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2010620日 総司忌墓参
 
 
六本木ヒルズ眼下のお寺にて一年に一回行われている沖田総司の慰霊祭・総司忌に参加してきました。(屋根で保護された沖田総司の墓に手を合わせる参列者の方)
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新参者ゆえ状況がよく分からないのにこんな事を書いて生意気ではありますが、まず読んで下さい。
 
総司忌を紹介する際に入れなければならない 専称寺への問い合わせ電話をしないで下さい。墓参が出来なくなります。ですが、失礼ながらお寺さんの規模も大きくないのと、聞く所によると普段、お留守番を御高齢の女性お一人でなされている為に、法事等の際に電話があると寺まで急いで戻らなければならないと言う切実な問題があります。
今回、お寺さんとの取り決めにも関らず電話が入ってしまったことは来年の総司忌に少なからぬ影響を与えるのではと危惧しております。
 
又、慰霊祭の会費についても色々、意見がある様です。墓参ならただで良いのではないかと言う気持ちも分かりますし、そう出来たら良いのでしょう。
ただ、大多数の礼儀正しいファンの中に混じり非常識な行動を取る極少数の方が問題を複雑にしてしまった様です。
お墓を一般公開していた時代に、墓石を削る・大音響で音楽を演奏する等、ご近所や一般の檀家の方に迷惑な行動を取ってしまった為に公開を中止する事態を招きました。
 
幸い、出版社の方がお寺さんを説得して一年に一回の慰霊祭を開ける様にし、新撰組友の会のメンバーさん達が主催して行うようになりました。
管理する以上運営費等は当然必要になるかと思います。
お寺との打ち合わせ、会場設営、講師招待、人員配置、交通費、記念品の作成、交渉があれば手ぶらという訳にもいかないでしょうし、ボランティアとは言え食事も必要でしょう。
当日の線香・花の用意等、購入するのにも、当然費用が掛かりますので、そこは認めてあげるべきかなと思います。
 
長々と口上を述べまして申し訳ありません。
さて、総司忌の開始時間(AM11:00)の20分程前にお寺に到着、事前(2ヶ月程前)に慰霊祭参加を申し込んでいた新撰組流山隊にチェックを受け、入場。
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すでに大勢の人が集まっておりました。去年は
250人程だったようですが、今年はそれを上回る400人くらいいた様です。
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梅雨にも関らず雨も無い蒸し暑い天気でした。幸い風があったのでしのぎ易かったです。
人が多いので墓参りの時間は短時間でしたが、ようやく沖田さんにご挨拶する事が出来ました。(墓所後方には六本木ヒルズ)
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ところで総司さんの墓所のすぐ近くには、私の住んでいる町のお殿様(湯長谷藩内藤家)のお屋敷があります。その隣が沖田家の仕えていた阿部家屋敷であり、その縁か明治になってから阿部家のお姫様が嫁いでおります。
 
沖田総司の辞世の句が、昔、我が町の神社から出たものだと言う話(真贋の程は分かりませんが)もあり、墓の近所にあるこの地を訪ねる事は数年前からの夢でもありました。
 
新撰組流山隊隊長様の御計らいもあり、お屋敷のあった場所も確認する事が出来ました。
総司さんファンの方には怒られるかもしれませんが、六本木ヒルズからお墓の位置(ピンクの屋根の手前あたり)とその右斜め上の湯長谷藩領地付近(麻布税務署裏手近辺)との位置関係も確認出来ました。
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今回、その他の史跡巡りもあり流山隊との食事会や午後からの講演会には出席出来ませんでしたが有意義な時間を過ごせました。
 
問い合わせで2010年総司忌が中止になる可能性が・・。
お寺への直接問い合わせは絶対にしないで下さい。となっているにも関らず沖田総司墓所への連絡が殺到。
一年に一回のみ、お寺様の御好意で行われる沖田総司法要・総司忌が厳禁の筈のお寺への直接問い合わせにより中止になる可能性が出てきた。
以前、非常識的な行動を取った多数のファンにより沖田総司の一般公開がなくなり、それでも有志の行動で一年に一回慰霊祭が許されているものである。
 
インターネット・メールによる問い合わせは新撰組流山隊で対応しておりますので下記に御連絡下さい。
*追記 関係者御協議により、郵送・Faxによる対応は「新撰組友の会」様、インターネット・メールによる対応は「新撰組流山隊」で行いますので御了承下さい。
 
 
新撰組流山隊公式サイトhttp://www.at-town.com/~snap/title-fr.html 
ブログ流山隊隊長日記http://blog.livedoor.jp/arteiji/ 
Eメールsnap@at-town.com
 
「第36回総司忌」620日(日)
墓参・焼香  11:0011:40 専称寺にて
記念行事 13:3017:00 國學院大學院友会館にて
会費制(2,000円 記念品等含む)
墓所の一般公開では無く慰霊行事です
 
京都の土産物の上位に位置するお菓子「八つ橋」。あの柔らかいのは餡入り生八つ橋であって名前の由来になったものは堅い方である。
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餡入り生八つ橋は、元々茶会向けに作られたものが大阪万博の時に爆発的に売れたのが始りであり、堅い方は大正天皇即位の儀式が京都でも行われた時にお土産として人気が出たのが有名になるきっかけであった。
 
堅いほうは江戸時代、元禄の頃より伝えられたと言う。その起こりもメーカーにより様々で、京都・黒谷の金戒光明寺にある八橋検校の墓に詣でる人向けに聖護院前で売り出された琴の形をしたのが初めてとも、カキツバタで有名な現在の愛知県知立市八橋(豊田市に隣接する市)に在った八つの橋を元にしたとも言われている。
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未だに決着の付かない起源説だが、仮説をたててみた
八橋検校の名前が、伊勢物語のかきつばた(から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思)で有名な八橋から来ているのであったらどちらの説も間違いとは言えないのではないかと。
 
八橋検校は盲人の職能組織「当道」に属した、近世琴の創始者と言われる人物である。
この八橋検校を雇っていたのが磐城平藩内藤家(後に延岡藩内藤家)であった。
まだ、当道組織の下位であった時に、平藩内藤家二代目内藤忠興に召抱えられ、忠興の息子で後に三代目となる内藤義泰(義概)通称・風虎の援助により上位の検校の位に上ったと考えられている。
 
風虎は風流大名でもあり、和歌・俳句等さまざまな文化活動に力を入れていた。又、風虎の父方の祖母は挙母藩三宅家(ころもはん、現在の豊田市)から内藤家に来た人で、その娘(風虎の叔母)・貞松院も三宅家(後、田原藩三宅家)に嫁いでいる。
 
身内の出身藩が知立に隣接している土地柄から八橋の故事にも当然、感心を抱いていたと思われるので、お気に入りの奏者に八橋の芸名を付けたとしてもおかしくはないと考えられる。
風虎の時代から後の話ではあるが、平藩内藤家から分かれた支藩の一つ、泉藩内藤家が後に挙母藩内藤家になっており、知立市とも縁がある様な気がしないでもない。
 
根拠に乏しいかもしれないが可能性はあると思う。誰か当道組織に詳しい人が調べてくれれば分かるかも知れません。
 
ところで、もう一つ可能性のある話がある。京都には八つ橋と似た材料を使うお菓子「清浄歓喜団」と言うお菓子がある。、このお菓子は起源が奈良時代と言われている。唐から伝わった八種唐菓子の一つが「清浄歓喜団」のルーツらしい。原材料にニッキ(桂皮)やごま油が使われている固い揚げ饅頭との事だが食べた事が無いので分からない。
清浄歓喜団は八つの結び目で八葉の蓮華を現しているらしい、ルーツも八種唐菓子で、なまれば「やつかし」になるのではないかなと・・・。
 
歓喜団の余った材料をおやつ(お八つ)に焼いたのが、もしかしたら八つ橋の原型かもしれない。
 
八つ橋の謎、興味のある方は調べてみて下さい。
 
 

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行きつけのカメラ屋「矢吹カメラ」の飼い犬 バイト君と身代わりヌイグルミ。

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2009年10月1日 水戸藩 通訳の件を修正(参考・・川澄哲夫著「黒船異聞」)。
長州・薩摩・土佐の影に隠れてしまい忘れられていますが幕末の攘夷思想の震源地でもあるのが水戸藩です。勤皇の思想の元になったのが水戸学と言う、朱子学(儒教の一派)の思想から発展した学問でした。
要するに主君(皇帝・天皇)に対する忠義・父親・年長者を大事にするという思想ですが、これを最初に形にしたのが「水戸黄門」こと徳川光圀公でした。伝えたのは明からの亡命者「朱瞬水」。この時、彼が作ったラーメンを食べたのが水戸黄門で、日本人初の快挙?でありました。

又、水戸学において天皇に忠誠を尽くした人物として「楠木正成」が重要視され、その弟「楠木正季(くすのきまさすえ)」・・・七生報国の語源の人  の子孫を名乗っていた野口家(野口雨情のご先祖)が水戸藩に召抱えられる事となりました。
その後、水戸黄門と懇意の三代目野口家当主が妻を亡くしたおりに、自分の側室を与え、生まれた子供が野口家を継ぎました。この時、側室は妊娠3ヶ月とも6ヶ月であったとも言われ、前者なら過失・後者なら計画的と言えましょう(笑)。

さて、その後水戸学は着々と水戸藩内の思想の基本となっていきました。
そして100年以上経った幕末の1824年、水戸藩領内の大津浜(現在の北茨城市大津港)にイギリス捕鯨船2隻の船員が上陸、水戸藩に捕縛される事件が起きました。
実は、壊血病(ビタミンが足りなくて起こる病気)の治療用に地元民から生鮮野菜を求めて上陸したものでした。しかし、水戸藩から派遣された「会沢正志斎」と船員達の意思疎通がうまくいかず、なぜか目的が日本征服とされてしまったのでした。
その後、幕府の役人の取調べにより疑いは晴れたものの、水戸藩は、これを信用せず(クジラを採りつくして日本に猟場を移した事が納得出来なかったため、捕鯨ではなくスパイ活動をしていたと思い込んだ様です。)捕鯨船員を皆殺しにしかねない勢いだったようです。

この事件は異国人本土初上陸事件で、当時、頻発していた異国人(オランダ人と敵対していたイギリス人が多いらしいです)とのトラブルもあり翌年、異国船打ち払い令が出されました。この事件が水戸藩に与えた影響は重大で、海防の整備が急とされました。
又、幕末の水戸藩主「徳川斉昭」が外国人に悪感情を抱き、彼の義兄で関白「鷹司政通」や嫁(徳川慶喜の母)の実家「有栖川家(徳川家慶の正室「浄観院」は斉昭の義姉、公武合体の和宮の元婚約者「有栖川熾仁親王」は斉昭の義弟に当る。)」等を通じて朝廷・公家に攘夷思想を広める事となりました。
捕鯨が原因で尊王思想に攘夷思想がプラスされ尊皇攘夷思想が感性してしまったのです。


ここからは余談ですが、この当時、アメリカ側から太平洋を西へ西へとクジラを採り尽くしながら進んできた捕鯨船団の最終的な猟場が日本近海で、特に金華山沖に集結しておりました。
アメリカ船はハワイ、イギリス船はオーストラリア(当時、イギリスの流刑地。捕鯨船はイギリスから囚人を運び、帰り足で捕鯨を行った。)を中継地として日本近海に出没。かの有名な「白鯨」のモデルとなったエセクッス号(ナンタケット島の捕鯨船)海難事件が起きたのもこの頃のお話です。

その頃、小笠原にハワイから入植者が入り、中継基地が作られました。
この為に、後に老中「安藤信正」が領有権を取り戻す為、咸臨丸を小笠原に派遣(文久の巡検隊)する事となりました。

当時、灯りの燃料や機械の潤滑油として高値で取引された鯨油(マッコウクジラ・セミクジラ)はクジラを解体、船上の釜で皮を煮て取り出されていました。
この時に使う薪や飲料水の供給(及び遭難者の保護、太平洋側からの中国通商への中継地)を日本で行おうとして、30年後交渉に訪れたのがペリー艦隊でした。皮肉な事にその直後、アメリカ本土で石油が発見され安価な灯りの燃料として普及し、南北戦争勃発での捕鯨船徴用等での船の損失を通じ、アメリカによる捕鯨は終焉を迎えました。

そのアメリカでの捕鯨の中心地で栄華を誇っていたナンタケット島は、大火もあり寂れていましたが見捨てられたがゆえに古い時代の建物が残っていた事も幸いし、後に観光地として復活します。ここで作られた「ナンタケットバスケット(鯨油を入れる樽作りの技術から生み出された籠)」は籠のエルメス(笑)と言われ高値で取引されています。

東京ディズニーシーのケープゴッドと三井アウトレットパーク横浜ベイサイドは、そのナンタケット島をモデルとしています。

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