中国絵画

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戴敦邦と水滸人物壱百零捌図

【水滸伝】すいこでん

中国、明代の口語体の長編小説。四大奇書の一。一〇〇回・一二〇回・七〇回(清の金聖嘆が物語の後半を削除して改作したもの)の諸本がある。施耐庵(したいあん)作(羅貫中(らかんちゆう)が合作、または改訂したとする説もある)。成立年代未詳。宋江(そうこう)を首領とする一〇八人の豪傑が山東省の梁山泊(りようざんぱく)を根城にして官軍に抵抗し、やがて滅びていく物語。「宋史」にも載っている宋江の反乱が、説話や芝居・小説などに脚色されて民間に流布していたのを集大成したもの。

水滸伝の人物画。筆を用いた線画。後に中央電視台『水滸伝』の人物デザインで有名になった戴敦邦氏が、文革期に描き溜めた水滸人物画を、のちに息子の戴紅傑と共に描き直したもので1980年に初めて出版されたもの。各好漢の特徴が上手く描き出されている名画で今もなお出版が続けられている。

水滸伝トランプでお目に掛ったような構図が多々ある中国の水滸人物図集。”捌”は”さばく”なんて読むけど、”はち”のことです。壱、弐、参と同じだね。戴敦邦、紅杰と言う親子で描かれているみたい。無彩の線画なんで、連環画とか描く人なのかもしれないですね。



中国の漫画レポート―

 《漫画新聞2002年11月号掲載》

 来年3月上旬に国際交流基金・アジアセンター主催で予定されている『アジアinコミック』のテーマを相談された。過去数回の訪中で中国の漫画に触れるたびに、その表現に魅せられていたので、即座に《中国の漫画》と答えた。
 中国では「漫画」「連環画」「四格漫画」「連環漫画」という流れがあり、我々日本人の目には触れることが出来ない、それぞれ味のある表現が存在している。この機会にすべての漫画をテーマにしたいので、とにかく現地に行き色々な方の話を聞こうと、香港、上海、北京の都市へ出かけたのだ。前号の香港に引き続いて上海での漫画レポート。
 上海は三泊四日、一日目に四団体を訪問するハードなスケジュールとなってしまった。
 漫画雑誌を刊行している二出版を訪問。まずは月刊誌で四万部発行し中国では一番人気のある『上海カーツウン』(上海美術電影製作)の編集部を訪ねた。編集長の張奇能(チョウキノウ)氏は、「読者の70%は女性。現在は一冊の中に男性と女性の作品が一緒に編集されているので、なんとか来年には月2回にしてそれぞれ分けて発行をしたいと思っているが、なかなか政府の許可がおりない」と、確実に読者が増えているのだが、簡単に出版出来ない悩みを語ってくれた。
 漫画雑誌『カーツウン先鋒』(少年児童出版社)を出版している顔志強(ガンシキョウ)主任と龍海虹(キョウカイコウ)編集員に話を聞いた。編集はほとんど外部団体に委託し、販売を中心に行っているとのこと。20%は台湾、香港の作品を掲載して、部数は3万部。同社は漫画より教育図書に力を入れており、中国の教育本では最大手の児童漫画出版社である。幸いなことに女性社長の周舜培(シュウシュンバイ)氏にも面談が出来たので今後の方針を伺った。
 「漫画は子供たちにとても人気があるので、《漫画で見る中国》など、教育的漫画を広めていきたい」と、今後の動向を慎重に見きわめて進めていくようである。
 新民晩報の鄭辛遥(テイシンヨウ)先生は過去日本漫画家協会の特別賞を受賞するほどの実力者なので、一コマ漫画の世界について取材した。ご自身は新聞社に詰めて毎日執筆しているが、政府の政策を非難した漫画はもちろん無理。一コマ漫画界は、やはり描く人は大勢いるが発表の場が少ないのが悩みのようである。

 【連環画の故郷は上海】
 コマの中に絵、外に文章という手法で物語りになっている作品が連環画である。連環画の歴史は古く、発祥の地は上海らしいと聞いていたので、その辺を探るべく市内の上海連環画館を訪ねた。連環画の漫画家50代から60代のベテラン漫画家10名の歓迎を受けた。
 古典、日本との抗戦、偉人伝など……歴史ある初期の頃の連環画を拝見し、改めてその画風豊かな表現力に魅了。連環画グループの代表者・戴敦邦(タイトンホウ)氏(上海交通大学文学芸術教授)が「連環画は上海から全国各地に広がったが、現在は発表の場も少なく、専門誌の部数も減少してきている。連環画を愛する者が毎月集まり、中国の伝統連環画を発展させるにはどうしたらよいのかを協議している。でも、未来は明るいですよ。若い人にも充分楽しんでもらえます」と、力強く語っていたのが印象的。そしてこの連環画グループは各地域に点在しているので、今後連携を深め大きくアピールする運動をしていくとのことだ。中国のストーリー漫画(連環漫画)の基礎とも言える連環画のさらなる発展にエールを贈りたい。

 
 

水滸伝ドラマ


全43集/1998年
 中央電視台が総力を挙げた(たぶん)、中国四大古典小説ドラマ化、いよいよ最後の作品。相変わらずものすごく気合いが入っている。
 ドラマのために建築した巨大なオープンセットは立派だし、衣装や当時の風俗などもかなりリアルに再現しているように感じる。アクション監督には香港から袁和平と袁祥仁を招聘。当時としては画期的なことだったと思う。古典であるからか、「マトリックス」以前だからか、比較的リアルで重厚なアクションで、個人的には大変好みである。
  長い原作をうまくカット、ダイジェストしているが、やはり前半の「武十回」あたりまでを丁寧に作っている。原作通りでないところもけっこうあるが、ほぼ納得がいく。戦闘シーンの規模もすごい。音楽もいい。と、思わず手放しで褒めてしまったが、もちろんツッコミどころもいっぱいある。
 これまた俳優陣がほぼイメージに近いのがすごい(残念ながら例外も……)。リアリティを出すために、出演者にはスポーツや武術畑からもかなり引っ張ってきているらしい。魯智深、林冲、武松の3大スターはやはり別格の扱いで、それぞれが素晴らしかった。阮氏三雄もいい味を出していたと思う。
 最も有名な俳優は宋江役の李雪健か。この宋江、なんだかつかみどころがなくてどういう人かよく分からなかったが、そういうキャラとして演じていたのだと思おう。見るからに運動神経にぶそうなのが欠点か。原作を読んでもこの人のアクションシーンはないが、でも実は武術をたしなんではいるはず。両手をついてひざまずくと身体が硬いのか、カエルがはいつくばったようなみっともないポーズになっているのが、なんだか嫌だった。
 このドラマのためだけにサイト一つ作れそうなくらいのボリュームがあるが、以下、特に印象に残ったところをいくつか。
・ 史進の史家荘での見せ場が見事にカットされたのは拍子抜けした。刺青を見せてほしかった。
・ 閻婆惜に対する宋江の態度はひどい。「好きでも何でもないけど気の毒だから養ってやることにした」みたいなことを面と向かって言うか。張文遠とできたのも宋江をゆする行動に出たのも、そもそも宋江が悪い。しかも雷横がすぐに晁蓋からの手紙を焼き捨てていたので、宋江の間抜けぶりが目立つ。
・ 武松は景陽崗で本物のトラと戦う! 張りボテやスタントマン(たぶん)も利用しているが、動物園から虎を借りてきて、調教師も数人がかり、俳優とスタッフ全員に保険をかけて、医者と救急車を待機させて一番最後に撮影したと何かで読んだが本当か。武松の必死の形相は演技ではなかったのかも。
・ 潘金蓮は淫婦ではない。はっきりと潘金蓮の立場に立ってドラマが展開される。武大に嫁いでそれなりに満足していたのに、武松の出現が彼女の運命を狂わせる。武松に恋したことで、大げさに言えば自我に目覚めていく。それなのに、人がよさそうで意外に亭主関白の武大、女心のわからない武松(わかったところでどうしようもなかっただろうが)……。そんな心の隙を王婆さんにつかれてしまうのだ。このあたり、中国のお得意の「封建制度下の女性の悲劇」といった趣。現代と違って女が主体的に生きることなどできない時代、その中でもがいた結果が、西門慶などというろくでもない男との姦通というのではあまりにも哀れだった。
・ 鴛鴦楼での虐殺の最中に、武松ってばテーブルの上の料理を食べ出した! そりゃあお腹すいていただろうけどさ。ああ、中国人ってすごすぎる! 私は心底感心した……。
・ 李逵の余計な殺人シーンはほとんどなく、子供のように純粋なキャラが強調されている。時にはむしろカワイイくらい。殺人狂ぶりが好きという人でない限り、安心、納得のキャラクター造形だ。その代わり李逵を叱りつける宋江のいやらしさも際立つけれど。
・ 楊雄の妻の姦通話は、閻婆惜や潘金蓮がほとんどオリジナルストーリーになっていたのに比べてかなり粗雑。もう似たような話はいらないのか。楊雄や石秀あたりまでは時間を割いてもらえなかったのか。このあたりになると物語をはしょっていて、石秀の描写も削られてずいぶん単純なキャラになっている。石秀ファンは不満だろう。
・ どうやって梁山泊入りしたのが説明のない人が多いのがちょっと残念。朱仝や秦明はどうするつもりかと心配していたら、朱仝は出番らしい出番はなく、秦明は何の説明もないまま、いた。
・ 宋江がなぜ招安を望むのか、理由が分かりやすかったのはよい。しかし宋江、廬俊義、呉用の三人が招安の話し合いをしている様子は、なんだか愚民どもを「指導する」って感じで、共産党政権とだぶって見えて何やらいやらしい。考えすぎだと思いたいが。
・ 戦争場面がやけにリアル。死体の山、文字通り血の海。仲間が死んでいくところも容赦ない。極めつけは捕虜の斬首シーン。首と胴が離れた死体がずらーっと並ぶ(人形なのはバレバレですが)。テレビドラマでここまでしてくれなくてもと思った。



1、 豹子头林冲
2、 戴敦邦水浒人物谱-白胜
3、 戴敦邦水浒人物谱-柴进
4、 戴敦邦水浒人物谱-晁盖
5、 戴敦邦水浒人物谱-花荣
6、 戴敦邦水浒人物谱-李逵
7、 戴敦邦水浒人物谱-鲁智深
8、 戴敦邦水浒人物谱-宋江
9、 戴敦邦水浒人物谱-武松
10、 戴敦邦水浒人物谱-朱富
11、 王進母子

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◆伏生授経図(ふくせいじゅきょうず )
 
伝王維筆

唐時代
日本大阪市立美術館蔵
25.4×44.7  絹本着色

秦の始皇帝が焚書をおこなった時、伏生は典籍を孔子の旧宅の壁にかくし、漢の文帝の時になって残っていた『尚書』を取り出し、斉魯の地方(山東省)でそれを講じました。この図は、文帝からつかわされた黽錯(ちょうそ)に『尚書』を講義している姿を描いたもので、通例では手前に黽錯が描かれます。貴重な書物を災いから守り、90余歳の高齢にもかかわらず教授しようとする伏生が、実に貴い存在として描かれています。こうした図が伝えられてきたのは、伏生が学問の師として長く崇拝されてきたからなのです。


◆辋川図

王 維筆
唐時代
絹本着色
日本圣福寺藏


【王維】おうい 

(701-761)

〔生没年は (699-756) とも〕中国、盛唐の詩人・画家。字(あざな)は摩詰(まきつ)。仏教に帰依し、詩仏と称され、また晩年の官名により王右丞(おうゆうじよう)とも呼ばれる。詩風は陶淵明に似、自然を歌詠した五言絶句にすぐれる。また、山水画を得意とし、後世、文人画(南宗画)の祖とされる。詩文集「王右丞集」など。

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◆ 「江幹雪霽図」 伝王維筆

◆ 「長江積雪図」 伝王維筆



◆文人画 ぶんじんが


文人、士大夫などの素人が余技的にえがいた絵画のことで、職業画家の絵画と区別していう。士大夫とは儒学や文学の教養と経済的余裕をもち、官僚となって中国を統治していた階級のことであった。



(1)中国 --王維が文人画の祖

 
盛唐の詩人で絵もよくした王維が文人画の祖とされているが、実際に文人画というジャンルが成立したのは北宋(960〜1127)以後のことである。有名なものに蘇軾(そしょく)の墨竹や、楊補之(ようほし)の墨梅などがある。元初には趙孟頫ちょうもうふ(趙子昂)があらわれ、「書画同一」をとなえ画壇を主導した。元末にあらわれた黄公望、呉鎮、倪麕(げいさん)、王蒙の四大家は、作者の個性と精神を表現する新しい山水画をえがき、文人画を革新した。


 明代(1368〜1644)には画院の職業画家を中心とする浙派(せっぱ)が台頭し、中期以降は蘇州の文徴明を中心とした呉派文人画が主流となった。呉派の董其昌は南宗画、つまり文人画が中国の正統絵画であると論じた。
 清代(1644〜1912)になると職業的な南宗画家もあらわれ、文人画も変質していった。文人画の基本は、作者個人の自由な手法でえがかれること、写実より写意を重んじること、柔軟な描線の披麻皴(ひましゅん)によって、山岳の立体感をあらわすことなどである。



(2)日本--儒者や上級武士の中から文人画家が生まれた


 日本では文人画のことを南宗画に由来する「南画」の語でよぶことが多い。日本に文人画がつたえられたのは室町時代(1333〜1573)のことで、五山僧の余技としてえがかれた。著名なものに、玉勒梵芳(ぎょくえんぼんぽう)の墨蘭(ぼくらん)がある。
文人画が本格的にえがかれるようになるのは江戸時代(1600〜1867)になってからで、日本には士大夫階級はなかったが、儒者や上級武士の中から文人画家が生まれた。狩野派などの従来の画風にあきたらない教養人は、明清の文人画に新鮮味をみいだしたのである。祇園南海、柳沢淇園(きえん)が初期文人画の代表者であった。
文化文政期の池大雅、与謝蕪村は日本的な文人画を大成し、江戸の谷文晁は西洋画法をとりいれて文人画に新境地をひらいた。田能村竹田、浦上玉堂、桑山玉洲、渡辺崋山らは日本の各地で南画をえがき、地方に普及させた。
幕末から明治にかけて南画は形式化し、欧風文化のなかで衰退していった。しかし、明治から大正に活躍した富岡鉄斎は独特な個性で南画を復活させた。漢学や詩文の教養をそなえた文人の絵が文人画であったが、南画家にはむしろ職業的画家が多かった。文豪夏目漱石、芥川竜之介らが余技にえがいた飄逸(ひょういつ)な絵は、それゆえ本来的な意味での文人画といえる。

【南画】 なんが 

南宗画(なんしゆうが)の略称。江戸中期以降、南宗画の影響のもとに独自の様式を追求した新興の画派の作品。大成者は池大雅と与謝蕪村。

【南宗】なんしゅう
中国禅宗の一派。唐の慧能(えのう)が開き、主として中国江南地方に行われた。日本の禅宗はこの系統。南禅。「南宗画」の略。


【南宗画】なんしゅうが

 中国絵画の系統の一。唐の王維に始まり、董源(とうげん)・巨然(きよねん)・米・(べいふつ)、元末四大家(黄公望・呉鎮・倪麕(げいさん)・王蒙(おうもう))などを経て、明の沈周(しんしゆう)はじめ呉派に至る文人画家の山水画様式。明末の董其昌(とうきしよう)の提唱による。水墨による柔らかい描線と自然な感興が特色。文人画。→南画(なんが)
南画とも。明末の画家莫是竜(ばくしりょう),次いで董其昌(とうきしょう)によって提唱された中国の絵画様式上の概念。北宗画に対立するもので,王維を祖とし元末四大家によって行われた文人画の様式をいい,文人画としばしば混同して用いられる。柔らかい筆法を積み重ねて描く画法で,淡彩あるいは墨画が多い。明代の沈周(しんしゅう),文徴明(ぶんちょうめい)らによって様式として確立,清代には四王呉□(しおうごうん)が出て画院にもとり入れられる一方,石濤(せきとう),八大山人ら逸民画家や揚州八怪(ようしゅうはっかい)の画家たちによって個性の強いものが作られた。日本には江戸中期に輸入され,池大雅,蕪村によって確立,江戸末期には全国に広まったが,明治になってフェノロサ,岡倉天心らの南画排斥運動により衰えた。



(3)呉派(ごは)


 中国,明代後半の画壇で主流を占めた南宗画派。明代の初め北宗画の浙派(せっぱ)に圧倒されていた南宗画は15世紀後半より沈周,文徴明らを中心に復興し,彼らの多くが呉(江蘇省)出身であったため浙派に対して呉派と名づけられた。明末には多くの分派ができたが,呉派系の画家が清代の山水画壇でも主流となった。
 

南画の定義と精神と目的について


南画とは、捉えにくい表現であり理解に苦しむところですが、簡単に言えば中国の唐、宋、元の時代に王維、董源、巨然らによって始められ元の四大家によって基礎が作られた絵画様式の日本的な名称で南宗画の略称である。中国には文人(士大夫階級の名称)がおり、その人たちが職業画家の絵ではない絵を目指し文人の趣味に合う詩書画一体の文人芸術にまで高めた。これが時代を経て日本に入り、日本独自の解釈で発展して来た。広義の解釈では幅広い範囲の絵を含み俳画から風景山水画、墨彩画、水墨画茶席に合う茶掛け風の簡単な絵まで、先生によってテーマと表現技法が異なります。これが日本の現状です。美術的なジャンル分けでは、水墨画の一部分です。「江戸時代の絵画史を概説するとき、いちばん手こずるのは南画とか文人画とかいわれる分野である。南画=文人画と簡単に定義して、大雅、蕪村らによる日本南画の大成とその前後の段階を記述すれば事足りそうに思われるのだが、それを「美術史的」に扱うとなるとそう簡単にはゆかない。「文人画」という中国絵画史の全体にかかわる概念がその中核にあるために、中国絵画史の流れについての知識が前提とされるからだ。しかもその「文人画」という概念が、中国においても、「南宗画」という概念と必ずしも明碓に区分されない。それは江戸時代の「南宗画」が実際には、明清画のごった煮と呼んだ方がふさわしいょうなものとなっている現実と対応する。

文人画は、本場の中国において階級に密着した用語であり、職業画の蔑視と表裏一体になっている。と同時にこれは、「脱俗遠塵」の芸術理念とも、不離の関係にあるということである。江戸時代の「南画家」たちをひきつけたのは、南宗画の技法そのものよりも、むしろこの理念の面だった。かれらはそこに、自らの置かれた身分制度の束縛からの芸術による解放を夢み、それを実践したのである。画家の身分や職業はそこではむしろ問われない。必要なのはかれらの人柄、その画く絵が俗でないことである。だが「日本的南宗画」の特殊性にそぐう用語として「南画」以外に適当なものは見つけにくい。″江戸時代後半に南宗画を中心として、中国の元明時代の絵画に触発されておこった一派〃というのが吉沢忠氏による的確な「南画」の定義だが、私なりの補足が許されるならば、次のようになるだろう。南画ー日本では江戸時代後半におこった新しい中国画派。中国文人画の作画理念を規範とし、南宗画を中心とした明清絵画の諸様式の摂取の中から独自の画風の系譜を発展させた。これを「日本文人画」といいかえてもよい。」  


(4)中国絵画のみかた  

  「董源、巨然以下米父子、元四大家が南宗画の本色を備えた画人であることはあらためて説くまでもないであろう。董氏の説によって、文人画が水墨の山水画を主旨とし、水墨のなかに幽玄な内面性を掘り下げていくものであり、あわせて多くはその人物の逸脱として世塵を離れたものを条件としていることが考えられる。」「南画とは日本でつけた名称で中国の南宗画の簡称である南宗画は董其昌ら(明末16世紀)によってなずけられた唐の王維から始まり北宗の董源、巨然、米ふつに伝わり元の四大家黄公望、げい賛、呉鎮、王蒙により一つの様式をもつ山水画になってきた。元末に文人画が一つの様式に統一されるようになって、明末になって南宗画と呼ぶようになった。文人画は画家を身分によって区別した概念であり南宗画は画を様式によって区別した概念である。」

中国絵画のみかた 
「世俗に求めることが少なければ、称賛や中傷で心を煩わすことはない」
この話の最も重要な点は「士気」つまり知識人特有の気質を解析していることである。すなはち決して職業画家のように、意匠を凝らして巧緻を求めたり専ら買い手や俗世間の好みに応じて描いたりはせず、さらに他人の称賛や中傷を気にかけないというのである。この種の自己のために創作するという考えには、画家の個性と創意の主張が十分に認められ絵画の創作において最も重要な自主性をつかんでいるといえいよう。」南画、南宗画、文人画を含む水墨画という分野で中国においても日本においても変化しそれぞれ技法の多様性と画材の性質によって多くの画風があると思いますが、南画(文人画)の特徴として
素人のスタイルであるということがあります。自分の楽しみとして描くもので売ることを意識したものではなく又、他人の評価を期待するものでもない。倪雲林の言葉に「僕のいわゆる画は、逸筆が草々としているものに過ぎない。形似を求めず、わずかに以って自娯とするのみ。」江山四季より胸中の逸気を筆から紙に伝えるのみ!!

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1、宝琴
2、李纨
3、鳳姐
4、秦可卿
5、史湘雲
6、惜春
7、元春
8、薛宝钗
9、宝玉と林 黛 玉
10、妙玉
11、迎春
12、探春

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1、共読西厢
2、宝釵扑蝶
3、黛玉葬花
4、晴雯撕扇
5、宝玉挨打
6、孤標傲世偕誰隠,一様花開為底遅。
7、寒塘渡鶴影,冷月葬花魂。
8、黛玉焚稿
9、绛珠魂帰离恨天

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