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2009年10月1日 水戸藩 通訳の件を修正(参考・・川澄哲夫著「黒船異聞」)。
長州・薩摩・土佐の影に隠れてしまい忘れられていますが幕末の攘夷思想の震源地でもあるのが水戸藩です。勤皇の思想の元になったのが水戸学と言う、朱子学(儒教の一派)の思想から発展した学問でした。
要するに主君(皇帝・天皇)に対する忠義・父親・年長者を大事にするという思想ですが、これを最初に形にしたのが「水戸黄門」こと徳川光圀公でした。伝えたのは明からの亡命者「朱瞬水」。この時、彼が作ったラーメンを食べたのが水戸黄門で、日本人初の快挙?でありました。
又、水戸学において天皇に忠誠を尽くした人物として「楠木正成」が重要視され、その弟「楠木正季(くすのきまさすえ)」・・・七生報国の語源の人 の子孫を名乗っていた野口家(野口雨情のご先祖)が水戸藩に召抱えられる事となりました。
その後、水戸黄門と懇意の三代目野口家当主が妻を亡くしたおりに、自分の側室を与え、生まれた子供が野口家を継ぎました。この時、側室は妊娠3ヶ月とも6ヶ月であったとも言われ、前者なら過失・後者なら計画的と言えましょう(笑)。
さて、その後水戸学は着々と水戸藩内の思想の基本となっていきました。
そして100年以上経った幕末の1824年、水戸藩領内の大津浜(現在の北茨城市大津港)にイギリス捕鯨船2隻の船員が上陸、水戸藩に捕縛される事件が起きました。
実は、壊血病(ビタミンが足りなくて起こる病気)の治療用に地元民から生鮮野菜を求めて上陸したものでした。しかし、水戸藩から派遣された「会沢正志斎」と船員達の意思疎通がうまくいかず、なぜか目的が日本征服とされてしまったのでした。
その後、幕府の役人の取調べにより疑いは晴れたものの、水戸藩は、これを信用せず(クジラを採りつくして日本に猟場を移した事が納得出来なかったため、捕鯨ではなくスパイ活動をしていたと思い込んだ様です。)捕鯨船員を皆殺しにしかねない勢いだったようです。
この事件は異国人本土初上陸事件で、当時、頻発していた異国人(オランダ人と敵対していたイギリス人が多いらしいです)とのトラブルもあり翌年、異国船打ち払い令が出されました。この事件が水戸藩に与えた影響は重大で、海防の整備が急とされました。
又、幕末の水戸藩主「徳川斉昭」が外国人に悪感情を抱き、彼の義兄で関白「鷹司政通」や嫁(徳川慶喜の母)の実家「有栖川家(徳川家慶の正室「浄観院」は斉昭の義姉、公武合体の和宮の元婚約者「有栖川熾仁親王」は斉昭の義弟に当る。)」等を通じて朝廷・公家に攘夷思想を広める事となりました。
捕鯨が原因で尊王思想に攘夷思想がプラスされ尊皇攘夷思想が感性してしまったのです。
ここからは余談ですが、この当時、アメリカ側から太平洋を西へ西へとクジラを採り尽くしながら進んできた捕鯨船団の最終的な猟場が日本近海で、特に金華山沖に集結しておりました。
アメリカ船はハワイ、イギリス船はオーストラリア(当時、イギリスの流刑地。捕鯨船はイギリスから囚人を運び、帰り足で捕鯨を行った。)を中継地として日本近海に出没。かの有名な「白鯨」のモデルとなったエセクッス号(ナンタケット島の捕鯨船)海難事件が起きたのもこの頃のお話です。
その頃、小笠原にハワイから入植者が入り、中継基地が作られました。
この為に、後に老中「安藤信正」が領有権を取り戻す為、咸臨丸を小笠原に派遣(文久の巡検隊)する事となりました。
当時、灯りの燃料や機械の潤滑油として高値で取引された鯨油(マッコウクジラ・セミクジラ)はクジラを解体、船上の釜で皮を煮て取り出されていました。
この時に使う薪や飲料水の供給(及び遭難者の保護、太平洋側からの中国通商への中継地)を日本で行おうとして、30年後交渉に訪れたのがペリー艦隊でした。皮肉な事にその直後、アメリカ本土で石油が発見され安価な灯りの燃料として普及し、南北戦争勃発での捕鯨船徴用等での船の損失を通じ、アメリカによる捕鯨は終焉を迎えました。
そのアメリカでの捕鯨の中心地で栄華を誇っていたナンタケット島は、大火もあり寂れていましたが見捨てられたがゆえに古い時代の建物が残っていた事も幸いし、後に観光地として復活します。ここで作られた「ナンタケットバスケット(鯨油を入れる樽作りの技術から生み出された籠)」は籠のエルメス(笑)と言われ高値で取引されています。
東京ディズニーシーのケープゴッドと三井アウトレットパーク横浜ベイサイドは、そのナンタケット島をモデルとしています。
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