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下総・滑川 平成18年4月24日 実家に行く途中に左に曲がり滑河観音を回りました 国道408号で利根川を渡り、成田市内へ いつもなら右に行くところ、左に曲がり滑川へ 車を停めて境内へ向かいます 室町時代中期建立の仁王門(重要文化財) 注連縄は毎年1月8日に締めかえられるそうです 誰もが気になる「ボケ」を封じる道祖神 元禄11年(1698年)に建立された龍正院の本堂 千葉県の有形文化財 承和五年(838)のこと、当地は冷夏にみまわれた。時の領主小田宰相将治は、 慈覚大師を導師として、天候回復の法会をおこなった。その結願の日に、 朝日の前と名乗る少女が現れ、「汝の願いは叶うべし」といって、小田川の淵に 案内した。川には老僧が舟を浮かべており、竜宮で鋳造された一寸二分の 閻浮檀金の観音像を、川からすくいあげて将治に与え、「この淵より涌き出づる 甘露の乳水を嘗めよ」と告げて、姿を消した。将治が老僧の教えに従ったところ、 天候は回復し、作物が実るようになったと伝えられる。将治は、尊像を安置する 伽藍を建立。後に定朝が、一丈二尺の観音像を作り、閻浮檀金の尊像を胎内に納めた この縁起にもとづいて、「嘗河」が「滑河」の由来とされる この仁王尊は享保年間(1716〜36)門前に火災があった時、観音堂の屋根から 大きな扇で火焔をあおぎかえし、本堂から下の集落は焼失をまぬがれたという 伝説の主である。それより火伏の仁王尊としての信仰があつい 龍正院は天台宗 御本尊は十一面観世音菩薩。開基は慈覚大師。 承和五年(838)開創 音にきく 滑河寺の 朝日ヶ渕 あみ衣にて すくふなりけり 御朱印
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坂東三十三観音札所
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坂東三十三観音札所訪問記です。
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海上・銚子 平成19年5月22日 この日は実家に行く用事があったので、いつもより早く家を出て 銚子をまわりました。 初夏の陽気のなか気持ちよく散歩が出来ました 土浦から潮来、波崎を抜けて銚子大橋を渡り千葉県へ 銚子電鉄を写真に撮りたかったので君ヶ浜の駐車場に車を停め 君ヶ浜駅へ(その時の記事はこちら 君ヶ浜から銚子電鉄に乗り観音までもどります この駅は名物のたい焼きを売っている駅ですね 駅から左手に歩くと円福寺大師堂が右手にあるのですが、まずはこの先の観音堂へ 交差点を渡り本坊から200メートルくらい先にあります ここで参拝をしてから本坊に戻ります 仁王門 本堂 境内の大仏(1714年に鋳造) 『飯治山観世音縁起絵巻』によれば神亀元年(七二四)毎夜、海上に光を放つものがあり、浦人が怪しんでいたところ、ある漁夫に観音さまの夢告があり、世間の衆生を救いたいので汝の網によって出現したいとのこと。そこで網を投じたところ、御丈二尺余の十一面観音像が瑪瑙石を脇ばんで出現なされたとある。その時に天から降米の奇瑞があったので「飯沼」という地名がある由。 『坂東霊場記』はこのことを「石の如く罪重くして苦海に沈む衆生をもらさず浄土の岸へ救い上げんとの救世の悲願を示し玉ふ」と綴っている。そしてお像を感得した漁夫は出家して観音さまに仕え、「おこり除けの法師」として諸人を救ったと伝えている。のちに弘法大師が来られ、本尊の蓮座を造られ開眼の秘法を修せられたという。その時、この地の海上長者は大師の高徳を敬慕して、深くこの本尊さまに帰依し、財宝を傾けて壮麗なる堂舎を建立したというのである その後、海上氏の帰依を得て坂東札所に選定され賑わいをみせ、「飯沼の観音さま」として 地元の方に親しまれている 観音堂で参拝を済ませ、来た道を戻り本坊へ。ここで御朱印をいただきます 円福寺は真言宗 御本尊は十一面観世音菩薩。開基は弘法大師。 神亀五年(728年) 開創 このはどは よろずのことを 飯沼に きくもならはぬ 波の音かな 御朱印 この後、電車で君ヶ浜へ戻り、犬吠崎、外川(我が家の発祥の地です)から
九十九里浜沿いに蓮沼へ抜け、実家に向かいました |
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いよいよ利根川を越えます 常陸の札所、21番、22番と廻り23番からはすでに紹介してありますので こちらから・・・ これで利根川を渡り千葉県内にある7ヶ寺(下総3ヶ寺、上総3ヶ寺、安房1ヶ寺=結願時)で
坂東巡礼もラストステージです・・・ |
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常陸太田 いよいよここを参拝すると残りはあと一つ、結願まであとわずかです。 この日は職場の飲み会でビアガーデンに行く予定なのでそれまでの時間を 利用して常陸太田に行きました。 古河駅から宇都宮線で小山へ、ここから水戸線で水戸方面に向かいます。 水戸線は小山駅と小田林駅の間にデッドセクションがあり、ここで直流から 交流に切り替わります。緩やかな蛇行区間で電気が切り替わるとき社内の蛍光灯が 消え、電車はモーター音もなく静かに惰性で進んで行きます。 常磐線の友部行きなのでここで上野からの列車に乗り換え水戸へ。ここから水郡線で 常陸太田へと向かいます。 改札を抜け、日立電鉄の「常北太田駅」を横目で見ながら左へ向かい歩き出します。 しばらく行き左へ折れ、西山荘のほうには行かず、県道66号線をひたすら歩きます。 トボトボと25分くらいでしょうか、前方に仁王門が見えてきました。 門には山号を書いた扁額があり、その上に『吾妻鏡』にその由来を記す五本骨、日の丸絵文の佐竹氏の陣扁があげられている。 門を潜り本堂へ向かい参拝。ここの本堂は北向観音の名の通り、北に向いて建てられている。ちょうど梅雨明け前の曇った日だったので、薄暗く、幻想的な雰囲気でした。 重要文化財の本堂 その名の通りこの寺は佐竹氏の居城の鬼門除けとして、佐竹氏代々の祈願寺として栄えました。しかし、江戸時代になり慶長七年に秋田へ移封されてからは急速に衰え、水戸藩が保護したが、寺の維持にはかなりの困難があったといいます。 それでも延享年間(1744〜48年)に神崎寺を第一番とする「水戸藩の三十三札所」が設けられるや、佐竹寺はその第十一番の札所となり、第十番の村松の如意輪寺から巡ってくる巡礼と八溝山からくる坂東巡礼者によって賑わったそうです。 しかし、明治維新の廃仏毀釈などにより再び急速に荒廃。明治39年に本堂が特別保護建造物、昭和4年に国宝に指定ながらも無住の寺でした。ようやく昭和24年に前住職が晋山。 今日に至ります 御本尊は千手観世音菩薩。開基は元密上人。 寛和元年(985年)、開創。 ひとふしに 千代をこめたる 佐竹寺 かすみがくれに 見ゆるむらまつ 御朱印 参拝後、またトボトボと駅へ戻り、水戸から小山、宇都宮へ向かいビアガーデンへ行きました。天気はいま一つでしたが、程よく蒸し暑く美味しく飲めました。 これで常陸国は終わり、いよいよ利根川を渡り下総国へ入ります
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久慈・大子 平成19年7月3日 「八溝知らずの偽坂東」と言われ、なかなか行けなかった(行かなかった?) 八溝山に向かいます。 古河から新4号に乗り、宇都宮を抜けひたすら氏家まで向かいます。 氏家から右にはいりニッカウヰスキーの工場を過ぎ古河公方の流れを組む 喜連川を抜けて約2時間強、ようやく茨城県に入りました。 途中、大子ブリュワリーを確認して大子の街に入ります。せっかくここまで やって来たので袋田の滝に寄りました。(その時の記事はこちら) この日はすでにセミも鳴き始め蒸し暑い日だったので、滝のそばは爽快でした! ここからさらに1時間弱、福島方面へ向かいます。出るときは青空だった空も崩れ始め 八溝山に登り始めるとすっかり雨になりました。 八溝山は茨城、栃木、福島の3県にまたがり標高1020m。頂上から300mほど下った ところに日輪寺があります。 現在ではこの観音堂だけだが、鎌倉時代には源頼朝が寺領を寄せて信仰し、室町時代の 文明年間(1469〜1487年)には日輪寺の本堂は間口十六間、総欅造りの大伽藍となり、 雷神門・札堂・薬師堂・不動堂などが甍を並べるに至ったといいます。 その後、修験の道場になり江戸時代には山伏の往来も多く修行の山になりました。 何度かの火災で本堂ほかが焼失。昭和49年に信徒及び全国からの巡礼者の浄財により 観音堂が完成したそうです。 旧本堂 あれ?第24番札所・・・? これは坂東のものではないのですね・・・ 日輪寺は天台宗 御本尊は十一面観世音菩薩。開基は役ノ行者 天武天皇の朝 開創 迷ふ身が 今は八溝へ 詣りきて 仏のひかり 山もかがやく 御朱印 流石にすぐ先は福島県なので冬は雪が積もり1,2月は閉山になるそうです。 今でこそ車で上まで登れますが、車のなかった頃や今でも歩き巡礼の方は歩いて 上らねばならず麓で遥拝で済ましてしまう方もいたほどの坂東札所第一の難所です。 帰りはチェックした大子ブリュワリーで八溝ビールを、道の駅喜連川で妻の好物
である温泉パンを買って帰りました。 |







