日本絵画

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「伴大納言(ばんだいなごん)絵巻」は、「応天門の変」の顛末(てんまつ)を描いた全3巻からなる絵巻物。「源氏物語絵巻」「信貴山(しぎさん)縁起絵巻」「鳥獣人物戯画」とともに四大絵巻と称される。写真の図は、応天門炎上を知って火事場にむかおうとする人々が朱雀(すざく)門にさしかかる場面。階段をかけのぼる者、壇を脇からよじのぼろうとする者、手をつないで門をはしりすぎる親子など、人物の動きや表情が的確な線でいきいきとえがかれている。

上巻では、炎上する応天門の場面が圧巻である。真っ赤な火焔と、黒色の煤のコントラストが見事である。朱雀門から不安そうに眺めている群衆の表情もリアルである。
 さて、さらに10分ほどして、お目当ての中巻が見えてきた。源氏の頭領である源信が犯人として捕らえられるが、証拠不十分ということで赦免の使者が源家を訪れる。それを迎えて女官達が喜びに沸き返る。
 その後、舎人の子供と伴大納言に仕える子供どうしの喧嘩から、伴大納言が火付けの真犯人だと判明してしまう。異時同画法という、極めて珍しい画法が用いられているということです。


26メートルにおよぶ国宝「伴大納言絵巻」。400人もの登場人物を描き分ける絵師の工夫。

鳥獣戯画-読経大会

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【鳥獣戯画】ちょうじゅうぎが

絵巻。四巻。京都高山寺蔵。蛙・兎・猿を描く甲巻、鳥獣や空想の生物を描く乙巻は平安末期の作、両巻ともに描写力にすぐれるがことに甲巻は秀逸。風俗や動物の戯態を描く丙巻・丁巻は鎌倉期の作。筆致は丙巻は緻密、丁巻は粗い。各巻筆を異にする詞書のない戯画。全巻生き生きとした白描に徹した優品。筆者を鳥羽僧正覚猷(かくゆう)とする説に確証はない。鳥獣人物戯画。

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平安後期の国宝絵巻物3巻。奈良県生駒郡平群町信貴山朝護孫寺(ちょうごそんじ)蔵。筆者・成立年次不詳。同時代の『源氏物語絵巻』,『鳥獣戯画』,『伴大納言絵詞』とともに絵巻物の代表作品である。上・中・下巻の内容は,朝護孫寺中興の祖といわれる命蓮の托鉢が長者の屋敷から米俵の入った倉を空を飛ばして運び,長者の乞いに応じて再び米俵が空中を連なってもとに戻される上巻〈飛倉の巻〉,醍醐天皇の病気平癒の祈祷修法を行なった命蓮が,使者として剣の護法の童子を信貴山から都まで飛ばす中巻〈延喜加持の巻〉,命蓮の姉の尼公が信濃からはるばる訪ねてくる道中を描く下巻〈尼公の巻〉からなる。絵巻物には社寺縁起や高僧伝の類が多いが,『信貴山縁起絵巻』はそれらの最も古い例である。絵画技法も上巻の空中を飛ぶ米俵や,中巻の雲に乗る童子の動的展開,下巻の大仏殿前の公尼を描く異時同図法,そのほか個々の人物の表情など作品的評価が高い。

絵巻物の発達と台頭する武士・庶民の感情
毎日の労働で、専門的な学問も受けていないし、知識もありません。あるのは人間としての自然の情だけです。財もあり、政治的にも進出した武士や庶民は、自分たちが読んで理解し、楽しめる作品を求めたのです。
そう考えれば、一連の絵巻物がエネルギッシュなタッチで描かれていることを理解できます。
表情豊かに描かれた貴族や庶民と、その風俗や信仰。平安の暮らしがよみがえります。平安人が驚嘆したこの絵巻を、現代人でも同じように追体験できるように解説。「信貴山縁起絵巻」はいつ、誰が描いたのか?天才的な絵描きの正体を推理する。

平安時代、延喜(えんぎ)年間に信貴山で毘沙門天(びしゃもんてん)を祀り、不思議な法力で寺を中興した命蓮(みょうれん)上人(しょうにん)の事績を物語風に描いた絵巻物。
 「飛倉(とびくら)ノ巻」(山崎長者の巻)「延喜加持(えんぎかじ)ノ巻」「尼公(あまぎみ)ノ巻」の三巻からなり、日本の絵巻物における最高傑作で、日本上代の世俗画の到達点といわれる。自然風景の描写だけでなく、すべてに写実的に描かれ、建築史・風俗史の研究資料としての価値も高く評価されている。「延喜加持ノ巻」と「尼公ノ巻」には、絵巻の途中に二段の詞書(ことばがき)があり、描かれた内容を理解することが出来る。
 「飛倉ノ巻」は、この詞書を欠くが、『宇治拾遺物語』に同じ内容の記載があり、詞書の内容を確認することが出来る。鳥羽僧正覚猷(かくゆう)の執筆ともいわれるが作者は未詳で、平安後期(12世紀後半)に描かれたと考えられている。


一、 「飛倉ノ巻」 縦31.5cm、長さ827cm
信濃の国より奈良に来て東大寺で授戒した法師(命蓮)が、帰郷を思いとどまり大仏の前であちこち見ていると坤(未申(ひつじさる):南西)の方向にかすかに信貴山が見えた。そこで修行 する内に小さな厨子に入った毘沙門天を得、ささやかなお堂を建てて一心に修行を行った。
 山の麓に長者が居り、その元に命蓮上人が托鉢(たくはつ)のために飛ばした鉢が飛来するが、長者は度重なる托鉢を嫌って瓦葺きの米倉に鉢を閉じこめてしまう。
 絵巻はこの場面から始まっており、倉から鉢が飛び出し、蔵を乗せて信貴山へ飛んで帰ってしまう。長者は馬に乗り、あわてて従者とともに後を追い、信貴山に登って命蓮に倉を返すように懇願する。命蓮は倉は返さないが、蔵の中にある米俵は返すと約束し、長者の従者に俵を一つ鉢に乗せるように指示する。すると、俵を乗せた鉢が米俵を従えて飛行し、長者宅に帰り着き、下女達が驚き喜ぶ様子で締めくくられる。
米俵を返すから、鉢に俵を乗せるように
 指示する明蓮上人。
鉢を先頭に、飛んで帰ってきた米俵に
 驚く長者宅の女たち。
瓦葺き、校倉造りの立派な倉や当時の長者クラス(油商人)の生活実体が丁寧に描き込まれており、宗教説話を越えた価値がある。


二、 「延喜加持ノ巻」  縦31.25cm、長さ1270.3cm。
時の帝、醍醐(だいご)天皇が病となり、高僧の祈祷(きとう)を受けるが、改善せず、信貴山で法力を駆使する命蓮に白羽の矢が当たる。絵巻は、信貴山に向かう勅使一行の姿で始まり、入れ違いに宮中に入る高僧と、これを噂の種にする庶民の姿がある。勅使は京都より遙々(はるばる)信貴山に赴き、命蓮に帝の病気平癒を依頼する。命蓮は、自分は京都に行かないが、ここで祈祷すると答え、勅使は合点がいかないながらも京都に戻って報告する。
 そして、三日ばかりして信山より都へ剣鎧護法(けんがいごほう)が飛行する。たくさんの剣を鎧にした童子が、輪宝を廻しつつ天を懸け、宮中で帝の枕元に立つと、帝の病気は全快する。
← 信貴山に向かう勅使一行
信貴山より京都へ向かう
 剣鎧護法(けんがいごほう)童子
信貴山にお礼に訪れた
 勅使に会う明蓮上人
帝はたいそう喜ばれ、僧正の位や荘園を授けようとお礼の勅使を使わすが、命蓮はこれを受けず、その欲のなさが強調されている。
 ここでも、命蓮の法力の強さと共に、宮中の様子が克明に記され、資料的な価値も高い。


三、 「尼公ノ巻」  縦31.5cm、長さ1416cm。

20年も前に、大和国へ得度するために旅立った弟の消息を訪ねようと、従者を連れて姉の尼公が信濃の国を後にする。道中、街道沿いの民家で命蓮の消息を聞く尼公の姿があり、応対する人々の暖かい様子が描かれている。そして鹿の群が描かれ、奈良に入った様子が暗示される。東大寺大仏の前でぬかずく尼公の姿があり、命蓮の消息をたずねて祈るうちに、仏前でまどろみ、夢枕で大仏に西の方、紫雲たなびく山に命蓮の存在を暗示され、西を目指して出立する。ここでは、大仏の前で複数の尼公が描かれ、「異時同図法」により時間の変化を表現している。
 尼公は信貴山に至り、無事命蓮に会うことが出来、土産のあたたかな「たい(祇=僧衣)」を渡し、再開を喜び合う。尼公は信濃に帰らず、命蓮と共に信貴山で信仰生活を送ったのである。命蓮はこの「たい(祇=僧衣)」をずっと着続けたためすっかり破れてしまう。人々はこの切れ端をお守りとし、あの飛倉も朽ちやぶれてしまうが、その材の破片も持ち帰ってお守りにしたのである。巻末には荒れ果てた倉の屋根が描かれ、命蓮の遷化を暗示している。
 ここに描かれた東大寺大仏殿は、治承4年(1180)に平重衡(しげひら)の南都焼き討ちの際に焼け落ちる以前の建立当初の姿を描いた唯一の資料であり、道中の商家、農家、職人の家と庶民の風俗など、当時の庶民の生活が伺え、民俗的資料としての価値も高い。



絵巻の写真:

1、「飛倉ノ巻」(部分)倉を乗せた鉢が飛び上がる

2、米俵を返すから、鉢に俵を乗せるように指示する明蓮上人。
3、鉢を先頭に、飛んで帰ってきた米俵に驚く長者宅の女たち

4、信貴山に向かう勅使一行

5、信貴山より京都へ向かう剣鎧護法(けんがいごほう)童子

6、信貴山にお礼に訪れた勅使に会う明蓮上人

7、弟の消息を訪ねて信濃の国を出る尼君一行

8、東大寺大仏に念じる尼君

9、信貴山で命連に巡り会う尼君

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日本美術を代表する最も有名な絵巻のひとつ国宝「源氏物語絵巻」。当初は全54帖の絵画化が試みのではないかと考えられています。流麗な書や花やかな装飾料紙、典雅な絵の全てが一体となり900年ののち今も美しい王朝世界。


1.源氏物語絵巻-柏木二(かしわぎ)
女三の宮と通じ、自責の念にかられる柏木は、重い病気にかかる。昇進の祝いをかね、見舞いに訪れた友人夕霧に後事を託し、別れを告げる。


2、源氏物語絵巻-柏木三(かしわぎ)
女三の宮の出産した子・薫の誕生五十日、我が子ならぬわが子を抱き、心の葛藤に苦しむ源氏。


3、源氏物語絵巻-横笛-詞書(よこぶえ-ことばがき)
詞書は、11世紀以来の伝統を引き継ぐ美しい連綿体や、自由奔放で肥痩にとみ、側筆の重厚で力強い法性寺流の書風など、当時の新旧の書の様式が混在。料紙には美麗な装飾が凝らされ、絵・書と一体となって王朝人たちの美意識を伝えてくる。


4、源氏物語絵巻-鈴虫二(すずむし)
月見の宴に招かれた光源氏が、弟の冷泉院(実は源氏と継母藤壺との不義の子)と対座し語り合う。右上の群青の空と銀の満月が夜を象徴する。天井を取り去り室内を表現する「吹抜屋台」の技法で描く。


5、源氏物語絵巻-竹河二たけかわ
春三月の玉鬘の邸、壺前栽に咲く桜を賭けて、大君・中君の姉妹が碁の勝負を争う。その傍らの簀子には侍女たちも居並んで囃し立て、数々の歌を詠み交わす。蔵人少将、物陰からこれをうかがう。


6、源氏物語絵巻-橋姫はしひめ
有明の月のもと、宇治の八宮の山荘を訪れた薫は、琴と琵琶を合奏する美しい姉妹、大君と中君の姿を垣間見る。


7、源氏物語絵巻-宿木三やどりぎ
秋の夕暮れ、久しぶりに身重の中君のもとを訪れた匂宮は、中君の心を紛らわせようと、端近に座し琵琶を弾く。「秋果つる野辺の気色を篠薄ほのめく風につけてこそみれ」と、中君は離れゆく二人の心を歌に詠む。


8、源氏物語絵巻-東屋一あずまや
御所から帰宅した匂宮は、浮舟を中君の異母妹とは知らず強引に言い寄る。あやうく急場をまぬがれた浮舟の傷心を慰めようと、中君は優しく語りかけ、絵物語などを出させて、右近に詞書を読ませつつ見せる。絵に見入る浮舟の容貌は、亡き姉大君、ひいては故父八宮を彷彿とさせ、中君は涙ぐむ。

源氏物語絵巻

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国宝「源氏物語絵巻」は11世紀初頭に紫式部によって書かれた、王朝の長編恋愛小説『源氏物語』を絵画化した作品です。成立は、原作が著されてから百数十年後の12世紀前半です。この絵巻は原作の54帖から1帖につき1〜3場面を取り上げていたとみなされていますが、現在は10帖15場面が徳川美術館(名古屋市)に、3帖4場面が五島美術館(東京都)に所蔵され、他の断簡枚数を含めても、20帖分しか確認されていません。絵は、墨書きの下図に、微妙な修正を加えながら彩色を施す、「作り絵」という手法で描かれています。最大の特徴は「引目鈎鼻(ひきめかきはな)」という面貌表現と、屋内の様子を斜め上の視点から覗き込んだ「吹抜屋台(ふきぬきやたい)」という描法です。
 『源氏物語』の絵画化は各時代を通じて行なわれてきましたが、この国宝「源氏物語絵巻」は、とぎすまされた感性による絵画と書の美しさにより、原作の雰囲気を最もよく伝えられている作品です。

こうした複雑な成立史はさておき、「源氏物語絵巻」は、「源氏物語」の各段から印象的な場面を抜きだし、詞書と絵を交互に交えながら展開していく。「源氏物語絵巻」にみられる時空表現を、高橋亨氏は「源氏物語」そのものがもつ作品構造を視覚表現に移したものとし、その観点から次のような分析を行っている。
源氏物語がすぐれた手法として完成させた語りの心的遠近法は、敬語や呼称、こ・そ・あ・どの指示語体系や時制法において、現代日本語にも強く残されている場面性に基づいている。それはまた、ルネサンス期以降の西洋で一般化した線遠近法とは異なる、対象の内部に同化したり異化したりしながら移動する遠近法であり、時間を含んだ空間として物語絵の手法とも共通するのであった。

現存する最古の絵巻物のひとつであり、また大和絵の典型ともされる「源氏物語絵巻」だが、その成立史には、いまだ不明の部分が多い。


<引目鉤鼻>

 細い線を引き瞳だけをわずかにいれた目、鉤のように「くの字」型に曲がった鼻、一見人物の類型化の典型のようにみえ写実主義者の理解を拒絶する「源氏物語絵巻」の登場人物の容貌表現すなわち「引目鉤鼻」を、しかるべき技法の欠如、あるいは観察眼の欠如に帰すべきではない。高橋亨氏によれば、絵巻物の登場人物の表情をどのように描くかにはきちんとした文法がある。つまり、
抽象化されていることが高貴さの象徴なのであり、個性豊かな表情は卑俗さの度合いに比例する。物語の文脈によって限定された場面の、登場人物たちの位置の関係、衣装の色や形によって示される身分などにより、個の差異が示されている。そして、引目鉤鼻の顔にしても、手紙を読む夕霧の背後から嫉妬に燃えて忍びより、奪おうとして手を伸ばす雲井の雁を描いた夕霧の巻の絵のように、注意ぶかく目を凝らせば、極く細い線を引き重ねてつり上がり気味の目の表情を確かに読みとることができる(高橋亨氏「中心と周縁の文法」前掲書所収)
という。
 ここでの絵巻物の文法は、「源氏物語」そのものの文章としての文法とも一致する。「源氏物語」(そして一般に王朝物語)は、高貴な人物を朧化してしか表現しないのである。それゆえ
顔の表現は、化粧法とも関わり、現実の反映であるとともに、それ以上に階級的な文化記号であり、喩であった(高橋亨氏「中心と周縁の文法」前掲書所収)
といいうるのである。
 こうして登場した引目鉤鼻の技法は、高貴な人物を描くときの基本として、しだいに写実性を強める後白河院政期以降の絵巻物にも引き継がれていった。
 また引目鉤鼻の一種の象徴的な容貌描写は、単に写実的描法と対照をなしているというだけでなく、さまざまな表情を同時に表現する十一面観音などの複相的な表現方法をひとつの表情のなかに収めとろうとしたものでもないかということを、ここであらためて指摘しておきたい。


<吹抜屋台>

 絵巻物に描かれた室内の場面をみるとき人物の容貌表現の次に目につくのは、視覚をさえぎる天井や壁などを可能な限り省略して、ドラマの核心のみをストレートに伝えようとしていることだろう。これがいわゆる「吹抜屋台」という手法だが、人物の集合した場面を高い視点から俯瞰し、人や物の複雑な配置を横長の紙面のなかで描写するとき、この手法が威力を発揮する。
絵巻における俯瞰描写の最たるものは、「吹抜屋台」の画法である。俯瞰描写も野外の情景を写すには不都合はないけれども、屋内の情景は屋根に妨げられて写すことはできない。そこで屋根や天井を取り払い、柱と長押を残し、斜め上方から屋内を覗き見ることのできる「吹抜屋台」の画法が考案された.
奥平氏によれば、この吹抜屋台の発想の原点にあるのは、佐野みどり氏が指摘する雛遊びの人形の家や、建築史家・伊藤延男氏のいう古代建築の設計のための.
 小論は吹抜屋台の起源についての議論には立ち入らない。ただ確認しておきたいのは、吹抜屋台の手法が、次のように、絵巻の内容とも深くかかわっているとされることだ。
鈴虫(二)には直接空間を分離遮蔽する垂直面は存在しないのだが、長押、柱、縁を見れば、左から右へと視線が回り込み、長押と柱とが作る面に対して側面高い位置から低い正面寄りに変化しているのが理解できる。そして、そのことによって、長押と柱の左向こうにいる人物、即ち冷泉院及び源氏の空間と、縁に座る公達たちの空間とが一体的でありながら分断され、分断されながらも一体化されている。左寄りの高い視点から見るときには、長押と柱の向こう側の内密な空間に近づき、右寄りの視点に立つときは、その内密の空間を知りながら黙して月に笛を吹く公達の側に身を置く。長押と柱が人物を横切っていることも、分断的=一体的な両義的空間という見方からすれば、巧みな表現方法だと言える。吹抜屋台とは、単なる便宜上の産物ではなく、このような両義的空間(それは、微視的=巨視的ということでもある)のための必然的方法だったのだろう.
 また特殊な作図を必要とせず簡便な吹抜屋台の技法が、絵巻物をはじめとする絵画の領域全般へ浸透したことが、日本の絵画において「写実的」な奥行表現が発達する必要を封じたということも見逃せない事実だろう。


<逆遠近法>

 鑑賞者との距離に比例して近いものが大きく、遠いものが小さく描かれる西洋近代の遠近法(perspective=透視図法)に対し、「源氏物語絵巻」をはじめとする絵巻物や院政期の仏画では、鑑賞者に遠いものほど末広がりに大きく描かれることがあり、この技法は西洋絵画の「逆遠近法(reversed perspective)」に相当するとされる。
 しかしわれわれの空間知覚をそのまま再現したかのようにみえる通常の遠近法による作図自体、単なる表現のための技術ではない。遠近法は画家の空間知覚と密接なかかわりをもっているのであり、西洋においても、一方向的に高度化・精密化しているのではなく、ギリシア・ローマの古典期に産み出され、中世の閑却を経て、ルネサンス期に再発見される運命にあった。すなわち、この間に西洋絵画に起こった変化とは、技法上の衰微や進歩ではなく、空間知覚の変化であったのである。
 したがって、引目鉤鼻、吹抜屋台のような直接的手法に比較すれば目立たないが、西洋絵画における遠近法同様、絵巻物の逆遠近法も、より本質的で深いレベルで院政期の絵画と結びついているといえそうだ。
 それがどのような問題を提起することになるか、「源氏物語絵巻」を素材に逆遠近法が何を意味するのか、あるいは院政期の絵画において空間表現と空間知覚がいかに密接に結びついているかを考える前に、多少回り道になるが、まず応徳三年(1086年)に描かれた「仏涅槃図」(金剛峯寺蔵)をみることから逆遠近法への接近をはじめよう。
 この「仏涅槃図」は平安仏画の最高峰のひとつとされるものだが、入滅した釈迦が横たわる牀台(ベッド)の描写に逆遠近法による末広がりの構図が採用されているのである。

 さて「仏涅槃図」全体の構図をみると、最大のモチーフである釈迦は高い位置から俯瞰されており、このため、仰向けの姿勢であるにもかかわらず、鑑賞者はそのほぼ全身をみることができる。これに対し、釈迦が横たわる牀台は側面に近いかなり低い位置から描かれており、体の側面が描かれていない釈迦と牀台のあいだで、明らかな視点の分裂がみられる。
 両者の遠近法的な処理の違いも、その延長線上でとらえなくてはならないだろう。つまり、釈迦の身体は正遠近法的に奥行きが縮小し、牀台は逆遠近法的に奥行きが拡大している。そしてこのため、この涅槃図では釈迦の足もとに末広がりの台形の空間ができてしまう。近代絵画を見慣れた眼からすれば、これは明らかに矛盾としかいいようがない表現なのだが、小論はこれを、釈迦(仏=永遠の法)と牀台(物)の存在のあり方の違いを示し、ひとつの光景のなかで牀台を異化していくための積極的な表現技法とみたい。
 そしてこうした観点からこの絵をもう一度よく眺めると、釈迦を取り巻く菩薩・弟子・獣(生物)も、釈迦をみる視点よりやや低い視点から描写されて第三のグループを形成していることに気づく(菩薩・仏弟子たちは大きさも釈迦と不均衡である)。また図の右上に構図上も他の存在と描きわけられている空中の摩耶夫人(仏母)は、もとより、下から見上げる視点で描かれており、他のものを描く視点とは全く交錯しない。この涅槃図を描いた絵師には、西洋近代絵画の画家たちのような、自己の立つ位置を明らかにし、その位置を基準にして空間を統一的に再現するという意図はかけらもないのである。
 ひとつの光景を描くとき、そこに存在する対象の客観的リアリティー(空間上の位置関係)を優先させるのではなく、個々の対象がもつ「意義のリアリティー」が優先されるとき、いわゆる「写実的」な表現は忌避され、視点の統一や「正遠近法」が必要とされることはない。この「仏涅槃図」をその根拠としてもちだすことはけして不当ではないだろう。
 
 では次に、この涅槃図の約半世紀後に描かれたとみられる「源氏物語絵巻」に再度眼を転じ、この絵巻独自の空間感覚とはどのようなものかを、「源氏物語絵巻」がいかに強く逆遠近法と結びついているかという視点からみていくことにしよう。以下にまず「源氏物語絵巻」のなかから、画面の奥にむかって広がる構図が採用されている場面をアトランダムにあげてみることにする。
源氏物語は、千年前に紫式部の書いた、世界に誇る日本の文化遺産です。世界で一番早く生れた大長編恋愛小説が、類を見ないほどの傑作だったため、世界各国語に訳され、むしろ、日本人より世界の人々が感嘆して、読みつがれてきました。
 それを読んだ日本の画家たちは、そのすぐれた文学性に刺激され、創作意欲をかきたてられて、それぞれ、その名場面を描かずにはいられませんでした。中でも、徳川美術館と五島美術館に保存されている「国宝源氏物語絵巻」は、傑作中の傑作の名の高いものであります。
 私たちはそれによって、光源氏と多くの女君たちの恋の数々の名場面を、まるで映画やテレビの場面のように観ることが出来、いっそう、源氏物語への理解と興味をかきたてられます。
 その絵の人物は、男も女も王朝の雅やかで優美な衣装につつまれ、四季の美しい風景の中で、あるいは寝殿造りという当時の貴族の豪華な邸の中に配されています。
 まるで極楽浄土のような源氏のハーレム六條院の内部を覗き見ることが出来るし、そこに繰りひろげられた絢爛豪華な様々な宴会やまるで遊びの会にも自分が参列しているような臨場感を覚えます。
 しかし、人物の顔は、男も女も引目鈎鼻といわれる様式に定まっていて、顔の輪郭は男も女も同じ下ぶくれの丸顔です。それなのに、不思議に私たちは、登場人物の個性を、はっきり読みとること出来るのです。この傑作が、今度、この上ない技術によって、印刷され、復刻されると聞き、何よりの新世紀の


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