か神護寺を訪れており、明恵は歌道の指導を受けたという。明恵は一晩中屋外で座禅を組むことが多かったことから、「月の歌人」と呼ばれるほど月の歌を大量に詠んだ。その歌才は勅撰集に27首も選ばれているほど優れている。

「山寺に 秋の暁 寝ざめして 虫と共にぞ なきあかしつる」
(山寺の秋の朝焼け。眠れぬ私は虫と共に泣きあかしたよ)

「隈もなく 澄める心の 輝けば 我が光とや 月思ふらむ」
(隅々まで澄み切った私の心の明るい輝きを、月は自分の光と思うのではないか)

「昔見し 道は茂りて あとたえぬ 月の光を 踏みてこそ入れ」
(昔訪れた廃寺の草茂る道。私は月の光を踏み入って行く)

「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」
(明るい!明る過ぎるぜ、お月さまッ!)

「雲を出でて 我にともなふ 冬の月 風や身にしむ 雪や冷たき」
(雲から出て私に同行する冬の月よ、風が身に沁むだろう、雪が冷たいだろう)
※川端康成はノーベル文学賞受賞の記念講演「美しい日本の私」の冒頭でこの名歌を紹介した。

※茶史:日本には、805年に最澄が種子を持ち帰って比叡山に植えたのが最初という。茶の木。
日本では、種子を栄西が持ち帰って筑前背振山に植え、それを高山寺明恵上人に贈ったものが 栂尾(とがのお)で栽培され、のち宇治・駿河などに分けられて喫茶の風が広まったという。

※【高山寺】こうざんじ 

京都市右京区にある真言宗の寺。山号、栂尾(とがのお)山。初め度賀尾寺と称した。1206年明恵(みようえ)が再興して現名に改め、華厳宗復興の道場として栄えた。「鳥獣戯画」「明恵上人像」などの美術品のほか、特に貴重な典籍類が多い。また、紅葉の名所。

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宮廷のガードマンだった平家が政権を取り、けれど、ちょっといばりすぎたから、もともとは平清盛〔たいらのきよもり〕をかわいがっていた後白河〔ごしらかわ〕上皇も嫌気がさして、源氏に平家打倒を命じた。
 そこで立ち上がったのが、源頼朝〔みなもとのよりとも〕。源義経〔みなもとのよしつね〕の大活躍もあって、1185年に平氏滅亡。頼朝は鎌倉幕府を開いた。
 平家も権力は握ったけども、鎌倉幕府は初めての本格的武家政権だ。今風に言うならば、軍事政権だ。
 時代は、大きく変わった! なにせ武士なんてのは、ついちょっと前までは、宮廷のガードマンの荒くれ者だったのだ。貴族の優雅さなんて持ち合わせちゃいない。なにしろマッチョなのだ。つまり、力強いってわけだ。
 もっとも、鎌倉時代は、武士に政権を取られたとはいえ、貴族文化も健在で、マッチョな武家文化と繊細優雅な貴族文化がまじってるのも、鎌倉文化の特徴なんだけどね。
 それから、当時、中国から禅宗が伝わってきて、それが日本人の心をとらえた鎌倉新仏教のなかの曹洞宗や臨済宗になるんだけど、だから、「心を無にするのじゃ」的な禅宗チックな要素もある。
 そんないろんな要素が混じり合ってるのが、鎌倉文化だ。

A 鎌倉文化の建築は4種類
 鎌倉文化の建築には、大きく言って4種類ある。
 まずは、大仏様〔だいぶつよう〕(天竺様〔てんじくよう〕)。重源〔ちょうげん〕(俊乗坊〔しゅんじょうぼう〕)という僧が伝えた中国南方の様式で、雄大・豪放。つまりマッチョだ。
 次に、禅宗様〔ぜんしゅうよう〕(唐様〔からよう〕)。「心を無にするのじゃ」的な、素朴で整然とした建築だ。
 そして、和様〔わよう〕。これは、平安以来の優美でジャパネスクな建築だね。 で、最後が、折衷様〔せっちゅうよう〕といって、和様〔わよう〕に大仏様〔だいぶつよう〕・禅宗様〔ぜんしゅうよう〕をとり入れたゴチャマゼの建築だ。

 じゃ、順番に行こう。

 東大寺南大門〔とうだいじなんだいもん〕は、大仏様〔だいぶつよう〕。
 東大寺が、平重衡〔たいらのしげひら〕に焼き討ちされちゃったから、再建されたものだ。 まさに雄大・豪壮、ぶっとーい木がガシッガシッと組み合わされて、そして、堂々としたカタチ。「どーだ、おれさまが、東大寺の南大門じゃ」というどぶとい声が聞こえてきそうだ。
 浄土寺浄土堂〔じょうどじじょうどどう〕(兵庫県)も大仏様〔だいぶつよう〕だ。

 円覚寺舎利殿〔えんがくじしゃりでん〕(鎌倉)は、禅宗様〔ぜんしゅうよう〕だ。東大寺南大門とはうってかわって、素朴で簡素。こういう感じが、後の「わびさび」系の日本アートにつながっていくわけだ。
 正福寺千体地蔵堂〔しょうふくじせんたいじぞうどう〕(東京都)も禅宗様〔ぜんしゅうよう〕だ。

 石山寺多宝塔〔いしやまでらたほうとう〕(滋賀県)は、和様〔わよう〕だ。やわらかーく曲線的。ちょっとかわいい感じすらする。優しい平安文化の美意識をうけついでるね。
 蓮華王院本堂〔れんげおういんほんどう〕(三十三間堂〔さんじゅうさんげんどう〕)(京都府)も和様〔わよう〕だ。屋根の曲線美が優美だけど、うーん、とにかく長いぞ。長いのもワケがあって、このなかには、1001体の千手観音さんがずらーーーーと並んではる。
 秋篠寺本堂〔あきしのでらほんどう〕(奈良県)も和様〔わよう〕。

 観心寺金堂〔かんしんじこんどう〕(大阪府)は、折衷様〔せっちゅうよう〕。今やった3つの様式が混じり合ってる。言われてみれば、優美なよーな、素朴なよーな、豪壮なよーな、……ビミョーだ。

B 鎌倉文化の彫刻はマッチョでリアル
 やっぱり鎌倉時代の彫刻だから、基本的にマッチョだ。筋肉隆々。めっちゃ筋トレしてそう。力強いね。
 それから、もうひとつの特徴がリアルなこと。何しろ武士だから、飾ったりしない。「とにかく見えてるとおりに作れ!」と、そのリアルさも迫力満点だ。写実的ってことだね。
 奈良復興のため、奈良仏師〔ならぶっし〕(慶派仏師〔けいはぶっし〕)の運慶〔うんけい〕・湛慶〔たんけい〕父子や快慶〔かいけい〕らがガンガン迫力満点の彫刻を彫った。

 東大寺南大門金剛力士像〔とうだいじなんだいもんこんごうりきしぞう〕は、運慶〔うんけい〕・快慶〔かいけい〕・湛慶〔たんけい〕・定覚〔じょうがく〕らの共作。さっきの東大寺南大門の両側にドーンと構えてはる。
 そう、金剛力士は、「天」。仏さまのガードマンだ。
 うん、このマッチョさ、この迫力、力強さ満点だ。東大寺を守ろうと思えば、これくらい恐くなくっちゃ。体もマッチョだけど、顔もマッチョだから恐い。これなら、恐くて、仏敵も入ってこられまい。
 左の金剛力士が、阿形〔あぎょう〕といって開いた口。宇宙の始まりを意味している。右が口を閉じた吽形〔うんぎょう〕。宇宙の完成を意味している。

 興福寺天灯鬼像・竜灯鬼像〔こうふくじてんとうきぞう・りゅうとうきぞう〕は、運慶〔うんけい〕の子・康弁〔こうべん〕の作。
 いつもは四天王に踏みつけられて痛がり役の邪鬼が、ここでは灯籠をかついだり頭の上に載せている。今日は主役で、はりきっている。一人前にマッチョだけど、手足が短くて、なんかかわいいね。

 興福寺無著像・世親像〔こうふくじむちゃくぞう・せしんぞう〕は、運慶〔うんけい〕作。
 こちらは、マッチョじゃないけど、かなりリアル、つまり写実的だ。ありきたりの言い方だけど、「本物みたい」だ。マッチョとは別の意味で、すごい迫力だと思う。
  無著〔むちゃく〕・世親〔せしん〕は、インドの昔の偉いお坊さんだ。

 六波羅蜜寺空也上人像〔ろくはらみつじくうやしょうにんぞう〕は、運慶〔うんけい〕の子・康勝〔こうしょう〕作。
 平安末期に、庶民に念仏を広めた空也〔くうや・こうや〕だね。これも、リアル(写実的)系。
 小学生のときは、口から出てるのを、枝に小鳥がとまってると誰もが思ったものだ。もちろん、違う。「南無阿弥陀仏」の念仏が、姿を変えて小さな仏になっているんだね。

 重源上人像〔ちょうげんしょうにんぞう〕は、超リアル(写実的)系だ。
 「何もここまで超リアルにしなくっても」と思うくらい、顔がシワシワ。重源上人〔ちょうげんしょうにん〕は、東大寺再建に尽くした僧で、本当にこれくらいシアシワになってもしかたないだろう。

 他に、東大寺僧形八幡神像〔とうだいじそうぎょうはちまんしんぞう〕は、快慶〔かいけい〕作。僧のかっこうをした神だから、神仏習合だね。

 蓮華王院千手観音像〔れんげおういんせんじゅかんのんぞう〕は、湛慶〔たんけい〕作。蓮華王院本堂〔れんげおういんほんどう〕(三十三間堂〔さんじゅうさんげんどう〕)の1001体の千手観音さまがぎっしりと並んではる真ん中に、どーんと鎮座してはる。

 上杉重房像〔うえすぎしげふさぞう〕は、リアル(写実的)系。

 高徳院阿弥陀像〔こうとくいんあみだぞう〕は、いわゆる鎌倉大仏だ。はじめは奈良の大仏のように仏殿があったんだけど、津波で流れちゃって、今はアウトドア大仏になってはる。

 それから、東大寺大仏の首の修復を陳和卿〔ちんわけい・なけい〕という宋の工人を行ったんだ。



C 鎌倉文化の絵画は似絵と絵巻物
 鎌倉時代には、似絵〔にせえ〕と絵巻物〔えまきもの〕がたくさん描かれたんだ。
 似絵〔にせえ〕は、文字どおり、その人に似せて描いた肖像画。頂相〔ちんぞう〕っていって、禅宗の僧がお師匠さんの精神をより身近に感じるために描かれた高僧の肖像画もある。
 絵巻物〔えまきもの〕は、院政期から描かれはじめた、アニメの元祖だね。

 まずは、藤原隆信〔ふじわらのたかのぶ〕作の源頼朝像〔みなもとのよりともぞう〕と平重盛像〔たいらのしげもりぞう〕。
 源頼朝像〔みなもとのよりともぞう〕は、なかなかの男前だ。鎌倉幕府を樹立してはじめての本格的武家政権を作った男の自信、自分は鎌倉に腰を据え弟の義経や後白河上皇をうまくコントロールして政権を取っちゃったクールさが、よーく描けてる。前にも書いたけど、西洋では、性格描写なんてない宗教画の時代だ。なかなかやるな、日本美術。
 黒い着物の色もシブい。この黒い着物が、絵全体から見ても、カチッカチッカチッとしたカタチで、そういうデザイン感覚もかなりシブい。

 専阿弥〔せんあみ〕作の親鸞上人像〔しんらんしょうにんぞう〕は、「鏡の御影〔みえい〕」と呼ばれたくらい、よく似てるらしい。ぜんぜん男前じゃないのに、本人も「よく似てるわ」と絶賛だったらしいから、ほんとによく似てるんだろう。

 明恵上人樹上坐禅図〔みょうえしょうにんじゅじょうざぜんず〕は、成仁〔じょうにん〕作。明恵上人〔みょうえしょうにん〕は、鎌倉新仏教に押される中、奈良仏教の華厳宗〔けごんしゅう〕の改革を進めた僧だね。文字どおり、木の上で坐禅を組んでる絵だ。落ちそうで恐い。

 法然上人絵伝〔ほうねんしょうにんえでん〕は、土佐吉光〔とさよしみつ〕作。

 円伊〔えんい〕作の一遍上人絵伝〔いっぺんしょうにんえでん〕は、踊念仏〔おどりねんぶつ〕の様子や三斎市〔さんさいいち〕の様子が生き生きと描かれている。

 さて、そして、鎌倉時代は、絵巻物〔えまきもの〕の全盛期。たくさんの絵巻物が描かれた。

 北野天神縁起絵巻〔きたのてんじんえんぎえまき〕は、藤原信実〔ふじわらののぶざね〕作。ここでの「縁起」というのは、「できた由来」ってことだね。北野天神ができた由来、つまり、菅原道真〔すがわらのみちざね〕が藤原時平〔ふじわらのときひら〕の陰謀で太宰府に左遷され、怒りから雷になり、そのお怒りを静めるために北野天神をつくった、といういきさつが描かれている。雷も稲妻もアニメしてるね。

 他には、大工さんの様子が描かれている高階隆兼〔たかしなたかかね〕作の春日権現験記〔かすがごんげんけんき〕、高階隆兼〔たかしなたかかね〕作の石山寺縁起絵巻〔いしやまでらえんぎえまき〕、千手観音像の霊験を描く粉河寺縁起絵巻〔こかわでらえんぎえまき〕、後三年の役を描く後三年合戦絵巻〔ごさんねんかっせんえまき〕、平治の乱を描く平治物語絵巻〔へいじものがたりえまき〕、肥後の御家人・竹崎季長〔たけざきすえなが〕が自ら元寇での武功を描かせた蒙古襲来絵巻〔もうこしゅうらいえまき〕、関東武士の生活が描かれた男衾三郎絵巻〔おぶすまさぶろうえまき〕などがあるよ。

 それから、グロテスク系のものがいくつかある。地獄を絵にした地獄草紙〔じごくぞうし〕では、業火に焼かれてもがき苦しむ人間たちなどが描かれてる。前世の悪行により救われない餓鬼の苦しみを描く餓鬼草紙〔がきぞうし〕。各種の奇病を描写した病草紙〔やまいのそうし〕では、「尻の穴がたくさんある男」とか……。



【似絵】にせえ 

平安末期から鎌倉時代にかけて描かれた、大和絵系の肖像画の総称。面貌が重視され細い線を重ねて目鼻立ちを表し、前代に比べ、より写実的になっている。藤原隆信の家系により、天皇・公家・武家・歌人などが描かれた。

【鎌倉時代】かまくら-じだい

通常、源頼朝が平氏を滅ぼして全国の軍事警察権を掌握した1185年から、北条高時が滅びる1333年までの約150年間をいう。始期については、頼朝挙兵の1180年、東国行政権の認められた1183年、征夷大将軍になった1192年など諸説がある。


画像---藤原隆信〔ふじわらのたかのぶ〕作の源頼朝像〔みなもとのよりともぞう〕

この肖像画は藤原隆信(1142〜1205)作とつたえられるやまと絵肖像画の傑作である。似絵とよばれるもので、端正な顔だちは写生的な描き方によって源頼朝の面影をよくつたえているものと考えられてきた。

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1帖
紙本着色
縦25.5 上弦26.2
平安時代

扇型の紙面に装飾を施し,その上に法華経を書写して中央で綴じた冊子本。大阪・四天王寺に伝来した10帖のうちの1帖。料紙は墨流しや金銀の各種の箔片をまいた装飾により善美が尽されている。絵は貴族や庶民の風俗など世俗的な題材が描かれる。平安時代の貴族趣味を反映して盛行した装飾経の代表作。

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