中国絵画

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呉昌石-墨荷図

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1、吴昌碩 行書李白詩句軸 64.5×32.5cm 紙本 1927年(84歳) 戒斎藏
釈文:云想衣裳花想容。録青蓮句。丁卯十月。吴 昌碩年八十四。
钤印:倉碩(白)


2、荷花図 鏡心

吴昌碩 荷花図 鏡心 32.5×33cm 紙本着色 1904年(61歳) 味春草堂藏
款説:渋江采芙蓉。甲辰嘉平。吴俊卿。
钤印:倉碩(朱) 聋(朱)


3、吴昌碩 墨荷図軸 107×41cm 紙本墨筆 1912年鏖69歳鏗 凝和斎藏
款識:鏘荷花荷叶墨汁涂鏨雨大不知香有无・頻年弄笔作狡狯鏨売棹日日眠菰芦・青藤雪个呼不起鏨誰真好手誰野狐・画成且自挂粉壁鏨溪堂晩色同模・壬子冬録旧句・吴昌碩
钤印鏘缶翁鏖白鏗 倉碩鏖白鏗 破荷鏖白

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呉昌碩花卉画作品選

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1、紅梅図

2、石梅図

3、梅竹図

4、松竹図

5、墨竹図

6、茘枝(ライチ)

7、洛神清平図

8、牡丹

9、桃




◆呉昌碩(1844ー1927)は中国近代史上、稀代の芸術家です。詩や書道、絵画、篆刻いずれも精通し、それぞれ独自の流派を作り出し、後世に大きな影響を与えました。

 呉昌碩は浙江省孝豊県に生まれました。祖父と父の二人が清の時代の挙人(科挙の合格者)でした。
 10ー16歳までは安定した生活を送り、塾に通って古文を学ぶと同時に、篆刻に興味を持ち始めました。17歳の時、「太平天国運動」が起き、「太平軍」が安徽省から浙江省に迫ってきて、清王朝の軍隊と激しい戦いを展開しました。戦火から逃げるため、一家は故郷を離れ、避難生活を始めました。彼は湖北や安徽などで5年間の流浪生活を経て、21歳の時、ようやく故郷に戻りました。

29歳の時、彼は芸術の探求のため、故郷を離れ、杭州や蘇州、上海などを回りました。最初の2年は詩人・兪曲園について文字学や修辞学を学びました。その後、蘇州で著名な書道家・楊藐翁について、書道の研究に励みました。同時に、彼は任伯年、張子祥ら芸術界の名高い人たちや収蔵家の呉平斎、?女ミらと交流を重ねることで、視野が広がり、学術教養も大いに高まり、芸術的な表現力も進歩していきました。

 呉昌碩は詩や書道、絵画、篆刻いずれにも精通する芸術家です。そのうち、絵画が最も有名で、また書道に最も造詣が深かったといわれています。また、詩は書道と絵画の上達を促し、篆刻は書道と絵画の延長線上にありました。この四者はそれぞれ独立して存在するのではなく、互いに補完しあい、密接な関係を持ちながら、芸術家・呉昌碩が完成されていくのです。

 1913年、金石を研究する組織「西冷印社」が正式に発足し、各地の金石学者が次々に、この組織に加入しました。呉昌碩はその実力と影響力で「西冷印社」の会長に選ばれました。「西冷印社」は毎年の4月5日の清明節と旧暦の9月9日の重陽節に集会を行うほか、不定期的な学術報告会や討論会、作品展示会などのイベントを行いました。さらに、文物の収集と保存、学術出版物の発行などわが国の文化芸術の発展に大きく寄与してきました。そして、その核として呉昌碩は芸術界の発展に力を尽くし、その功績は後世にも伝えられているのです。

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呉昌碩-「四季花卉図」

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◆呉昌碩1922年79歳作った《四季花卉図》

1、紅梅

2、葫芦

3、珊瑚枝

4、水仙牡丹



◆呉 昌碩/ ごしょうせき


清末・中国近代の文人画家。浙江省安吉生。名は俊卿、昌碩は字、別字に蒼石、昌石、号は大聾、缶廬(ふろ)、苦鉄、破荷など。在官十余年で上海に隠棲。文芸を学び、詩・書・篆刻に精しく、画は筆力と気格のある個性的画風に達し、清朝最末期の代表的画人となった。また書は周の石鼓文に基づき高古疏落の新様式を樹立、一世を風靡した。民国16年(昭和2・1927)歿、84才。



◆呉昌碩と杭州西湖「西冷印社」


西湖唯一の自然の島である孤山には、多くの名所旧跡がある。かつて南宋時代の理宗をはじめ、清の康煕帝、乾隆帝が島内に「行宮」を建てた。
孤山に建つ「西冷印社」は、精緻を極めた建築様式、優雅な江南様式の庭園芸術として名高い。唐の白居易をはじめ、北宋の蘇東坡、清の丁敬ら、「西冷八家」がここを訪れた。約100年の歴史を持つ現在の西冷印社は、1904年創立の学術団体で、金石篆刻、書道、書画により、「天下の第一社」と国内外に名高い存在である。浙江省最古(東漢初期)の石碑「三老諱字忌日碑」が収蔵され、敷地には華厳経塔など、塔や史跡がある。

社の歴代代表の呉昌碩、沙孟海、趙朴初は、高名な人徳者で、金石書画界の重鎮である。同社は、李叔同、黄賓虹、馬一浮、潘天寿、傅抱石、豊子榿をはじめとした、篆刻、書画、芸術、歴史、言語などに精通した多くの優秀な書画家、文化人を輩出した。西冷印社は、中国で金石、篆刻を研究する著名な学術団体として、浙江省の重点文物保護単位である。篆刻家の丁仁、呉隠らが1904年に創設し、篆刻の大家である呉昌碩が13年主任社長となった。現在、後漢『三老諱字忌日碑』と名家たちの石刻、摩崖題記などがある。『三老諱字忌日碑』は石碑の高さは1.20メートル、楷書13行、毎行35字、後漢時代の遺物である。1921年初めに浙江省余姚県で出土し、外国人が大金で購入したが、浙江省の金石書法界の人士がすぐに資金を集めて買戻し、西冷印社がこの石室を建てて大切に保管することとなった。印社内の園林、建築はいずれも自然の地形を利用して作られ、独創性に富む。柏堂、竹閣、仰賢亭、四照閣、観楽楼、華厳経塔などの古跡風景は、山林の景色と金石の雰囲気が一体となっていて、西湖園林の精華が示されている。 華厳経塔は全部で11段、空洞はなく、表面に『華厳経』が刻まれているほか、十八応真(羅漢)像や清代「揚州八怪」の一人である金農が書いた『金剛経』などがある。

創立直後、日本の篆刻家・河井仙郎と長尾甲が加入し、後に、日本でも著名な篆刻家・梅舒適、日本篆刻界の大家で、全日本篆刻家連盟会長の小林斗庵も西冷印社の名誉理事となった。韓国、カナダ、シンガポール、ホンコン、マカオ、台湾からも参加者は多い。

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呉昌碩-紫藤図

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◆1、「紫藤図」


呉昌碩1905年62歳作、金箋着色,縦163.4cm,横47.3cm。
  花卉四条屏之末条。

款:“乙巳(1905年)八月八日,安吉呉俊卿擬十三峰草堂”。

印:“吴俊之印”。

詩:

繁英垂紫玉,條系好春光。
歳歳花長好,飄飄滿畫堂。



2、「藤花図」

花垂明珠滴香露



◆呉昌碩 1844-1927


[生涯]
浙江安吉人 原名俊,後に俊卿,民国元年70歳以降字昌碩,号缶廬(ふろ)、苦鉄、聾、大聾、聾道人

1844年道光二四年8月1日(9月12日)安吉県彰呉村(浙江省孝豊県)の挙人の家に生

17歳太平天国の乱のため、湖北・安徽を流浪

1864年21歳春帰郷するが、母と許婚の章氏は病死

1865年22歳父が安吉県城内桃花渡畔に移る
 呉昌碩は秀才に合格、自身の刻印室「篆雲楼」《樸巣印存》

1868年25歳父48歳で卒

1873年30歳画を潘芝畦に学び始める
 兪樾の杭州詁経精舎で後期乾嘉学派の漢学を学ぶ


蘇州時代:

1882年39歳蘇州葑門帝賜蓮橋西畝巷内に移る 隣家の楊峴との交流
 収蔵家の蘇州呉平斎、常熟沈石友など杭州・蘇州の名士を識る

1883年40歳高邕の紹介で任頤を知り、画を学ぶ

1894年51歳日清戦争、呉大徴が督師、呉昌碩も山海関へ同行


円熟期:

1899年56歳安東県令(江蘇省漣水県)になるが一ヶ月で辞職

1900年57歳文求堂田中慶太郎と共に河井荃廬が来訪、教えを請う

1903年60歳上海商務印書館の長尾甲と交流

1904年“西泠印社”発足、13年社長に推される

1904年61歳蘇州桂和坊に移る 斎名「癖斯堂」


上海時代:老熟期

1913年70歳上海山西路吉慶里に移る 上海書画協会成立、社長になる

1927年民国十六年11月6日(11月29日)84歳で卒
 三子東邁(とうまい)1886-1963も父の画風を継ぐ
[作品]

詩書画印に優れる

篆刻:詩書画に先がけ円熟

浙派、皖派の筆意の表現を学び、30代後半40代に独自の様式を打立て、50代に円熟

52,3歳頃リューマチを病む「病臂」落款 「老缶」落款

作印停止期をはさみ、70代半ばから80まで最晩年の篆刻

1.画の力学的構造を印に布地 2.筆の潤渇を印の併筆、欠画で表す 「印画一致」

3.印の外郭も表現に取り込む

書:蘇州時代に王鳴鸞所蔵の石鼓精拓本を見て開眼、以降生涯石鼓文を臨模
 73-7歳多作期 晩年の篆意をはらんだ右肩上がりの行草書

画:筆力深厚な金石書法による詩書画印の結合
 書法、篆刻の金石味のある独特な写意花卉画

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呉昌碩-秋菊若英図

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◆素朴、重厚、一本気な世界を現出

中国の文人であり芸術家である呉昌碩は、「古人為賓我為主」(古人は賓たり我は主たり)と述べているように、当然のことであるが、前代の大家たちの画を大いに学び研究することの大切さを説くとともに、さらにそこから独創的なものを作り出してそれらを超越していかねばならないことを常に主張していた。例えば、松村茂樹編『呉昌碩談論』(柳原出版、2001年)に潘天寿の「回憶呉昌碩先生」という文章が載っているが、そこにも呉昌碩の詩文中の「今人但侈 古昔、古昔以上誰所宗。詩文書画有真意、貴能深造求其通」(今の人はただ昔の人のものを大げさに しているだけであるが、昔の人はいったい誰を模範としたというのか。詩文書画に真意というものがあり、深くきわめてその通を求めることを貴ぶ)との詩句や、「画当出己意、 堕塵垢、即使能似之、已落古人後」(画は自らの意を出すべきであって、 すれば俗っぽいものになっておちいってしまう。もし して似せることができたとしても、すでに古人の後塵を拝してしまっている」との詩句が紹介されている。


1、秋艶図

2、秋菊落英図

3、菊石図

4、杞菊延年図

5、泥盆菊草図

6、秋菊図
7、菊石図

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