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御陵の前で和歌を考える(挨拶) えーとその和歌は最後のほうにありますー。 (予定変更して、西行法師の道は前の記事で終了としますが、一応続きは書いてます) 稚児ヶ滝(稚護ヶ滝)よりさらに白峯寺を目指して「西行法師の道」を進みます。 ここからの道は、今までどおり灯篭と歌碑がありますが、道は一気に昔の道な感じとなり、舗装もされてません。一枚目の写真はそれです。 そして、登っていくと、左手側にこの景色が見られます。車の道から見ると、瀬戸内海やなんかが見えますが、西行法師の道からは、二枚目の写真のような景色になります。この地域は、田んぼとため池と住宅地です。左手にあるため池、山林火災や釣りに使われているようです。 そして、西行法師の道は終わりをつげます。 その先の砂利が敷かれた道を進むと、「崇徳天皇御陵(みささぎ)」があります。もちろん宮内庁の管轄地域です。「白峯陵」ともいいます。 三枚目の写真は御陵への道。四枚目の写真が御陵です。 崇徳天皇(崇徳院)とは。 第75代天皇。鳥羽天皇の子(祖父は白河天皇)である。白河天皇の子であるとも言われている。鳥羽天皇は崇徳天皇を疎んでいた。 白河法王の死後、鳥羽上皇は崇徳天皇を疎んでいたため、崇徳天皇は若い近衛天皇に譲位する。しかしなおも鳥羽上皇が実験を握り、崇徳上皇が権力を握ることは出来なかった。これに対して不満を持っていたと思われる。 近衛天皇の母・美福門院は崇徳の息子である重仁親王を養子に向かえ、崇徳の子に皇位継承の可能性を持たせてその不満を解消したかに見えた。近衛天皇が若くして崩御し、崇徳上皇は自分か重仁親王が皇位につくことを期待した。 ところが、崇徳上皇が左大臣藤原頼長と図って近衛天皇に対して呪詛していたという噂が広がり、美福門院は怒り、鳥羽上皇に訴えた。鳥羽上皇も怒り、自分の子である後白河天皇を皇位につかせた。(崇徳上皇の弟)。 これに対して崇徳上皇は、鳥羽上皇の崩御を待ち、後白河天皇を降ろし、重仁親王を皇位につかせようと、保元元年(1156年)、藤原頼長と平忠正・源為義ら武士を率いて保元の乱を起こした。しかし、後白河天皇を護衛していた平清盛・源義朝により、敗戦。崇徳上皇は髪を下ろし、仁和寺に捕らわれる。そして、讃岐国に配流された。 讃岐国での崇徳院は、都を懐かしむ歌を多数残している。そして、玉章木(たまずさのき)伝説というものもあり、崇徳院とホトトギスの交流を描いたものである。「鳴けば聞く 聞けば都の 恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす」という和歌を詠じた崇徳院の意を察したホトトギスは大木の葉を巻いてくちばしに差し入れ声を忍んで鳴いたという。その巻いた葉の形が玉章(手紙)に似ていたため、その木の葉を懐中すればよき便りがあるといわれている。その玉章木は、白峯寺にあるが樹齢800年で天寿を全うした。 崇徳院は仏教に傾倒し、写本作りに専念し、戦没者の供養と反省のため京の寺に収めて欲しいと朝廷に差し出したところ、後白河法皇は呪詛ではないかと恐れ、写本を送り返したという。崇徳院はこれに対し、かなり憤慨し朝廷に対する恨みを残したとう。 そして長寛元年(1164年)8月26日崩御された。御遺詔により、稚児嶽山上で荼毘(火葬)にふされ、御陵がこの地に作られた。 その後、都では様々な不吉なことが起こり、朝廷でも崇徳院の怨霊によるものではないかという恐れが広がった。そこで、朝廷は「崇徳」の諡号を定めただけでなく、御府荘園を寄せて菩提を弔い、様々な慰霊を尽くした。 その後、崇徳院は四国の守り神になったりもしている。 頓証寺(現在の白峯寺)は崇徳院の崩御後、地元民により御陵の近くに立てられた寺である。 明治天皇は、白峯神宮を京都上京区に建立し、崇徳天皇を祀っている。 崇徳天皇は、その生涯は激動のもので、死後怨霊伝説などもあったが、私のような地元民からすれば、敬愛すべきお方です。元々私は怨霊として恐れられた人が好きなのかも。道真公しかり、崇徳天皇しかり。 生前は悲憤の生涯だったかもしれませんが、時を経た今でも地元民から愛されている崇徳天皇。それは幸せなことかもしれません。讃岐の地で、都を思って崩御されたわけですが、この地だからこそ愛されているのかもしれませんしね。京都に御陵があっても民はここほど思ってくれなかったと思います。 みささぎは ありしみやこに あらねども たみのおもひも そこにあらまじ 崇徳院の御陵は、かつて院が住まわれ、讃岐の地でも思いを寄せた京の都にはないが、この地に住む民が院を敬愛する強い思いも、都にはありませんでしょう。
という感じの和歌を、御陵の前で考えていた私でした。 それでは名所案内in香川その2を終わります。 |
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ふはははははー明日は筋肉痛だ(挨拶) と、いうわけで。朝早くに起きて、午前中から歩いて尼のぼり、打ち間違いました、山登りです。しっかりしろ、我が指。 山登り……といってもようは観光で。京都観光ではなく、地元観光です。十回以上は行っている、四国霊場第81番札所・白峰寺(白峯寺)。そこへ、一人で歩いて行く事にしたので山登りなのです。車で行きゃいいのに。ま、私は車運転できませんし、歩いて少し運動しないとね。 実は、今まで白峰寺(白峯寺)に行くには、車ぐらいしか行けなかったのです。歩いても行けますが、山の中の車道しかないので、危険です。ですが、年が明けたので3年前、「西行法師の道」という歩行者用の舗装された道が出来ました。と、いうわけで、初めて歩いて登りました。地元だから行かないってのもありましたが、今までの私は面倒くさがってたわけですが、京都の観光をしていくうちに歩いて観光するのが苦ではなくなったので、運動ついでに行ってみることにしました。 と、いうわけで、今日と明日で、名所シリーズ連続投下です。「西行法師の道」「崇徳天皇白峰御陵」「白峰寺(白峯寺)」の3つです。西行法師の道と御陵(みささぎ)は内容がつながってます。 「西行法師の道」名所シリーズin香川その1です。前編は、稚児ヶ滝(稚護ヶ滝)まで。後編は、最後〜御陵までです。例によって、説明書きはだ・である調です。です・ます調は、記事の字の文というか私の感情が混ざってるとこです。 まず、「西行法師の道」が出来た理由(?)について。 もともと、白峰寺があり、崇徳天皇の御陵があったので、この土地は崇徳天皇に深い思い入れ…と申しましょうか、とにかく特別な感情があります。そこで、平成16年1月、崇徳天皇と関わりの深かった西行法師の名を仮り、「鎮魂の坂」として「西行法師の道」を作ったわけです。地元密着型の道です。 西行法師について。 仁安年間(1166年〜68年)、はるばる讃岐の国松山の地に悲憤の生涯を閉じた崇徳院の御霊前に鎮魂の歌を捧げた人物である、西行。法名・円位、俗名・佐藤義清(のりきよ)。23歳で武を捨て出家し、京の嵯峨野に草案を結び、以来73歳で示寂(じじゃく。高僧の死のこと)するまで高野山・伊勢・吉野・善通寺など各地に草案を結んだ。 自家集は「山家集」。「一首読み出ては一体の佛像を造るの思ひをなし 一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるのと同じ……」というように、西行にとって和歌とは真言であり、つまりは仏の言葉であった。 西行と崇徳院の関係。 保元の乱に敗戦し、崇徳院は髪を下ろし、仁和寺に捕らわれていた時にも、西行はいち早くお見舞いに馳せ参じており、崇徳院が讃岐に配流された後も、院に近仕する局を介して音信を往返している。二人の関係は殊の外深い。 (配流中の崇徳天皇についてのことは、次の記事で書きます) 院崩御の数年後、仁安年間の神無月のころ四国修行に来た西行は、険しい苔の下道をたどりながら山に登り、白峯の御陵の前に立った。御陵は荒れ果て、訪ね詣でる人もなく、焼香の跡も見えなかった。西行が法施奉ると、御廟が震動し、崇徳院が現前し一首の御製を詠じた。 「松山や 浪に流れて こし船の やがて空しく なりにけるかな」 西行は涙して返答歌として 「よしや君 昔の玉の 床とても かからん後は 何にかはせん」 と詠じた。御納受下されたのか度々に鳴動したという。 西行と崇徳院はこのような関係にあったわけです。こういったことを由縁とし、「西行法師の道」が地元密着型で作られたわけです。 さて、まずは一枚目の写真。(途中に写真持ってくる技術がなくてすいません) まずは西行法師の道と同時期にドカーンと建てられたこの鳥居。 ここを通ってしばらく歩けば、青海神社が左手に現れます。私にとって最も近しい神社です。北野天満宮は聖地です。 青海神社は、崇徳天皇が荼毘(火葬のこと)にふされた際、その煙がこの地に集まったことから、「煙の宮」とも言われます。 ………普段から参拝する人はほとんどいませんが、地元密着型です。 そして、青海神社の入り口を向いて右手に、「西行法師の道」入り口があります。 西行法師の道、には和歌の石碑が道沿いにいくつも建てられています。二枚目の写真はそれの一つ、「よしや君〜」の和歌です。西行法師の道には、歌碑だけでなく、灯篭もいくつも建てられています。まだ新しいですよ。3年前だから。なんか聞いたことある名前があったりするのは地元密着型だからです。 そして、三枚目の写真は、道の写真です。ちょっと汚いところの写真を撮ってしまった感もありますが、新しいのでキレイですよ?階段を登っての山登りはかなり久々なため、息あがりました。ゆっくり登りましょー。意外と早く登れますね。車だとぐーるぐる回って登るんですが、こっちは近道な感じのする道です。歩行者専用ですが。しかし誰もいないな。 そして、登っていくと、稚児ヶ滝(稚護ヶ滝)があります。夏帰省したとき、大雨が降ったので流れていました(その時の写真は名所シリーズに投稿してあるので振り返ってみてください。遠くからですが)。しかし、今は雨降ってないのでドバドバとは流れていません。でも水の音が聞こえました。ちょろちょろと流れてたようです。水で濡れた岩肌が見えますね。 私は稚児ヶ滝という名称で覚えていますが、稚護ヶ滝と書いてましたね。どっちが正解でしょう。 というか、ここの道、気をつけてください。苔かなにかでツルツルです。受験生は近寄っちゃダメ。 ではでは、まだ続きが御陵の方にちょこっとあります。御陵は今から打ちます。
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