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韓国女優チェ・ガンヒのインスタグラムより-敬虔なるキリスト者
6月5日㈪午前
チェ・ガンヒのメッセージ「大学路礼拝: 今晩8時 / TOM演習室Cルーム / ソウル市鍾路区東崇洞1-80番地2階」※ 大学路とはソウルにあるストリート
写真の文章は下記のとおりです。『新約聖書』の一節です。
너희가 전에는 어둠이더니 이제는 주 안에서 빛이라 빛의 자녀들처럼 행하라. 엡5:8
(あなたは、以前は暗闇だったが、今は主にあって光です。光の子どもたちのように歩みなさい。エペソ5章8節《管理者訳》)※エペソは、 『新約聖書』には 「エフェソの信徒への手紙」、または「エペソ人への手紙」 、「エペソ人への書」、 「 エフェソ書 」などと表記されています。なお、出典を明記する場合には、「エフェソ」や「エペソ」と略されるケースが多いです。
ちなみに小生が中学生の時から持っている『新約聖書』には次のように書かれています。
「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――(エペソ人への手紙5.8)」
同日昼
チェ・ガンヒのメッセージ「化粧をせずにヘアバンドをして不思議かもしれないけど、礼拝の時に試しに使ってみるよん。」 《管理者訳》
韓国女優チェ・ガンヒのインスタグラムより
主演KBS2テレビドラマ『推理の女王』最終回放送終了日の5月26日
インスタグラムにドラマ撮影の4秒ループ動画
★チェ・ガンヒのメッセージ「いま、何をやっているのか。元気にしているのか。いきなり気になるなっ。一日休んだのに。はっきりこ うしようと思ってしておいて。楽しくあれこれと、猫の散髪もやったし。冬服も片付けて、税金の申告書類も準備したし。全部やってみた。けれど、気になるね。元気にしているのか?」
同じ日に別の写真を自身のインスタグラムで公開=写真下 。
★チェ・ガンヒのメッセージ「ソロク、何してる?(설옥아. 모해?) 」。ソロクとは、ドラマ『推理の女王』でのチェ・ガンヒの役名。
チェ・ガンヒのInstagr amよ り
ネコと一緒に
チェ・ガンヒ。
チェ・ガンヒは現在KBSドラマ『推理の女王』に出演中。
「中国の作家・茅盾が京都で住んでいた場所を探る」
中国の作家・茅盾 (1896年7月4日〜1981年3月27日) という名はペンネームで、当初は「矛盾」という名を使おうとしましたが、編集者によって矛に草冠を加えて人名のように変えられたそうです。
本名は沈徳鴻。
彼は中国共産党員としての活動をしていたため、1927年7月の 上海クーデター後、指名手配されたんですね。
それで、1928年7月に日本へ亡命。
当時は日中間でパスポートは要りませんでした。
船で神戸まで行き、東京に滞在し、5か月いました。
その後、京都へ。
彼が京都に住んでいたのは、1928(昭和3)年12月〜1930(昭和5)年4月までです。
妻子は中国にいましたが、この京都にて茅盾 =写真㊧向かって左 = は泰徳君=写真㊧向かって右 =という女性運動家と同棲していました。彼は泰徳君より10歳年下だったため、彼は泰徳君を“姉ちゃん“、泰徳君は茅盾を“ガキ”と呼んでいたようです。
この件に関しては悩ましいところなのですが、茅盾は当然ながら回顧録にも何も書き残しておりません。周囲の人の言葉や写真、のちに香港や日本で発表された泰徳君の手記などから、間違いないものと思われます。ただ、彼はのちに泰徳君とは別れて妻子の元へ戻りました。
京都から、ふたりして上海へ戻りましたが、そのすぐ後に別れたようです。
話がややスキャンダラスな方へ行ったので話を戻しましょう。
彼が京都で住んでいた場所ですが、現在の京都市左京区田中高原町。
当時の地名は変遷の時期に当たり、東京から引越ししてきた当初1928年は左京区ではなく上京区でした。
この地域は元々は愛宕郡田中村という地名で、1918年に京都市上京区に編入され、ちょうど茅盾が住んでいた1929年に京都市左京区に変わったのです。左京区が上京区から分区されて誕生し、この地域もそれに含まれたんですね。
この辺りは、Wikipediaによりますとかつて被差別部落に該当していたようです。茅盾が京都から去って6年後の1936年3月に刊行した『全国部落調査』という被差別部落の調査報告書にもこの地域のことが記載されています。「戸数653、人口2995、主業は土光、日稼、行商、靴製造、副業は刺繍、生活程度は下」とあります。
そのことを茅盾が知っていたかどうかは分かりませんが、作品には投影されているように見えます。
一方で、すぐそばの東側にある吉田には京都大学があります。この京都大学を第三高校から昇格させたのは立命館の創始者でもある西園寺公望公です。
西園寺公望公は愛宕郡田中村に生家があります(※諸大夫堀川久民の家という説あり)。この生家は現在、京都大学清風学館になっているところです。なお、京都大学の起源はなぜか長崎県にあった長崎養生所にあります(詳しくはWikipediaで)。
また、茅盾が住んでいた別室には立命館に留学中の中国人兄弟も住んでいました。
その家は、8畳4間で2間は空き部屋だったといいます。
近くには田中池があったようですが、いまは地図を見る限りありませんので恐らく埋められたんでしょうね。
よくそういう場所は駐車場になっています。
私の地元にも子どものころに池がありました。アメンボやゲンゴロウなどが棲息していてのどかで風情がありましたが、いまは埋められて駐車場になっています。
きっと、茅盾が住んでいた 田中高原町 にも当時はそういった風情が残っていたのかもしれません。
また、その田中池のすぐそばには疎水もあります。
こちらは今も残っております。琵琶湖疏水の分流となる白川疎水です。
この分流は哲学の道へと通じ、その 途中にはNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重のお墓があります。山の中にあります。
茅盾が生まれ育った浙江省烏鎮(ウーチェン)は、「アジアのヴェネチア」と呼ばれたりするように大運河に面しています。彼はこの烏鎮に医師であった父親が亡くなる10歳までいました。 ある意味、この田中高原町もその環境に比較的近かったのではなかろうかと思われます。
で、この田中高原町では、長編小説『虹』、短編小説集『野薔薇』、評論『枯嶺から東京へ』 、文芸理論『騎士文学ABC』、文芸理論『西洋文学通論』、文芸理論『 神話の研究』など数多くの文章を書いています。そのうちの『虹』は泰徳君の友人 ・胡蘭畦をを題材に書かれたものです。
『虹』の主人公・梅行素の人生は、四川省で生まれ育ちながらも四川省を離れる 胡蘭畦そのものであり、女性の自立への道を書き綴っています。
再び、話が良からぬ方へと行きましたので、話を田中高原町に戻しましょう。
私は一乗寺に知り合いの女性がいましたので、この辺りも散策した覚えがあります。
当時は、茅盾が住んでいた場所だとは知りませんでしたから、私の勉強不足ですね。
知っていたら、もう少し違った思いでこの辺りにも行くことができたと思います。
いまはGoogle Mapがあって便利ですね。
ストリートビューができて…。
ストリートビューで見る限り田中高原町は 住宅街ですね。駐車場がなぜかメインの写真になっています。
もしかしたら、この駐車場が田中池だったかも知れません。
実際に行ってみたいですね。
このブログ投稿日までには…。
ですから、出来るだけ投稿の日時を先にしたいと思います。
来年の3月に設定しました。
いまは2016年10月12日ですから、5か月後の未来です。