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桜は満開ですが……(挨拶)

なにぶん天気が悪いです。
今日は少し桜を見に行きましたが、今年はもう近場で済ませてしまおうかと思っています。

さて。
では、本題へ。

2016年が終了してしばらく経ってしまいましたが、2016年下半期の「旅」を振り返る企画展を開催します。
写真も一挙放出、開催期間中に200枚以上を貼っていきます。
お楽しみいただければ幸いです。


それでは、企画展6日目を投稿します。
なお、特記のない限り、写真の撮影日=訪問日です。

2016年10月29日 北斎と渓谷美の旅(長野県)

 10月29日〜10月31日にかけて、2泊3日で両親とともに長野県へ行ってきました。
 基本的なルートは父親に任せ、そこに私の分野である文化財を加えて旅をした感じとなります。

 10月29日、始発で香川県を出発し、JR岡山駅から始発の新幹線に乗って名古屋へ向かいます。そこからJR名古屋駅を8時に出発する特急ワイドビューしなの3号で、長野県を目指します。10時5分頃にはJR松本駅に到着し、ここからはレンタカーで移動します。


 高速を走り、しばらくすると、姨捨SAに到着します。
姨捨SAからの風景
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 このSAには展望所があり、善光寺平を一望することができます。中央を流れているのは千曲川です。これからの旅を期待させる雄大な風景でした。


 そこから高速を走り、目指すは葛飾北斎と栗の町である小布施町
 秋を迎えて大勢の人で賑わう小布施に着いて、最初に向かったのは北斎館です。
北斎館
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 江戸時代後期の浮世絵師である葛飾北斎(1760-1849)は、小布施の豪農・豪商で画家・思想家でもあった高井鴻山の招きに応じて、83歳になって初めて小布施を訪れました。以降、北斎は4度にわたって小布施を訪れ、自身の画業の集大成である肉筆画を描き、多くの作品を小布施で生み出しました。
 北斎館(上高井郡小布施町)は、小布施町内に遺されている北斎作品の散逸を防ぎ、収蔵・公開するための美術館として昭和五十一年(1976)に開館しました。小布施滞在中に描いた肉筆画40余点と2台の祭り屋台が収蔵・展示されています。

北斎館
開館四十周年記念特別展「氏家コレクション 肉筆浮世絵の美」パネル
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 訪問時には開館四十周年記念特別展「氏家コレクション 肉筆浮世絵の美」が開催されていました。肉筆浮世絵のコレクションで有名な故 氏家 武雄 氏が蒐集した作品の中から厳選した50点が展示されており、併せて、北斎館や個人が所蔵する葛飾北斎の名品20点も展示されていました。葛飾北斎をはじめとして、菱川師宣、歌川広重、喜多川歌麿らの傑作が一堂に会しており、普段あまり一度に見ることが少ない肉筆浮世絵画の世界に浸ることができました。
 また、先述のとおり、北斎館には長野県指定県宝「祭り屋台」2基が展示されています。この2基の祭り屋台の天井絵は葛飾北斎が描いており、「東町祭屋台」が「龍」と「鳳凰」、「上町祭屋台」が「男浪」「女浪」です。葛飾北斎の天井絵は初めて見ましたが、とても迫力があって、85〜86歳の時に描いたものとは思えませんでしたね。


 12時30分頃、北斎館を出ます。それから、小布施名産の栗のお菓子等を付近のお店で購入しました。

 北斎館の駐車場を離れて次に向かったのは、小布施観光の見どころの一つである浄光寺です。
浄光寺 石畳の参道と杉木立
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 浄光寺(上高井郡小布施町)は、寺伝では天平二年(730)に僧玄明が草堂を建てたことに始まり、大同四年(809)に坂上田村麻呂が改築したと伝えています。
 仁王門をくぐると、杉木立に囲まれた参道が続いています。この参道の石段は、自然石を積んで作られており、一見すると雑然としていますが、下の方から低い目線で見上げると、石段の鼻先が一直線に揃っています。また、今まで崩れたことがないとされていて、「雁田薬師の七不思議」の一つに数えられています。

 とても雰囲気の良い参道を登って行くと、薬師堂に到着します。
国指定重要文化財「浄光寺薬師堂」(小布施町指定町宝「浄光寺薬師堂壁画」)
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 国指定重要文化財「浄光寺薬師堂」は、室町時代の應永十五年(1408)に建立されたもので、桁行三間、梁間四間、一重、入母屋造、茅葺の建物です。各部に優秀な手法が用いられており、室町時代を代表する仏堂として評価されています。内部の壁画は小布施町指定町宝「浄光寺薬師堂壁画」となっており、本尊である薬師如来は長野県指定県宝「薬師如来坐像」となっています。

 この薬師堂、下調べで見た時は綺麗な茅葺屋根をしていましたが、現地を訪問してみると、既に苔に覆われてきていました。葺き替えられたのは平成十九年(2007)であるとのことですが、およそ10年でここまで苔むすのですね。しかし、重厚な茅葺屋根は見事でした。


 時刻は13時頃。浄光寺を離れ、次の目的地である岩松院へ向かいます。自動車ならば、ものの数分で到着します。
岩松院 境内
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 岩松院(上高井郡小布施町)は、梅洞山と号する曹洞宗の寺院で、雁田城主の荻野備後守常倫が開基、不琢玄珪が開山となって、文明四年(1472)に創建されました。境内には釈迦牟尼仏を安置する本堂を始め、庫裡、鐘楼、仁王門などが建ち並びます。

岩松院 本堂(小布施町指定町宝「鳳凰図(岩松院天井絵)」)
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 仁王門をくぐり、石段を数段登ると本堂前に出ます。自動券売機で拝観料を払い、本堂の中へ入って天井を見上げると、そこに葛飾北斎が描いた天井絵があります。
 間口6.3m、奥行5.5mの大画面に描かれた小布施町指定町宝「鳳凰図(岩松院天井絵)」は、葛飾北斎が最晩年に描いたもので、「八方睨み鳳凰図」と呼ばれています。朱・鉛丹・石黄・岩緑青・花紺青・べろ藍・藍などの顔料で色鮮やかに彩色されており、周囲は胡粉、下地に白土を塗り重ね、金箔の砂子が蒔かれています。
 大画面に描かれた眼光の鋭い鳳凰は、色鮮やかさも相俟って、まるで生きているかのような迫力がありました。北斎の驚異的な画力の高さを感じましたね。


 本堂内で鳳凰図を堪能した後、次は本堂の裏手に回ります。そこには、とある句で有名な池があります。
岩松院 蛙合戦の池
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 この池は「蛙合戦の池」と名付けられています。桜が咲くころになると、この池にはヒキガエルがどこからともなく集まってきて、メスをめぐって昼夜の別なく声を上げて争います。
 俳人 小林一茶(1763〜1827)は、文化十三年(1816)に岩松院を訪れ、この蛙合戦を見て一句を詠みました。それが有名な「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」の一句です。
 池の隣には小林一茶の句碑も建てられています。


 ここまで見てきたとおり、岩松院は葛飾北斎、小林一茶にゆかりのある寺院なのですが、もう一人、ゆかりのある人物がいます。それは、「賤ヶ岳の七本槍」の一人、福島正則です。
小布施町指定史跡「福島正則公霊廟」(岩松院)
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 豊臣秀吉の重臣であった福島正則は、関ヶ原の戦では東軍に着き、その軍功から安芸・備後二ヶ国49万8000石を領す大名となりましたが、元和五年(1619)に洪水の被害を受けた広島城を無断で改修したとして武家諸法度違反に問われ、安芸・備後の領地は没収となり、信濃国高井郡2万石と越後国魚沼郡2万5000石の計4万5000石(高井野藩)に転封となりました。その後、正則は新田開発や松川の治水事業などに取り組みましたが、寛永元年(1624)に64歳で死去しました。
 岩松院は福島正則の菩提寺であり、境内の墓地には霊廟が建てられています。この霊廟は小布施町指定史跡「福島正則公霊廟」(岩松院)となっており、中には高さ2.5mの五輪塔が収められています。


 以上のように、岩松院には見どころが沢山あって面白かったです。特に鳳凰図はすごく印象に残ります。小布施観光の際には外せませんね。


 さて、時刻は14時頃。ここからは松川渓谷に向かいます。

 松川渓谷は、信濃川水系の一級河川である松川により形成される深いV字を刻む谷で、四季折々に見事な渓谷美を見せる景勝地です。特に紅葉の名所として知られ、秋の季節は多くの人で賑わいます。
 松川渓谷の紅葉については、既に紅葉シリーズ2016で纏めていますので、下記の記事をご覧ください。
  ↓
2016年 紅葉シリーズ  閉耕遒旅藩奸

 さて、松川渓谷の玄関口にある皸羔兇嚢藩佞魍擇靴鵑生紂∋各擦66号線を走り、松川渓谷にある屈指の名勝地へ向かいます。
 車道沿いの駐車場に車を停めて、少し下って行くと、雄大な滝が姿を現します。
高山村指定名勝「雷滝」
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 高山村指定名勝「雷滝」(上高井郡高山村)は、松川本流に懸かる落差約30mの滝で、その名前は轟音を立てて落下する様から名づけられています。

高山村指定名勝「雷滝」裏見
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 また、この雷滝は、裏側に回って眺めることができるため、「裏見の滝」とも呼ばれています。裏から滝を見るという貴重な体験をすることができます。

高山村指定名勝「雷滝」と渓谷
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 こちらは滝の裏を抜けたところからの写真です。名前のとおり轟音を響かせながら、豊富な水を流しています。香川県民からすると羨ましいほどの水量です。
 また、松川渓谷一帯は温泉地となっていますが、この雷滝でもほんのりと温泉の匂いを感じることができます。そこもまた、魅力的ですね。


 雷滝を後にしてからは山道を戻り、八滝(上高井郡高山村)を展望台から眺めます。八滝については、上記の紅葉シリーズで御紹介しているので、そちらを御覧ください。

 八滝と紅葉を楽しんだところで、時刻は16時前。少し早いですが、松川渓谷にある旅館に入り、ゆるりと過ごしました。
 こうして、長野の旅は翌日へと続きます。

☆この日の主な文化財
国指定重要文化財「浄光寺薬師堂」
長野県指定県宝「祭り屋台」2基
小布施町指定町宝「祭り屋台天井絵竜図鳳凰図」
小布施町指定町宝「祭り屋台天井絵浪図(2枚)」
小布施町指定町宝「鳳凰図(岩松院天井絵)」
小布施町指定史跡「福島正則公霊廟」
高山村指定名勝「雷滝」


2016年10月30日 真田の足跡と建築美の旅 <前半>(長野県)


 温泉や食事を楽しみ、いつもよりもゆったりと過ごしたこともあり、旅館を離れたのは10時30分頃。そこから、2日目の長野の旅を始めます。
 
 須坂市まで戻り、406号線(大笹街道)を通って、色づいた高原を楽しみながら、一路目指したのは、昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」で盛り上がっていた上田市です。

 11時30分頃、最初の目的地である真田氏歴史館に到着します。
真田氏歴史館
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 真田氏歴史館(上田市)は、真田一族に関する資料を展示する資料館で、真田幸隆真田昌幸真田信幸(信之)真田信繁といった真田氏の歴史と業績を学ぶことができる展示が行われています。
 真田氏歴史館はパネル展示や複製品の展示が主体となっていますが、ここ一箇所で真田氏に関する歴史がまとめて分かるので、勉強をするにはもってこいの博物館施設です。


 さて、真田氏歴史館で真田氏について学んだ後は、その前の道を下って行き、真田氏ゆかりの史跡を見学することとします。
長野県指定史跡「真田氏館跡」土塁(東側)
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長野県指定史跡「真田氏館跡」大手門跡
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 長野県指定史跡「真田氏館跡」(上田市)は、真田昌幸が上田城を築く以前の居館とされる場所で、昌幸の父である真田幸隆(幸綱)、兄である信綱の代から用いられていたと考えられます。
 敷地は西辺130m、東辺80m、北辺150m、南辺160mの台形を呈しており、周囲に土塁を巡らせていますが、南東隅は土塁を内側に折れ曲げており、隅を欠いています。敷地は東側から西側にかけてゆるやかに傾斜し、北側は大沢川を自然の堀としています。大手口は南方にあり、石積みで固めた土塁と枡形を築いています。当時の遺構が現存しており、中世豪族の居館跡として貴重な史跡です。また、ツツジの名所としてもよく知られています。


 写真の土塁(東側)を見た後、東門跡から館跡に入り、居館の東半分に鎮座した皇大神社にお参りします。この神社は、真田昌幸が上田城に移る際、居館の荒廃を憂いて勧請したと伝わっています。なお、ここでは、地元の方とみられる方々のお接待がありました。大河ドラマが盛り上がると、地元も賑わって良いですね。


 少しの間うろついた後、大手門から館跡を出て、真田氏歴史館の方へと戻ります。
 時刻は12時30分頃。次の目的地へと向かいます。その途中、真田氏が築いた城郭の中でも重要な位置を占めた砥石城が見えたので、遠望してみました。
長野県指定史跡「砥石城跡」
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 長野県指定史跡「砥石城跡」となっている砥石城は、上田盆地の北東にそびえる東太郎山の尾根先を利用して築かれた城です。
 天文十九年(1550)に武田信玄は、村上義清が守っていた砥石城を攻めましたが、堅固な守りに阻まれ攻略できずに敗退。しかし、天文二十年(1551)に武田氏の配下であった真田幸隆が謀略をめぐらし、砥石城を奪うことに成功しました。
 時を経て天正十三年(1585)の第一次上田合戦に際しては、真田昌幸の長男 真田信幸が城に入り、徳川勢へ打撃を与える活躍をみせています。また、慶長五年(1600)の第二次上田合戦に際しては、はじめ昌幸の次男 真田信繁が立てこもりましたが、後に徳川方についた信幸が入城しています。
 砥石城は、こうして4度にわたる大きな争いの場となった激動の城であるといえます。

 城跡があるのは写真の手前の山で、左から砥石城本城枡形城が並んでいます。また、砥石城の南西には、米山城という城もあります。砥石城は山上を利用した山城ですが、居館を一体とする珍しい構成で、その規模をよく保存しており、貴重な史跡となっています。


 砥石城を横目に、ひたすら次の目的地へと向かいます。
 目的地の駐車場に着いたのは13時頃。広い駐車場には沢山の車が停まり、大勢の人がいました。さて、概ねお察しのとおりかと思いますが、次に訪れたのは上田城です。

 上田城(上田市)は、天正十一年(1583)、上杉氏に対するための城として徳川家康の命により真田昌幸が築いたことに始まり、当初は千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、「尼ヶ淵城」と呼ばれることもありました。
 後に家康から離反した昌幸は、上杉氏からの援助を受けて築城を進め、天正十三年(1585)には上田城を攻めた徳川方を撃退しています(第一次上田合戦)。その後、天正十八年(1590)に昌幸による大規模な改修が行われて織豊系の城郭が築かれると、慶長五年(1600)には西軍についた昌幸・信繁の親子が上田城に立てこもり、徳川秀忠が率いる東軍を退けました(第二次上田合戦)。しかし、西軍が関ヶ原の戦で敗れたため、真田氏の築いた上田城は破却され、その旧領は東軍についた真田信之に受け継がれ、信之は上田藩初代藩主となりました。
 元和八年(1622)真田信之が上田から松代へ移封となると、小諸藩より仙石忠政が上田に入り、寛永三年(1626)から上田城の再建に取り掛かります。工事は忠政が寛永五年(1628)に死去するまで行われ、現在みられる近世城郭が築かれました。そして宝永三年(1706)に藤井松平氏が新たに藩主となり、以降、明治維新に至るまで7代にわたって上田を領しました。
 現在、上田城跡は国指定史跡「上田城跡」となっており、旧二の丸の内部が上田城跡公園として整備されています。また、上田城跡は、特に桜の名所としても知られています。


 上田城の南側にある上田城跡公園駐車場に停めて、芝生広場に入ります。このあたりは、先述した千曲川の分流が流れていた場所であり、ここから眺める城の姿は、川沿いに聳えていた往時の姿を偲ばせる景観となっています。
国指定史跡「上田城跡」尼ヶ淵の石垣
長野県指定県宝「上田城櫓〔南・北・西〕」西櫓
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長野県指定県宝「上田城櫓〔南・北・西〕」南櫓
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 上田城のシンボルでもある長野県指定県宝「上田城櫓〔南・北・西〕」 は、仙石忠政が寛永三年から五年(1626〜1628)にかけて行った整備に際して建てられたとみられるもので、当時は7棟の櫓と2棟の櫓門が築かれていましたが、これらは明治維新後に取り払われ、「西棟」のみ城内に遺されました。
 「北棟」「南棟」は市内に移築されて貸座敷(遊郭)として利用されていましたが、市民からの寄附で買い戻され、昭和十八年から二十四年(1943〜1949)にかけて本丸の東虎口に再移築されました。3棟とも規模は同じで、桁行五間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺で、壁面は白漆喰塗籠大壁で、腰を下見板張としています。


 西櫓の麓から城内に入り、枡形を経て本丸の中を歩いていきます。城内に鎮座する眞田神社にお参りした後、西櫓へ行き、その内部を見学しました。さらに南櫓、そして下の写真の北櫓の内部も見学します。
長野県指定県宝「上田城櫓〔南・北・西〕」北櫓
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 その後、東虎口から出て、二の丸跡へ出ます。
 両親は城を離れて昼食を食べに行きましたが、私は城内に残り、しばらく一人で散策します。上田市立博物館に入ろうかと思いましたが、時間がなさそうなので断念。その後は、水濠に沿って本丸の周囲をぐるっと回り、西櫓まで戻りました。

 時間的に余裕が無かったことと、一人旅ではないこともあって、上田城の主要なところは見られたものの、見どころのすべてを巡ることはできませんでした。上田市立博物館と併せて、またいつか見に来たいと思います。


 さて、上田城を14時20分頃に離れ、次の目的地へ向かいます。千曲川を渡り、77号線から143号線に入り、西へ向かいます。上田市を一旦出て小県郡青木村に入ったところで、北へ入りしばらく行くと、次の目的地である大法寺の駐車場に至ります。


 大法寺(小県郡青木村)は、一乗山と号する天台宗の寺院です。寺伝では、奈良時代の大宝年間(701-704)に定恵(藤原鎌足の子)が開基となって創建したとされますが、判然としません。


 駐車場から本堂の前を経て緩やかな坂道を登って行くと、青木村郷土美術館の前に石段があります。そこを登っていくと拝観受付があるので、ここで拝観料を払います。正面を向くと、このような景色が目に入ってきます。
観音堂 及び 国宝「大法寺三重塔」
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 この観音堂の中には、国指定重要文化財「大法寺観音堂厨子及び須弥壇」が置かれています。
 室町時代前期(1333-1392)になるもので、厨子は入母屋造、本瓦形板葺の一間厨子であり、須弥壇は高欄付の唐様須弥壇です。
 いずれも禅宗様が用いられており、棟の両端につく木彫りの鯱は、日本最古の鯱であると言われています。厨子に安置されているのは、本尊である木造十一面観音立像と、その脇侍である木造普賢菩薩立像です。ともに平安時代の仏像であり、国指定重要文化財「木造十一面観音及脇侍普賢菩薩立像(観音堂安置)」となっています。


 そして、上の写真にも見えているのが、屈指の名塔である大法寺の三重塔です。
国宝「大法寺三重塔」
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 国宝「大法寺三重塔」は、室町時代前期の正慶二年(1333)に建てられた、三間三重塔婆、檜皮葺の塔です。
 建築に携わったのは、解体修理の際に見つかった墨書から、中央の工匠である天王寺 四郎某のほか小番匠七人であるとみられています。このことは、純然たる和様が用いられていること、初重の中央間にある簡素な蟇股を除いて装飾性が極めて薄く、地方的な特色がみられないことなどからも裏付けることができます。
国宝「大法寺三重塔」二重の西面及び北面
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国宝「大法寺三重塔」 逓減率
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 特徴としては、二重・三重が三手先であるのに対し、初重を二手先としていることで、それにより初重が大きくなり、塔全体が安定感を持った姿となっています。一般に「見返りの塔」と呼ばれ、東日本に於ける屈指の美しい塔として知られています。


 その美しさに見惚れながら、周囲をぐるりと回ったり、じっと眺めたり……。とても良い天気のなかで、名塔を見ることが出来ました。

 しかし、ずっとここにいるわけにはいきません。しばらくして塔の前から離れましたが、「見返りの塔」の名のとおり、どうしても見返してしまいます。
国宝「大法寺三重塔」(見返りの塔)
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 本当に何度も見ても美しい塔です。

 さらに何度か振り返りながら、大法寺を後にしました。


 時刻は15時過ぎ。少し早いですが、ここから本日の宿がある別所温泉へと向かいます。

 ……と、ここで、写真の枚数の都合で、一旦終わります。
 続きは、7日目の<後半>で御紹介します。

☆この日の主な文化財
※7日目の旅のまとめの方で記載します。


今日はこれまで。
ではではー。

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