調査隊,オランダを行く

mozaiekのオランダ日記*2006年、オランダ王国ユトレヒト市から帰国しました。

ユーロ雑感

[ リスト | 詳細 ]

ヨーロッパに関する思索の記録。
1人で勝手に語ってます…。http://w1.ax.xrea.com/c.f?id=100493050
記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

季節はずれの話。先月末,私の住むマンションで,「ハロウィンの雰囲気を楽しむ会」が行われました。これは,簡単に言えば,仮装したマンションの小学生が,参加者の家庭を徒党を組んで訪問し,お菓子をもらって回るというものでした。オランダで仮装用の衣装を持ち帰った私達,皆の期待を裏切らないように仮装して場を盛り上げ(たつもり),お菓子もたっぷり準備して,やってきた子ども達を室内に招じ入れて一興,とやったわけですが,"Trick or treat!(=いたずらか,もてなしか。つまり,「お菓子をくれなければ悪戯するぞ」という意味)"と言って練り歩く子ども達を見て,漠然とした違和感を持ちました。

   ※   ※   ※

英語教育について考えるシリーズの4回目です。
現在のところ,
1回目……現行の公教育で英語のコミュニケーション能力が身に付かない理由
2回目……公的部門での英語教育改革 -- 小学校での英語教育の現状
3回目……私的領域での外国語教育の問題点 (1)社会環境を多言語の環境とした場合
という感じで続いています。
今回はシリーズ最終回。3回目の続きで,私的領域での英語教育の問題点,特に日本で英会話スクール等に通う場合について考えます。

   ※   ※   ※

前回のエントリでご紹介したとおり,私の子どもには,日本語に関して失われたものがある。しかも,覚えている日本語も,言葉のニュアンスや使い方は渡蘭した4歳当時のままなので,かなり幼稚だ。そして,オランダ生活の2年間で覚えたオランダ語は,すぐには思い出せなくなっている。
だからといって,在外生活は子どもにマイナスにだった,と悲観的に考えるのは一面的だし,うじうじと悩んでも仕方のないことなので,そういった不利な条件をも前向きに受け止められるようにしたい。幸いにも,私の子どもはオランダ時代にたくさんの友人を作ることができた。そして,彼には今後も友人達とコミュニケーションを取りたいという現実的な希望があり,そのために英語を学びたいと言うので,「日常会話で使える英語を学ぶ」ことを目標として,彼が希望する英会話スクールへ通わせることにした。ちなみに,ツールとして英語を選んだ理由は,日本での学びやすさとオランダ人の英語能力の高さである。オランダ語のキープについては,コストパフォーマンスを考慮し早々にあきらめた。

英会話学校には,指導者に関し3つの形態がある。1)日本人のみ,2)日本人と外国人(多くは英語のネイティブとされる),3)外国人 という具合。日本人が指導する場合は,レッスン中に日本語のフォローが入るしレッスンの雰囲気もわりと親しみやすい。ところが,外国人が指導する場合は,欧米式の指導方式も売り物とされ,レッスン料も割高となるようだ。つまり欧米式の方が「価値あるもの」と認識され,貨幣に変換されているということ。
色々考えた結果,私達が選んだのもネイティブ先生のレッスン。その理由は,これまでに習得したことを後退させないためだ。その一つは,外国人と出合った時に「外国人」ではなく,人として対峙できること。これは多国籍なオランダで,彼がオランダ人だけでなくイスラム系の人々やアフリカ人等と対等にやってきたことによる強みだ。それと,もう一つは,アルファベットの発音である。よく言われるのは,"r"と"l"の発音。オランダの小学校で子どもの成績について担任の先生との面談した際,彼女は「日本人にこれらの区別がつかないのは有名な話」と言っていた。彼のアルファベットの発音はオランダ式で英語とは異なるが,日本人には難しいと言われる音の区別はできる。それで,言葉を英語にかえてもこれをキープしたい,なるべくネイティブの音を忘れずにいて欲しい,と思ったのだった。余談だが,オランダ語(オランダ人)の"r"は,スペイン語同様,かなり巻き舌がきついので,聞き取りやすいし,巻き舌ができる人には発音も意識しやすい。

周囲にはかなり幼い頃(例えば1歳とか)から英会話レッスンに通っているお子さん達がいるが,彼女たちに前のエントリで指摘したような問題――社会化やセンスのズレの問題――はなさそうだ。ただ,何年通っても,なかなか自分から大きな声で話しかけることができないというような話は聞いた。これは,すぐに外国語を使ってみる積極的なタイプと,文章構造が理解できるまで話し始めないタイプがあるようなので,そういうことかな,と思った。ちなみに,私の子どもは後者に当て嵌まる。彼もなかなかオランダ語が出なかったが,話し始めると文法的にかなり正確だったので驚いた。話を戻すが,週に一度のレッスンでは,外国語なんてなかなかマスターできるものではない。より早く身につけようと思えば,多少家庭でフォローしたり,レッスンの回数を増やして濃度を上げてゆくしかなく,そうでなければレッスンを受ける期間を長くするしかないというのは分かりきった話。
余談だが,英会話教室で知り合った人の中には,以前通っていた別のスクールの方針で,幼稚園児のお子さんに英語の試験などを受けさせたという方もいた。話によれば,試験中にお子さんが先生に日本語で質問の意味を確認したのだが,先生は試験中なので応えることができなかった。試験終了後,その先生による何らかのフォローがあったのかどうかは分からないが,帰宅したお子さんは「先生にいじめられた」と言って大泣きしたのだそうだ。結果,このお子さんは英語レッスンが嫌になりそのスクールをやめてしまった。こういう話は極端なのかもしれないが,このお子さん(またはご両親)の英語教育のゴール地点は何だったのだろうかと少し疑問に思った。暫くして,そのご家族は来年の4月から転勤で香港に住むことが決まったため,私の子どもと同じスクールで英会話に再チャレンジしている。

だが,配慮が必要なこともある。
日本の英語教室,特にネイティブ先生を売りにしている教室では,英米(主としてアメリカ)の言葉を学ぶというルートを通して,アメリカ人の思想や行動様式を学んでしまう。しかも,子どもは,レッスンに通わせる親がそれを奨励しているように感じるかもしれない。従って,子どもはアメリカ式の人間関係のあり方を「良いもの」,「普遍的で正しいもの」,「世界標準」として捉えてしまう可能性があると思うのだ。
例えば,レッスンでは,子ども達は先生をファーストネームで呼び捨てにするケースが少なくない。日本は年長者に対し呼び捨てやあだ名を使用しないという文化を持っているが,レッスンでは向こう側の流儀に立ち位地を移してしまう。最初のハロウィンの話もこれに似ている。英語のレッスンでは,ハロウィンについて学び,教室によってはパーティをするところもあるそうだ。「お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ」と誰かを脅かすような関係性を,日本では子どもに正当なものとしては与えてこなかったはずだが,そういう流儀について私達が感じるほど子どもは新鮮には感じずに,あたかも日本に既存のものとして受け入れてしまう恐れがある。私がマンションの子ども達の嬉々とした表情を見て抱いた不安はそういったことだ。
言葉として英語を学ぶだけなら,祭りや流儀といったものをアメリカ化する必要はない。だが,それを「異文化」として体験させるのであれば,その自覚のない子ども達が,それらを正しいものとか世界標準だと捉えながら,同時に何かを失ってゆくことを,――それが悪いとは決して言わないが――私達は知っておくべきで,英語教育を通して何を身につけさせたいのか,技術としての英語なのか,欧米の行動様式なのか,その目的を見失わないように,十分に配慮する必要があると思うのだ。
こういう心配があるので,私はなおさら英語教育は公的部門に任せたいように思う。小学校での英語カリキュラムが十分に検討され,英語の技術だけではなく言語能力そのものを高めるような方法で実施されることを希望する。

   ※   ※   ※

蛇足になるが,「英語」の話。11月27日(月)の神戸新聞朝刊に社会言語学者,田中克彦氏のインタビュー記事があった。田中氏は,早期の外国語教育に基本的には賛成だが,学習する外国語を英語に限定すべきではないというようなことを話している。確かに,ヨーロッパにおける英語の地位は少し微妙だ。オランダ人が英語を話せるのは,その学びやすさ――英語とオランダ語は,どちらもインド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派西ゲルマン語群にカテゴライズされる――も関係していると思う。だが,ヨーロッパを旅行した方ならご存知だと思うが,英語が通じにくい国も結構多い。例えば,フランスやスペイン。ベニスやブリュッセルも通じにくかった。東ヨーロッパも厳しい。もっと意外だったのは,一人当たり国民総所得世界一位の経済大国で,住民の3分の1を外国人が占めるルクセンブルク。公用語がルクセンブルク語,ドイツ語,フランス語だからか,ケーキ屋の店員は「アルコール」という英単語を知らず,「このケーキには白ワインが入っているので子ども向きではない」ということを私に伝えられなかった。(隣のお客が通訳してくれた。) なので,田中氏の話(例えば北海道の方はロシア語を,とか)は分かる。ただ,諸文化の中心がアメリカに移った今,そして日本はアメリカとの関わりが密接なので,公教育で学ぶ外国語としては現状では英語が最も適切だろうと思う。
それと,美しい発音で英語を話すことに価値を認める人がいる。そういう人を貶めるつもりはないが,今や世界の共通語としての地位を持っている英語なので,話者の出身により発音は実に様々だ。私が一番苦手なのはフランス人の話す英語で,母音の発音が不正確で理解しにくいと思うことがある。フランス語を学んでいれば,対処できるのかもしれない。英国人とて分かりにくい訛りで話す人はいるし,オーストラリアの話も有名だ。そして,言い回しについても出身国ごとに特徴があり,例えば,南アフリカ出身者(ネイティブ)の話を聞きながら耳慣れない表現に軽く驚いたし,オランダ人の英語にもしばしば苦笑するような間違いがあった。ジェスチャーだって多種多様だ。つまり,日本語訛りで日本人的言い回しで話すことについて,全然臆する必要はないということ。英語を使う場合に限ったことではないが,相手の話を分かるまできちんと聞いて,きちんと思考し,きちんと発言(説明)して理解させること。これが世界を相手にするときに最も大切だと私は思う。

   ※   ※   ※

シリーズの最終回ではありますが,もともと思索中の話で自分なりの道筋を付けるために書いたようなものなので,まとめのようなものは特にありません。期待しておられた方がいらっしゃったら,それはホントにごめんなさいです。だけど,読者の皆様が,これら一連のエントリを,こんな意見もあるんだと受け止めてくださったら幸甚です。
どれも面白みのない大変長い記事になりました。しかも,終結まで一月を要し…(汗) そんなところ,ご訪問いただき読んでくださったこと,本当に心からお礼申し上げます。

開く トラックバック(1)

英語教育について−#3

「英語教育について」と題するこのシリーズ,最初のエントリから既に半月以上が経ってしまいました。その間に,私は「英語」に関わることとして,地域の「ハロウィーンの雰囲気を楽しむ会」を体験し,また,子どもは「ネイティブの指導」を謳い文句にしている某英会話スクールに通うようになりました。
それらの経験や,そこで知り合った人からもたらされる情報が,私の英語教育に関する考えを刻々と変えていくため,このエントリをシリーズ最終回にしようとしても,なかなか整然とした構図を頭に描けず,よいタイミングを得られずにいたのですが,私の場合,文章にしてしまわないと頭の整理がつかずに長いこと逡巡してしまう癖があるのと,こう書くと先に「逃げ」を打つようで不本意なのですが,私は専門家ではないので,ただ自分の体験を通して考えたことを書けるだけだ,という思いもあり,まとまらないものはまとまらないまま記録しておくことにも益があるだろうと考えました。
重ねて強調しておきますが,私は言語学や教育学について,書籍を読んだりはしますが,何らかの学問的な立場にあるわけではありません。ただ,このエントリにより,ここをご訪問くださる方の中に英語教育について私以上に知識や経験をお持ちの方が多数いらっしゃるので,前々回(英語をコミュニケーションツールとするのに,何故学校以外で学ぶ必要があるのか),前回(小学校における英語教育について)と同様に,私が皆様の有意義なアドバイスをお受けしたいと考えたことと,また英語教育についての意見を求めてここにたどり着いた方にとって,この場所でなされた発言が何らかの示唆となることを希望するものです。

  ※    ※    ※

上に書いたとおり,私の子どもは,オランダから帰国後に英会話スクールに通い始めたことで,2通りの外国語との関わりを体験している。
2通りのうちのもう一つは,オランダに滞在した4歳半から6歳半までの2年間で,現地校へ通いながら生活に直結した年齢相応のオランダ語を習得したことだ。家庭では日本語を使用していたとは言え,親である私達も,彼がオランダ語の環境に早く馴染めるようにと,自宅でも彼が暗誦するオランダ語やオランダ語の歌を聞いたり,理解が難しい単語の意味を教えたりしていた。だけど,それらには彼を勇気づける以上の意味は殆どなく,やはり彼自身の「コミュニケーションしたい」という強い欲求こそが,オランダ語の習得を後押ししたのだと思う。それで,前回の記事の最後に,言葉の習得には社会環境が大いに関係するというようなことを書いた。だから,言語の習得で最も手っ取り早いのは,その言語を使わなければ生活できない環境に入り込むことである。語学留学などが奨励されるのはそういった理由だ。
だが,それが子どもである場合には,二つの大きな問題が横たわる。

一つは社会化(ソーシャライゼーション*下記)の問題。
子どもに外国語を習得させるためにこの方法を選択した場合,子どもを本来彼の所属すべき社会集団から分断してしまう危険性を伴うことになる。なぜ危険なのか,その理由は,社会環境は,言語の習得だけではなく社会化の役割を持っているからだ。子どもにとって,学校(幼稚園や保育所を含む)という場は,家庭の次に主要な社会性を身に付ける場所である。ところが,早い時期に子どもを準拠集団とは異なる環境に置くと,外国語の習得はおろか,必要な社会化ができない(または混乱が生じる)ために,本来その子が獲得すべきであった準拠集団の価値観や生活習慣等(母語の確立を含む)が身に付かず,民族的アイデンティティに混乱が生じてしまう恐れがある。このことは,子どもがその時期に外国で生活することになる者にとっても,必ずつきまとう問題であり,国内でも,日本に居住していながら幼児期からインターナショナルスクールへ通学させたため日本語(母語)が確立できないでいる子どもや,地域にうまく溶け込めずに不登校となってしまった結果セミリンガルになってしまった南米移民の子どもの事例が,しばしば新聞等で報道されている。

もう一つの問題は,同じ言語を使用していても単語が内包する意味が異なるために,言葉の持つセンスにズレが生じること。センスのズレとはどういうことか。例えばこういう単語により,うまく説明できる。
 日本語の

は,オランダ語では,
rijk (主権国家の権力の及ぶ領域(=範囲))
staat (国家組織)
natie (先祖や言葉などを共有する人々の集まりとしてのくに,国民)
land (領土)
など,それぞれの側面により別の言葉で表現される。したがって,Wikipediaの「」の項にリンクされたオランダ語は現在のところ,ない。
 (同様に,英語の life は,日本語では,より細分化された意味により構成される。)
以上のような違いがあるのは言葉が歴史を体現しているから。領土と権力の及ぶ範囲と民族がほとんど一致している日本では,国という言葉は無意識に極めて広い意味を込めて使用される。ところが,境界線が西に東にと移動し,フランスの一部となったり神聖ローマ帝国の一部となったオランダの人達にとって,日本人が発する「国(例えば英語で"in my country"という場合)」は,曖昧模糊としており,場合によっては誤解される恐れもあるのでは,と考える。
母語として獲得した言葉には,そういった背景が自然と組み込まれているので,同国人同士での会話では暗黙の了解事項であるはずだが,異なる環境で言葉を獲得した場合は,国籍と言葉のセンスにギャップが生じるので注意が必要だ。

極端な話では,私の知人に多言語の環境(両親がドイツ人とフランス人で,オランダで生活しながら英語のインターナショナルスクールに通うような感じ)で育った人がいるが,天才的に語学に長けてはいたのだが,思春期に心を病んでしまった。因果関係をここで細かに説明することはできないが,監護する者が余程気をつけてバランスを保たなければならないのだ,と思った例だ。これはあまりに特別な話で,普通に在外生活を送っておられる方を脅すつもりは全くない(もし,そう思われたら,それは真に申し訳ないと思う)が,私にとってはバイリンガル(マルチリンガル)って何だろうか?と考える契機となり,子どもを多言語の環境に置くことについて,それなりの覚悟を持って臨むことができた。
私の子どもについて幸運だったのは,渡蘭前の3年と半年ほどの間,彼は保育所に通い,日本式の社会(集団)生活を体験していたことだ。この体験は,彼にとって二つの意味で有益だった。一つは,親から離れる訓練ができていたこと。もう一つは,欧州の習慣を,自分の生活習慣とは異なる「欧州のもの」として受け入れることができたことだ。それに加えて,外国語の習得に関しては,最初の1年間通った学校がオランダ語教育を目的して設置された小学校/taalschool だったので,彼と同様にオランダ語を習得中の「外国人同志」と一緒に頑張れた。しかしながら,この2年間という短期間の滞在でさえ,私達と彼との間に言葉のセンスにズレを生じさせることとなった。私達が「オレンジ」という時,彼の頭には果物のオレンジ/sinaasappel とは別の言葉「オレンジ/oranje」のイメージを同時に思い浮かべるだろう。英語のオレンジ/orange は日本の蜜柑を指すかもしれないが,オランダ語では"mandarijn(マンダライン)”という全く異なる単語が割り当てられる(厳密には,オランダ語と同様,英語でも"mandarin(マンダリン)"と呼ばれる)。そして,後者の"oranje(オランィエ)"は,オレンジ色の他,オランダ王室やオランダのサッカー・ナショナルチームを指すこともあり,こうして言葉に対し経験の少ない彼が,頭の中である言葉を解釈するため,慣れ親しんだ別の言語に変換中に,その言葉の持つ複数の意味で混乱をきたしたとき,彼が次の言葉を発するタイミングは普通の人より遅れる(彼にとっては,「別のことを考えていた」と表現される)。同様に,「川」や「海」,「山」といった言葉のイメージも,オランダで生活したことにより随分変わってしまったようだ。ただ,私の子どもの場合は在外生活が2年間と比較的短かったので,今後日本での生活がそれを上回るようになり,日常生活で使用しないオランダ語を忘れていくにつれ,思考経路の遠回りは修正されて,語感のズレは次第に小さくなると予想される。
ちなみに,私の子どもは,渡蘭前にひらがなの読み書きとカタカナの読みの学習は終わっていた。カタカナの書きと1年生で学習する漢字を在蘭中に自宅で学習したのだが,漢字については,歩留まり率があまりよいとは言えず,確実に覚えるまでには相当の反復練習を要した。同時に,小学校ではアルファベットの読み書きを学習していたが,こちらは短期間の割にはかなり上達したように思う。一方,帰国後は,日常生活に日本語(漢字)が溢れているので,まだ学校で学習していない漢字も自然に覚えることができるようだ。そして,オランダ語の単語は加速度的に忘れている。言葉とはそういうものだ。それでいい,と思うのだが,時々刺激を与えてみようかとも思っている。(これは完全なる私の好奇心から)。

   ※   ※   ※

あと少し続くのですが,投稿文字数制限のため,ここで一旦投稿します(最終回にならなかった…汗)。続きは近日中に。


* 社会化(socialization) 
個人が他者との相互行為を通して,諸資質を獲得し,その社会(集団)に適合的な行動のパターンを発達させる過程。つまり人間形成の過程。
(ネット上によいリソースがなかったので,社会学小辞典の同項から,私が用いた意義にあたる部分を引用した。)

英語教育について−#2

前回のエントリは,コミュニケーション・ツールとしての英語力を現状の公教育だけで身に付けるのは難しい,という趣旨だった。ありふれた意見だが,難しいと考える理由については,現状の英語教育や教育システムといった切り口で述べたいったつもりなのだが,破綻している箇所があれば,引き続きご指摘をお願いしたい。
このエントリはその続編で,前回予告したとおり,子ども達にどのように英語を学ばせるのがよいか,考えてみたい。

   ※   ※   ※

前回のエントリのコメント欄では,英語の早期教育に批判的なご意見をいくつか戴いた。そこに書かれているとおり,今後,日本社会で生活する以上,日本語の習得が最優先だという意見は尤もな話。それに関連して,漢字について言及されたものがあった。
その真意を自分なりに汲み取ると,そこには,
  • 欧米等で使用される言語(以下,「印欧語」)と日本語とでは言語系統が異なるので,日本語を母語とする者にとって印欧語は親しみにくく,欧米人と同等に子どもに英語の習得を期待するのは難しいのでは。
  • 日本は漢字文化圏に属し,印欧語とは使用する文字も全く異なる。しかも,漢字は数限りない。従って,日本語の習得は他の言語より難しいので,同時に印欧語を習得させるのは子どもへの負担が大きいのでは。
というような理解があると思う。オランダで私の身近にいた欧米人は,みな口を揃えて日本語は難しいと言っていた。確かに日本語リテラシーを要求されると難しいだろう。では,日本人が母国語として習得するのも難しいのだろうか。そして,日本語を母語とする者が印欧語を学ぶのは負担が大きいのだろうか。よく分からない。後者は相対すれば「難しい」となるのだろうが,環境や費やした時間の長短により解決されるようにも思う。個別のケースではあるが,私の子どもがオランダ語を習得していく過程を見ていると,耳で聞いて覚えていく段階では「母語が日本語だから…」というのはあまり関係なさそうに思えた。なので,これがその年齢の特性であり,早期教育のメリットなのだという認識が私にはある。もちろん個人差や性格に拠るところも大きいので,これが全てとは考えない。
しかし,外国人と交流する場面において,日本語の難しさ等を考慮して日本人が英語でのコミュニケーションを免除されるものではないことは確かだ。今後,日本人の英語を使用する機会が増えると予想されるのであれば,これまでとは異なる英語教育のあり方を考えなければならない。そして,すでにそれを公教育の場で実践しようと,小学校から英語教育が必修化されようとしているのだと考える。

平成15年3月31日
文部科学省
   「英語が使える日本人」の育成のための行動計画
1 趣旨
 経済・社会等のグローバル化が進展する中、子ども達が21世紀を生き抜くためには、国際的共通語となっている「英語」のコミュニケーション能力を身に付けることが必要である。
(中略)
 標記の行動計画は、戦略構想に基づき、その後の施策の実施状況や平成15年度予算措置などを踏まえながら、今後5カ年で「英語が使える日本人」を育成する体制を確立すべく、平成20年度を目指した英語教育の改善の目標や方向性を明らかにし、その実現のために国として取り組むべき施策をまとめたものである。
(以下略)
 文部科学省HPより(機能的な問題のためURLが貼れないので,全文を読む場合は標題により検索してください。)

少し余談になるかもしれないが,英語教育の話は,どうしてもミクロな視点でそのメリットやデメリットを考えがちだが,もしかしたら,上の戦略構想は,マクロレベルのより大きな計画の前段階かもしれない。つまり,今後,人口の減少が予想される日本では,遅かれ早かれ外国人を受け入れていくことになるので,国民に耐性を持たせておこうというような百年計画(?)だ。もっと平たく言うと,日本をまさに活発な国際交流の舞台にしようという企みだ。文部省には前科がある。脱線してしまうので詳しく書かないが,過去,中曽根内閣の時代に「留学生10万人計画」というのがあった。この目標のために,無理に留・就学生を受け入れた結果,出入国管理行政はガタガタになり,今では治安の悪化も懸念されている。
その百年計画が遂行された姿は,現在のオランダにある。ほとんどの人が英語を話すオランダ。この国は英語を公用語としていないにも関わらず,英語を話せる外国人にとって非常に生活しやすいところだ。大学で使用される言語について英語がデフォルトとなっていることが多いのも,世界から優秀な人材を集めるための戦略だ。オランダ人自身のメリットは言うまでもない。旅先とかビジネスのありふれた場面でも,危機管理の面でもかなり有効だ。というのは,英語が使えれば自力で状況を把握することが可能な場合が多いからだ。個人主義の世界では,そういった能力が国に準備されている状態は非常に望ましいといえるだろう。
ただ,自国が国際交流の舞台となれば,いわゆる文化破壊は進む。オランダの場合は,オランダ語の保存にもぬかりなく,英語を使用する優秀な人材を国内に呼び込む一方で,単純労働等に従事することが見込まれる移民や難民には,厳しくオランダ語の習得を課しているのが現状だ。だが,強く制限すれば反発も強くなる。オランダの場合でさえも,時代の変化とともに乗り越えていかなければならない問題が次々に起こっている。
このように,文化の一つである言語に関わる戦略は,マクロレベルであっても別の方面からのケアが必要だ。時代の要請や潮流で変容してゆくのも文化。一つも変わらず維持されてきた文化などないことは分かっているが,後の世代に伝えていく努力も必要だと思うのだ。

さて,小学校における英語教育に話を戻す。
ネットや新聞で小学校における英語教育を批判する意見を目にすることがあるが,現在の小学校でどんな英語教育が行われているかについては,広く一般に知られているのだろうか。
実は,私はあまりよく知らなかった。
文部科学省のサイトで同省が行った小学校英語活動実施状況調査(平成17年度)の調査結果概要を見ることができる。その他にも,ネットには参考になるサイトが多数ある。授業時間数については,概して,低学年では月1回程度,それより高学年になると,月に2回〜3回というのが多いようだった。授業内容については,聞くことと話すことに重点を置き,音声や映像による教材をを用いるなど,年齢を考慮したものとなっている。文字を使った知識の習得は,学年が上がると増えていく傾向にあるが,比較的少ないようだ。ちなみに私の子どもの小学校では,10月に地域人材を活用した交流が行われたように子どもから聞いている。教頭によると,この町は市の他の町に比べて帰国子女や外国人が多いそうなので,人材には事欠かないことだろう。
小学校の英語教育の関係者は,10年程前から英語教育の開発に着手していた模様,言語学的見地から,小学校での英語教育を「伝達能力の習得」,従来の中学校での英語教育を「学習」と位置づけ,従来の中学校での英語教育とは別のアプローチが試みられているとのこと。また,昨今の「国語能力の低下」にも対応するため,英語教育を国語能力の発展に寄与させるための方策なども研究されている。
以上のように,英語教育の導入方法については,ただ時期を早めればよいなどと安易に考えて,中学校レベルの内容の学習対象者を低年齢化しているわけではないようだ。従って,その批判の仕方は当たらない。だが,小学校の時間割に英語の時間を設けるために,何か別の学習の時間が割かれており,それが例えば,国語だという話なら,英語教育が子ども達の日本語能力を削ぐことにダイレクトに繋がる懸念があり,批判もあって当然だと思う。ただ,そういう話はネット上では見つからなかった。私の子どもの場合は,学級会の時間に行われたそうだ。実例を多くあたったわけではないので強くは言えないが,数学者の藤原正彦が「国家の品格」で行った批判は,非常に論拠に乏しく,勢いだけで行ったもののように思えてならないが,同書がベストセラーとなったことが彼に賛同する人が多いことを示すのであれば,日本の中の人の感性に少し怖いものを感じる。

ここまで,小学校で行われる英語の早期教育について,何だかそれはとても良さげなもののように書いてきた。だが,言葉の習得には,とりまく社会環境という大きな要因がある。小学校での英語教育は,子ども達をとりまく環境とまではなりえない…と続けたいのだが,今回も長くなったので,続きはまた来週。次回エントリでは,早期の英語教育におけるデメリットを,英会話学校等の学校外での学習や,日本人の情緒的な問題などと併せて考え,この話題の最終回としたいと思う。

英語教育について−#1

我が家の長男坊は,日本語とオランダ語のプチ・セミリンガル。家庭の都合により,図らずも帰国子女として迎えることになった日本の小学校生活も,もうすぐ2ヶ月が経過する。ところが,彼の話す言葉は,親の私からすると完全なオランダ語の翻訳。彼の話言葉には,西洋語独特の話法や否定疑問文に対する返事の逆転などがあり,本人も「学校ではまだオランダ語で考えている」との自覚があるようだ。オランダ生活は2年だったので,これが完全に抜けるには,同等の時間がかかるのかも,と,その都度おかしな表現を直すという状況だ。
その一方で,オランダからは,小学校の担任だったカーリンや友達等から,彼あてにたくさんのメールが届いている。今後も子どもが彼らとコミュニケーションをとるためには,オランダ語か,オランダの友人達がやがて身に付ける英語のコミュニケーション技術が必要だと思いながらも,彼の英語の早期教育については,思うところあり,なかなか踏み切れずにいたのだった。
結局,先ほどまで夫と話し合い,彼がやりたいと希望する英語教室の門を叩いてみることとした。(まだ叩いてはいない。)

   ※   ※   ※

このエントリは,子どもの英語早期教育についての私の考えの紆余曲折を,自分の考えをまとめるために書くものです。あまりオランダとは関係がないメモ的な記事を,このブログの一部とする理由は,読者の皆様,特に,英語の早期教育に興味がある方,在外生活の経験がある方等からのリアクションを期待するからです。どうぞ,忌憚のないご意見をお聞かせいただければ,と思います。
色んなことを考えましたが,まず手始めに,学校教育以外の場所で英語教育が必要とされる理由から書いてみます。

   ※   ※   ※

かつて日本は,人口規模が大きい上に(現在第10位)比較的早く近代化を遂げたので経済規模も大きく,島国でもあることから,その経済活動が自国内で完結してしまう傾向にあった。従って,ビジネスの場面で英語を用いることは少なく,英語のコミュニケーション能力を求められる職業は限られていたが,運輸や通信技術の発達が産業の場面で世界にグローバリゼーションをもたらし,より多くの日本人に外国語,とりわけ英語のコミュニケーション能力を要求するようになった。現在でも,日本に特化した事業や単純な作業に従事するのであれば,まだまだ外国語能力を問われない職業もあるのだろうが,自分の周囲を見渡してみると,友人たちに関しても,その人が文系であるか理系であるかに関わらず,海外へ出る機会が多くなっているように思う。
ところが,そういった場面で活躍する人々は気が付いた。自分達が公教育で学んだ英語が,実践的な場面であまり役に立たないことを。それはなぜか。言い尽くされたことだが,その理由は,自分達が学んだ英語が受験英語だったからだ。では,なぜ,受験英語は実用性に乏しいのだろうか。

教育とは何か。読んで字の如く「教え育てること」とするならば,その行為には主体がある。私は,その主体は社会だと思う。より具体的には,社会を構成する者を治める者,つまり「お上」だ。これを日本と限定すれば,社会とは国民であり国民を代表する政治家である。また別の社会であれば,教会等の宗教団体であったりもするだろう。
では,社会は,何のために人々を教育するのか。社会は,決して,何の目的もなくむやみに人に教養をつけさせているのではない。その理由は,突き詰めていけば,人を社会のために良く働く者とするためだと思う。例えば,かつての日本では,国民を臣民,小国民とするための教育が行われた。今では小国民などとは言わないだろうが,どの社会にとってもその本質は今も変わらず,例えば,他の社会集団に貢献する人を生み出すためではない。このように考えると,歴史教育に関するアジア近隣諸国との摩擦も容易に説明がつくわけだ。そういうわけで,日本のお上は教育機関ごとに細かな規定を設けている。その一つが履修科目だ。

ところが,日本の場合,お上の目的を果たすべき教育機関には,別の目的がある。それは,より多くの学生を高次の教育機関に進学させることだ。それは自校の経営の安定化を図ることに繋がるからだ。中学においては,一人でも多くの生徒を偏差値の高い高校へ。高校においては,一人でも多くの生徒を有名な大学の学生にしたい。とどのつまり,教育機関においては,生徒のの大学入試合格こそが,究極の現実的な目的なのである。
この状況で,大学は設けられた規定を逸脱しない範囲で受験問題を作るため,多くの大学合格者を出したい高校は,自校の受験生を有利にするために,定められた必修科目よりもさらに狭い「受験科目」を履修させている。このことは,私が指摘するまでもなく,今般の高校のカラ履修騒動により明らかだ。皮肉にも,より多くの大学合格を勝ち取るために受験生に配慮した高校ほど,学生から広く教養を身につける機会を奪う結果となってしまった。
従って,手っ取り早く教育改革を行いたければ受験改革を行うのが近道だ。そのことは,お上も十分承知していて,「猫の目入試」と揶揄されるほど頻繁に受験改革を行っている。

この文脈に英語のコミュニケーション能力の話をぶち込む。そうすると,「それなら,入試に英会話の問題を出せばいいじゃないか」という意見があるだろう。
大学がこれまで受験生に求めてきた英語能力は,主に読解力だった。その理由は,大学の設置理由に求めることができる。つまり,日本の大学とは,先行研究=輸入した西洋の学術研究の文献を講読する場所だったからだ。これは理科系の学問に限ったことではない。社会科学の分野,例えば,私が学んだ社会学もそうだ。英語だけではなく,ウェーバーのドイツ語,デュルケームのフランス語などを読むために,西洋語の語学力が求められた。ドイツ法を採用した日本では,法学の分野でも,マルクスが一世風靡した経済学の分野でも同じことだ。
従って,高校では,受験を控えた時期に英会話の能力を鍛えるような授業計画は立てない。少し前に,高校の調査票について,関係者から話を聞く機会があったのだが,少なくとも,大学に多くの学生を合格させたい学校ではそうなっている。コミュニケーション関係の単位は,主に高校生活の早い段階で取得するようにカリキュラムが組まれている。
しかし,昨今は,ビジネスマンのみならず,研究者にさえも,英語のコミュニケーション能力が必要となってきている。それは,特に理科系の研究者によりよく言える。彼らは,英語で論文を書き,学会発表も国際的な場所で英語にて行うのが基本となっているからだ。
お上もそのことは承知している。昨年からセンター試験にリスニングテストが加わったように,受験生に英語のコミュニケーション能力を試すようになってきた。ただ,入試はやりにくい。親しい知人は,大学入試に関わる者だが,「センター試験の試験監督にだけは当たりたくない」と言って憚らない。50万を超える受験生に,まったく同じ環境を与えるのは,至難の業なのだそうだ。よって,リスニングテストの導入は,試験監督官,ひいては実施者たるお上への負荷を増やすことになる。リスニングテストのノウハウなんて,他の英語試験(英検など)から得ることもできるだろう,と思うのだが,日本は,失敗の責任を他人に求める他罰的社会だから尚更のこと,使える英語を教えろと要求する一方で,新しい制度を導入することに対しては用心深い。お上も大変だな,と思う。まあ,だけど,それが仕事だからね。

お上は,受験改革とともに,受験と縁深くなる前の段階,小学校から英語教育を導入し始めた。これのメリットは言うまでもない。日本人なら誰もが知っていることだ。オランダの小学校でも小学校高学年くらいから英語を学ぶ。だが,「国家の品格」の著者のように,リスクが高いと言ってみたり,必要ないと言ってしまう人もいる。ここにおける問題の本質はそこではないと思うのだが…。

今はどちらも過渡期。教育(=政治)は,批判されることはあっても,正解だと大絶賛されることは滅多にない。いつになったら十分な英語教育がなされるのか分からないし,状況次第では,今よりも後退してしまうことだって大いにあり得る。そんな時代なので,このボーダレスな世界で,受験英語しか学ぶことができずに苦労をした親世代は,我が子が少しでもグローバルな活動ができるようにと,学校以外の場所で英語教育を受けさせようとするのだと思う。私が英語教育を子どもの習い事として受け入れるに至ったのは,以上のような理屈が付いたからだ。

長々と書きすぎた。一気に書くので,いつも内容に深みがなく,話が散漫になってしまう。
まだ続きがあるのだが,週一ブロガーとなってしまったこの頃,それではまた来週!となるかもしれない。ともあれ,次回は,「それでは,親は子どもと英語教育の関係をどんな風にコントロールしたらよいか」というテーマで書いてみようと思う。

ライフスタイル

There is more to life than increasing it's speed.
  -- Mahatma Gandhi

これ,どんな風に訳すんだろうか。私だったら…
「速さを追求することだけが人生の全てではない」
とか,
「人生には速さを追及するよりもやるべきことがある」
といった感じ。


オランダから船便の引越し荷物が届き,それらを整理していると,スウェーデンのノーベル博物館で購入したマグネットが,他の観光地のものと混ざって段ボール箱から出てきた。このマグネットには,歴代のノーベル賞受賞者の名文が記されている。どうやら,この内容が夫の琴線に触れた模様,3枚ほど購入してあった。

上の引用文は,それらのうちインドの公民権運動等で名高いガンジーのもの。この人の人生について,私には語るほどの知識はない。せいぜい,NHKのドキュメンタリー「映像の世紀」をチラリと観たくらいなので。ただ,その時のことを思い出すと,確かに,インドの民に糸車を回すことを奨励することで民族意識を高揚させようとした人なだけあって,こういったスピードを追求しないことに関してはこだわりがあったのだろうなぁ,などと思った。だって,気が遠くなるような話でしょ。

私はガンジーをよく分からない。そも,民族のアイデンティティーを重視しつつも,それを侵す者に対しては,非暴力を唱える。虐殺には死を持って抵抗せよと,ナチスに苦しめられるユダヤ人へ「集団自殺せよ」との助言。どうしてそうなっちゃうの?という感じ。
そういうわけで,これまであまりこの人のことを気に留めずにいたのだが,冒頭の言葉には響くものがあったのだ。

その理由は,私がオランダで2年間を過ごしたからだ。
このブログの記事に,私と似た思いが綴られている。

確かに、オランダ人は、というか、むしろヨーロッパ人は「時間」を買っているのだと言いました。私は間違いなくそう思います。でも、やっぱり彼らも犠牲にしているものがあるのです。
それは「便利さ」。
間違いなく、日本に比べ、便利ではない。250%くらい。
Deracine - 続・如水レポから引用
この後,話は,「欧州はleft behind…」と続いていくのだけど,IMDの国際競争力の上位ランキングに欧州の国がかなり食い込んでいるので,私はそうは思わない。

私にとって,このブログで語られる「便利さ」は,ガンジーの「速さ」に置き換えられる。
一体,新幹線は何分おきに来ているのか。あれほど頻繁に来るのに,一本でも早い便に,と,駅弁を買うことを諦め乗車する人。立ち止まって喉を潤すのも後回し。イライラと足を揺らして電車を待つ…。そんなに急ぎ足じゃ,人生に何か素敵なことがあったとしても,見落としたまま通り過ぎてしまいますよ,…って。
法律や習慣は,歴史という文脈の中で考えるべきだから,母国のことをどこかと比較して批判だなんて,そんな簡単なことをしたくはないのだけれど,もしかして,同様な思いを持つ人が声を上げれば,システムが作り変えられ,殺伐とした空気を減らすことができるかもしれないので,私も書いておこうと思った。
速さを追求しないライフスタイルを。
程よくリフレッシュして,効率も上げて,というのが理想形。

オランダ生活は,私の考えをそんな風に変容させてしまった。なので,今の私には,日本は少し生きにくいような気がする。

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事