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医龍のほうに先に復活されてしまいました。

セカンドオピニオン

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まずは友人のメールから

それに、懐疑的になっているひとは、その検査や見立て自体を疑問に思っている可能性が高いと思います。
その場合、例えば(検査とその見立てから発生する)データが同じなら回答が同じという場合に、心底ではデータ自体を疑っているのにデータを持ってきたら回答します、というと何だか堂々巡りっぽいはなしになってしまうような。

ちなみに、お客さんが状態を把握していないなら、お店側が慮るのが普通なのではないかなー。
実際自分の状態を全部説明するのなんて無理だし。それは専門家の傲慢ですって。
「冷蔵庫になにがあるのかも知らないし、包丁の使い方も知らないで 買い物に来るなんて信じられない客に商品が売れるか!」とか


繰り返しになりますが
私はセカンドオピニオンを受けたいと思うなら、紹介状は持っていくべきだと考えます。

今回はデータをみるという面から考えてみたいと思います。

検査データを見る場合データそのものは当然必要なのですが、
さらに必要といっていいものがありますそれは
検査をするまでの過程です。
検査をことになるまでの主治医の思考そのものと言い換えてもいいかもしれません。

「検査なんてものは同じ人間にやれば結果が同じになるに決まっている」
と一般の人が思ってしまうのはある程度しかたがないでしょう。
まして自分の病状を全部説明できるひとなんてまずいないと私は思ってます。
(専門家の傲慢?)

「同じ人間に検査をやっても同じ結果がでる保障はないし、
そもそも同じ検査をやるとは限らない」

検査はあくまでもそのひとの状態の一部でしかないので、状態がいいときと悪いときでは当然結果は全く違います。喘息や狭心症のような発作とそうでないときの差が激しい病気を想像してもらうとわかりやすいと思います。
こういった発作性の病気の場合は特に傾向が強いのですが、
自分の病状を軽いと考えていることのほうが多いです。
自分が“大丈夫”といっている(言い張っている)ようなひとに対して精密な検査をやることは医者でも気がひけることです。
前医が検査をしたときがその人の発作を起こしているもっとも悪いときで、後の医者が検査をしたときに何も症状がなければ検査の結果は正常とでてしまうかもしれません。この場合結果として前医がせっかく発見した異常は(患者さん的には)なかったことになってしまいますが、病気が消滅したわけではありません。

酷な言い方ですが、ケアにはなっているかもしれないけれども、結果は病気を悪化させただけということになりかねません。

もちろん「病気なんて見つけて欲しいとたのんだわけじゃない」という究極の意見もありますが・・・

“自己責任”という言葉がやたらと使われるようになったのはわりと最近のことだと思いますけど、個人的にはこの言葉大嫌いです。他人に使ってる人はただ突き放しているだけだし、自身に使っているひとって単に思考停止なだけなんじゃないかと・・・

患者さんの希望と

・患者さんの希望すること
 
・患者さんにとって(できる範囲で)最もよいと思われること
(=医者がやること≒やれること)


この2つに共通する目標はおおまかにいってしまえば
“病気を治すこと”です。

ところが、目標が同じであったにしても
この2つにはズレがでてきてしまいます。
なぜでしょう?


実際には患者さんの希望というのは、
“自分の望むようなかたちで治ること”
であったりします。

そこで医者のやれることということを考えてみると、、、
やれることなんて本当に限られたことです。
科学なんて万能には程遠いです。

「食事はがんばっているんだけど糖尿がよくならないです」
「そういうことはせめて体重が増えなくなってからいってください」


「風邪ぐらい医者なんだから明日までになおしてもらわないと困るんですけど?」
「こんなに高熱が出てるものは1日くらいでは治りません」
「つかえねぇ」


・・・こんなことばっかり書いていると、無茶な要求ばっかりされてぼやきたくて書いているみたいですが、当然なんとかしてあげたい願いもありますし、本来そういったことがほとんどです。


「本当はね、もうすこし生きていてあげたいんですけどね」
「・・・」


極端な例えかもしれませんが、人間が最後には死んでしまうのは自然の摂理で、究極的に医者は患者さんの要求に応えることはできないんです。

〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 

以前友人からもらったメールで、病院受診することをクーラーを買うことに例えられていたので同じように例えると、、、
“すでに生産が終わってしまっていて入手することは明らかに無理なクーラー”があったとして、それを自分のところに(しかも本体を持参して)買いにきた人がいたとします。
“そのクーラーを手にいれることはできない”というようなことを説明したとき、
“じゃあ他のところに買いに行きます”といって立ち去ろうとしているひとに対して、、、

「自分が望んでいるんだから好きにすればいいんじゃない?」
といってだまって送り出すのは確かにその人の希望通りなのかもしれないですが、それって本当に親切なんでしょうか?

“そのクーラーを手に入れるのがいかに難しいか”さらに詳しく説明して思いとどまらせるのもいいことだと思うし、その商品の型番を調べるとかして“クーラーを運ばないで済むようにしてあげる”のも希望はまったくかなえていませんがそのひとのためになっていると思います。

ブログ読んでくれている友人からメールがあったので
返事もかねてセカンドオピニオンに関する私の意見を書いてみようと思います


以下青色のところは友人の手紙から
紹介状は必要かと聞かれて“基本的に必要”と答えたことから始まっています。


ある意味、患者側からすると、前提条件の無い
まっさらな状態で再度同じことを調べて欲しい、という
要求ではないかなあ。だから結論が変わらないのは別に問題はないし、
それはそれで主治医を信用できるようになるので良いと思います。

この場合の医者と患者と同じようなケースで、
情報があまりに不均衡で適正価格を把握出来ないときは、普通、合い見積もり
(各社に同条件で見積もりを依頼し、業界水準を見つつ最安値を取ること)
をします。家を建てるときや野菜を買うときと基本的には一緒です。


ここまでで勝手にキーワードをあげさせてもらうと
患者さんの希望(この場合は検査して欲しいという要求)

主治医への信用
といったところでしょうか。


それに、懐疑的になっているひとは、その検査や見立て自体を疑問に思っている
可能性が高いと思います。その場合、例えば(検査とその見立てから発生する)
データが同じなら回答が同じという場合に、心底ではデータ自体を疑っているのに
データを持ってきたら回答します、というと
何だか堂々巡りっぽいはなしになってしまうような。

ちなみに、お客さんが状態を把握していないなら、お店側が
慮るのが普通なのではないかなー。
実際自分の状態を全部説明するのなんて無理だし。それは専門家の傲慢ですって。
「冷蔵庫になにがあるのかも知らないし、包丁の使い方も知らないで
 買い物に来るなんて信じられない客に商品が売れるか!」とか
「自分の家のアンペア数とソケットの総数、家電月次使用量の合計を正確に
 把握していない客にはクーラーなんて危なくて売れないね」というお店が
あったら、気持ち悪いと思わない?
そうではなく、スーパーは小分けの製品や冷凍食品、出来合いの品を用意して、
いかに買ってもらうかを検討したりするし、電気屋さんは実際に出かけていって
状況を調べたりわけで。

ここでは
データ・状態の把握


まあ、ぶっちゃけセカンドオピニオンを求めて何度も検査を受けること
自体が、患者側の(無意識的な)心理的ケアの一つだと思うけどねー。

そして最後は
(心理)ケアといったところでしょうか。

ここででてきたキーワードを中心に書いていこうと思います。
※長くなりそうなのでセカンドオピニオンの書庫を作ります。

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