連写2眼×2.5・ローカル私鉄を訪ねた日々

ビデオウォークマン入手。DVテープ(11/200)巻をダビング。白黒フィルムの現像もしなければ…。頭痛い。

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 豊橋鉄道市内線を走る“納涼ビール電車”は、今年で24年目だそうです。フィルムカメラで撮影していた頃は、車庫留置の電車や出庫した電車を撮影する程度でした。夕刻走るビール電車の撮影はフィルムカメラでは上手く撮影出来ません。ところが、デジカメを所持した事と母親が乗らなくなったスクーターを使用することで“納涼ビール電車”を追い回すようになってしまいました。
 
 “納涼ビール電車”の試乗会当日と営業初日は、毎年スクーターで追い回しております。まず出庫シーンを撮影。その後、回送ビール電車を駅前電停まで追い掛け。駅前電停で撮影した後は、再びスクーターへ戻り途中区間を撮影しながら運動公園前まで“納涼ビール電車”と併走。運動公園前を発車して駅前へ戻る“納涼ビール電車”を井原交差点で撮影すると、「もうイイヤ、これで帰ろう」。
 
 今年は試乗会も営業初日の“納涼ビール電車”も撮影出来ませんでした。試乗会は、平成2868日〔火〕。この日は豊橋市民病院で右の肺摘出手術当日。試乗会“納涼ビール電車”が走る頃、私はベッドの上で悶々としておりました。“納涼ビール電車”の営業初日は、平成28613日〔月〕。この日に市民病院を退院しております。
 
 退院したものの、ろっ骨が痛くて近場のスーパーへ自転車で買出しに出るだけでヘバッてしまいます。撮影に出ようという気持ちは全く起こりませんでした。リリカカプセルを服用することで、ろっ骨の痛みは少々和らいだような気がします。手術後の目標は“納涼ビール電車”の撮影。「手術前のように運転最終日の平成28925日〔日〕までには何とか決起したい」。
 
 平成2894日〔日〕、今年の“納涼ビール電車”〔昼便〕をやっと撮影出来ました。手術から3ヶ月近くが経過してしまいました。近場を少々追い掛けただけですが…。
 
 
 
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 写真1枚目、東田−競輪場前間を走行するモ3203“納涼ビール電車”20167DNo.595210・以下全て、平成282016〕年94日撮影。1216撮影。
 
 
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 写真2枚目、競輪場前付近で交換電車の到着を待つモ3203“納涼ビール電車”。後続はモ786日の丸薬局号。7DNo.5952281222撮影。
 
 
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 写真3枚目、運動公園前のモ3203“納涼ビール電車”。7DNo.5952441237撮影。
 
 
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 写真4枚目、同じく運動公園前のモ3203 “納涼ビール電車”。7DNo.5952481239撮影。
 
 
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 写真5枚目、運動公園前のモ3203“納涼ビール電車”。モ784日本通運号が到着。7DNo.5952601242撮影。
 
 
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 写真6枚目、運動公園前を発車して井原へ辿り着いたモ3203“納涼ビール電車”。電車右側の道路、これだけ車が少ないのは珍しいです。7DNo.5952781303撮影。
 
 
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 写真7枚目、井原交差点の急カーブを左折して駅前へ向かうモ3203“納涼ビール電車”。7DNo.5952811303撮影。
 ウィキペディア記述一部を拝借致します。
 
 北陸鉄道加南〔かなん〕線は、次の5路線で構成されていたようです。山中線:〔大聖寺―河南―山中〕。連絡線:〔河南―宇和野―粟津温泉〕。動橋線:〔宇和野−新動橋〕。粟津線:〔粟津温泉−新粟津〕。国鉄動橋駅を境にして動橋線の反対側に存在したのが、片山津線〔動橋−片山津〕。
 
 略年表では
 昭和37年〔1962年〕
  77日:くたに号運転開始
  1123日:粟津線全線廃止、連絡線一部廃止〔宇和野−粟津温泉間〕
 昭和38年〔1963年〕
  713日:アルミニウムカーしらさぎ号運転開始
  713日:動橋線と連絡線の残存区間〔河南−宇和野間〕と統合して山代線に改称
 昭和40年〔1965年〕
  924日:片山津線全線廃止
 昭和46年〔1971年〕
  711日:山中線、山代線全線廃止
 
 粟津線全線廃止や片山津線全線廃止のことは、鉄道ファン誌で知ったものと思います。廃止された粟津線の写真を眺め「中々、好ましい路線であった」と思ったものです。
 
 私が北陸鉄道加南線沿線を歩いたのは、昭和461971〕年51日。粟津線、片山津線は既に廃線で存在せず。残された山中線、山代線も全線廃止まで残り2ヶ月程の時期でありました。雨の中、大聖寺から山中線沿線を河南まで歩き、河南から山代線全線を歩いて新動橋〔しんいぶりはし〕に到着。13:19、新動橋駅での撮影を終えると福井へ移動。残念ながら山中線の河南−山中間を歩くことはありませんでした。日本各地の私鉄路線や路面電車が次々と廃止される時代でした。
 
 
 
イメージ 1
 写真1枚目、山代線を走って河南到着間近モハ1811。サボの表記は山代温泉・河南行。写真右手のダイハツオート三輪をもう少々撮影しておけばよかったと後悔しております。白黒No.4161337)・昭和461971〕年51日(917)撮影。
 
 
イメージ 2
 写真2枚目、1枚目写真の後追いカット。河南駅へ進入するモハ1811。後部サボの表記は新動橋行。白黒No.4161436)・昭和461971〕年51日(917)撮影。
 銚子電気鉄道に関して、印象強いのは、やはり初めて沿線を歩いた時です。デハ101の画像を載せておきます。デハ101は嬉しい電車でした。理由は、単車に近いボギー車であるところ。ビューゲル集電。そして台車が花巻電鉄馬面電車の台車に同じであったことです。台車のみも撮影してあると思いますが、画像を取り込んでみないとはっきりしません。
 
 デハ101に関して、ウィキペディアの記述を拝借致します。
 
 デハ1011939年・日本鉄道自動車工業製で当初はホデハ101を名乗り、11m木造車体・直接制御の小型ながら銚子電鉄初のボギー車であった。台車のみ下野電気鉄道(後の東武鬼怒川線・矢板線)が1926年に雨宮製作所で製造、その後間もない1929年の改軌で余剰化した762mm軌間木造電車デハ103号発生品の雨宮式板台枠台車を1067mm規格に改造して流用。1953年に再度、日本鉄道自動車で半鋼製車体に更新されている。当初ポール集電、のちビューゲル集電となった。デハ700形入線以降予備車となり、1999年の廃車後は笠上黒生で物置として使用されていたが、老朽化が激しく20099月に解体されている。解体後、台車の一つは上毛電気鉄道に寄贈された後大胡駅に隣接した車両基地に保存され、もう一つは東武博物館で保存されている。前記NHK連続テレビ小説「澪つくし」の撮影にも使用され、撮影の際には登場当時の茶色に塗り替える話も持ち上がったが、塗装変更費用が高いためにやむなく側面に社章を入れた(時期設定は大正末期から終戦後の昭和までだったため、実際だと当時はポール集電だったこともあり「違和感がある」、「違う」といったNHKへの声が視聴者やファンから相次いでいたという)。ときには貨車(自社がワフ1という木造貨車を所有していた)の牽引についていたことがある。
 
 テレビの無い下宿生活のため、NHK連続テレビ小説は一時眺めることが出来ませんでした。後にテレビを購入して、再びNHK連続テレビ小説を眺めることになったのは、「澪つくし」(198541日から105日まで放映)からです。ドラマに銚子電鉄が登場するため真剣に見入っておりました。31年前になりますか。ドラマに登場したのは、デハ101でしたか。以降の朝ドラは、今日まで全て眺めております。
 
 
 
イメージ 1
 写真1枚目、44年前の撮影です。君ヶ浜−海鹿島間、デハ101外川行。意外にも息の長い電車であったようです。No.24426・以下全て、昭和451970〕年1122日撮影。930撮影。
 
 
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 写真2枚目、1枚目写真の後追いカット。サボは銚子側にのみぶら下げておりました。色補正が難しい。白黒フィルムの方がやり易いです。No.24427930撮影。
 
 
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 写真3枚目、君ヶ浜−海鹿島間、外川から戻って来たデハ101銚子行。実に可愛らしい電車です。No.24428946撮影。
 1年ぶりに土佐電気鉄道の画像を貼り付けてみます。1年前は北山電停の位置が特定出来ませんでした。昨今はストリートビューを確認しておりますので、何とか北山電停位置は確認出来ました。終点伊野をスタートして高知駅を目指して歩く。これまでに紹介した画像で北山電停付近まで辿り着きました。今回は、もう少々朝倉側へ移動しています。
 
 撮影から既に40年以上が経過。しかも1度歩いただけの路線ですから、どの場所で撮影したものかシビアーな記憶は残っておりません。ストリートビューは助かります。伊野線は、もう一度歩いてみたい路線でしたが、現在の生活状況では、とても出向くことは無理です。ストリートビューで現状を眺めて諦めましょう。
 
 
 
イメージ 1
 写真1枚目、撮影メモによれば、北山−学校前間にて撮影。伊野へ向かう600608号いの行。白黒No.8951517)・昭和481973〕年731日(825)撮影。
 
 
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 画像2枚目、ストリートビューの1シーンを拝借。1枚目写真を撮影した場所は、この辺りになると思います。広角気味に撮影されていますので、後方の山が遠い感じです。
 
 
イメージ 3
 写真3枚目、1枚目写真の後追いカット。写真右手、2階建てのお宅、現在も当時の姿を留めていると判断しました。白黒No.8951618)・昭和481973〕年731日(825)撮影。
 
 
イメージ 4
 画像4枚目、同じくストリートビューの1シーンを拝借。3枚目写真を撮影した場所は、この辺りなのでしょう。画像中央奥、石垣横に北山電停が存在します。
 京福電鉄叡山線・京福電鉄嵐山線・京阪電鉄京津線と京都市電が平面交差する場所は、全て撮影したものと思います。京都市電の軌道を横切るこれら3路線の車両は、当時ポール集電でした。京都へ出向けば、珍しくなったポール集電車両がお目に掛かれますので、中々良き時代でした。
 京阪電鉄本線とも2箇所で平面交差しておりました。1箇所は七条大橋付近。もう1箇所は稲荷付近。
 
 京都市電と別の私鉄路線が平面交差する場所で、最初に撮影したのが京阪本線×京都市電稲荷線でした。専用軌道同士の平面交差のため、少々撮影し辛い平面交差部でした。平面交差の状況が説明可能な画像を並べておきます。
 
 
 
イメージ 1
 写真1枚目、勧進橋−稲荷間。勧進橋から稲荷へ向かう19系統935号稲荷行。撮影記録によれば、信号待ちと表記してありましたが、京阪電車の通過を待った後、動き始めた瞬間を撮影したものと思います。稲荷線の踏切は、市電後方の1箇所のみでした。警報機と遮断機が備えられた踏切です。白黒No.1103232)・以下全て、昭和451970〕年314日撮影。1202撮影。
 
 
イメージ 2
 写真2枚目、勧進橋−稲荷間。505号稲荷行。1枚目写真より稲荷へ向かって進むと京阪電鉄本線を平面交差で横切ることになります。写真奥に見えるのは、京阪電鉄伏見稲荷駅。京阪本線にも脱線ポイントが備えられています。写真左手の信号所を気に留めておいて下さい。白黒No.1102222)・1140撮影。
 
 
イメージ 3
 写真3枚目、稲荷付近。平面交差を横切って稲荷到着間近19系統692号。写真中央奥、信号所の手前を京阪本線が横切っています。京都市電の脱線ポイントもお分かり頂けるものと思います。白黒No.1101313)・1115撮影。
 
 
イメージ 4
 写真4枚目、稲荷電停にて。疎水上の稲荷電停を発車した19系統935号京都駅行。写真奥に京都市電との平面交差部を横切る京阪電車の姿が確認出来ます。白黒No.1101919)・1131撮影。
 
 
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 写真5枚目、稲荷付近。稲荷電停を発車して京阪電車の通過を待つ19系統692号京都駅行。白黒No.1101616)・1120撮影。

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