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茨城県北茨城市磯原の野口雨情生家近くにある、山と言うより小さい丘。この山を天妃山と言う。
水戸黄門が、ここにあった祭神を他に写し、中国由来の海の神様「天妃」を祭ったのが名前の由来だ。幕末に水戸藩主の烈公「徳川斉昭」が中国の神ではなく、日本の神様「弟橘姫」を祭った。
石碑には、常磐炭鉱、北茨城側の祖で、野口雨情の叔父(叔母の旦那)「神谷喜八」の業績が記されており、その字は榎本武揚のものであったりする。

さて、この神社を管理していたと言われるのが、中郷松井の神官、下村家であるが、ここへ養子として来たのが、若き日の「芹沢 鴨」であった(当時、下村継次)。

彼は、近所の野口家分家の「野口正安」と親しかった。野口正安は、野口雨情の祖父の従兄弟に当る人物で、尊皇攘夷の思想を見につけていた。
東北の海防の状況(近くの大津港にイギリス捕鯨船が上陸した大津浜事件の事もあったらしい)を調べに来ていた「吉田松陰」も、野口家に一泊し正安らと語ったと言う。
尊皇攘夷のはしりとも言われるのが、水戸の水戸学であった。

特に水戸光圀公(黄門様)が熱心であったらしいが、実は野口家は黄門様の子孫なのである。野口家は楠木正成(くすのきまさしげ)の弟の家系と言われ、水戸藩に召抱えられていた。特に水戸黄門が目を掛けたと言われており、野口家三代目の奥方が子を残さず早死にした事を気の毒に思い、黄門様の側室を下げ渡したのである。当時、側室は妊娠6ヶ月であったらしく、黄門様も確信犯的行動で子供を押し付けたと推測される。

野口家は、黄門様に「観海亭」と名付けられ、黄門様もしばしばここへ立ち寄った。
公式には、勿来の関の桜を見るために寄ったとも言われるが、回数が結構多く、4代目野口家当主には、燃料奉行とも言うべき地位が与えられ、家禄が増やされている事から子供の顔を見に来たのではないかと思われます。

水戸黄門の子孫と後の新撰組局長「芹沢 鴨」との出会い、これも又、幕末の日本に嵐を吹き起こす原因の一つであったかもしれません。

沖縄に巨大な別荘を持ち、沖縄の魅力を伝えるのにも貢献している所ジョージさんだが、本人も知らないところで沖縄と結ばれた縁があったのである。
所さんは奥様の実家へ婿養子となり、奥様の姓を名乗っている。この奥様の実家がいわき市某所にある。そこは、いわき出身で400年前に沖縄へ渡った袋中上人に関りの深い場所でもある。プライバシーの問題で住所に関して、それ以上は書けないのを、御勘弁願いたい。

袋中上人は、沖縄のエイサー発生にも関ったと言われる人物である。
薩摩藩による琉球侵略(1609年)の数年前(1603年)に故あっていわきから沖縄へたどり着き、悲劇の琉球王「尚寧王(しょうねいおう)」や貴族で沖縄の賢人の一人「儀間真常(ぎましんじょう)」の帰依を得て、布教に努めた。。
当時、先行して伝わっていた仏教は難解で上流階級向けのものであった。
袋中上人は、儀間真常達から沖縄言葉を習ったのであろう、仏教を琉球の大衆向けに易しく直し布教した。
この念仏に歌をつけたものが、漂泊の民「チョンダラー(京太郎)」・「ニンブチャー(念仏者)」等によって伝えられ、更に琉球の古典歌謡「エサオモロ」、昔の沖縄の合コン「毛遊び(もうあしび)」と融合したと思われる。エイサーの起源には諸説あるため、これが絶対とは言えないが、漂泊の民の伝承に、われらの祖は袋中上人とあった事から、少なくとも何らかの関係はあったと考えていいのだろう。
現在の主流の創作エイサーに用いられる事は少なくなったが、戦前の古典エイサーでは念仏歌が使われていた。

沖縄で3年を過ごした上人は(1606年)、京都へ渡り後半生を過ごす。薩摩による琉球侵略(1909年、つまり今年が侵略の400年目)により、本土へ連れられた尚寧王は帰り道、京都で上人と再会を果たす(1610年)。王は感動の思いを自筆の上人画に込め、宝物と共に上人に贈った。翌年(1911年)、上人が再建した「檀王法林寺」に品々は納められた。
この寺は、東海道五十三次終点の三条大橋の左袂にある。ここは上人の沖縄航海中、一緒にいた猫がモデルとも言われる黒い招き猫を配布する事でも有名だ。最古の招き猫伝説にちなみ、全国から招き猫が奉納され、最近では「祇園の招き猫寺」とも呼ばれる。

所さんの奥様のお母様も大の猫好き。場所だけでなく沖縄との縁も合わせ、上人との不思議な縁がありそうな感じがするのである。
所さんばかりでなく、沖縄発で有名になった花粉封じの焼酎「請福ファンシー」もいわきの企業「クレハ」が仕掛け人だったりとか、他にもいわき⇔沖縄⇔京都を繋ぐ不思議な話があるのだが、そちらはいずれお話します。

 
大阪城に行った事がないので写真はありません。あしからず(;´∀`A)

今回の大阪城は、豊臣家が滅ぼされた後に建った徳川家の大阪城の事です。江戸時代の高層建築物と言うと、やはりお城でございまして、平野部に、ぽつんと建っておりますと自然、落雷の被害に会う事も多かったようです。
徳川家大阪城も大きな落雷が三度程ありまして、天守閣が焼け落ちたりしております。
その内、最大の物が万治三年(1660年)6月18日の火薬庫への落雷で生じた爆発でした。
その衝撃は凄まじく天守閣は傾き、城の四分の一が損壊。巨石が動き、門の破片が城に突き刺さったそうです。百人以上の死者が出て、被害は町にも及び倒壊・火災で千五百軒程の被害が出ました。
この時、城代を担当していたのが隠居も近い、磐城平藩内藤家2代目藩主「内藤忠興」でした。
まだ、内藤家が千葉の佐貫の大名で、実質御取つぶしになった里見家の領地管理を任されていた時代に大阪の陣が起き、若かった忠興も親が止めるのも聞かず、戦いに参加したものでした。この時に真田信繁(幸村)の猛攻を見て真田家のファンになったと思われます。
その後、真田・武田と因縁のある小山田信茂の娘を側室にしたことにより、島流しから帰還した武田宗家を保護したりしました。

さてファンであった真田家、幸村の兄、真田信之の孫娘を自分の息子の嫁に貰うことにより、明暦の大火(振袖火事)のすぐ後に起きた親戚・松代藩真田家のお家騒動にも介入しています。信之の頼みもあり、当時の有力な老中の意向に反し幼い当主の味方となっております。(参考・池波正太郎著「獅子」)。
さて、騒動の数年後の万治二〜三年、忠興は、二度目の大阪城代を務めました。本来、隠居間近の名誉職みたいなものだったのですが、落雷による大爆発という、えらい災難に巻き込まれたものです。しかも計算が間違っていなければ六十八歳の時(万治三年六月十八日)にです。
奇しくも定番(警備担当)の大名の一人は、戦国時代に磐城を統治した大名の子孫・亀田藩岩城家「岩城重隆」であり、真田幸村の孫と言う因縁めいたものがありました。

平藩は京都銘菓「八ツ橋」に名前を残す、八橋検校のスポンサーかつ雇い主だったのですが、この事件をきっかけとして藩財政は悪化の一途を辿り、検校の解雇へと繋がりました。
余談ですが、内藤家→八橋検校→真田勘解由家の関係で、伝わったのが現在の長野市無形文化財「八橋流」だそうです。

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新撰組を大阪から江戸へ運んだ事で有名な、蒸気軍艦「富士山」は後に戊辰戦争・磐城の戦いに投入された。
江戸城無血開城後、榎本艦隊所属であったこの艦は勝海舟の説得により他の3隻と共に官軍へ恭順の証として引き渡された。
磐城平藩等を攻めるのに使われたこの艦はも、元はと言えば文久元年(1861年)に起きたロシア軍艦の対馬占拠事件(アメリカ公使ハリスの助けでイギリス軍艦を使い退去させた)により幕府が自前の海軍の検討を始めたのがきっかけとして造られた。当時の幕府の責任者は老中の磐城平藩藩主「安藤信正」。
もっとも実際の発注は、信正公が引退した後である。
建造を頼んだ米国は南北戦争の影響もあり艦の日本到着は大幅に遅れた。
デビュー戦ともいうべき、第二次長州征伐では幕府海軍旗艦として参加。しかし高杉晋作の奇襲攻撃(オテント様号による)で被弾して右往左往する等、ぱっとしなかった。
鳥羽伏見の戦いの後は新撰組残党と大阪城の金18万両を江戸まで輸送、船内でなくなった新撰組隊士「山崎蒸」の水葬が日本初の海軍葬とも言われる。又、運ばれた金は蝦夷共和国の軍資金となったと思われる。
その後、富士山は官軍に引き渡されて、戊辰戦争「磐城の戦い」に投入され、僚船2隻(三邦丸・飛隼)と共に官軍輸送に当る。
磐城側の迎撃に対し、艦砲射撃で応戦して徳川義軍遊撃隊達を苦しめた。
ところが、味方総崩れの中、海岸に潜んでいた平藩藩士の山田省吾が単身4ポンド砲で反撃したところ、船の機関部・弾薬に続けざまに命中、撤退する事になった。長州征伐の際の打たれ弱さは健在であった。
以後、冨士山は、内地防衛の任務に就くが話にはまだ続きがある。
江戸から仙台に向けて榎本艦隊が脱走した際、はぐれたのが勝海舟の太平洋横断で有名な咸臨丸だった。清水港に漂着した咸臨丸の捕縛に向かったのが富士山丸であった。清水港に停泊して船員の殆どは上陸していたが、何名かが残っていた。官軍はこれを挑発して反撃するように仕向け、目論見どおりの凝っていた船員を皆殺しにして船を捕獲。死体は港内に放り置かれ腐敗で悪臭が酷くなったが官軍を恐れて誰も回収しない。見かねて立ち上がったのが清水の次郎長達であった。官軍の咎めを恐れず行った義侠心に感心した元幕臣の山岡鉄舟と次郎長は交友を結ぶ事になる。後に、鉄舟から紹介され次郎長の養子になったのが、元磐城平藩士の天田五郎(後の天田愚庵)である。五郎が書いた「東海遊侠伝」が、後の清水の次郎長物語のルーツとなったのでした。
ちなみに次郎長のやった事業で功績の大きいのが富士山の裾野の開拓だったりする。

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