日々の着想

日常生活のうちに浮かんだ着想を記録。

随筆

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  今風呂で思っていたことだが、「空気を読む」ということについて。

   今から書くことについて、それには、それこそ諸々あり、むしろそれが強制されることによって、各々が今から僕が言うことを、確かに為している向きもあるということを重々承知で書く。

   空気を読んで、空気を読むな

   空気を読むとは、本来文字通りに解すれば、人間関係の機微を察する、ということだろう。人情の機微を察するというのは言わずもがな、文学の原点である。文学とは人生、生きる糧といってもいい。

   宇宙という相互関係の網の中で主体性を確保することは容易いことではない。その相互関係というのは決定論的な意味で言っているのだが、その決定論的運命を信じながらも尚、主体性を保ちながら生きるということはどういうことであるか。これに関しては以前に書いたように、事態の受け止め方、ということにある。この受け止め方ということを考えると、文学が如何に重要であるかが知れよう。

   さて、最近言われている空気を読むということであるが、これは恰もその読み取った表面的潮流、とでもいうのか、それに従うことまでも含むように思われる。

   あくまで主体性に関してから見ると、その機微を読み取った後の自由な表現こそが重要(ここで“自由”を強調しすぎることは決定論的立場と相反するので控える)であり、これが主体性の基盤であるといえる訳であるが、その表現、行動が固定されてしまっては話にならない。

   しかし一方で、それを強制されることで新たにそれへの受け取り方というものも生ずる筈であるから、そこにも文学はある、と言えなくもない。たとえば紫式部日記などを見ても、その場では流れに身を任せていながら、のちにその心境を語る、というのも考えられるだろう。

   結局は心の持ちようだと言ってしまえばそれまでであるが…。

全人的交流


  他人とわかり合うというのは、外国語の学習に似ている。例えば、私はいつも外国語の意味の分からない文章に出会ったとき、それが最初文法的に疑問がある箇所があるのなら、それを徹底的に調べる。それでも和文との対応にしっくりこないときは、和文を参考に、その中で述べられている概念、というのだろうか、いやそう言ってしまうと少し狭いかもしれない。意味内容全体のイメージ、とでも言ったらいいのだろうか、これを頭の中にイメージしたままにしておき、それに外国語から発せられるイメージを近づけるという作業を行う、これは訓練である。そうすると、同様の文法が使われているケースでは、すんなりとその意味内容が頭に意識せずにとも入ってくるのだ。おそらく他人の言葉というのは、この外国語に相当する。それぞれの人には、それぞれの文法を持つ言葉がある。これに慣れ親しんでいると、その人の考えが、自然と自分の言葉に置き換わって感じられる。長年連れ添った夫婦があうんの呼吸で物事をやりとりするのは、こういうことではなかろうか。

   文学とは、感性の、理性による再構成である。

   本当に気が合う友達とは、その下らない会話の中にも意味を見いだせるもので、だからこそ下らない会話でも楽しめるのである。とすると、大抵の人に対しては、僕は気取ってしまっているのかもしれない。

   感性というか、感情が動いた点というのは、貴重な論点になりうる。

   何故ならパスカルがこれを繊細の精神と呼んだ様に、それは人間知性の重要な働きだからである。

   その感情が動いた点というのをまた、理性の働きの方法で探ってみるのもおもしろいだろう。だから例えば誰かの愚痴を聞くのもその意味で面白いかもしれない。

   どうして全人的交流が重要かというと、これを充分に行った後だと、その人の考えていることの、最も簡素な形での発露である日常会話からも、その人の考えの軌跡とでも言うものが推察できるようになるからである。そうすると日常会話までも文学となりうる。

   何も全人的交流を数得ない内に日常会話をしても、勿論日常会話の中の断片的な情報から全体を推察するのもよいが、日常会話の断片的な、表面的な情報というのは、例えばコンピュータによって、ランダムに表示された情報と何ら変わりないように感じるのである。つまりそこに文学性を見いだすことに、甚だ困難を伴うのである。

   しばらく前に、コンピュータによる無作為抽出の単語を並べて俳句であったか和歌だったかを作成し、その文学性を問う、という実験があったが、私はここに何の文学性をも見いだすことは許されないと考える。断片的情報は、相手の人格の存在を推定しているからこそ、文学にも昇華しうる。しかし自ら人格を認めないものに文学性を見出すということは、これは人間であることの放棄に等しい。

  前々からサブゼミで読書会をやりたいと思っているのだが、その読書会を行うのに、詩という題材のことを以前最適ではないかと考えていたが、歌詞などの分かりやすい詩でも良いのではないかと思った。というのも、前にある曲を聴いていた時、友人が何気なくその曲の歌詞が苦手だと言っていたことを、ふと思い出してのことである。

   なぜそれが嫌いだったのか探ってみるのも、それが初めは何となくであったものでも、先に言った感性の理性による再構築と言えるのではなかろうか。これは全人的交流のきっかけになりうる。非常に興味深いであろう。

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