元プロギタリストのこだわりの一言

いちおー、本格的音楽ブログのつもりです。

アメリカ南部系

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このレーナードスキナードというバンドは1973年にデビューしたカントリーを基本とするアメリカのサザンロックバンドです。

彼らは7人構成の大所帯でメンバーは

ボーカル       :ロニー・バン・ザント
ギター        :ゲイリー・ロッシントン
ギター        :アレン・コリンズ
ギター        :エド・キング
キーボード      :ビリー・パウエル
ベース        :レオン・ウィルクソン
ドラムス       :ロバート・バーンス

この構成からわかるようにサウンドは重厚でゴチャゴチャしているのではと思いがちですが、そんなことはなく、すっきりとした明るいサウンドです。
このレーナードスキナードは特にデビュー時からすでに大物のような品格を備えたバンドとして、音楽業界にも認められる存在になっていました。

このバンドを発掘したのは、プロデューサーでもありパフォーマーでもあったアル・クーパーでした。

彼は1969年に行われた最初のアトランタ・ポップ・フェスティヴァルに出演して以来ずっとアトランタを訪れていた。
当時サザン・ロック・シーンは急速に発展していたが、特にアトランタ周辺には才能あるミュージシャンが多くいることをクーパーは気づいていた。

クーパーはすでにアルバム「BRINGING IT ALL BACK HOME」でボブ・ディランの初めてのエレクトリック・バンドと共演したり、ニューヨークの実験バンド、ブルース・プロジェクトでキーボーディスト兼フロントマンを演じたり、ブラッド・スウェット&ティアーズでジャズやR&Bホーンをロック・バンドと組み合わせたりという、ロックン・ロールの歴史上重要ないくつかのポイントを経験していた。

1973年、アルは新レーベルの設立をMCAに持ち込み、その結果、MCAの後押しを得てサウンズ・オブ・サウス・レーベルを設立した。

そして、初期の契約において4組のアーティストを指名した。
その1組がレーナード・スキナードだったのです。

メンバーのロニーいわく「他にも契約の話があったが、結局、アル・クーパーのサウンズ・オブ・サウスと契約することが一番正しいと思った。それに俺たちは彼と通じ合うものがあったし、ミュージシャンとしてだけでなく、一人の人間として彼を信頼していた。」と語っている。また、アルは「彼等こそ南部で最も優れたグループで、充分に満足させてくれる。」と語った。

デビュー・アルバム「レーナード・スキナード」をレコーディングする頃にはスキナードは約20曲のレパートリーを持っていた。

アル・クーパーはこのアルバムのプロデューサーとして、最新のレコーディングテクニックに関する知識をフルに発揮して、彼らは作品に新たな魅力を加えられるようになった。

このアルバムの中の「フリーバード」1975年1月に全米ヒット・チャートの19位となり、ファーストアルバムは一応の成功を収めました。

とにかく、ギターが3人というと何かゴチャゴチャした印象を受けるかもしれませんが、そんなことはなく、むしろアレンの突き刺すようなギブソン・ファイアーバード、ゲイリーのむせび泣くようなレス・ポール、そしてエドのメタリックなストラトの刻みが驚くほどうまく互いを補い合うといった、バンドの強力な武器になりました。

僕は、視覚的にもサウンド的にもアレンが大好きでした。
初期の頃はギブソン・ファイアーバードがメインでしたが、その後ギブソン・エキスプローラーを使用し始めました。
これが、長身で白いスーツのアレンに似合っていて、僕は憧れたものでした。

しかし、3人の内で最も技巧を持っていたのは、エド・キングでした。
彼は巧みなアドリブを弾き、フラット・ピッキングとサイケデリアを混合した信じられないようなソロを聞かせてくれました。

1974年にはセカンドアルバムである「セカンド・ヘルピング」がリリースされ、収録曲の「スウィート・ホーム・アラバマ」がヒットして、アルバムとシングルの両方がゴールドディスクになり、ファーストアルバムもゴールドディスクになり人気は決定的になった。

スキナードは2枚のアルバムを引っさげて絶え間なくツアーを続けた。
そして、1975年発表の「ナッシン・ファンシー」も最高第9位となり連続して3枚目のゴールド・ディスクを獲得した。

商業的には成功したものの、スキナードは「ナッシン・ファンシー」に完全に満足したわけではなかった。

さらにギターの1人であるエド・キングが脱退してしまった。

そこで、マネージャーのピーター・ラッジは「レイラ」やオールマンの「ライブ・アット・フィルモア・イースト」のプロデューサー、トム・ダウドを起用した。

ダウドのアプローチには各曲をアレンジしてリハーサルし、基本的なインストゥルメンタル・トラックをスタジオ・ユニットとしてのバンドと一緒にレコーディングするという訓練された手順が含まれていた。これはオーバーダビングを重視するアル・クーパーのやり方とは大きく違っていた。

「ギミー・バック・マイ・ブレッツ」と名づけられたこのアルバムは4番目のゴールド・ディスクを獲得した。

ツアーとアルバムの両方で成功したスキナードは1976年7月のライヴ・レコーディングを録ることを決定した。
これは彼らにとって5枚目のアルバムで「ワン・モア・フロム・ザ・ロード」というタイトルに決まった。彼らは新しいサード・ギタリストを見つけねばならなくなり、その時白羽の矢だ立ったのは、ツアーに引き連れていた女性バックアップ・シンガーのキャシーの弟であるスティーヴ・ゲインズである。

スティーヴを迎えて作成された「ワン・モア・フロム・ザ・ロード」はトリプル・プラチナ・ディスクを獲得し、これまでで最も売れたアルバムとなった。

今やスキナードのライヴの評判は、ローリング・ストーンズや、オールマン・ブラザーズ・バンドと同等のところまで上り詰めていた。

1977年1月、スキナードは待望の来日公演を果たした。4日間が中野サンプラザ、1日が大阪厚生年金会館の合計5ステージだった。
そう、最高の時期に日本に来たのであった!
この頃、僕はまだ子供だったので見にいけませんでしたー!

その後、1977年の秋にリリースした「ストリート・サーヴァイヴァーズ」は、スキナードの2番目のプラチナ・ディスクを記録した作品となった。

そして3ヵ月間予定されていたツアーの最初の週、1977年10月20日午後6時42分、レーナード・スキナードの1947年型コンベア2240ターボ・プロップ機は"不可抗力によるエンジンの不調"により燃料切れを起こし、緊急着陸を試みたものの、ミシシッピ州マッコム付近の森林に墜落した。

その衝撃でロニー・ヴァン・ザント、スティーヴ・ゲインズ、キャシー・ゲインズ、アシスタント・ロード・マネージャーのディーン・キルパトリック、そして操縦士のウォルター・マックレリー 、副操縦士のウィリアム・グレイが即死した・・。
残りのメンバーでは、アレンが脊髄骨折。だが幸運にも後遺症は残らずに回復。
重傷で緊急手術が施されたゲイリー、レオン、ビリーも快方へと向かった。

この時の様子をレオンは以下のように語っている・・。

機体は時速約140キロで木々に突っ込んだ。まるで金属缶の中にいて外からバットで叩かれたような感じだった。機体の後部が切断され、コックピットが折れ曲がり、両翼も壊れた。胴体は横倒しになって、皆前方に投げ出された。ロニーは木に時速約130キロで突っ込んで、頭をやられて即死だった。ロニーはこめかみに小さな打撲傷を負った以外、傷は負わなかった。俺はぼうっとしながらも歩き出した。あの事故のひどさは説明できないほどだ。パイロットは首が飛んで、胴体は木にぶらさがっていたし、ディーンは機体の胴体の一部が背中に刺さってうつぶせに死んでいた。キャシーは左耳から右耳まで裂けて血を吹き出して、俺の目の前で死んだ。
日が暮れかかっていて、しかも深さ2フィートの沼地に埋まっていたから、救助のヘリは着地できなかった。アーティマスは肋骨が3本胸から突き出している状態で、なんとか1.2キロ離れた近くの農家まで救援を頼みに行った。 "ヘリコプターが入れないために、地元の農夫たちがまだ生きている負傷者を一人ずつ泥から引っ張りあげてくれるのを待つしかなかった。でも、やってきたのは救援だけではなかった。警察と救急隊が森にブルドーザーで緊急の道を作っている最中に、ハゲワシのような連中が現場にやってきていた。彼らは俺達を助けるどころか、死体と生存者の両方のポケットや持ち物を漁って、金になるもりそうなものを見つけてはかっさらっていった。とくに貴重だったのは、どんなものでも、この有名なロックバンドの名前が入っているものだった。ある推測によると、その夜、事故現場には3,000人が訪れたという。死体は翌朝片づけられた。」

また、ゲイリー・ロシントンは、現在、このように語る。「俺は、時々、事故について思い出さなければならない。
しかし神は、肉体にも精神にも、すべての悪い出来事と最悪な痛みを忘れる力を与えてくれる。真にあの事故と一緒に生きることを学ぶんだ。俺はそうした。今のバンドのメンバー全員は、俺たちを理解して活動したんだ。」

皮肉なことに、この墜落事故は、レーナード・スキナードの名前をそれまでになかったほど全米的なものにし、彼らの"サヴァイヴァー・ツアー"が払拭しようとしていた向こう見ずなイメージを悲劇的な形で強める結果となってしまったのだった。
その事故はレーナード・スキナードが広範囲な支持を受け始め、スティーヴ・ゲインズが充分に馴染んだ直後だっただけに、ロックン・ロール史上、最も悲劇的な出来事となった。

1977年1月にスキナードを見た方は、彼らが最高の時期だったので、幸運としか言いようがないと思います。

最後に、このバンドは以外にも、ストーンズを意識していたのです。

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