ヘナチョコ革命

檜原転石の発言集:トンデモ和製英語「ブラック」(「ブラック企業」・「ブラック大学」など)の“言葉狩り”を継続中・・・

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 あらかじめ負けることが分かっている論争ほどつまらないものはないから、私はここで佐高信に入れ知恵をする。まあここではヤケクソで「木を見て森を見ない」論法でいくしかない。要するに謀略の一味という重い事実には頬被りして、その後、福沢諭吉が金玉均をどうかばったかだけに焦点を当てるのである。

 それではまず佐高信の負け戦になるであろう一回表の攻撃でも見てみよう。

▼敵から見たら(佐高 信) 2010/9/10
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/data/fusokukei/data_fusokukei_kiji.php?no=1354

 ・・・

 また、悪名高き「脱亜論」にしても、福沢はそれを唱えながら、朝鮮独立運動のリーダーである金玉均を、自らの身に危険が及ぶのを覚悟で助けた。当時の日本の政府はそれを理由に福沢を捕えようとしたし、事実、福沢の弟子の井上角五郎は投獄され、福沢との関わりを白状せよと迫られている。

 どうしても学者は文献によって判断しがちなので、現実の行動を追うことはおろそかになる。また、実社会にもまれないので自分だけが正しいと独断的な主張を声高に繰り返すようになる。

・・・

*****

 これについては、以下のブログで――

▼アンチナショナリズム宣言
読み方注意!『福沢諭吉伝説』 - 恥を知れ!佐高信 -
http://electric-heel.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-dc20.html

・・・
佐高の『福沢諭吉伝説』では「脱亜論」の真実に迫るとして、最終章では福沢諭吉が金玉均を全面支援したことで、”脱亜論”の正当化をしている。福沢諭吉は朝鮮を天皇を戴く日本の支配下に置くために、反体制派の金玉均を支援して傀儡にしようと利用しただけであることは、バカでもわかる。そんなこともわからないのは、何も考えもなく平山の主張を鵜呑みにしているからだ。

******
 
 う〜ん、たしかに謀略は歴史の常であり、「アンチナショナリズム宣言」さんの言うとおりで、そんなことは馬鹿でも分かることである。ということは佐高信は馬鹿以下ということになるが・・・・・・。

 まあそれはともかく、まずここでは謀略事件について今一度確認しておくことにする。

 安川寿之輔が、<この政変は、日本の国家権力(井上馨、竹添公使、島村書記官)が民間(福沢諭吉、井上角五郎ら)と一体になって朝鮮の内政に干渉し、しかも武力介入してまで政権の交替を謀るというおぞましい事件であった>(安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』高文研、p111)と書いていて、角田房子『閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母』(新潮文庫)と海野福寿『韓国併合』(岩波新書)を紹介している。

 海野福寿の本(『韓国併合』岩波新書、1995年)も、もう古い本の部類に入るのだろうが、読み返してみると、甲申政変については、かなり詳しく書いている。ちなみに海野福寿は韓国併合条約については合法不当論の立場の人である。
 その68頁には、<甲申政変は、日本の国家権力が朝鮮の内政に干渉し、しかも武力介入して政権の交替をはかる、というおぞましい事件である。それにもかかわらず日本政府は、“竹添公使が金玉均らと通謀した事実はなく、保護を求めた国王の要請にしたがって王宮に入ったにすぎない”と強弁して押しとおした。・・・中略・・・条約は、朝鮮が日本に公式謝罪し、被害者遺族の救恤と財産補償として11万円を支払う、ということなどを内容とする。調印後のことであるが、井上は、近藤真鋤駐朝臨時代理公使あての機密文書で、竹添公使の不当な行動、壬午軍乱後の政府の開化派支援策が事件の一因となったことを認め、交渉と事実究明をおこなったならば「我行為の不是を表証するに均」しく、「我公使の体面を損し、主客其地位を顛倒」するおそれがあるので、朝鮮政府にたいする「要求を寛減」するとともに「我公使(竹添)の凶党に関係を有せざる事実を表明」することにつとめた、と述べている。> とある。

 というわけで、佐高信のトンチンカンぶりは明白なのだが、ただコラム『敵から見たら』の短文をわざと誤読すれば、「謀略事件の仲間を切り捨てなかった福沢諭吉は偉かった」とも読めなくはない(笑)。
 
 “捨て石”を簡単に捨てるのが国家権力だとすると、<「都てコンな事は唯大間違で、私に身には何ともない。」(『全集』В横苅競據璽検砲伴身のふかいかかわりを伏せている。>(安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』高文研、p112)ような福沢諭吉でさえも、“捨て石”を捨てなかったことに評価を見出す人間がいてもいいかもしれない。だって竹添や日本政府の対応は――<ここで一行は停泊中の「千歳丸」に収容され、日本に帰還することになるが、よるべき所を失った朴泳孝・金玉均らの同行を、竹添は露骨に嫌った。首謀者と自分との連繋があきらかになることをおそれたのである。彼らがひそかに乗船できたのは船長辻覚三郎の義侠による。しかし、日本へ着いた亡命者に対する日本政府の態度は冷たく、金玉均は10年ちかい幽閉生活ののち、1894年、上海で朝鮮国王の放った刺客に暗殺される。>(海野福寿『韓国併合』岩波新書、p67)、というような状況であったのだ。

 又、ここで今一度後戻りして、事件との深い関わりを伏せた福沢諭吉に不満を述べていた井上角五郎にも触れておきたい。<政変に使われた刀剣、爆薬類は福沢を通じて入手したと証言している井上角五郎は、福沢筆の「朝鮮京城変乱の始末」について明らかに不満の口吻で次のように書き残している。「・・・引用者略・・・、金朴の一挙に就ては先生は啻に其筋書の作者たるに止まらず、自ら進んで役者を選み役者を教へ又道具立て其他万端を差図せられた事実がある。・・・>(安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』高文研、p112)

 福沢信者(?)の佐高信が福沢諭吉のこの頬被りを真似れば、福沢が謀略の一味という重い事実には頬被りできたりして・・・。

 さて最後に、この「木を見て森を見ない」戦法にとって、避けては通れない最大の厄介な問題にも触れないわけにはいかない。

 <なお、,遼尾でも言及したことであるが、朝鮮王宮占領の際も閔妃殺害の際も、福沢と面識のある岡本柳之助が新日政権の樹立のために引き出し役をつとめた大院君その人は、福沢が指導・支持した「開化派」に敵対する「守旧派」の首領である。つまり福沢は、親日政権の樹立と朝鮮支配のためならば、今や悪魔とも手をつなぐ政治家に変貌しており、そういう自身の転身にあわせて、開化派に対しても、いつのまにか「彼の開化党と称する新進の官吏輩の如き、・・・・・・其実は他国に遊び又他国人と面識あるの故を以て偶ま偶ま時を待て進みたるものに過ぎず。素より一個の見識あるに非ざれば、決して朋友として頼む可きものに非ず。左りとて一概に疎外す可きにも非ず。」(268番)という見事な評価替えを済ませていたのである。この変わり身のはやさ。どうしてこのような人物が、・・・>(安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』高文研、p195)

 「評価替え」の(268番)は1894年10月16日であり、金玉均の暗殺は1894年3月28日である。ちなみに上掲書の「福沢諭吉のアジア認識の軌跡」蘭の272頁
に1894年4月13日付けとして、<「金玉均氏事、・・・・・・不幸とも不運とも言語に尽し難く、・・・、・・・印の為位牌を作り、仮りに拙宅の仏壇中に安置し、朝夕お花にても供へ、・・・」(真浄寺宛書簡横毅坑機法笋箸△襦
 よって金玉均の死後、6ヶ月余で福沢諭吉の「評価替え」がなされたということだ。

 捨て駒の死後の6ヶ月余には福沢諭吉の「評価替え」が済んでしまうとなると、金玉均らの保護や世話をした福沢の戦術とは、ただ使えそうな手駒は絶対手放さないものであったに過ぎないということになり、恐るべき冷酷な戦術家・福沢諭吉という評価だってできるわけである。
この結論では佐高信への入れ知恵にはならないので、最後に福沢諭吉のおおものぶりを紹介して、結論はどっちなのだろう?とぼかすぐらいしか私には良い知恵は浮かばない。もちろん、いい加減、矛盾だらけの言論、支離滅裂、変わり身がはやいなどの人物を論理的に説明するのは難しいものだが、一つだけ確実に言えることは、人種主義者を擁護するって、大変なんですよ、佐高信さん!

<しかし、序章3でも触れたように福沢は常人とは異なる骨太の「おおもの」である。逃亡してきた金玉均ら8名を夜陰にまぎれて自宅に招いた諭吉は「よく生きてゐた。お目出度う」と迎えて、シャンパンを用意するが、シャンパングラスがないので、「普通の盃でもよかろう」というのを制して、わざわざ「近所の店から取寄せ」て祝杯をあげている(前掲、『諭吉伝』第3巻、346ページ)。>(安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』高文研、p129)

追記1(2010/09/15):捨て石にされた開化派への厳しい評価(上掲書、p141)

 <・・・さらに開化派へのもっときびしい尹健次『朝鮮近代教育の思想と運動』(東京大学出版社、82年)の次の評価にも私は同意せざるをえないのである。
 「彼ら開化思想家は福沢の啓蒙主義を学ぶことを通して親日的となり、結果的に日本の侵略を受け入れやすくする土壌をつくりあげるのに荷担した。・・・・・・学校設立や新聞発刊が・・・・・・福沢にとっては、侵略のための文化工作にしか過ぎなかった。・・・・・・文明の先進国として日本を見ることによってその侵略性を軽視することになった。」(55〜66ページ)

追記2(2010/09/15):角田房子『閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母』(新潮文庫)、p294〜295

 1881年から84年にかけて、福沢は「荒っぽい手段をとっても、日本は朝鮮を誘導しなければならない」という趣旨の文章をいくつか発表している。誘導の目的は彼自身が書いているように、「真実隣家を愛するに非ず、又悪むに非ず、唯自家の類焼を恐るればなり」であったとしても、“学問を以て”隣国の近代化を具体的に図ってきた。そこへ1884年12月の、金玉均を中心とする“甲申政変”が起こった。
 山辺健太郎(朝鮮近代史、日本社会運動史専攻)は著書『日韓併合小史』に、「金玉均らのクーデター計画は、かれが福沢諭吉、後藤象二郎と十分打ち合わせたものであることは、福沢、後藤あての意見書に、このクーデターをおこすために『もし武力を用いるなら(中略)閣下と私とは、かわらない鉄盟があるとはいえ、二人の約束は結局私的なものであるから、私は君主の密約をもらって閣下と事を行いたい』とあることからわかる」と記している。山辺は金玉均の意見書の写真を示し、さらに次のように記す。
「井上外務卿もこれを知りながら、暗々にこれを支持し、政府と民間(福沢諭吉、井上角五郎ら)が一体となって金玉均らを扇動してあのクーデターをやらせたことは、今日のこっている諸記録からもあきらかである」
 それまでも金玉均らの開化運動に物心両面の支援を与えてきた福沢は、彼のクーデターに期待をかけた。しかし結果は惨敗に終り、金玉均とその同志たちは命からがら日本に亡命してきた。福沢が問題の「脱亜論」を発表するのは、その三、四ヶ月後である。

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佐高は逃亡の由


一撃筆殺仕事人:佐高信先生追っかけブログ
2010-09-29 23:59:59
佐高信蟠睛貌社長、取締役退任
http://ameblo.jp/sataka/entry-10662867238.html

2010/9/30(木) 午後 9:23 [ t_h**fm ] 返信する

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