日米台湾徒々草

へミングウエイの「老人と海」で(それをやりに俺が生まれてきた。そのことだけを考えればよい)

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明治の中期、台湾が日本領土になったとき、四国では多くの自然災害が吉野川

沿岸に沿って住民(農民)を苦しめた。総督府がこの自然災害から救出せんと

台湾東海岸の旧吉野村に集団いてんさせて、日本農業を試みた。今の花蓮県の

吉安郷で列車で花蓮駅の一つ手前の駅吉安駅で下車郷公所の近くに吉野村跡の

開拓記念石碑と神社跡が見えるだけで全くの荒地である。慶豊市場の裏側とみて

目指すと判りやすい。今はぼうぼうの草むらのけもの道の中に突っ立っています。

当時の内地人は外で自分で農業をするものがいませんでした。ほとんど全部が

これらの官設農業部落のみで農業をやりました。台湾割譲直後本土から移民して

来た農業家族は子供達を内地人の教育をうけさせたが、社会ではかなり台湾語を

駆使して生活をしたし、販売の手助けとなった台湾語で両親をたすけました。

昭和の10年代になると三世が少年、少女となり、日本語と台湾語を半々に話

して住民登録(戸籍登録)を地元の役場にしたものも多数ありました。彼等には

内地と言う日本が外地であり、行ったことの無い未知の国であったのです。敗戦で

内地に引き揚げるとき、彼等は国民党に台湾生まれで戸籍も台湾にあるし、言語も

台湾語を駆使して台湾の伝統、風習、文化を理解していて、日本(内地)に帰るのが

いかに恐怖で不安で生活の予定が立たないかを込めて要請しましたが、中華の国を

早く台湾に定着させることが先決の蒋介石はかたくなに拒絶しました。事実は

彼等は台湾に敗走してきただけで、中華民国の領土ではなかったのです。吉野村

からは熊本県のお米を輸入して台湾古来の稲と交配して、台中65号(蓬莱米)が

発見される1年前に、品質で似た「吉野米」を生産して、台湾中に販売した人気

米でありました。

外で内地人が農業をしなかったのは、次の様な点が原因でしょう:

1)総督府と日本政府の農業移民への移住経費援助、農業経費の援助、販売網の
総督府の設定、買い上げ値段の特典など
2)総督府は農業の土地問題で外で内地人と本島人との間で問題提起を避けたい
3)個人の農業技術普及で特定の農地の生産量の増加を避けて公平な農業改良
普及を図りたい
4)内地人農民青年達の後継者の安定化を維持したい
以上の点を思いつきに書いてみました。

引揚船の中に座った湾産三世には、未知と不安の処女航海でありました。

「日本統治時代の台湾発展歴史」書庫の記事一覧

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今年が吉野村の開村100周年との話を知人から聞き、同村から引揚げた3世として投稿します。小生の祖父(清水半平)は開村以来現地にて理想の村づくりに人生を懸け、父共々苦労をした半生を「吉野村回顧録」にまとめました。今、読み返して当時を偲び、現地を訪問したいと考えています。先日、国会図書館からの要請により献本致しました。当時のことをご存知の方のお話を伺えれば幸いです。

2010/1/5(火) 午後 5:57 [ shi**dzuj* ]

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sh++dzui+様:吉野村出身の3世と在れば昭和一桁生まれ
ですか。私より先輩?昭和7年2月生まれの私です。吉野村は吉野米で有名でした。蓬莱米が1年後に出なかったら、吉野米は東アジアを席捲したでしょう。吉野村跡の記念碑と神社跡の石碑は小さくて、ぼうぼうの草むらの中にあるので、公所の国語世代に案内を
依頼してから行くと時間の無駄をはぶきますね。郷の端にあるので迷うでしょう。今栽培中の稲は新種ですが、蓬莱米と交配して育種した種類もあるかと思います。貴方は引き揚げるまでに、内地に再三
旅行した?高雄港から引揚ましたか?船底で轟々とエンジンの音が大きいリバテー号(米国輸送船)で1946年3月3日に出奔しました。吉野村は団体として纏まって帰国したのですか。農業地域では日本の足跡が残りませんでした。一寸の土地にも農作をしたい農家の願いがありましたので。でも記念碑や案内看板などを建てて未だ歴史を残す
台湾人(本島人)には頭がさがりますね。郷で決まった日に記念の祭りがあるかも。それを目指すのも
良い深い思い出になるかもしれません。

2010/1/6(水) 午前 3:53 [ nachitakao ]

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早速のご回答いただきありがとうございます。
小生は昭和17年生まれで当時のことは記憶がありません。祖父が明治43年に渡台し、父は吉野村で大正3年生まれです。当時の吉野郵便局が小生の生家でした。祖父が吉野郷長や郵便局長であった関係で引き上げは村民の最後を確認してから、キールン港から出航し、鹿児島に上陸しました。故人となった祖父や父母の話や、吉野村回顧録を読みながら吉野米の品種改良のことや台湾人の方々との開拓時の苦労話など、当時の吉野村を回想しています。今年の100周年を機会に訪問する予定です。いろいろとご指導頂きありがとうございました。

2010/1/7(木) 午後 6:54 [ shi**dzuj* ]

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shi++dzuj+様:
今の吉安郷の町長や郵便局長と国語世代の案内を依頼してから行くのが最上ですね。100年記念祝賀会も案外開催するかもしれません。其処へ元吉野村住人の貴方が行けば、案外挨拶の一語でも依頼されるかもしれません。

2010/1/8(金) 午前 5:09 [ nachitakao ]

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吉野村で生まれた親戚友人共々と訪台します。ご指導ありがとうございました。

2010/1/9(土) 午前 10:52 [ shi**dzuj* ]

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shi++dzuj+様:
出来るだけ早目に相手側にその旨申し伝えておくと、相手も便宜がよいでしょうね。一握りの土の持ち帰りが
できますかね?3月には稲苗の作り始めでしょうね。1970年くらいまで蓬莱米の栽培がつずきました。私は鳳山街の住んだ家の跡に県庁の建物が建っていました。土を一握り持ってかえりました。地方の新聞記事になるでしょう。コピーを忘れない様にしてください。

2010/1/9(土) 午後 0:41 [ nachitakao ]

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私の父は台湾 吉野村で生まれました。
敗戦によって、祖父母は、父を含む3人の子供を連れ
最低限の物をもって日本に引き上げて来たと聞いています。
祖父母は他界しており、詳しいことは聞くことは出来ません。
台湾で生まれながら、一度も渡台したことのない父を
今回、台湾旅行に連れて行きたいと思います。
生まれた家の近くまで連れて行くことができたら良いなと
思っております。
当時の父はまだ幼く、台湾での写真はいくつかありますが
おぼろげに覚えている程度で住所までは分からなそうです。
曾祖父は吉野村の村長であったと聞いております。
私も先ずは勉強します。
その後ご質問させて頂いても宜しいでしょうか。

2010/7/29(木) 午後 0:53 [ 戸田久美子 ]

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dinghy0009様:
確か吉野村は今の吉安郷となっています。列車はその一つ前で降りるときいています。今の役場に依頼すると国語世代の方を探して案内してくれるかもしれません。戸籍所に聞くのも一つの手でありますよ。過去80年ばかりの戸籍は日本時代のもので正確に残っていますよ。いまだに田畑が広がる吉野村跡です。私は戸籍所で調べてもらい住所は台湾高雄州鳳山郡鳳山街縣口77番地に住んでいました。私の同級生に吉野村出身が転校してきました。実に上手な台湾語を駆使していました。愛媛県出身でしたから純粋の吉野産の湾生であったのですね。吉野川は災害にあって多量の難民を出しました。明治時代です。吉野村を当時に訪問していない私ですが、知る限りのお手伝いをしましょう。

2010/7/30(金) 午前 2:47 [ nachitakao ]

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台湾で19年9月花連市筑紫橋で生まれました。終戦後家族6人で花連港から鹿児島港に上陸しました。鹿児島から、汽車に乗り四国高松まで家族6人が無事帰国しました。私は、その様子は全く覚えていません。母親より、時々話しで聞かされていました。昨年11月に花連にて吉野村開村100周年記念行事に参加しました。
吉安郷慶修院へ記念行事に参加しました。吉安小学校にも行ってきました。後、我々が生活していた村を訪れようと探しましたが残念ながら我々が生活していた村は発見できませんでした。(吉安村で生まれた人たち9名と私10名で花連を訪台しました)私は、花連時代の事は全く覚えていません。しかし、9名の台湾で生まれて吉安小学校で勉強した人たちは、全員涙を流して感激していました。もう一度花連に行って自分が生まれた場所を確認したいと思っています。

2011/5/10(火) 午後 6:12 [ TY ]

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引揚船の出港は戦後基隆港と高雄港だけからと主っていたが、花連港
からの出航もあったのですか。あそこは、遠浅で大型船が入れなくて沖合いで停泊、海辺から小船で沖合いの母船まで運ぶ不便な港でありました。小船から浜辺に降りるときも本島人の男性が老人、婦女子をおんぶして運ぶ雑役をする役目で待機していました。ですから引揚事業には向かない港でありました。鹿児島に上陸でしたか。愛媛の宇和島が近いのに。引揚船の入港、陸揚げのスケジュールは無くて、大体行き当たり次第の思い付きの入港司令でありました。事前に公所に連絡を早めに取り、日本語の出来る村の古老を探してマオ来事前に検討しておいて貰うといいですね。恐らく田畑になってしまったのでしょうが、位置がわからぬという事は有り得ないと思うのですが。私は母校へ15人もつれて行き50年遅れて卒業式と歓迎式をいただきました。1994年の冬半ばでありました。Grey hairsの老人が仰げば尊しを歌い涙をながしました。背景音楽は後輩(全部が現地の台湾人生徒)が奏でる「桃太郎」でありました。

2011/5/11(水) 午前 1:36 [ nachitakao ]

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南CA.の武のメールに感激。
私達、家族6名は、最後の日本人引揚者として花連港より合いにいる引揚船に伝馬船で乗船したようです。途中、母親は、私を負ぶっていましたが伝馬船より身投げをしょうと思ったそうです。しかし、私をおぶっいるので思いとどまったようです。鹿児島港に着き、汽車で高松まで帰りましたが、途中汽車が駅で停車すると引揚者、兵隊さん達が乗り込んできて最後には汽車の屋根まで人が乗っていたそうです。幼い子供は人々に押されて圧死した子供もいたそうです。
高松に帰り、お寺、農協の倉庫に間借りしたりして生活をしていたそうです。風呂は、3日に一度ドラム缶の風呂に6家族(約30名位)で入っていたそうです。現在も吉野小学校を卒業した人たちは元気で時々台湾の話、引揚途中の話をしてくれます。
時間の許す限り訪台をしょうと思っています。

2011/5/11(水) 午前 8:05 [ TY ]

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花連港から少数の乗船引揚者であったのですかね?なら場そう難しい
乗船ではないですね。内地の港に着くと、日本旅行者から出張
してきた方が列車の切符を渡してくれたはずです。それに外食券もくれました。DDTの消毒は此処でやったはずですね。花連港で中華憲兵か警官の身体検査はありましたか?一生のうちで両手を挙げて身体検査を受けたのは初めで終わりでした。その目的は自明ですね。今花連茶を飲んでいます。やはりジャスミン系の味ですね。

2011/5/11(水) 午後 2:15 [ nachitakao ]

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花連港から引揚船に乗る時、私達家族だけ丸裸にされて検査を受けたそうです。(父親が軍隊でした)家族一人に砂糖をくれたそうです。四国高松に帰り食べるものはなく、台湾でもらった砂糖と米、麦と農家の人と交換したと聞いています。私は、小学校、中学校、高校と弁当に米の入った弁当は持っていった記憶はありません。38年に高校を卒業して就職しました。必ずや米の飯を家族に食べてもらいたいと時間を惜しんで働きました。今は、なんとか米の飯を食べられるようになりましたが、現在は麦ご飯にしています。

2011/5/11(水) 午後 6:15 [ TY ]

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TY`さん:軍人で独身は軍隊の中の兵士として引き揚げたものですね。しかし、米軍捕虜の処置などで逮捕される危険があるものは変名、変装して他の部隊に潜り込んでひきあげました。台湾から良く持って帰ったのは金平糖でありました。羊羹も人気がありました。旧制中学の2年生に編入試験受けて5年間同じ校舎でまなびました。卒業は昭和26年3月でありました。ひもじい毎日でありましたね。校庭の水道管の水が昼弁当となりました。昭和26年に卒業したら豊富な食物の台湾留学を考えたが、周囲から猛烈に反対されました。母がご飯の中に大根の切干の格好で混ぜご飯を作り、弁当にしてくれました。切干が白いので純白の銀飯にみえました。お米2/3で大根が1/3でしたな。2009年厚生省から麻生総理の記章つきの乾杯をいただきました。之が唯一の台湾引揚者の証拠になっています。

2011/5/11(水) 午後 10:08 [ nachitakao ]

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腰痛で寝込んでいました。(実は、ヘルニアの持病です)最近山登りを目指してトレーニング中で、毎日10Kmウオーキングしています。それで腰痛になりました。最後は、来年7月頃に阿里山登山を計画してトレーニングに励んでいます。阿里山は、真夏でも山頂は5度位だそうです。奮起湖駅まで阿里山鉄道で行って山頂まで登れるか挑戦するつもりです。(約一週間くらいかけて)それまでに費用を捻出しよと頑張っています。

2011/5/17(火) 午後 6:30 [ TY ]

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TYさん:腰痛で登山はどうなんですか?治癒してからが良いですね。
熱帯、亜熱帯、寒帯と阿里山は気象の変化と植物の変化が顕著です。
頂上は寒いですよ。息が白くなりますからね。営林署ん登山予定を通知しなくて良いのですかね。昔は林野局の営林署に通知をする義務が
有ったと同級の営林署員の息子さんが(台南出身)申していますよ。

2011/5/17(火) 午後 11:47 [ nachitakao ]

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> nachitakaoさん
お元気ですか。昨年久しぶりに生まれ故郷台湾花蓮に行きました。私の姉と同級生の台湾人が吉野村に案内してくれました。私達が台湾に生活していた場所を案内してくれました。また、私が生まれた防空壕も実存していました。確認して涙がでてきました。台湾では、(灣生回家)台湾で生まれ台湾に帰るらしい?が話題になり映画化されます。日本でも、台湾吉野村で生活した人たちが映画に出演しています。日本では、11月頃に映画化されて上映されるそうです。再見

2016/8/18(木) 午後 6:26 [ TY ]

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> shi**dzuj*はじめまして。
私は、台湾生まれの三世です。2015年私が生まれた花連懸吉野郷に行ってきました。清水半平先生は知っています。(灣生回家)のBOOKに清水先生の功績が載っています。灣生回家のBOOKは台北の私の姉の友人(台湾人)から頂きました。中国語(繁体)ですので理解できません。ネットで灣生回家と入力すれば花蓮吉野郷のことがビデオで放映しています。2017年3月に再訪台する予定です。再来

2016/10/10(月) 午後 7:15 [ TY ]

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> TYさん
昨年7月に大彎に行ってきました。真夏で日中は38度くらいあり暑くて大変でした。生まれた花蓮には太魯閣号の乗車券が入手できず台北市内で5日間過ごしました。MRTで市内を観光しました。夜になり市内大安區の江浙鮎心と言う店に行き小籠包をたらふく食べて代金は日本円で500円くらいでした。近くには鼎泰豐の店があります。今年の11月に生まれた吉野村に行きます。今から楽しみです。

2017/2/25(土) 午後 5:06 [ TY ]

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> shi**dzuj*さん
初めまして、私は台湾花蓮懸筑紫橋で19年9月に生まれました。吉野会100年祭にも行ってきました。私の姉が吉安小学校時に教えてくれた菊先生ともお会いしました。台北からBUSで高雄、高尾から飛行機で花蓮、阿里山に行きました。昨年ルーツを求めて花蓮懸に行ってきました。一度お会いしたいですね。ご連絡いただければと思っています。

2017/2/27(月) 午後 6:22 [ TY ]


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