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今風呂で思っていたことだが、「空気を読む」ということについて。
今から書くことについて、それには、それこそ諸々あり、むしろそれが強制されることによって、各々が今から僕が言うことを、確かに為している向きもあるということを重々承知で書く。 空気を読んで、空気を読むな 空気を読むとは、本来文字通りに解すれば、人間関係の機微を察する、ということだろう。人情の機微を察するというのは言わずもがな、文学の原点である。文学とは人生、生きる糧といってもいい。 宇宙という相互関係の網の中で主体性を確保することは容易いことではない。その相互関係というのは決定論的な意味で言っているのだが、その決定論的運命を信じながらも尚、主体性を保ちながら生きるということはどういうことであるか。これに関しては以前に書いたように、事態の受け止め方、ということにある。この受け止め方ということを考えると、文学が如何に重要であるかが知れよう。 さて、最近言われている空気を読むということであるが、これは恰もその読み取った表面的潮流、とでもいうのか、それに従うことまでも含むように思われる。 あくまで主体性に関してから見ると、その機微を読み取った後の自由な表現こそが重要(ここで“自由”を強調しすぎることは決定論的立場と相反するので控える)であり、これが主体性の基盤であるといえる訳であるが、その表現、行動が固定されてしまっては話にならない。 しかし一方で、それを強制されることで新たにそれへの受け取り方というものも生ずる筈であるから、そこにも文学はある、と言えなくもない。たとえば紫式部日記などを見ても、その場では流れに身を任せていながら、のちにその心境を語る、というのも考えられるだろう。 結局は心の持ちようだと言ってしまえばそれまでであるが…。 |

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