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私達がブダペストを訪問したとき,ブダとペストを結ぶセチェーニ鎖橋は,ホコ天状態だった。袂近くの通路の両側には,民芸品のマーケットとハンガリー料理の屋台が立ち並ぶ。ハンガリーの代表的なスパイスはパプリカ。辺り一面にちょっぴりスパイシーな香りが立ち込めていた。 プダペスト1日目は,ガイドブックに「地元の人おすすめのレストラン」と紹介されていたファタール/Fat??l。予約していなかったので,少し待たされたけど,庶民的でとてもよい雰囲気だった。 翌日のお昼ごはんは,ホテルでその残りを微細(?)処理。ホテルがキチネット付きでよかった〜。温め直して美味しく戴きました。でも,もうシュニッツェルは当分いらなさそう。 ワインを飲み始めたのは20歳くらい。最初は口当たりのよいドイツの白ワインが好きだったけど,日本酒を飲むようになってからは,どちらも辛口が好き。オランダでは,ユーロ圏外には出荷されない,ランクは低いが美味しいワインが格安で購入できるので,産地と葡萄の種類と製造年を見て,3〜5ユーロくらいのものを購入していた。甘いものといえば,ソーテルヌやアスティなどは食前酒として飲むこともあるけれど,今ではほとんど買わない。だけど,ハンガリーには世界三大貴腐ワインの産地があるとか言われると,試さないわけにはいかないよね。 というわけで,ホテル近くの酒屋さんで購入したトカイ・アスー。アマアマ度が1から6まで付いており,購入したものは比較的甘くないという3なのだけど,お味は・・・? むむっ,あっ,あっ,あっ…… あ ま い っ !!!!!想像以上の甘さはまるで水あめ。一口飲んで,もう御免。夫よ,後は頼む〜,という感じで,ビールを飲んで口直し(ソレ言い過ぎ)。すみません,やっぱり私には楽しみ方が分かりません。だれか,教えてー!気を取り直して,ハンガリー最後の夜は,ホテル近くの上品なレストランS??rforr??s ??tteremへ。ガイドブックに載っているのかどうかは知らないけど,江戸っ子の話し声が近くのテーブルから聞こえてきた。
ヴァイオリンの生演奏を聴きながらの,優雅なディナーだった。 |
欧州旅日記(東欧)
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実は,私は今,酒所に住んでいる。酒所の条件は,やはり原料たる米と水。この辺りで酒造りに使用される水は,江戸時代から酒造りに適しているという評価を得ていたのだそうだ。現在では,その水も大分汚染された由,造り酒屋の人々は,以前のような清らかな水を得るため,かなり深くまで井戸を掘り下げてくみ出している由。米は山田錦。米についても,時代をさかのぼれば,なぜここで美味しいお米が栽培されていたのかが分かる。 オランダやドイツ,ベルギーなどとともに,チェコもビール所として知られる。この国も原料となる欧州の穀倉地帯の麦と,良質なホップと水に恵まれていたのだそうだ。もともと夏場はビール一辺倒になる私だけど,兎に角,プラハではビールを飲むべし,と,プラハに向かう時から,頭の中は黄金色に輝く水が溢れそうに一杯で幸せだった。 右の写真は,古都プラハの街中を走るトラム。景観のことを云々する人もいるようだけど,私の訪問した欧州の多くの都市でトラムが走っていたので,私の脳内では,議論の余地なくトラムラインが欧州の都市の風景の一部となっている。そう言えば,以前もスイス(ベルン)の記事に書いたが,2年ほど前に読んだトラムに関する書籍がよかった。トラムが世界の潮流。だって,便利ですもの。 トラムの本 ⇒ 「世界ゆったりトラム=旅物語」 夕食は,ガイドブックでも紹介されているビア・ホールU Fleku(ウ・フレクー)。以前は,修道院だった建物らしく,内部は広くお庭も美しかった。観光客が多く,写真撮影する人も少なくなかった。 兵士の格好をしたミュージシャンがやってきて,スペイン人のグループのテーブルのそばで「シェリドリンド」を演奏すると,踊る人までいて,大いに盛り上がっていた。シェリドリンド,大分前にスペイン語の研修のときに歌ったのだが,なぜか「♪歓待の夜〜」という日本語訳詞しか覚えてなかった…orz 私達のテーブルでは「スキヤキ」を演奏してくれた。 お料理は,ローストポークとローストダックにサラダ。付け合せの白くて丸いパンのようなものは,クネリドーキ。中華料理のマントウのような不思議な食感。 食事はそれなりだったが,ビールが美味しく,何より楽しかった。 翌日の昼食は,川沿いの U Rudolfina(ウ・ルドルフィナ)。ガイドブックには,大衆食堂的な紹介のされ方をしているが,内部は割と雰囲気のよいチェコ料理のレストラン。テーブルが地下に下ったところにあるから,欧州では食堂みたいな雰囲気になるのかな。 (「タップ・ビア(tap bier)」とは,ねじをひねって出すビール。よって「樽生」ってこと。オランダのレストランのメニューでは,「樽生」が飲めるビールはこのカテゴリーに並んでいることがある。蛇足だけど,我が家では,"tap water" って言ったら,水道水。笑) シュニッツェルとローストポーク。シュニッツェルは,よく「カツレツ」と紹介されているが,お肉の周りについている衣が日本のパン粉よりカリカリしており,また,薄いのが特徴。我が家の人々は,割とコレが好きみたい。「大きいねぇ〜」と幸せそうだった。 というわけで,プラハで飲んだビールは3種類。
飲み物もお料理も,お値段はとってもリーズナブル。お会計はユーロでオッケーだから,最終日でも,手持ちの現地通貨が足りるかなんて,心配する必要なし。欧州に住むものにとっては,プラハはなかなか魅力的な街でした。 |
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我が家の最後の欧州旅行では,行き先が未知の土地東欧なだけに,どんなお料理やビールに出会えるのかとても楽しみでした。 いつもエントリが長いので,今回は分けて投稿します。 上は,ベルリンのブランデンブルク門。 ※ ※ ※ ぶらぶらと歩いた後,動物園駅近くのレーベンブロイにて早い夕食。 ミュンヘンのビール会社なので,ミュンヘン名物,シュバイネハクセと白ソーセージを。 この後,夜行列車に乗って,クラクフ(ポーランド)へ。 ランチはアウシュビッツ強制収容所の近くのピッツェリアで。ピザはヨーロッパのどこででも食べられます。イタリア人,恐るべし。 ここでもソーセージを食べておきました。何か黒い…。 ピザやパスタも注文しましたが,写真を撮るほどではありませんでした。 ビールは,場所柄,自粛。。。 ピエロギは,英語メニューではラビオリとなっていました。つまり,いわゆる餃子です。酢醤油のようなソースがかかっており,懐かしく,ホッとするお料理でした。 スープはトマト・オニオン,香草の3種類。赤いのが,香草のスープで,シンガポールでいただいた薬膳料理のようなお味でした。 ポーランドのビールも美味しかった! ラベルがかわゆす。。。 ビール ⇒ ZYWIEC 下の写真は,お店があった通りです。 夜行列車でベルリンに戻ります。 クラクフ行きの列車は,ベルリン・リヒテンベルク駅発着ですが,チェコ行きのECはベルリン中央駅から出発。Sバーンを乗り継いでベルリン中央駅に向かい,お昼ごはんを仕込んでウィーン行きのECに乗り込みます。
ドイツ・ポーランドを往復した時にも,国境手前の駅で出入国審査がありました。夜行列車だったので,審査は深夜となりました。ホント,ご苦労様です。 右側は,昼食のSUSHI。SUSHIはヨーロッパのどこでも食べられます。日本人,恐るべし。ん? 肉・肉・肉…と肉料理が続いたら,やっぱりこういうものが食べたくなりますね。あんまり美味しいお米ではないのですが。だって,日本人だもの。 |
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ウィーン南駅に到着してすぐ,駅の窓口でブダペスト往復の切符を購入することとした。ところが,駅の係員に,片道切符しか購入できない,また,(1等車両にしても)指定席がとれない,と言われ,私達は2度驚いた。まず,そのスキンヘッドの男性係員の態度がひどく無愛想だったこと。先に切符を購入した隣国ドイツのデュイスブルクの係員の対応が非常によかったので,その落差に驚いた。そして,反対側の隣国ハンガリーとの連絡の悪さにも驚いた。今思うと,その時は気分悪い思いをしたことだけが頭にあったのだが,これが永世中立国だったオーストリアと旧共産圏ハンガリーとの関係を,端的に表わしているのかもしれない。 翌日,ウィーン東駅から,ベオグラード(セルビア)行きの列車に乗り込んだ。ベオグラードは旧ユーゴスラビアの首都。ユーゴスラビアがすぐそこなのだと考えると,ますます東欧に足を踏み入れるのだと実感する。ベルリンからクラクフに行くときにも,列車の行き先表示が誤ってキエフ(ウクライナ)となっていて「えー!」と思ったのだが,その時以上に感慨深かった。 車内では,アメリカ英語がよく聞こえた。バックパッカーの彼らも私達同様に,行き先国がシェンゲン協定加入国かどうか気にしている風だった。
写真1枚目は,ベオグラード行きの列車@ウィーン東駅
市街地行きの地下鉄の切符を買う人の列にかなり長い時間並んでいたのだが,後ろに並んでいた英国人らしい男性が,しきりに「コミュニストの国め!」と毒づいていた。まぁ,そりゃぁね…。2枚目は,ブダペスト東駅 温泉も非常に多い。上の写真は,王宮の南にあるゲッレールトの丘。ハンガリーのキリスト教化のためイタリアから派遣された僧侶,聖ゲッレールトにちなみ名づけらている。その聖人は,異教徒の手によりこの丘からドナウ川に投げ込まれ殉教した由。この丘に二つの温泉があり,また,丘の上には要塞と,高さ32mの自由の女神像がある。像付近には,1990年まで旧ソ連護衛兵の像や共産主義の象徴たる五角星,ロシア語の銘版があったそうだ。上の画像以上に,白く見える岩肌。その白さが,ブダペストの街並みの色彩と関係するように思った。 ホテル内は撮影禁止となっていたため,上の2枚の画像は,同ホテルのHPから失敬した。左側が温水プール。右側がお風呂。温度の異なる2種類のお湯を楽しめる。天井には,イスタンブールのトルコ式風呂のように,小さな星型の穴があり,光が射していた。 ここも写真撮影禁止のため,上の写真は,ブダペスト観光案内公式サイトから失敬。だけど,ネットを見回すと結構画像がある。プールでは,ロッカー番の"No photo!"の声をよく聞いたが,みんなめげずに写真撮ってるんだなぁ,と感心。 子どもは,プールで泳いだ後,市民公園の遊具でしばらく遊んでいた。ヨーロッパの公園は,どこも広々しているし,公園から子どもが飛び出したりしないように配慮されているので遊ばせやすかった。 右の溶け気味のウシ型アイスは,なめちゃいけない由。 ほかに,金色の体前面に1セントコインが貼り付いているものなどもあった。 最終日,ようやく晴れ。
帰路のウィーンまでの切符については,ホテルに依頼して購入してもらおうとしたのだが,スロバキア経由というのが難しかったらしい。出発前日の夜に,ホテルマンから「無理だった」と言われ,出発の日の早朝,夫が駅へ行って購入してくれた。こんなところで綱渡り的なことはしたくなかったのだが…。ただ,車内で様子を見ていると,切符を持たずに列車に乗り,車掌から購入する人もいたようだ。 購入した切符は手書きだった。 市民公園の温泉でチェスシーンを撮影できなかったので,代わりに駅前の広場のチェスおじさん達を。この国の人たちって,本当にチェスがお好きなんですね。 |
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8月12〜14日 ブダペスト(ハンガリー共和国) 上の写真は,ハンガリーの首都ブダペストを流れるドナウ川。この大河の向こう岸にある壮麗なゴシック様式の建築物は国会議事堂で,先般の騒乱の舞台の一つとなった。ブダ側の丘にある王宮付近から撮影。 この国を訪問する前に持っていた知識はあまりにも少なかった。 世界史の教科書に出てくるフン族とかマジャール人とか。彼らのルーツがアジアにあるので,氏名のオーダーが私達日本人と同じ「姓」・「名」の順というのは有名なのだろうか。オスマン・トルコの支配を受けたため,イスラム文化が入り込んでいるらしいこと,フランツ・リストの「ハンガリー狂想曲」とか,陸上競技の投擲選手の中に胸板の厚いハンガリー人をよく見かけることとか,後は,冷戦構造崩壊の際,東西の壁はこの国から崩れたこと…,というような,誰もが知っているようなことだけ。Wikipediaを見ると,最初の方に,「首都ブダペストにはロンドンに次いで世界で2番目に地下鉄が開通した」とある。何度か地下鉄に乗ったが,確かに一度,衝撃的な古さの車両に乗り合わせた。錆錆でブリキのおもちゃのような…? あぁ,あれは写真撮影の価値ありだったのだなぁ,などと今頃がっくり。 実は,ハンガリーについて詳しく知るチャンスはあったのだ。渡蘭前に私が勤務していた職場には,外務省への出向制度があったので,周囲に在外公館での勤務経験がある人が結構いた。オランダだと二人位知っている。幸運にも,最後の部署で隣の席になった男性は,数年前(と言っても,ギルダーの頃)にハーグで勤務していたので,渡蘭前には何かと教えてもらったものだ。同様に,東欧で勤務した経験がある人もいたが,古い話なので,当時の世情のためテンションが下がり気味。東欧というのは,ソフィア(ブルガリア)とかブダペストのことで,特にソフィアに駐在した人の話から,東欧勤務はキツイのだな,という印象だけが残っている。もっと色々話を聞いておけばよかった,などといまさら思うが時既に遅し。 そんな感じで,あまりイメージのないまま決行したブダペスト旅行。2泊3日の街歩きは,古い街並みが新鮮だった。 その理由は,プラハを流れるヴルタヴァ(ドイツ名:モルダウ)川が,ボヘミアの森をその起源としエルベ川(欧州第14位)に合流するのに対し,ブダ地区とペスト地区の間に流れるドナウ川は,その起源をドイツのシュヴァルツヴァルト(黒い森),河口をルーマニアの黒海とする欧州第2の大河だからだ。延長距離はライン川の約2倍。この大河は,水上輸送に利用され,沿岸の街に何度も侵略の危機やビジネスチャンスを持ち込んだことだろう。 従って,水上輸送の妨げとならないように,また,冬季には氷が漂流するのでその堆積が川の流れを阻止しないように,ブダペストの橋は頑丈に,簡素に,それでいて美しく造られた。 ポーランドにおいて古くから鉄道が発達していたのは,この地方で産出される鉄鉱石のおかげとのこと。そのため,ナチスドイツは,彼らのヘッドクォーターから程よく離れ,かつユダヤ人を鉄道輸送するのに利便のよいアウシュビッツに強制収容所を作ったのだった。欧州大陸最古たるブダペストの地下鉄を振り返ると,ハンガリーも同じなのだと思う。そして,鉄の産出についてばかりでなく,当時のこの国の治金工業技術は大変優秀だったのだ,と橋に教えられた。この橋が,街の人々の誇りだというのもよく分かる。 この橋により,街はドナウ両岸に広がった。 この鉄橋には,ヨーロッパらしい装飾が施され,地味な色合いながら大変美しかった。 橋の話はこれにて終わり。次は多分,温泉の話など。
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